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白夜行13-1
日期:2017-01-17 10:51  点击:492
 バスを降りるとコートの裾《すそ》がはためいた。昨日までは比較的暖かかったが、今日になって突然冷え込んだ。いや、それともやはり東京は大阪に比べて気温が低いということかな、と笹垣は思った。
 もうすっかり慣れた道を歩き、目的のビルの前に辿《たど》り着いた。時刻は午後四時。ほぼ予定通りだ。新宿のデパートに寄っている分だけ遅くなったが、指定された土産を買っていかないとがっかりされるだろう。
 ビルの階段を二階まで上がった。右の膝が少し痛む。この痛みの具合で季節を感じるようになったのは、何年前からだろう。
 二階の一室の前で足を止めた。ドアに『今枝探偵事務所』と書いたプレートが貼られている。奇麗に拭かれており、知らない人間ならば、まだちゃんと業務を行っていると思うだろう。
 笹垣はインターホンを鳴らした。室内で人の動く気配がある。ドアの向こうに立ち、ドアスコープで覗《のぞ》いているに違いない。
 鍵が外され、ドアが開いた。菅原絵里がにっこり笑った。「お疲れさま。わりと遅かったね」
「これを買うのに手間取ったんや」笹垣はケーキの箱を差し出す。
「わあ、ありがとう。感激」絵里は喜んで箱を両手で受け取ると、即座に蓋を開けて中を確認した。「希望通りにチェリーパイを買ってきてくれたんだ」
「店を探すのに苦労したがな。けど、それと同じケーキを買《こ》うてる女の子がほかにもおったなあ。特別おいしそうにも思えんのやけど」
「今年はチェリーパイがブームになったからね。『ツイン?ピークス』の影響で」
「それがようわからん。ケーキがブームて、どういうことやねん。ちょっと前はティラミスとかいうもんが流行《はや》ったし、女の考えることは不可解や」
「おじさんはそんな理屈を考えなくていいの。よーし、早速食べちゃおうっと。おじさんも食べる? コーヒーを淹《い》れたげるけど」
「わしはケーキはええ。コーヒーはもらおか」
 オーケー、と元気よく返事して、絵里はキッチンへ行った。
 笹垣はコートを脱ぎ、そばの椅子に腰掛けた。今枝直巳が探偵業務をしていた頃《ころ》と、室内の様子は殆《ほとん》ど変わっていなかった。スチール製の書架もキャビネットもそのままだ。違っているのは、テレビが持ち込まれたことと、ところどころに少女趣味の小物が置いてあることぐらいか。いずれも絵里の所持品だ。
「ねえ、今度は何日ぐらいこっちにいるの?」絵里がコーヒーメーカーをセットしながら訊いてきた。
「まだ決めてへんけど、三、四日というところかな。あんまり家を空《あ》けられへんから」
「奥さんのことも心配だしね」
「あんなもん、別にどうでもええけどな」
「ひどいこというなあ。でも三、四日じゃ、大したことできないんじゃない」
「まあな。けど、しょうがない」
 笹垣はセブンスターを取り出し、マッチで火をつけた。今枝の机の上にガラス製の灰皿があったので、マッチの燃えかすはそこに捨てた。スチール机の表面は奇麗に拭かれていた。今枝が帰ってくれば、すぐにでも仕事を始められそうだった。ただ、卓上カレンダーは昨年の八月のままだった。今枝が消えた頃だ。あれから一年三か月が経っている。
 笹垣は、ジーンズを穿《は》いた足でリズムを取りながら鼻歌を歌い、チェリーパイを切っている絵里の姿を眺めた。見かけ上はいつも陽気で楽天的だ。しかし彼女の心の中にある悲しみと不安を思うと、彼は胸が熱くなった。彼女が今枝の死を覚悟していないはずがなかった。
 笹垣が菅原絵里と会ったのは昨年の今頃だった。今枝の周辺で何か変わったことはないかと思い、この事務所へ来てみたところ、見知らぬ若い女が住んでいた。それが絵里だった。
 彼女は最初ひどく警戒していたが、笹垣が刑事だということや、今枝が行方不明になる直前に彼と会っていたことを知ると、徐々に心を開いてくれるようになった。
 本人は明言しないが、絵里はどうやら今枝と恋愛関係にあったようだ。少なくとも彼女のほうはそういう対象として彼のことを見ていたらしい。それだけに彼女は彼女なりに、必死で今枝の行方を捜していた。自分のアパートを引き払い、この事務所に越してきたのも、ここが片づけられてしまうと、手がかりが全くなくなってしまうと思ったからだった。ここにいれば、今枝宛の郵便物をチェックすることもできる。時には彼を訪ねてくる人間に会うこともできる。幸い、彼女がここに住むことについて、大家に異存はなかったようである。住人が行方不明のままで放置されることを思えば、彼女の申し出は渡りに船のはずだった。
