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白夜行11-4
日期:2017-01-17 10:46  点击:466
 何かのカルチャースクールの帰りと思われる女性グループが、二つのテーブルを占拠していた。場所を変えたいところだったが、待ち合わせの相手はすでに事務所を出ているはずだった。仕方なく今枝は、女性グループから一番離れたテーブルに向かった。女性たちの平均年齢は四十歳前後というところだ。テーブルの上には飲みものの入れ物以外に、サンドウィッチやスパゲティなどの皿も載っていた。時刻は午後一時半。昼休みが終わった直後だから喫茶店もすいていると踏んだのだが、とんだ誤算だった。彼女たちはカルチャースクールが終わった後、ここで昼食をとりながら延々とおしゃべりするのを、最大の楽しみにしているに違いなかった。
 今枝がコーヒーを二口ほど飲んだ時、益田《ますだ》均《ひとし》が店に入ってきた。一緒に仕事をしていた頃よりは少し痩せたようだ。半袖シャツを着て、紺色のネクタイを締めていた。手に大判の封筒を持っている。
 益田はすぐに今枝を見つけて近づいてきた。
「久しぶりだな」そういって向かいの席についたが、注文を取りにきたウェイトレスには、「俺はいいよ、すぐに出るから」といった。
「相変わらず忙しいみたいだな」今枝はいった。
「まあな」益田はぶっきらぼうにいった。明らかに機嫌がよくなかった。ハトロン紙の封筒をテーブルに置いた。「これでいいのか」
 今枝は封筒を取り、中身を調べた。A4のコピー用紙が二十枚以上入っている。その内容にさっと目を通し、大きく頷いた。見覚えのあるものだった。中には今枝自身が書いた書類のコピーもある。
「これでいい。悪かったな」
「いっておくが、もう二度とこんなことは頼まないでくれよ。事務所の資料を部外者に見せるというのがどういうことを意味するか、おまえだって何年も探偵をやってるんだからわからんわけじゃないだろう」
「すまん。本当にこれっきりだ」
 益田は立ち上がった。しかしすぐには出口に向かわず、今枝を見下ろして訊いた。
「今頃になってそんなものを欲しがるとはどういうことだ。尻切れ蜻蛉《とんぼ》の尻尾でも見つけたのか」
「そんなんじゃない。ちょっと確かめたいことがあっただけだ」
「ふうん。まっ、いいけどさ」益田は歩きだした。今枝の言葉を信じているはずはなかった。しかし仕事でもないことに首を突っ込みたくはないようだった。
 益田が店から出ていくのを見届けて、今枝は改めて書類に目を通した。三年前の日々がたちまち蘇る。東西電装株式会社の関係者という人物から依頼された、例の調査報告書をコピーしたものだ。
 あの時調査が頓挫《とんざ》した最大の原因は、メモリックス社の秋吉雄一という人物の正体を最後まで暴けなかったことだ。本名も経歴も、どこから来た人間なのかということもわからなかった。
 ところがつい先日、全く思いがけないところから秋吉の正体を知ることになった。笹垣刑事が見せた写真の男、桐原亮司は、かつて今枝が散々見張り続けた秋吉雄一に間違いなかった。
 パソコンショップを経営していたという経歴も、秋吉にはふさわしいものだし、桐原が大阪から姿を消したという時期は、秋吉がメモリックスに入社した時期と合致しそうだった。
 最初今枝は単なる偶然だと思った。以前追っていた人物の正体が、数年後全く別の調査をしていてひょいとわかるということも、長年こういう仕事をしていれば起こりうることなのかもしれないと解釈していた。
 だが頭の中で整理するうちに、それがとんでもない錯覚だということに気づいた。偶然でも何でもなく、東西電装から依頼された調査と今回の調査は、じつは根っこの部分で繋がっているのではないかと思えてきた。
 そもそも今回の唐沢雪穂に関する調査を篠塚から依頼されたきっかけは、ゴルフ練習場で高宮誠と会ったことだ。ではなぜあのゴルフ練習場に行ったかというと、三年前、秋吉を尾行していて、訪れたことがあったからだ。高宮のことも、その時に知っていた。高宮は、秋吉が追いかけていた三沢千都留という女性と親しくしていたのだ。そして高宮誠の当時の妻こそ、唐沢雪穂だった。
