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白夜行13-2
日期:2017-01-17 11:00  点击:415
 今枝の事務所を出ると、笹垣は新宿のはずれにあるビジネスホテルに向かった。正面玄関をくぐった時には七時になっていた。
 全体的に薄暗い感じのする殺風景なホテルである。まともなロビーがなく、フロントといってもただ横に長い机が置いてあるだけだ。あまり客商売には向いていなさそうな中年男が一人、無愛想な顔で立っている。しかし数日間を東京で過ごそうと思えば、この程度の宿で我慢するほかなかった。本当はここでも、笹垣としては経済的に楽ではない。ただ流行りのカプセルホテルは苦手だった。二度ほど利用したことがあるが、老体には辛《つら》かった。少しも疲れがとれないのだ。粗末でもいいから、くつろげる個室が欲しかった。
 いつものようにチェックインを済ませると、無愛想なフロント係は、「笹垣様に伝言がございます」といって、キーと一緒に白い封筒を出してきた。
「伝言?」
「はい」とだけいうと、フロント係はほかの仕事にかかり始めた。
 笹垣は白い封筒を手に取り、中を開けてみた。メッセージ用の紙に、『部屋に着いたら308に電話ください』と書いてあった。
 なんやこれは、と彼は首を傾《かし》げた。心当たりが全くなかった。あのフロント係は無愛想な上にぼんやりしていそうだから、ほかの人への伝言を間違えて寄越したのではないかと疑った。
 笹垣の部屋は321号室だった。つまり伝言の主と同じ階だ。エレベータで自分の部屋に向かう途中、その308号室があった。彼は少しためらったが、ノックしてみた。
 スリッパをひきずる音がして、ドアが開いた。中にいた人物の顔を見て、笹垣は愕然《がくぜん》とした。全く予想外だった。
「今ご到着ですか。遅かったですね」そういって笑うのは、古賀|久志《ひさし》だった。
「あんた……なんで、こんなところにおるんや」笹垣は少し吃って訊《き》いた。
「まあいろいろとありましてね。おやじさんを待ってたんです。おやじさん、晩飯は?」
「いや、まだやけど」
「そしたら、これから食べに行きましょ。おやじさんの荷物はとりあえずここに置いといたらええでしょ」古賀は笹垣の荷物を自分の部屋に入れると、クローゼットを開け、背広の上着とコートを取り出した。
 何か食べたいものはあるかと訊かれたので、洋食でなければ何でもいいと笹垣は答えた。すると古賀が連れていってくれたのは、ごく庶民的な小料理屋だった。奥に座敷があり、小さな四角いテーブルが四つ置いてある。その一つを挟んで向き合った。上京した際にはよく来る店だと古賀はいった。刺身と煮込みが旨いのだという。
 まずは一杯、と古賀がビール瓶を向けてきた。笹垣はコップを持って、酌を受けた。反対に注いでやろうとしたが、古賀は辞退し、そのまま自分のコップにビールを注いだ。
 わけもなく乾杯し、一口飲んでから笹垣は訊いた。「で、どういうことなんや」
「警察庁で、ちょっとした集まりがありましてね、本来は部長が行くところなんですけど、どうしても都合が悪いとかで、自分が代わりに出席させられたんです。参りました」
「それだけ出世したということや。喜ばなあかん」笹垣は中トロに箸を伸ばす。なるほど旨かった。
 古賀はかつて笹垣の後輩刑事だった。それが今は大阪府警の捜査一課長だ。昇任試験を次々と合格していく彼のことを、点取り虫などと陰口を叩く人間がいたことを笹垣は知っている。しかし彼の見るかぎり、古賀が実務で手を抜いたことなど一度もなかった。皆と同じように実務をこなし、なおかつ難関である昇任試験の勉強に励んだのだ。ふつうの人間にできることではない。
「しかしおかしいな」と笹垣はいった。「いそがしい警視殿が、なんでこんなところで油を売ってるんや。しかもあんな安っぽいホテルなんかに泊まって」
 古賀は苦笑した。
「ほんまにそうです。おやじさんも、もうちょっとましなホテルにしたらどうですか」
「あほなこといわんといてくれ。遊びに来てるのやないで」
「おやじさん、問題はそこです」古賀は笹垣のコップにビールを注いだ。「遊びに来てるのやったら何も文句はいいません。この春まで牛みたいに働いたのやから、今は大いに遊んだらよろし。おやじさんには、それだけの権利がある。しかし、上京するおやじさんの目的を考えると、自分としても、のんびり笑《わろ》てばかりはいられません。おばさんも心配してはります」
