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白夜行13-8
日期:2017-01-17 11:04  点击:414
 それはエアポケットのような時間だった。
 土曜日の午後。美佳は部屋で音楽を聞きながら雑誌を読んでいた。いつもと変わらぬ時間だった。ベッドの横のサイドテーブルには、空になったティーカップと、クッキーが少し載った皿が置いてある。二十分ほど前に、妙子が持ってきてくれたものだ。
 その時に彼女はいった。
「美佳さん、私これからちょっと出かけますけど、お留守番お願いしますね」
「鍵はかけていってくれるんでしょ」
「ええ、それはもちろん」
「だったらいいよ。誰が来ても出ていかないから」ベッドで寝そべって雑誌を読みながら、美佳は答えた。
 妙子が出かけると、広い邸宅で美佳は一人きりになった。康晴はゴルフだし、雪穂は仕事だ。そして弟の優大は祖父の家へ遊びに行って、今夜は泊まってくるらしい。
 別段珍しいことではなかった。実の母親が死んで以来、しょっちゅう一人ぼっちにされる。最初は寂しかったが、今では一人のほうが気楽だ。少なくとも、あの雪穂と二人きりにされるよりはずっといい。
 CDを入れ替えようと起き上がった時だった。廊下から電話の音が聞こえてきた。彼女は顔をしかめた。友達からなら楽しいが、たぶんそうではないだろう。この家には回線が三本ある。一本は康晴専用。一本は雪穂専用。そして残る一本が篠塚家全体のものだ。早く自分専用の電話が欲しいと康晴にねだっているが、なかなか聞き入れてもらえない。
 美佳は部屋を出て、廊下の壁に引っかけてあるコードレス電話機の子機を取り上げた。
「はい、篠塚ですけど」
「あ、もしもし。カッコウ運送ですけど、篠塚美佳さんはいらっしゃいますか」男の声がした。
 あたしですけど、と彼女は答えた。
「あ、えーと、菱川《ひしかわ》朋子《ともこ》さんからのお荷物をこれからお届けしたいんですけど、いいですか」
 これを聞いた時、おかしいな、と美佳は思った。宅配便を届ける時、こんなふうに事前に了解を得ることなどあっただろうか。だがそういう特別なシステムの配達方法なのかと思い、彼女はそれ以上深くは考えなかった。それよりも菱川朋子という名前を聞いて興味が湧いた。朋子は中学二年の時の同級生だった。今年の春に、父親の仕事の都合で名古屋に引っ越していた。
 いいですよ、と彼女は答えた。では今すぐ伺います、と電話の相手はいった。
 電話を切ってから数分して、チャイムの音がした。リビングルームで待っていた美佳は、インターホンの受話器を上げた。テレビカメラには、運送屋の制服を着た男性が映っていた。みかん箱ぐらいの大きさの箱を両手で抱えている。
「はい」
「どうも、カッコウ運送です」
「どうぞ」美佳は解錠ボタンを押した。これで門の横の通用口のロックが外れるのだ。
 印鑑を手に、玄関ホールに出ていった。間もなく、二度目のチャイムが鳴った。美佳はドアを開けた。段ボール箱を持った男がすぐ外に立っていた。
「どこに置きましょう。結構重いんですけど」と男はいった。
「じゃあここに置いてください」美佳は玄関ホールの床を指した。
 男が入ってきて、そこに段ボール箱を置いた。男は眼鏡をかけ、帽子を深くかぶっていた。
「印鑑をお願いします」
 はい、と答えて彼女は印鑑を構えた。男が伝票を出してくる。「これにお願いします」
「どこに押せばいいんですか」彼女は男のほうに近づいた。
「ここです」男も彼女に近づいてきた。
 美佳は印鑑を押そうとした。
 その時突然、目の前から伝票が消えた。
 あっと声を出しそうになった時、その口が何かで塞がれた。布のようなものだ。驚きのあまり、彼女は息を吸い込んだ。その瞬間、意識が遠くなった。
 
 時間の感覚がおかしくなっていた。ひどい耳鳴りがする。だがそれも意識がある時だけだ。意識は感度の悪いラジオのように、頻繁に途切れた。身体は全く動かない。手足が自分のものでなくなっていた。
 夢か現実かわからない中で、激痛だけは自覚していた。それが自分の身体の中心にあることに、すぐには気づかなかった。あまりに痛みがひどく、全身が痺《しび》れるような感じだったのだ。
 男がすぐ目の前にいる。顔はよくわからない。息がかかっている。熱い息だ。
 彼女は犯されていた――。
 それはじつは美佳自身の認識でもあった。自分の身体が凌辱《りょうじょく》されていることを理解しながら、まるで遠くからそれを見ているような気持ちになっていた。そしてそんな自分を、さらにもう一段階上の意識が観察していて、あたしはどうしてこんなにぼんやりしているんだろう、などと考えている。
 無論その一方で、これまでに体験したことのない巨大な恐怖が彼女を包み込んでいた。底に何があるのかわからない深い穴に落ちていく恐怖だった。この地獄がいつまで続くのかという恐怖だった。
 嵐がいつ去ったのか、彼女にはよくわからなかった。その時には意識を失っていたのかもしれない。
 まず視力がゆっくりと正常になっていった。ずらりと並んだ鉢植えが見えた。サボテンの鉢植えだ。雪穂が大阪の実家から持ってきたものだという。
 次に聴覚が戻ってきた。どこかで車の音がする。風の音も聞こえる。
 不意にここが屋外であることを認識した。庭にいる。美佳は芝生の上で寝かされていた。ネットが見える。康晴がゴルフの練習をする時に使うものだ。
 美佳は上体を起こした。全身が痛かった。切り傷の痛みがあり、打ち身の痛みがあった。そしてそのどちらでもない、内臓をえぐられた後のような鈍く重い痛みが、身体の中心にあった。
 空気の冷たさを意識した。それで自分が殆ど裸に近い状態であることに気づいた。身に着けているものはあったが、それはもはやボロ布に過ぎなかった。このシャツ、お気に入りだったのにと、またしても別の意識が冷めた感想を抱いた。
 スカートは穿いていたが、下着が脱がされていることは見なくてもわかった。美佳はぼんやりと遠くを見た。空が赤みを帯びかけていた。
「美佳さんっ」突然声がした。
 美佳は声のしたほうに首を回した。雪穂が駆け寄ってくるところだった。その光景もまた現実感のない思いで彼女は眺めていた。

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