(九)
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐 が突然 、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼 んだから、真面目 に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪 るい奴 で、よく偽筆 へ贋落款 などを押 して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目 に違 いない。君に懸物 や骨董 を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲 けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化 したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁 したまえと長々しい謝罪をした。
おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘 をとって、おれの蝦蟇口 のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込 めるのかと不審 そうに聞くから、うんおれは君に奢 られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙 だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜 しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張 りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が起 った。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸 っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津 だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜 まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれは肴 を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿 だ」
「君はすぐ喧嘩 を吹 き懸 ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳 な風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話 しがあるから」
山嵐は約束 通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐 れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛 にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底 物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇 って、一番赤シャツの荒肝 を挫 いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
おれはまず冒頭 としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳 しく知っている。おれが野芹川 の土手の話をして、あれは馬鹿野郎 だと云ったら、山嵐は君はだれを捕 まえても馬鹿呼 わりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜 けの呆助 だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥 かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職 する考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰 がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張 った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋 ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧 はあまりなさそうだ。おれが増給を断 わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞 めてくれた。
うらなりが、そんなに厭 がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既 にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃 げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席 に許諾 したものだから、あとからお母 さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人 しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道 を拵 えて待ってるんだから、よっぽど奸物 だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁 でなくっちゃ利かないと、瘤 だらけの腕 をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術 でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫 んでみろと云うから、指の先で揉 んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸 ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転 する。すこぶる愉快 だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯 りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲 ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加 した。山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲 が起って咽喉 の所へ、大きな丸 が上がって来て言葉が出ないから、君に譲 るからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭 といって、当地 で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷 を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸 からして厳 めしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織 を縫 い直して、胴着 にする様なものだ。
二人が着いた頃 には、人数 ももう大概揃 って、五十畳 の広間に二つ三つ人間の塊 が出来ている。五十畳だけに床 は素敵に大きい。おれが山城屋で占領 した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶 を据 えて、その中に松 の大きな枝 が挿 してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里 ですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子だから、陶器 の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手 なものだ。あんまり不味 いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々 と懸けておくんですと尋 ねたところ、先生はあれは海屋 といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠 りかかるのに都合のいい所へ坐 った。海屋の懸物の前に狸 が羽織 、袴 で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取 った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控 えている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈 だったから、すぐ胡坐 をかいた。隣 りの体操 教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお膳 が出る。徳利 が並 ぶ。幹事が立って、一言 開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが起 つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴 して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致 し方 がないという意味を述べた。こんな嘘 をついて送別会を開いて、それでちっとも恥 かしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極 ってる。マドンナも大方この手で引掛 けたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側 に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光 をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉 しかったので、思わず手をぱちぱちと拍 った。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日 も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠 の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴 な所で、職員生徒ことごとく上代樸直 の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振 り蒔 いたり、美しい顔をして君子を陥 れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚 の士は必ずその地方一般の歓迎 を受けられるに相違 ない。吾輩 は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任 されたら、その地の淑女 にして、君子の好逑 となるべき資格あるものを択 んで一日 も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆 を事実の上において慚死 せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払 いをして席に着いた。おれは今度も手を叩 こうと思ったが、またみんながおれの面 を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生はご鄭寧 に、自席から、座敷の端 の末座まで行って、慇懃 に一同に挨拶 をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大 なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘 の至りに堪 えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴 して、大いに難有 く服膺 する訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧 のほどを願います。とへえつく張って席に戻 った。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭 しくお礼を云っている。それも義理一遍 の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心 から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴 しているばかりだ。
挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をして汁 を飲んでみたがまずいもんだ。口取 に蒲鉾 はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損 ないである。刺身 も並んでるが、厚くって鮪 の切り身を生で食うと同じ事だ。それでも隣 り近所の連中はむしゃむしゃ旨 そうに食っている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
そのうち燗徳利 が頻繁 に往来し始めたら、四方が急に賑 やかになった。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃 を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬 をして、一巡周 るつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃 差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。ご出立 はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多 のところ決してそれには及 びませんと答えた。うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一杯 、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律 の巡 りかねるのも一人二人 出来て来た。少々退屈 したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺 めていると山嵐が来た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議 を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居 らないから……と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被 りの、香具師 の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌 が出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩 のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側 をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳 け出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃 さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、酔 ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の中 る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際 へ圧 し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗 に食い尽 して、五六間先へ遠征 に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し驚 ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱 へもたれて例の琥珀 のパイプを自慢 そうに啣 えていた、赤シャツが急に起 って、座敷を出にかかった。向 うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞 えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸 けて帰ったんだろう。
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨 の声を揚 げて歓迎 したのかと思うくらい、騒々 しい。そうしてある奴はなんこを攫 む。その声の大きな事、まるで居合抜 の稽古 のようだ。こっちでは拳 を打ってる。よっ、はっ、と夢中 で両手を振るところは、ダーク一座の操人形 よりよっぽど上手 だ。向うの隅 ではおいお酌 だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰 に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜 んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑 んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間声 を出して何か唄 い始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱 えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金 や太鼓 でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢 われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
すると、いつの間にか傍 へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺 し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着 なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫 の真似 をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝 を叩いたら野だは恐悦 して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊 の国を踴 るから、一つ弾 いて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
向うの方で漢学のお爺 さんが歯のない口を歪 めて、そりゃ聞えません伝兵衛 さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済 したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕 まえて近頃 こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻 、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可 の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞 をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟 と真中 へ出て独りで隠 し芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊 の国を済まして、かっぽれを済まして、棚 の達磨 さんを済して丸裸 の越中褌 一つになって、棕梠箒 を小脇に抱 い込んで、日清談判破裂 して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違 いだ。
おれはさっきから苦しそうに袴も脱 がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴 まで羽織袴で我慢 してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮 なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会 です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞 いだ。おれはさっきから肝癪 が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨 で、野だの頭をぽかりと喰 わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体 で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲 ちになったのは情ない。この吉川をご打擲 とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動 が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋 をうんと攫 んで引き戻 した。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩 ったら、すとんと倒 れた。あとはどうなったか知らない。途中 でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、
おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五
「君は一体どこの産だ」
「おれは
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれは
「君はすぐ
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、
山嵐は
おれはまず
それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を
うらなりが、そんなに
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を
君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを
じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に
そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は
二人が着いた
やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは
挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をして
そのうち
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで
「なにこれは
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを
ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が
しばらくしたら、めいめい
すると、いつの間にか
向うの方で漢学のお
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが
おれはさっきから苦しそうに袴も