「ふん、やっぱり克子があんたに頼んだんやな。しょうがない奴《やつ》や。府警の捜査一課長を何やと思うとる」
「おばさんに頼まれて来たんと違います。いろいろと話を聞いてるうちに、おやじさんのことが心配になって来たというわけです」
「同じことや。克子に愚痴を聞かされたんやろ。それとも織江《おりえ》からか」
「ま、みんなが心配しているのは事実ですな」
「ふん。しょうむない」
 古賀は今や笹垣にとって親戚でもあった。妻の克子の姪《めい》にあたる織江が、古賀の妻になっているのだ。見合いではなく恋愛だというが、二人がどのようにして知り合ったのか、笹垣は詳しく知らない。おそらく克子が糸を引いたのだろうが、最後まで自分には隠されていたということで、二十年近く経つ今になっても、彼は少し根に持っている。
 二本のビールが空になった。古賀は日本酒を頼んだ。笹垣は煮込みに箸をつける。関東風の味付けだが、これはこれで旨いと思う。
 運ばれてきた日本酒を笹垣の猪口《ちょこ》に注ぎながら、古賀はぽつりといった。「例の事件のこと、まだ忘れられませんか」
「わしの傷や」
「しかしお宮入りしたのは、あの事件だけやないでしょう。そもそも、お宮入りという言い方が正しいかどうかもわかりません。あの交通事故で死んだ男が、やっぱり犯人やったのかもしれません。捜査本部でも、そういう意見は強かったはずです」
「寺崎は犯人やない」笹垣は猪口の酒をぐいと飲み干した。事件から約十九年が経っているが、関係者の名前は完璧に頭に入っている。
 十九年前――質屋殺しの一件についてだ。
「寺崎の周辺をなんぼ探しても、桐原が持ってた百万円は見つからんかった。隠したんやろと主張する者もおったが、わしはそうは思わん。あの頃、寺崎は借金で苦しんどった。もし百万円があったら、どこかに流しとったはずや。それをしてへんということは、理由は一つしか考えられへん。そんな金はどこにもなかった。つまり桐原を殺してもおらんというこっちゃ」
「その意見には基本的に賛成です。あの時もそう思うたから、寺崎が死んだ後も、おやじさんと一緒になって歩き回りました。けどねえ、おやじさん、もう二十年です」
「時効は過ぎてる。それはわかってる。わかってるけど、あの事件だけは、かたをつけんと死んでも死にきれんのや」
 空になった笹垣の猪口に古賀が酒を注ごうとした。笹垣はそれを制し、古賀の手から徳利を奪い取った。そしてまず古賀の猪口に酒を満たし、それから自分の分を注いだ。
「たしかにお宮入りしたのは、あの事件だけやない。ほかにもっと大きな事件や残酷な事件で、結局犯人の尻尾《しっぽ》の毛にも手が届けへんかったということは多々ある。どの事件も悔しい。死ぬほど情けない。けど、特にあの質屋殺しに拘《こだわ》るのには理由がある。あの事件でわしらがしくじったばっかりに、結果的に、関係のない人間を何人も不幸にしたような気がするんや」
「どういうことです」
「あの時に摘み取っておくべき芽があったんや。それをほったらかしにしておいたから、芽はどんどん成長してしもた。成長して、花を咲かせてしまいよった。しかも悪い花を」笹垣は口元を歪《ゆが》め、酒を流し込んだ。
 古賀がネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した。「唐沢雪穂のことですか」
 笹垣は上着の内ポケットに手を入れた。折り畳んだ紙を取り出し、古賀の前に置いた。
「何ですか、これは」
「まあ、見てみろや」
 古賀は紙を広げた。濃い眉《まゆ》の間に皺《しわ》が刻まれた。
「『R&Y』大阪店オープン……これは……」
「唐沢雪穂の店や。大したもんやな。とうとう大阪に出すらしい。心斎橋や。しかも見てみい、今年のクリスマスイブにオープンと書いてある」
「これを悪い花やというんですか」古賀はパンフレットを奇麗に畳み直し、笹垣の前に置いた。
「これは花の実というところかな」
「いつ頃でしたかね、おやじさんが初めて唐沢雪穂に疑いの目を向けたのは。いや、あの頃はまだ西本雪穂やったか」
「まだ西本の頃や。桐原洋介が殺された翌年、西本文代が死んだやろ。あれがきっかけやな。あの事件を境に、あの娘を見る目が変わった」
