玄関の鍵が外される音がした。ソファに横になり、ぼんやりしていた誠は、身体を起こした。壁の時計は九時ちょうどを示していた。
廊下を歩く足音がして、ドアが勢いよく開けられた。
「ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃった」
モスグリーンのスーツを着た雪穂が入ってきた。両手に荷物を持っている。右手には紙袋が二つ、そして左手にはスーパーの袋が二つだ。おまけに黒のショルダーバッグを肩から提げていた。
「おなかすいたでしょ? 今すぐに支度するから」
スーパーの袋をキッチンの床に置き、彼女は寝室に入っていった。彼女が通った後には、香水の甘い匂いが残っていた。
数分後に部屋から出てきた彼女は普段着に着替えていた。手にエプロンを持っている。それをつけながらキッチンに入った。
「すぐに食べられるものを買ってきたから、そんなに待たなくてもいいわよ。スープの缶詰もあるし」やや息を弾ませた声が、キッチンの中から聞こえてきた。
新聞を読みかけていた誠だったが、不意に不快感がこみあげてきた。何が気に障ったのか、自分でもよくわからない。強いていえば、彼女の元気そうな声、ということになるだろうか。
誠は新聞を置き、立ち上がっていた。支度を始める音がするキッチンに向かっていった。「結局、出来合いのものを食べさせるわけか」
「えっ、なに?」雪穂が大声を出した。換気扇の音が邪魔で、彼の声が聞こえなかったらしい。そのことが一層彼を苛立《いらだ》たせた。
誠はキッチンの入り口に立った。ガスレンジで湯を沸かそうとしていた雪穂が、彼を見て不思議そうに顔を傾けた。
「これだけ待たせて、結局手抜き料理なのかっていってるんだよ」
あっ、という形で彼女の口は開けられた。それから換気扇のスイッチを切った。たちまち空気の流れが止まり、室内全体が静かになった。
「ごめんなさい、気に入らなかった?」
「たまになら、文句なんかいわない」誠はいった。「だけど、このところ毎晩じゃないか。毎晩遅くなって、挙げ句の果てに出来合いの料理を出す。その繰り返しじゃないか」
「ごめんなさい、だけど、あなたを待たせちゃ悪いと思って……」
「待ったさ。飽き飽きするぐらいね。インスタントラーメンでも食おうかと思っていたところさ。だけど結局出来合いの惣菜を食べさせられるわけだから、大した違いはなかったということだ」
「すみません。あの……言い訳にはならないと思うけど、本当にこのところ忙しくて……迷惑かけて、悪いと思ってる」
「商売繁盛で結構なことだね」自分の口元が醜く歪むのを、誠は自覚した。
「そんな言い方しないで。ごめんなさい。これから気をつけます」雪穂はエプロンの上に手を置き、頭を下げた。
「何度も聞いたよ、その台詞」ポケットに両手を突っ込み、誠は吐き捨てた。
雪穂はうなだれたまま黙っている。反論のしようがないからだろう。だが最近誠は、こういう時にふと感じることがある。こんなふうに俯いて、嵐が過ぎ去るのをただじっと待っていればいいと思っているのではないか、と。
「もう、やめたらどうだ」誠はいった。「やっぱり無理なんだよ、主婦業との両立なんて。君だって、大変だろう」
雪穂は何もいわない。この件について議論するのを避けているのだ。
彼女の肩が小刻みに震え始めた。彼女はエプロンの裾を両手で掴み、目を押さえた。その手の間から嗚咽《おえつ》が漏れた。
ごめんなさい、と彼女はもう一度いった。「だめよね、あたし。本当に情けない。あなたに迷惑ばかりかけて……。好きなことをやらせてもらっているのに、全然お返しができない。だめよね、だめな人間だよね。誠さん、あたしなんかと結婚しなけりゃよかったかもしれないね」涙で声を途切れさせ、時にしゃくりあげた。
ここまで反省の弁を並べられると、誠としては、これ以上責められなくなる。むしろ、些細《ささい》なことで怒りを露《あらわ》にする自分のほうが了見が狭いのかと思ってしまう。
「もういいよ」結局、彼はここで矛をおさめることになった。雪穂が何ひとついい返してこないから、喧嘩《けんか》にならないのだ。
誠はソファに戻り、新聞を広げた。その彼に雪穂が声をかけてきた。「あの……」
「何だ?」彼は振り返って訊いた。
「今夜の夕食は……どうする? 何か作るとしても、材料がないんだけれど」
「ああ……」誠は全身に鈍い疲労感を覚えた。「今夜はいいよ。買ってきたものを食べればいい」
「いいの?」
「だって仕方がないんだろ?」
「ごめんなさい。今すぐ支度しますから」雪穂はキッチンに消えた。
換気扇が再び回り始める告を聞きながら、誠は釈然としないものを感じていた。
仕事をしてもいいか、と雪穂が突然いいだしたのは、結婚一周年を一か月後に控えたある日のことだった。全く予想していなかった話なので、誠は少なからず面食らった。
彼女によると、アパレル業界にいた友人が独立して店を開くことになったのだが、その店の共同経営者にならないかと雪穂に持ちかけてきたらしい。店とは、輸入服を扱う店だった。
やりたいのかと誠が訊くと、やってみたい、と雪穂は答えた。
株をやめて以来、すっかり輝きを失っていた彼女の目が、久しぶりにきらきらと光を放っていた。それを見ていると、だめだとはいえなくなった。
無理しないように、とだけいって、誠は許可した。雪穂は胸の前で指を組み、様々な言葉を使って喜びを表現した。
