「二、三日留守にする」
秋吉が突然いいだした。典子が風呂から上がり、ドレッサーに向かっている時だった。
「どこに行くの?」と彼女は訊いた。
「取材だ」
「行き先ぐらい教えてくれたっていいでしょ」
秋吉は少し迷ったようだが、面倒臭そうに答えた。「大阪だ」
「大阪?」
「明日から行く」
「待って」典子はドレッサーの前を離れ、彼のほうを向いて座った。「あたしも行く」
「仕事があるだろ」
「休めばいいだけのことよ。あたし、去年から一日も休んでないのよ」
「遊びで行くんじゃない」
「わかってる。あなたの邪魔はしない。あなたが仕事をしている間は、あたし一人で大阪見物をしているから」
秋吉は眉間に皺を寄せてしばらく考えていた。明らかに困惑している様子だった。いつもの典子なら、これほど強硬な態度には出なかっただろう。だが大阪と聞いた途端、どうしても行かねばならないと思った。一つには彼の故郷を見たいという気持ちがあった。実家については何ひとつ教えてくれないが、どうやら大阪で生まれたらしいということは、これまでの会話から察せられた。
しかしそれ以上に、典子には一緒に行きたい理由があった。そこに彼のことを知るための何かがあるに違いないと直感したのだ。
「きちんとした計画を立てて行くわけじゃない。どんなふうに予定が変わるかわからない。極端なことをいえば、いつ帰るかも決めてないんだぞ」
それでもいい、と典子は答えた。
「じゃ、好きにしろ」彼は面倒臭そうにいった。
パソコンに向かう彼の背中を見つめながら、典子は息苦しいほどの胸騒ぎを感じていた。取り返しのつかないことになるのではないかという気がした。しかし、何とかしなければ、という思いのほうが強かった。このままでは二人の仲はだめになる――同棲を始めてまだ二か月ほどしか経っていないのに、典子はその強迫観念に苦しんでいた。
二人が一緒に住むことになったきっかけは、秋吉が会社を辞めたことだった。
はっきりとした理由を彼の口から聞くことはできなかった。ちょっと休みたくなっただけだ、彼はそういった。
「貯金があるから、しばらくは食っていける。後のことは、また考える」
この男が、おそらく誰にも頼ることなく生きてきたのだろうということは、これまでの付き合いでわかっていた。それにしても、自分にさえも何も相談してくれないのだなと典子は寂しさを感じた。だからこそこれからは力になれればと思った。彼にとって必要な存在でありたかった。
同棲を提案したのは典子のほうだ。秋吉は最初あまり乗り気ではないようだった。だが結局一週間後に彼は引っ越してきた。パソコン関連の一式と段ボール箱六個が彼の荷物だった。
小説のためだ、と彼はいった。
「ミステリ小説を書こうと思っている。ぶらぶらしていても仕方がないからな。で、その中に青酸カリを登場させる。だけどこの目で見たことがないし、性質もよく知らない。それで実物が手に入らないかと思ってね。典子のところのような大きな病院なら、置いてるんじゃないか」
意外な話だった。彼が小説を書くことなど想像もしなかった。
「それは……調べてみないとよくわからないけど」
とりあえずこういったが、じつは特殊な保管庫に入っていることを典子は知っていた。何かの治療に使うわけではなく、研究用のサンプルとして置いてあるのだ。その保管庫に近づけるのは、病院内でもごく一部の人間だけである。
「見るだけでいいのね」
「ちょっと貸してくれればいい」
「貸すって……」
「まだどういうふうにするかは決めていない。とにかく実物を見てからだ。何とか手に入れてほしい。もちろん、典子がどうしても嫌だというなら無理強いはしない。その場合は別のルートを当たる」
「別のルートなんてあるの」
「前の仕事柄、いろいろな会社と繋がりがある。そのコネを使えば、何とかならないこともない」
この別ルートという話を聞かなければ、もしかすると典子は拒否したかもしれない。だが、そういう危険なものの授受を他人とはしてほしくないという思いから、結局承諾してしまった。