 笹垣刑事は桐原亮司のことを、唐沢雪穂と相利共生する存在のようにいっていた。あの老刑事がそのようにいうからには、何らかの根拠があるに違いなかった。そこで実際に桐原と唐沢雪穂の間に密接な関係があると仮定して、三年前の調査を振り返ってみる。するとどうなるか。
 何のことはない。答えはすぐに出る。雪穂の夫は東西電装特許ライセンス部に勤務している。社内の技術情報を管理する立場の人間だ。それはトップシークレットに関与できるということを意味する。コンピュータから極秘情報を呼び出すIDやパスワードも与えられているだろう。無論それは決して人に見せてはならないものだ。高宮もその規則を守っていたに違いない。しかし妻に対してはどうだったか。彼の妻ならば、IDやパスワードを知り得たのではないか。
 三年前、今枝たちは秋吉雄一と高宮誠の繋がりを見つけだそうとした。しかし何も見つからなかった。見つからないはずだ。ターゲットにすべきは高宮雪穂のほうだったのだ。
 さてそうなると今枝としては、もう一つ気になることが出てくる。三沢千都留と高宮誠のことだ。秋吉すなわち桐原は、一体何のために千都留を見張っていたのか。
 雪穂に頼まれて、彼女の夫の浮気を調べていたという推理も成り立たないではない。しかしそう考えるには、腑に落ちないことが多すぎた。まずなぜそれを桐原に頼むのかということだ。浮気調査ならば探偵を雇えばいい。それにもし高宮誠の浮気を調べるということであれば、高宮を見張るのがふつうではないか。三沢千都留を見張っていたということは、すでに彼女が高宮の愛人であることは確認済みだからだろう。ならばそれ以上の調査は不要のはずだ。
 そんなことを考えながら今枝は益田から受け取ったコピーを読んでいった。やがて奇妙なことに気づいた。
 桐原が三沢千都留を尾行して最初にイーグルゴルフ練習場に行ったのは、三年前の四月はじめのことだ。その時ゴルフ練習場に高宮誠は現れていない。その二週間後、再び桐原はゴルフ練習場に行った。そこで初めて高宮誠が今枝たちの前に姿を見せる。彼は三沢千都留と親しそうに話していた。
 その後、桐原は二度とゴルフ練習場には足を運んでいない。だが今枝たちは引き続き三沢千都留と高宮誠の様子を探っていた。彼等の仲の深まっていく様子が、当時の記録を辿るとよくわかる。調査が打ち切られる八月上旬時点で、二人は完全に不倫関係に入っている。
 奇妙なのはここだ。二人の仲が深まっていくというのに、雪穂は何の手も打たなかったのだろうか。何も知らなかったとは思えない。桐原から情報が入っていたはずだ。
 今枝はコーヒーカップを口元に運んだ。コーヒーはすっかりぬるくなっていた。こんなふうに冷めたコーヒーを、つい最近も飲んだことを思い出した。篠塚と銀座の喫茶店で会った時だ。
 この瞬間、不意に一つの考えが今枝の頭に浮かんだ。全く別の角度からの発想だった。
 雪穂が高宮誠と別れたがっていたとしたらどうだ――。
 考えられないことではない。川島江利子の言葉を借りれば、高宮は最初から彼女にとって最愛の男ではなかったはずなのだ。
 別れたいと思っていた夫が、うまい具合にほかの女に気持ちを寄せ始めた。ならばそれが不倫に発展するまで待ってみよう。そんなふうに雪穂は考えたのではないか。
 いや、と今枝は心の中でかぶりを振る。あの女は、そういう成りゆき任せの生き方をする人間ではない。
 三沢千都留と高宮との出会いやその後の進展が、すべて雪穂の計画通りだったとしたら――。
 まさか、と思う。だが同時にあるいは、とも思う。そんなことはありえないと簡単には否定できない何かが、唐沢雪穂という女にはある。
 しかし人間の心をそう簡単にコントロールできるものだろうかという疑問は残る。三沢千都留がこの世で最高の美女だったとしても、万人が恋に落ちるとはかぎらない。
 ただし以前から恋心を抱いていた相手ならば話は別だ。
 今枝は喫茶店を出ると、公衆電話ボックスを見つけて中に入った。手帳を見ながら番号ボタンを押す。かけた先は東西電装東京本社だ。高宮誠を呼び出してもらう。
 しばらく待たされた後、高宮の声が聞こえた。「高宮ですが」
「もしもし、今枝です。お仕事中すみません」
 ああ、と少し戸惑った声がした。探偵というのは、あまり職場には電話をかけてきてほしくない相手なのだろう。