 絵里と知り合って以来、笹垣は上京する際には必ずここに寄るようになった。東京の地理や最近の流行について教えてくれたりもするので、彼としてもありがたい存在だった。何より、彼女と話していると楽しかった。
 絵里がマグカップ二つと小皿をトレイで運んできた。小皿には笹垣が買ってきたチェリーパイが載っていた。彼女はそのトレイを、今枝のスチール机の上に置いた。
「はい、どうぞ」青色のマグカップを笹垣のほうに差し出した。
「やあ、ありがとう」笹垣は受け取り、まず一口|啜《すす》った。冷えた身体《からだ》にありがたかった。
 彼女は今枝の椅子に座り、「いただきまあす」といってチェリーパイにかじりついた。口を動かしながら笹垣に向かってオーケーサインを出した。
「その後はどうや、何かあったか?」笹垣はやや遠慮がちに訊いてみた。
 明るかった絵里の顔に、ほんのわずかだが翳《かげ》りが生じた。食べかけのチェリーパイを皿に戻し、コーヒーを一口飲む。
「特におじさんに報告できるようなことはないな。このところ彼宛の郵便も殆どないし、電話がかかってきても、単なる仕事の依頼みたいだし」
 今枝の電話も、まだ生かしてある。もちろん絵里が電話料金を払っているのだ。電話帳に今枝探偵事務所として記載されているから、当然仕事の依頼もあるだろう。
「直接ここへ来る客は、もうおらんようになったか」
「そうだね。今年の初め頃までは、結構多かったんだけど……」
 そういうと絵里は机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出してきた。そこに彼女なりの記録がつけられていることを笹垣は知っている。
「この夏に一人、九月に入ってからもう一人来ただけだね。どっちも女の人。夏に来た人はリピーターだった」
「リピーター?」
「以前に今枝さんに仕事を頼んだことがあるという意味。カワカミっていう女性。今枝は入院中で、しばらく復帰の見込みがないっていったら、がっかりして帰っていった。後で調べてみると、二年ぐらい前に旦那《だんな》の浮気調査を依頼してた。一応その時には、決定的な証拠は掴《つか》めなかったみたい。だから、再度お願いしたいっていうことじゃないのかな。おとなしくしてた旦那の浮気の虫が動きだしたんだね、きっと」絵里は楽しそうにいう。元々他人の秘密を探るような仕事が好きで、今枝の助手的なこともしていたということだった。
「九月に来たのはどういう人や。やっぱり、前に仕事を依頼したことがある人かな」
「ううん。その女の人は違った。知り合いがここへ仕事を依頼したことがあるかどうかを調べたいみたいだった」
「えっ? どういうことや」
「つまりね」ノートから顔を上げ、絵里は笹垣を見た。「一年ほど前にアキヨシという名前の人が、何かの調査を頼みに来なかったかどうかを教えてほしい、というわけ」
「ふうん」アキヨシと聞き、どこかで聞いたことがあるような気がした。しかし思い出せなかった。「変な質問やな」
「それが、そう変でもないんだな」絵里はにやにやした。
「どういうことや」
「前に今枝さんから聞いたことなんだけどね、浮気をしている人間の中には、奥さんとか旦那がいつか探偵を雇って自分のことを調べるんじゃないかとビクビクしている人が、結構いるんだって。だからこの時に来た女性も、そのくちじゃないかと思うわけ。たぶん旦那が一年前に探偵を雇った形跡を見つけたんだよ。それで確かめに来たんだ、きっと」
「えらい自信があるんやな」
「こういうことには勘が働くんだ。それにね、すぐにはわからないから調べてこっちから連絡するといったら、自宅じゃなくて職場にしてくれっていうんだよ。変だと思わない? つまり、旦那に電話に出られることを恐れてるわけだよ」
「なるほど。するとその女の人の名字も……ええと」
「アキヨシってことになるね。でもあたしにはクリハラって名乗ってた。たぶんそれは旧姓で、職場なんかではそっちを使ってるんだよ。働く女性には、そんなふうにする人が多いから」
 笹垣は若い娘の顔をしげしげと見つめ、首を振った。
「大したもんやな。絵里ちゃん、探偵もええけど刑事にもなれるで」
 絵里はまんざらでもないという顔で、えっへっへと笑った。
「じゃあもう一つ推理しようか。そのクリハラさんってのは帝都大病院の薬剤師さんらしいんだよね。だから浮気の相手は病院の医者。しかも相手も妻子持ちってのが、あたしの読みなんだ。今はやりのダブル不倫ってわけだね」
「何や、それ。そこまでいったら、推理を越えて空想やがな」笹垣は顔をしかめながら笑った。

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