薬局から持ち出した青酸カリの瓶を彼の前に差し出したのは、八月半ばのことだ。
「本当に何かに使うわけじゃないんでしょ。ちょっと見るだけでいいんでしょ」彼女は何度も念を押した。
「そうだ。何も心配することはない」秋吉は瓶を手にした。
「蓋は決して取らないで。見るだけなら、そのままでもいいでしょ」
彼女の言葉に、彼は答えなかった。瓶の中の無色の粉末を見つめていた。
「致死量はどれぐらいだ」彼が訊いてきた。
「百五十ミリグラムから二百ミリグラムといわれてるけど」
「わかりにくいな」
「耳かき一杯とか二杯とか、まあそのぐらいよ」
「猛毒だな。水には溶けるんだろう」
「溶けるけど、たとえばジュースに仕込んで飲ませるというような方法を考えているんだとしたら、耳かき一杯とか二杯じゃだめだと思うわよ」
「どうして?」
「ふつうなら、一口飲んで変だと思うからよ。舌を刺激するような味なんだって。あたしは飲んだことないけど」
「その最初の一口で絶命するぐらい、たっぷり入れておかなきゃだめだということか。しかしそうするとさらに味がおかしくなるから、被害者は飲み込まずに吐き出すかもしれない」
「それに独特の臭いがあるから、鼻のいい人だと飲む前に気づくかもしれない」
「アーモンド臭というやつだな」
「といってもアーモンドナッツの臭いじゃないわよ。アーモンドの実の臭いってこと。アーモンドナッツはその種」
「青酸カリの水溶液を切手の裏に塗っておくという手が小説にあったが……」
典子は首を振り、苦笑した。
「非現実的ね。そんなわずかな水溶液じゃ、致死量には遠く及ばないもの」
「口紅に混ぜておくという手もあった」
「それもやっぱり致死量にはならないわね。あまり濃くしちゃうと、青酸カリは強アルカリだから、皮膚がただれちゃうんじゃないかな。第一その方法じゃ、青酸カリが胃の中に入らないから、毒性を発揮できないわね」
「というと」
「青酸カリ自体は安定した物質なのよ。それが胃に入ると、胃酸と反応して青酸ガスを発生させる。それで中毒症状が起きるわけ」
「飲ませなくても、青酸ガスを吸わせればいいんだな」
「そうだけど、現実にはやり方が難しいわよ。犯人自身も死んじゃうおそれがある。青酸ガスは皮膚呼吸によっても吸収されてしまうから、息を止めていたぐらいじゃだめかもしれない」
「なるほど」
それならば少し考えてみよう、と秋吉はいった。
実際それから二日間ほど、彼はパソコンの前に座って考え事をしていた。
「殺したい相手の家のトイレが洋式だったとする」夕食の最中に彼がいった。「その相手が帰宅する直前、部屋に忍び込み、便器に青酸カリと硫酸を放り込み、蓋を閉める。即座にトイレを出れば、犯人が中毒を起こすことはないんじゃないか」
「大丈夫でしょうね」と典子はいった。
「そこへターゲットが帰ってくる。トイレに入る。便器の中では化学反応が起きて、大量の青酸ガスが発生し続けている。それを知らずに蓋を開ける。青酸ガスが一気に溢れだし、ターゲットはそれを吸い込んでしまう――こういうのはどうだ」
少し考えてから、悪くないんじゃない、と典子は答えた。
「基本的にはいいと思う。どうせ小説なんだから、その程度でいいんじゃない。細かいことをいったらきりがないものね」
この言葉が秋吉は気に食わなかったようだ。彼は箸を置き、メモ用紙とボールペンを持ってきた。
「俺はいい加減なことはしたくない。何か問題があるのなら、きっちりと教えてくれ。そのために相談しているんだ」
典子は頬をぱちんと叩かれたような気がした。彼女は座り直した。
「問題があるというほどではないの。あなたのいった方法でうまくいくかもしれない。でも下手をしたら、相手は死なないかもしれない」
「なぜだ」