「先日はお忙しいところ申し訳ありませんでした」唐沢雪穂の証券について尋ねた時のことを詫びた。「じつはもう一つお尋ねしたいことがありまして」
「どういったことですか」
「それはお会いしてからお話ししたいんです」あなたと今の奥さんの馴れ初めに関することだ、とは電話ではなかなかいえなかった。
「今日か明日の夜は、あいてませんか」
「明日ならいいですが」
「そうですか。じゃあ、明日もう一度お電話します。それでいいですか」
「いいですよ。ああそうだ、今枝さんに一ついっておかなきゃいけないことがあります」
「何ですか」
「じつは」と彼は声を落とした。「数日前に、僕のところに刑事が来たんです。かなり年輩の大阪の刑事でした」
「それで?」
「最近前の奥さんのことで誰かから質問を受けたことはないかと訊かれたので、今枝さんの名前を出してしまったんです。いけなかったでしょうか」
「あっ、そうでしたか……」
「やはりまずかったですか」
「いや、それはまあ、いいです。あの、私の職業のこともお話しになったんですか」
 ええ、と高宮は答えた。
「そうですか。わかりました。ではそのつもりをしておきます」失礼します、といって電話を切った。
 このセンがあったかと今枝は舌打ちしたい気分だった。笹垣は全く苦労せずに今枝に行き着いたのだ。
 するとあの盗聴器は、どこの誰が仕掛けたものなんだ――。
 
 今枝が自分のマンションに戻ったのは、この日の夜遅くになってからだった。別口の仕事であちこち回った後、久しぶりに菅原絵里が働いている居酒屋に寄ったからだ。
「あれからはもう部屋にいる時は絶対にチェーンをしてるから」と彼女はいった。誰かに忍び込まれた気配も、彼女が感じるかぎりではないという話だった。
 マンションの前に、見慣れない白のワンボックスバンが止まっていた。それをよけるように歩き、建物の中に入った。そのまま階段を上がる。身体が重く、足を運ぶのも億劫《おっくう》だ。
 部屋の前まで来て、鍵をあけようとポケットを探っている時、廊下に台車と折り畳まれた段ボール箱が立てかけてあるのが目に留まった。段ボール箱は洗濯機が入りそうなほど大きなものだった。誰が置いたのかなと一瞬思ったが、さほど気に留めなかった。このマンションの住民はマナーが悪く、廊下にゴミ袋が出したままになっていることもざらだ。今枝にしても、優等生の店子《たなこ》では決してない。
 キーホルダーを取り出し、部屋の鍵を鍵穴に差し込んだ。右に捻ると、かちゃりと外れる感触があった。
 この時ふと、彼は違和感を抱いた。鍵の具合に、いつもと違うものを感じたような気がしたのだ。一、二秒考えてから、彼はドアを開けた。気のせいだろうと決めつけていた。
 明かりをつけ、室内を見渡す。特に変わったことはない。部屋はいつものように殺風景で、いつものように埃っぽかった。男臭さを消すために、芳香剤の香りをやや強めにしてあるのも、いつものことだった。
 彼は荷物を椅子に置き、トイレに向かった。ほどよく酔っている。少し眠く、少しだるい。
 トイレの明かりのスイッチを入れる時、換気扇のスイッチが入ったままになっていることに気づいた。おかしいな、と思った。こんな不経済なことをしただろうか。
 ドアを開ける。洋式トイレの蓋《ふた》が、ぴったりと閉じられていた。これもまた、一瞬妙だと思った。蓋を閉じる習慣などなかった。たいてい蓋も便座も上げたままだ。
 ドアを閉じ、彼は蓋を開けた。
 その瞬間、全身の警報機が鳴りだした。
 とてつもない危険が自分の身に襲いかかってくるのを彼は感じた。蓋を閉じようとした。一刻も早くここから出なければ――。
 ところが身体は動かなかった。声も出せなかった。それ以前に呼吸ができなくなっていた。肺が自分のものではなくなっている。
 ぐらり、と視界が回転した。身体が何かにぶつかるのを感じた。しかし痛みはない。すべての感覚が一瞬のうちに奪い取られていた。懸命に手足を動かそうとする。だが指先一本にすら、自分の意思を伝えられない。
 誰かがそばに立っている気がした。それは気のせいだったかもしれない。視界が闇に包まれていった。

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