「あれは事故死ということで処理されたんでしたね。しかしおやじさんは最後まで、単なる事故死やないと主張してはりましたな」
「断じて事故死なんかと違う。報告書によると、被害者はふだん飲まん酒を飲み、風邪薬を通常の五倍以上も服用しとった。そんな事故死があるかい。残念ながら、うちの班の担当やなかったから、下手な口出しはでけへんかった」
「一応自殺説も出たはずです。しかしあれは結局……」古賀は腕組みをした。記憶を探る顔をしている。
「雪穂の証言や。母親は風邪をひいてたとか、寒気がする時にはカップ酒を飲んでたとかいいよった。それが自殺説を打ち消すことになった」
「娘が嘘の証言をするとは思いませんからね、ふつう」
「けど、雪穂以外の誰《だれ》も、文代が風邪をひいてたとはいうとらん。嘘の可能性もあったわけや」
「何のために嘘をつくんです? 雪穂としては、自殺でも事故でも大して事情は変わらんのと違いますか。過去一年以内に文代が生命保険にでも入ってたのなら、保険金が欲しかったということになるかもしれませんけど、そんな話はなかった。第一、当時はまだ小学生の雪穂がそこまでは考えへんでしょう」そこまでしゃべってから古賀は、はっと気づいたような顔をした。「まさか、文代を殺したのも雪穂や、とかいうんやないでしょうね」
 古賀は冗談口調だったが、笹垣は笑わなかった。
「そこまではいわんけど、何らかの作為が入ってたかもしれん」
「作為て……」
「たとえば、母親が自殺する予兆は感じてたけど気づかんふりをしてた、とかや」
「雪穂は文代の死を望んでたというわけですか」
「文代が死んで間もなく、雪穂は唐沢礼子の養女になってる。もしかしたらもっと以前から、その話はそれとなくあったのかもしれん。文代は拒んでたけど、雪穂自身は養女に出たいと思ってたということは十分に考えられる」
「でも、だからというて、じつの母親を見捨てますか」
「あの娘はそういうことを平気でする人間なんや。それともう一つ、母親が自殺したことを隠す理由がある。もしかすると、あの娘にとってはこっちのほうが大きかったかもしれん。それはイメージや。母親が事故死したとなると世間の同情をひく。ところが自殺したとなると、何かあったんやないかと色眼鏡で見られる。将来を考えた場合、どっちを取ったらええかは明白やろ」
「おやじさんのいうこともわかりますけど……やっぱりちょっと受け入れにくい話やなあ」古賀は日本酒を二本、追加注文した。
「わしにしても、あの頃すぐにここまで考えが及んだわけやない。唐沢雪穂のことを追いかけてるうちに、徐々にこんなふうに考えがまとまってきたんや。おっ、これは旨いな。何やろ、この天麩羅《てんぷら》は」小さなかき揚げを箸で挟み、眺めた。
「何やと思います?」古賀がにやにやした。
「わからんから訊いとるんやないか。何やろな。食べたことのない味や」
「それはね、納豆です」
「納豆? あの腐った豆か」
「そうです」古賀は笑いながら猪口を口元に運んだ。「納豆嫌いのおやじさんでも、これやったら食べられるやろと思いましてね」
「ふうーん、これがあのどろどろの納豆か」匂いをかぎ、もう一度眺めてから口に入れた。香ばしさが口に広がる。「うん、旨いわ」
「何事も先入観を持ってたらあかんということですな」
「そういうことやな」笹垣は酒を口に運ぶ。背中がずいぶんと暖まっていた。「そうや、先入観や。それがあったばっかりに、わしらはえらい間違いをしでかした。あの雪穂という娘がただの子供やないと思い始めてから、あの質屋殺しについてもう一回見直してみたら、とんでもない見落としをしてたことに気づいた」
「何ですか」古賀が真剣な目をして訊いた。
 その目を見返して、笹垣はいった。「まず、足跡や」
「足跡?」
「あの死体が見つかった現場の足跡や。床も埃《ほこり》だらけやったから足跡がたくさん残っとった。ところがその足跡に、わしらは殆ど関心を示さんかった。その理由を覚えてるか?」
「犯人のものらしき足跡が見つからなかったから、でしたね」古賀は答えた。
 笹垣は頷《うなず》いた。
「現場に残されてたのは、被害者の革靴の跡以外には、子供の運動靴の跡ばっかりやった。あそこは子供が遊び場に使うてたし、死体を発見したのも大江小学校の児童やから、子供の靴跡があるのは当然と考えられていた。しかし、そこにこそ落とし穴があった」
