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赤い指(01)
日期:2017-02-02 14:14  点击:649
(01)
 
 間もなく夕食という時になって、隆正《たかまさ》はさっきのカステラが食べたいといいだした。松宮《まつみや》が土産に持ってきたものだ。
「こんな時間に食べてもいいのかい」松宮は紙袋を持ち上げながら訊いた。
「かまうもんか。腹が減ったら食べる、それが身体には一番いいんだ」
「知らないぜ、看護婦さんに叱られてもさあ」そういいながらも年老いた伯父が食欲を示してくれたことが、松宮はうれしかった。
 紙袋から箱を取り出し、蓋《ふた》を開けた。一口サイズのカステラが一つ一つ包装されている。その一つの包装をはがし、松宮は隆正のやせ衰えた手に渡した。
 隆正はもう一方の手で枕を動かし、首を立てようとした。松宮はそれを手伝った。
 ふつうの大人なら二口ほどで食べ終えてしまうカステラを、隆正はたっぷりと時間をかけ、少しずつ口に入れていった。飲み下す時がやや辛そうだが、甘い味を楽しんでいるようには見える。
「お茶は?」
「うん、もらおう」
 そばのワゴンの上に載っていたペットボトルを松宮は隆正に渡した。それにはストローが差し込まれている。隆正は寝たままで器用に飲んだ。
「熱はどう?」松宮は訊いた。
「相変わらずだ。三十七度と八度の間を行ったりきたりだな。もう慣れたよ。これが自分の平熱だと思うことにした」
「まあ、平気ならいいんだけどさ」
「それより修平《しゅうへい》、こんなところに来てていいのか。仕事のほうはどうなんだ」
「例の世田谷の事件が片付いたから、今はわりと余裕があるんだ」
「そういう時こそ、昇進試験の勉強でもしたらどうだ」
「またそれかよ」松宮は頭を掻《か》き、顔をしかめた。
「勉強が嫌なら、女の子とデートでも何でもしたらいい。とにかく、私のことはそんなに心配するな。ほうっておいてくれればいい。克子《かつこ 》だって来てくれるしな」
 克子というのは松宮の母親だ。隆正の妹でもある。
「デートする相手なんかいないよ。それに伯父さんだって暇だろ?」
「いや、そうでもないぞ。これでもいろいろと考えることはある」
「これかい?」松宮はそばのワゴンの上に置いてあるボードを手にした。将棋盤で、駒が磁石でくっつくようになっている。
「駒に触るなよ。まだ対局中だ」
「俺にはよくわかんないけど、これ、前に俺が見た時からあまり変わってないみたいに見えるんだけどな」
「そんなことはない。刻一刻と戦況は変化しておる。敵もなかなかの指し手でな」
 隆正がそういった時、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。三十歳前後と思われる、丸顔の女性だ。
「体温と血圧を測らせてください」彼女はいった。
「噂をすれば何とやらだ。今、こいつに将棋盤を見せてたところだよ」
 隆正にいわれ、丸顔の看護師は微笑した。
「手は決まったかね」
「ええ、もちろん」そういうと彼女は松宮が持っている将棋盤に手を伸ばし、駒のひとつを動かした。松宮は驚いて、隆正と彼女の顔を見比べた。
「えっ、看護婦さんが?」
「強敵なんだよ。修平、もうちょっと近くで見せてくれ」
 松宮は将棋盤を手に、ベッドの脇に立った。それを見て隆正は顔をしかめた。無数の皺《しわ》が、一層深くなった。
「なるほど、桂馬か。その手があったか」
「考えるのは後にしてくださいね。血圧が上がっちゃいますから」
 彼女は手際よく検温と血圧測定を行った。金森《かねもり》と書かれたネームプレートを胸につけている。登紀子《と き こ 》という名前だということは隆正が教えてくれた。少し年上だがデートに誘ってみたらどうだといわれたのだ。もちろん松宮にはそんな気はない。彼女にもないだろう。
「どこか痛むところはありますか」
 測定を終えたところで彼女は隆正に訊いた。
「いや、ないよ。すべていつも通りだ」
「じゃあ、もし何かあったらすぐに呼んでくださいね」金森登紀子は笑顔で出ていった。
 それを見送った後、隆正は早速また将棋盤に視線を戻した。
「この手で来たか。考えなくもなかったが、ちょっと意外だったな」
 この分ならば、たしかに退屈することはなさそうだった。松宮は少し安心し、椅子から腰を浮かせた。
「じゃあ、俺もそろそろ行くよ」
「うん、克子によろしくな」
 松宮が部屋を出ようとドアを開けた時、「修平」と隆正が声をかけてきた。
「何?」
「……本当にもう、無理して来なくていいからな。おまえには、やらなきゃいけないことがほかにたくさんあるはずだ」
「だから、無理なんかしてないって」
 また来るよ、といい残して松宮は部屋を後にした。
 エレベータに向かう途中、ナースステーションに寄ってみた。金森登紀子の姿が見えたので、手招きして呼んでみた。何でしょう、という顔で彼女は近づいてきた。
「伯父のところに、最近誰か見舞いに来ましたか。うちの母以外に、という意味ですけど」
 克子のことは、当然看護師たちは知っているはずだった。