彼女たちが始めた店は南青山にあった。誠も何度か行ったことがあるが、店の壁全体をガラス張りにした、華やかな感じのする店だった。通りから、たくさんの輸入婦人服や雑貨が眺められるのだ。後に誠が知ったことだが、この店のリフォームの費用は、すべて雪穂が出したものだった。
雪穂の相棒は田村紀子という女性だった。顔も身体も丸く、どこか庶民的な雰囲気を持っていた。その外観から想像できるとおり、こまめに動くことを苦にしないタイプのようだった。見ていると、客の相手は雪穂の仕事、洋服を出したり勘定を計算したりという作業は田村紀子の仕事という具合に、役割分担がなされているらしかった。
店は完全予約制をとっていた。つまり客は自分が行く日を、予《あらかじ》め連絡しておくのだ。そうすれば雪穂たちは、その客のサイズや好みに合わせて商品を揃えておくことができる。無駄に商品スペースをとらなくてもいい、合理的な手法といえた。
問題は彼女たちがどれだけの人脈を持っているかということにかかっていたが、開業以来、客足が途絶えるということはないようだった。
店の経営に夢中になり、家のことがおろそかになるのではないかと誠は少し心配していたが、この時点ではまだそういうことはなかった。たぶん雪穂としても、そんなふうに思われることを一番おそれたのだろう。店を始めてからは、それまでよりも一層家事に力を入れるようになった。料理で手抜きをすることなど全くなかったし、誠よりも遅く帰るということも、その頃はなかった。
店を始めて二か月ほどが経った頃のことだ。またしても雪穂が思わぬことをいいだした。今度は誠に、店のオーナーになってくれないかというのだった。
「オーナー? 僕が? どうして?」
「大家さんが、相続税を払うために、至急お金が必要になっちゃったらしいの。それで、あたしたちに買わないかっていってこられたのよ」
「買いたいのかい」
「というより、絶対に買ったほうが得だと思う。あの場所なら、これから値下がりすることは絶対にないもの。今いってくれている値段は、破格といってもいいのよ」
「もし僕が買わないといったら?」
「その時は仕方がないわね」雪穂は吐息をついた。「あたしが買います」
「君が?」
「あの場所なら、銀行もお金を貸してくれると思うもの」
「借金するわけか」
「そうよ」
「そんなに欲しいのか」
「それもあるけど、買わないとまずいことになるような気がする。うちが買わない以上、大家さんはたぶんどこかの業者に話を持っていくと思うのよね。そうなると下手をしたら、立ち退きを迫られるかもしれない」
「立ち退き?」
「あたしたちを立ち退かせて、更地にしてもっと高い値段で売るわけよ」
誠は小さく唸《うな》り、考え込んだ。
買えないわけではなかった。高宮家では、成城に土地をいくつか持っている。すべて将来誠が受け継ぐものだ。あれを処分すれば済む話だった。話をうまく持っていけば、母の頼子も反対はしないだろう。今持っている土地は、実質上は殆ど使っていない状態なのだ。
雪穂が借金を抱えるというのは賛成できなかった。そうなると彼女の全神経が仕事に奪われそうに思えたからだ。また、彼女が彼女名義の店を持つという状況にも、何か割り切れないものを感じるのだった。
二、三日考えさせてくれ、と誠は雪穂にいった。だがこの時点で、ほぼ気持ちは固まっていたといえるだろう。
一九八七年になって間もなく、南青山の店は誠のものになった。そして雪穂たちの稼ぎの中から彼の口座に、賃料が振り込まれるようになった。
それから少しして、雪穂の考えの正しかったことを誠は思い知った。
東京都心部のオフィスビル需要の高まりから、法外な価格による地上げが横行し、その結果、短期間で二倍増、三倍増は当たり前という異常な地価暴騰が起きたのだ。誠のところにも、南青山の店と土地を売らないかという話がひっきりなしに来るが、その言い値を聞くたびに、これは本当に現実の話なのかと思ってしまうのだった。
雪穂に対して、淡い劣等感のようなものを抱き始めたのも、ちょうどこの頃からだった。生活力、経営力、さらに大胆さといった点において、自分はこの女にとてもかなわないのではないかと思うようになった。彼女が仕事の面で、どれほどの成果を上げているのか、彼は正確には知らない。しかし順調に業績を伸ばしていることは確実だった。現在彼女は、二軒目の店を代官山にオープンする計画を立てている。
それに比べて自分はどうだ、と誠は思い、憂鬱になる。自分で何かを始める勇気など、まるでない。人に使われているほうが性に合っているとかいって、会社にしがみついているだけだ。せっかく受け継いだ土地を有効に活用することもできず、親からあてがわれたマンションに住んでいる。
さらに彼を情けない気持ちにさせていることがある。それは昨今の株ブームだ。昨年二月にNTT株が売り出され、それが異常に高騰したことに引っ張られるように、平均株価が上昇を始めた。世間では、金があるなら株をやらない手はない、とまでいわれている。
ところが高宮家に関しては株とは無縁だ。理由は無論、以前それで雪穂を非難したことにある。彼女もあれ以来、株の話はしない。だがこの空前の株ブームを、彼女がどういう思いで眺めているのかを想像すると、誠としては何とも居心地の悪い気がするのだった。