「犯人も子供の運動靴を履いていた、ということですか」
「そのことを全く考えへんかったのは迂闊《うかつ》やったとは思わんか」
 笹垣の言葉に、古賀は口元を歪めた。手酌で自分の猪口を満たし、一気に飲み干した。「あの殺しは子供には無理でしょう」
「子供やから可能という見方もできるで。被害者は油断しとったやろからな」
「しかし……」
「それと、もう一つ見逃したことがある」笹垣は箸を置き、人差し指を立てた。「アリバイのことや」
「何か抜けがありましたか」
「西本文代に目をつけた時、文代のアリバイが確認されたら、今度は共犯の男がおるんやないかというふうに発想した。それで寺崎の名前が出てきたわけやけど、その前に目を向けるべき相手がおった」
「あの時雪穂はたしか」古賀は顎《あご》を撫《な》で、視線を上に向けた。「図書館に行っていたんでしたね」
 笹垣は年下の警視の顔を見返した。「よう覚えてたな」
 古賀は苦笑した。「おやじさんも自分のことを、実務のできん点取り屋やと思うてはりましたか」
「いや、そうやない。刑事の誰一人として、あの日の雪穂の行動については掴んでないと思てたからや。あんたのいうとおり、雪穂は図書館に行ってた。しかもよくよく調べてみたら、その図書館と現場のビルは目と鼻の先やった。雪穂にしてみたら、図書館からの帰り道の途中に、例のビルがある感じや」
「おやじさんのいいたいことはわかりますけど、何というても小学五年生でしょう。五年生というたら――」
「十一歳。十分に知恵を持っとる年頃やがな」笹垣はセブンスターの箱を出し、一本抜き取って口にくわえた。マッチを探す。
 古賀の手が素早く伸びてきた。ライターを持っている。「そうですかねえ」といいながら、火をつけた。高級ライターは、炎を出す音も重く聞こえた。
 笹垣は、どうも、といってその火に煙草の先を近づけた。白い煙を吐きながら、古賀の手元を見つめる。「ダンヒルか」
「いえ、これはカルチェです」
 ふん、と鼻を鳴らし、笹垣は灰皿を引き寄せた。
「寺崎が事故で死んだ後、あいつの車から、ダンヒルのライターが出てきたやろ。覚えてるか」
「殺された質屋の持ち物やないかといわれたこともありましたね。結局、はっきりしたことはわからんままでした」
「あれは被害者のライターやった、というのがわしの考えや。ただし寺崎は犯人やない。寺崎に罪をなすりつけようとした人物が、こっそりあいつの部屋に置いといたか、何かうまいことをいうて寺崎に渡したかのどっちかやと睨《にら》んでる」
「それも雪穂の仕業やったというわけですか」
「そう考えるほうが筋が通る。たまたま被害者と同じライターを寺崎が持ってた、というよりはな」
 古賀はため息をついた。そのため息がやがて唸《うな》り声に変わった。
「雪穂に目をつけたおやじさんの柔軟さには敬意を表します。たしかにあの時に、子供やからというだけの理由で、あの娘について詳しいことを何も調べへんかったのは迂闊やったかもしれません。しかしおやじさん、それも一つの可能性に過ぎんのと違いますか。雪穂が犯人やという、たしかな決め手でもあるんですか」
「決め手は」笹垣は煙草を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。煙が一瞬古賀の頭で塊を作り、すぐに拡散した。「決め手はない、としかいいようがないやろな」
「そしたら、最初からもういっぺん考え直したらどうですか。それにおやじさん、あの事件は残念ながら、もう時効なんです。これから仮におやじさんが真犯人を見つけたとしても、我々としては手を出せんのです」
「そんなことはわかってる」
「そしたら」
「まあ聞け」笹垣は煙草の火を灰皿の中でもみ消した。それから周囲を窺《うかが》い、誰も聞き耳をたてていないことを確認した。「あんたは肝心なことを誤解してる。わしはあの質屋殺しだけを追ってるんやない。ついでにいうたら、唐沢雪穂だけを追いかけてるわけでもない」
「ほかに何か追いかけてるものがあるというんですか」古賀の目に鋭い光が宿った。捜査一課長の顔になっている。
「追いかけてるで」笹垣はにやりと笑って見せた。「ハゼとエビの両方をな」

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