「青酸ガスが漏れ出ると思うからよ。便器に蓋をするといっても、きっちりと密封できるわけじゃないでしょう。漏れ出た青酸ガスはトイレに満ちて、次第にトイレの外にも出ていくと思う。そうすると、狙われた相手はトイレに入る前に異常に気づくかもしれない。ううん、気づくというのは適切じゃないわね。わずかな青酸ガスを吸って、何らかの中毒症状を示すかもしれない。それで死んでくれればいいわけだけど……」
「青酸ガスそのものが微量だから、死には至らない可能性があるというわけか」
「あくまでも推論だけど」
「いや、そのとおりかもしれない」秋吉は腕組みをした。「便器の蓋の密閉度を高める工夫が必要だな」
「さらに換気扇を回しておけばいいかもしれない」彼女はいってみた。
「換気扇?」
「トイレの換気扇よ。そうすれば漏れ出た青酸ガスは排出されるから、ドアの外には漏れないんじゃないかな」
秋吉は黙って考え込んでいたが、やがて典子の顔を見て頷いた。
「よし、それでいこう。典子に相談してよかった」
「いい小説が書けるといいね」と典子はいった。
一抹《いちまつ》の不安を抱きながら青酸カリを病院から持ち出したのだが、この時にはその不安も消えていた。彼の役に立ったらしいという手応えを感じ、素直に喜んでいた。
ところがその一週間後のことだ。典子が病院から帰った時、秋吉の姿がなかった。どこかへ飲みにでも行ったのかと思ったが、深夜になっても帰らず、連絡もなかった。彼女は心配になり、行方を捜そうとした。だが心当たりといえるものが何ひとつないことに彼女は気づいた。秋吉の知人というものを誰一人知らなかったし、立ち寄りそうな場所についても見当がつかなかった。彼女が知っている秋吉という男は、いつも部屋でパソコンに向かっているだけだったのだ。
明け方になって彼は帰ってきた。それまで典子は起きていた。化粧も落とさず、食事もとっていなかった。
「今までどこに行ってたの?」玄関で靴を脱ぐ彼に、典子は尋ねた。
「小説の取材をしていた。生憎《あいにく》公衆電話のないところで、連絡できなかった」
「すごく心配したのよ」
秋吉はTシャツにジーンズという出で立ちだった。その白いTシャツがひどく汚れていた。彼は提げていたスポーツバッグをパソコンの横に置き、Tシャツを脱いだ。身体が汗で光っていた。
「シャワー、浴びたいな」
「ちょっと待ってくれたら、お風呂を沸かすけど」
「シャワーでいい」彼は脱いだTシャツを持って、バスルームに入った。
典子は彼のスニーカーを揃えようとした。その時、スニーカーもずいぶん汚れていることに気づいた。さほど古くはなかったはずなのに、縁に土がべったりと付着している。まるで山の中を歩き回ったようだ。
一体どこへ行っていたのだろう。
典子は、秋吉が今夜の行き先については話してくれないような気がしていた。またそれを尋ねにくい雰囲気が彼にはあった。小説の取材なんてきっと嘘だと直感していた。
彼が提げていたバッグが気になった。あの中を調べれば、どこに行っていたかがわかるのではないか。
バスルームからはシャワーの音が聞こえてくる。ためらっている時間はなかった。彼女は奥の部屋に入ると、彼がさっき置いたスポーツバッグを開いた。
まず目に入ったのは、数冊のファイルだった。典子はそのうちの一番分厚いものを取り出した。ところが中身は空っぽだった。他のファイルを調べてみたが、いずれも同じだった。ただ、一冊のファイルには、次のように書かれたシールが貼られていた。
今枝探偵事務所――。
何だろう、と典子は首を傾げた。なぜ探偵事務所のファイルを秋吉が持っているのか。しかも中身のないファイルを。それとも何か理由があって、中身を処分したのか。
典子はさらにバッグの中を調べてみた。一番下に入っているものを見て、彼女は一瞬息をのんだ。それは例の青酸カリの瓶だった。
おそるおそるそれを取り出した。瓶の中には白い粉末が入っている。ところがその量は、前に見た時の半分ほどに減っていた。
胸騒ぎがし、気分が悪くなった。心臓の鼓動も激しくなる。
その時、シャワーの音が止まった。彼女はあわてて瓶やファイルを元に戻し、バッグを閉じた。