「ちょっと集まってくれ」
成田がE班のメンバーに声をかけたのは、七月に入ったある日のことだった。窓の外では梅雨特有の細い雨がしとしとと降っている。エアコンが利いているが、成田はワイシャツの袖を肘《ひじ》の上までまくりあげていた。
「例のエキスパートシステムのことだが、システム開発部から新しい情報が入った」メンバー全員が揃うのを確認してから、成田はいった。手に一枚の報告書を持っている。
「シス開では、もしデータが盗み出されたのだとしたら、不正にエキスパートシステムにアクセスした者がいるはずだと考えて、ずっと調査を続けていたらしいんだが、先日ついにその形跡を発見したそうだ」
「やっぱり盗まれてたんですか」誠よりも三つ先輩の社員がいった。
「昨年の二月、社内のワークステーションを使って、生産技術エキスパートシステム全体をコピーした者がいたらしい。そういうことをすると通常記録が残るんだが、その記録自体も書き換えてあったそうだ。そのため、今まで見つからなかったらしい」声を落として係長はいった。
「じゃあやっぱり、うちの会社の人間が、データを持ち出したということですか」誠も、周囲に気を配りながらいった。
「そういうことになるだろうな」成田は厳しい顔つきで頷いた。「もう少し調べた上で、警察に届けるかどうかを決めるそうだ。もっとも、だからといって、例の出回っているエキスパートシステムが、うちがパクられたものだと断言することはできない。あくまでも内容を慎重に調査してからのことだ。しかし、可能性は高まったといえるだろうな」
あのう、と新入社員の山野が手を上げた。
「社内の人間とはかぎらないんじゃないですか。休日なんかに忍び込んで、ワークステーションの端末を操作できればいいわけでしょう?」
「IDが必要だろう。パスワードも」誠がいった。
「いや、じつはその点なんだが」成田が一層声をひそめた。「山野がいったことをシス開でも考えているようだ。というのは、かなりコンピュータの技術に長《た》けた人間でないと、この犯行は難しいらしい。はっきりいってプロの仕事だそうだ。だから可能性としては、二つ考えられる。一つは、社内の人間が犯人を手引きしたということ。もう一つは、何らかの理由で、犯人が誰かのIDとパスワードを手に入れたということだ。俺もそうだけど、この二つの記号の重要性をみんなあまり認識していないからな。そうした隙《すき》をつかれたのかもしれない」
誠は尻のポケットに入れた財布の感触を確かめていた。彼の場合、その中に従業員証を入れている。そしてその従業員証の裏に、ワークステーションの端末を使用する時のIDとパスワードをメモしてあるのだ。
その二つを迂闊《うかつ》に人目につくところに書かないこと――初めてパスワードをもらった時に注意されたのを誠は思い出した。これは消しておいたほうがいいかもしれないと思った。
「ふうん、東西電装でも、そんなことがあったんだ」コーヒーの入った紙コップを手に、千都留は興味深そうに頷いた。
「というと、ほかの会社でもあることなのかい」誠は訊いた。
「最近は多いわよ。とにかくこれからは、情報がお金になる時代だもの。どこの会社もコンピュータに情報を貯えるようになってきたでしょ? でもそれは、情報を盗もうと思っている人間にとっては、すごく都合のいいことなのよね。だって今までだったら膨大な量の書類だったものが、フロッピー一枚に入ってしまうんだもの。おまけに、自分が必要な部分を、キー操作一つで検索できるときてる」
「なるほどね」
「東西電装で使われているのは、基本的にはまだ社内ネットワークだけでしょ。でも、中には、それを社外のネットワークと繋いでいる会社も増えてきているのよね。そうなると、外から侵入することもできるわけだから、もっと厄介な事件も起きるかもしれない。アメリカじゃ、もう何年も前からそんなことが起きているの。勝手によそのコンピュータに侵入して悪戯《いたずら》する人のことを、ハッカーというのよ」
「ふうん」
さすがに千都留はいろいろな会社を渡り歩いているだけに、この手の知識が豊富だった。考えてみれば、誠の会社の特許情報をマイクロフィルムからコンピュータに移しかえたのも彼女だったのだ。
午後五時になろうとしていた。誠は空の紙コップをそばのゴミ箱に捨てた。イーグルゴルフ練習場のロビーは、相変わらず順番待ちの客がたくさんいた。誠たちはとうとう空いた椅子を見つけることができず、壁際で立ち話をしているのだった。
「ところで、その後アプローチショットの練習はしたの?」誠は話をゴルフに移した。
千都留は首を振った。「結局、練習に来る暇がなくて。高宮さんは?」
「僕も先週の教室以来クラブを握ってないんだ」
「でも高宮さんは上手だもの。あたしのほうが先に習い始めたのに、今ではあたしよりも難しいことを教わってるものね。やっぱり運動神経が違うのかなあ」
「要領がいいだけさ。少し不器用なぐらいのほうが、結果的には上達するっていうよ」
「それって、慰めてくれてるの? なんか、あまり嬉しくないなあ」そういいながらも千都留は楽しそうに笑った。
誠がゴルフスクールに入ってから、三か月が経とうとしていた。その間彼は一度も休んだことがなかった。思った以上にゴルフが面白かったこともあるが、千都留に会える喜びのほうが、その何倍も大きかった。
「ところで、今日の練習の後、どこへ行こうか」誠は訊いた。ゴルフスクールの後、二人で食事に行くのは、すでに習慣のようになっていた。
「あたしはどこでも」
「じゃあ、久しぶりにイタリアンにしようか」
うん、と千都留は頷いた。甘えたような表情だった。
「あのさあ」誠は少し周囲を気にしながら低い声でいった。「今度一度、別の日に会えないかな。たまには時間を気にせず話をしたいしさ」
迷惑に思われることはない、という自信はあった。問題は、千都留がどれだけ躊躇《ためら》いを感じるかということだった。他の日に会うということは、ゴルフの練習の帰りに食事をすることとは、全く意味が異なるのだ。
「あたしはいいけど」千都留はあっさりと答えた。あるいは、そう見せかけただけなのかもしれなかったが、口調に不自然さはなかった。口元の笑みも保たれたままだ。
「じゃあ、だいたいの日にちが決まったら連絡するよ」
「うん。早めにいってくれれば、仕事の調整はきくから」
「わかった」
たったこれだけのやりとりで、誠は気持ちを昂《たかぶ》らせていた。大きな一歩を踏み出したような感覚があった。