 金森登紀子は首を傾《かし》げた。
「私の知るかぎりでは、どなたも……」
「従兄《いとこ》はどうですか。伯父の長男ですけど」
「息子さんですか。いえ、来ておられないと思います」
「そうですか。お仕事中、どうもすみませんでした」
 いえ、と彼女は微笑《ほほえ》み、元の持ち場に戻った。
 エレベータに乗った後、松宮はため息をついた。無力感に襲われ、焦りを覚えた。このまま何もできないのだろうか、と悔しくもあった。
 隆正の黄色く濁った顔を思い出した。彼の胆嚢《たんのう》と肝臓は癌に冒されている。ただし本人は知らない。担当医師は、単なる胆管炎だと隆正には説明している。癌細胞を手術で取り除くことはもはや不可能で、今はただ出来るかぎりの延命措置が施されているにすぎない。猛烈な痛みを本人が訴えた場合にモルヒネを使うことについては、松宮も母の克子と共に同意した。せめて苦しまずに逝かせてやりたい、というのが二人の共通した思いだった。
 その日がいつ来るのかはわからない。医師によれば、明日来てもおかしくないのだという。顔を合わせて話していると、とてもそんなふうには思えないが、タイムリミットは確実に近づいている。
 松宮が加賀《か が 》隆正と会ったのは中学校に入学する直前のことだった。それまで松宮は母親の克子と二人で高崎に住んでいた。なぜ東京に引っ越すことになったのか、その時の彼にはよくわからなかった。克子の仕事の都合、とだけ聞かされていた。
 はじめて隆正を紹介された時には驚いた。自分たちに親戚と呼べる者がいることなど、まるで知らなかったからだ。母親は一人っ子で、両親はとうの昔に死んでいる──そんなふうに思い込んでいた。
 加賀隆正は元警察官だった。退職した後は、警備会社のアドバイザーをしていた。決して時間的余裕があるわけではなかったはずだが、彼は頻繁に松宮たちのもとを訪れた。特に用があるというふうには見えず、単に様子を見に来ているだけという感じがした。大抵の場合、彼は手土産を忘れなかった。大福や肉まんといった、育ち盛りの中学生が喜びそうなものが多かった。真夏に、スイカ一個を持ってきたこともあった。
 松宮が疑問に思ったのは、なぜこれほど親切にしてくれる伯父と、これまで全く付き合いがなかったのか、ということだった。東京と高崎では、行き来が困難とはいえない。だがそのことについて克子や隆正に訊いても、納得できる説明はしてくれなかった。たまたま疎遠になっていただけだ、といわれるだけだった。
 しかし高校に上がる時、松宮はようやくその答えを克子から聞けることになった。きっかけは戸籍謄本だった。父親の欄が空白になっていたのだ。そのことを母親に問い詰めると、思いもよらない答えが返ってきた。
 松宮の両親は結婚していなかったのだ。松宮というのは、克子が以前結婚していた相手の姓だった。
 二人が結婚できなかったのは、父親が別の女性とすでに結婚していたからだ。つまり二人の関係は俗にいう不倫だった。だが単なる浮気ではなく、男のほうは何とか離婚しようとしていた。それが叶わないとなると、家を出て、克子と共に高崎で住み始めた。彼は料理人だった。
 間もなく二人の間に子供が出来たが、その時点でも彼の離婚は成立していなかった。それでも表向きは夫婦として生活していたが、やがて思いもかけない悲劇が訪れた。彼のほうが事故で命を落としたのだ。勤務先である日本料理店が火災に遭い、逃げ遅れたということだった。
 幼い子供を抱え、克子は生活費を稼がねばならなくなった。母親が水商売をしていたことを、松宮はうっすらと覚えている。平日には深夜遅くにならないと帰ってこない彼女は、いつも酒に酔っていて、しばしば流し台で嘔吐《おうと 》していた。
 そんな母子に手をさしのべたのが加賀隆正だった。克子は高崎の住所を誰にも知らせていなかったが、隆正だけは把握していて、時折連絡をしてきたらしい。
 隆正は克子に、東京に戻るように勧めた。そのほうが自分が援助しやすい、というのが理由だった。克子は実兄に迷惑をかけたくなかったが、息子のことを考えると意地を張っている場合ではなかったと思い直し、上京を決意した。
 隆正は母子の住処だけでなく、克子の働き口まで見つけてきてくれた。その上、生活費の補助もしてくれたようだ。
 すべての経緯を聞き、松宮は自分がなぜ人並みの暮らしをしてこられたのかを思い知った。何もかも、妹思いの伯父の優しさがあったればこそだった。
 この人だけは裏切ってはならない、何としてでも恩に報いねばならない──そう思いながら松宮はその後の学生生活を過ごした。奨学金を貰《もら》ってまで大学に進むことを決心したのも、それを隆正が望んだからだ。
 そして進路については迷いなく警察官への道を選んだ。この世で最も尊敬する人間が就いていた職業だ。ほかの仕事など考えられなかった。
 命を救うことができないのならば、せめて思い残すことのないようにしてやりたい、というのが今の松宮の願いだった。それが隆正への最後の恩返しだと思った。

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