(02)
会議用の資料の作成を終え、パソコンを終了させるかどうか迷っていると、二つ離れた席の山本《やまもと》が立ち上がった。鞄《かばん》を机の上に置き、帰り支度を始めている。
「山さん、お帰り?」前原《まえはら》昭夫《あきお 》は声をかけた。山本は同期入社であり、出世の度合いも昭夫と似たようなものだ。
「うん。いろいろと雑用はあるんだけど、あとは来週まわしだ。おたくは何やってるの? 金曜日だってのに、遅くまでがんばるねえ」山本は鞄を手に昭夫の席までやってきた。パソコンの画面を見て、意外そうな顔をする。「何だよ、これ。この会議は来週の末だろ。その資料を今から用意してるわけか」
「早めに済ませとこうと思ってね」
「えらいねえ。何も金曜の定時後にしなくてもいいと思うけどなあ。残業手当がつくわけでもないのにさ」
「まあ、ちょっと気が向いたから」昭夫はマゥスを操作してパソコンを終了させた。「それよりどう、これから。久しぶりに『お多福』あたりで」酒を飲むしぐさをした。
「悪い。今日はだめなんだ。女房の親戚が来るとかで、早く帰ってこいっていわれててさ」山本は顔の前で手刀を切った。
「なんだ、残念だな」
「また今度誘ってくれよ。だけどおたくも早く帰ったほうがいいんじゃないの。ここんところずっと、定時後も残ってるみたいだけどさ」
「いや、いつもってわけじゃないけど」昭夫は作り笑いをした。人間というのは他人のことを見ていないようで見ているものだと思った。
「ま、無理しないほうがいいぞ」
お先に、といって山本は離れていった。
昭夫は壁の時計を見上げた。六時を過ぎたところだった。
何気ないふうを装い、彼は室内を見渡した。営業部のフロアには十人あまりが残っている。そのうち昭夫が統括している直納二課の課員は二人だ。一人は入社二年目の若手で、昭夫は彼と一対一で話すのを苦手にしていた。もう一人は昭夫よりも三歳下で、課内では最も話の合う存在だったが、アルコールは一滴も受け付けないという下戸だった。つまりどちらも飲み屋に誘える相手ではなかった。
昭夫はこっそりとため息をついた。仕方がない、今日は真っ直ぐ帰るか。
その時、携帯電話が鳴りだした。画面を見ると自宅からだった。瞬時に不吉な予感が胸中に広がるのを覚えていた。なんだろう、こんな時間に──。
「もしもし」
「ああ、あなた」妻の八重子《や え こ 》の声がした。
「どうした」
「それが、あの、ちょっといろいろあって、早く帰ってきてほしいんだけど」
妻の声には余裕がなかった。早口になっているのは、うろたえた時の特徴だ。予感が当たったようだと思い、憂鬱《ゆううつ》になった。
「なんだ。今、手が離せないんだけどな」予防線を張った。
「何とかならない? 大変なんだけど」
「大変って……」
「電話じゃ話しにくいのよ。どんなふうにいっていいかわからないし。とにかく、帰ってきて」
彼女の吐く息の音が伝わってくる。かなり興奮しているようだ。
「一体、何に関することだ。それだけでもいってくれ」
「それが、あの……とんでもないことになっちゃったのよ」
「それだけじゃわからん。ちゃんと説明しなさい」
しかし八重子からの返答はなかった。昭夫は苛立《いらだ 》ち、もう一言何かいおうとした。その時彼の耳にすすり泣きが聞こえた。その途端彼は、自分の鼓動が速まるのを感じた。
「わかった。今すぐ帰るから」
そういって電話を切ろうとすると、「ちょっと待って」と八重子がいった。
「なんだ」
「春美《はるみ 》さんには、今日は来てもらいたくないんだけど」
「来られるとまずいのか」
ええ、と八重子は答えた。
「何といって断ればいいんだ」
「だからそれは……」そのまま彼女は沈黙した。混乱して、考えがまとまらないようだ。
「じゃあ、俺から電話しておくよ。理由は適当にいっておく。それでいいな」
「すぐに帰ってきてくれるわね」
「ああ、わかった」昭夫は電話を切った。
彼の会話を聞いていたらしく、三歳下の部下が顔を上げた。「何かあったんですか」
「いや、それがよくわからないんだ。早く帰ってこいの一点張りでね。だから、その、これで失礼するよ」
「あ、はい。気をつけて」
大した用もないのに居残りをしているほうがおかしいんだ──部下の顔にはそう書いてあった。
昭夫は照明器具メーカーに勤務していた。東京本社は中央区の茅場町にある。地下鉄の駅に向かう途中、携帯電話で春美の家にかけた。春美は昭夫よりも四歳下の妹だ。今は田島《た じま》という姓になっている。
電話には春美が出た。昭夫だと知ると、やや戸惑った声で、「何かあったの?」といきなり尋ねてきた。彼女としては、「おかあさんに」を略したつもりなのだろう。
「いや、別に何でもない。じつは先程八重子から電話があって、お袋はもう寝ちゃったらしいんだ。それでわざわざ起こすこともないだろうということで、今夜はそのままにしておこうということになった」
「じゃああたしは……」
「うん、今日は来てくれなくていい。明日、また頼むよ」
「ふうん……明日はいつも通りに行けばいいの?」
「それでいいと思う」
「わかった。うちもこれからやらなきゃいけないことがあるから、ちょうどよかった」
売り上げの計算か何かだろう。春美の夫は駅前で洋品店を経営している。
「そっちも忙しいだろうに、いつも悪いな」
「いいわよ、そんなこと」
春美は低い声でいった。今更そんな台詞《せりふ》は聞きたくないという響きがある。
「じゃあ、また明日な」そういって昭夫は電話を切った。
会社を出て、少し歩き始めてから、傘を忘れてきたことに気がついた。朝、家を出る時には雨が降っていたのだ。いつやんだのか、昭夫は把握していなかった。今日はずっと会社にいたからだ。今から取りに戻るのも面倒なので、諦めて駅に向かった。これで置き傘が三本になってしまった。
茅場町から地下鉄を乗り継いで池袋に出て、西武線に乗り換えた。電車は相変わらず混んでいる。身体の向きを換えることはおろか、手足を少し動かすのにさえ周りに気を遣う。四月半ばだというのに、人いきれで額や首筋に汗が浮いてくるほど蒸し暑い。
昭夫は辛うじて吊革の一つを確保した。正面の窓ガラスに疲れた顔が映っている。五十前の男の顔だ。ここ数年で、生え際がかなり後退した。目尻が下がったように見えるのは、顔の皮膚が綾んできたからだろう。眺めていて愉快なものではなく、彼は瞼《まぶた》を閉じた。
八重子からの電話について考えた。一体何があったのだろう。真っ先に思い浮かぶのは、母親の政恵《まさえ 》のことだ。老母の身に何かあったのか。だがそれならば、八重子がああいう言い方はしないような気がした。ただ、春美には来てもらわないでくれといっている以上、政恵と無関係ではないようにも思える。
昭夫は思わず唇を歪《ゆが》めた。八重子からどんな無理難題をいわれるのかと想像するだけで気持ちが暗くなった。じつのところ、最近はいつもこうだ。会社から帰宅するなり、何らかの抗譲を受ける。彼女がどれだけ嫌な思いをしているか、その忍耐の限界にきているかを、時には切々と、また時には激怒しながら訴えてくる。昭夫の役目はそれを聞くことだ。黙って聞き、決して反論しないことだ。少しでも彼女を否定するようなことをいえば、事態はもっと悪くなる。
急ぎの仕事があるわけでもないのに残業をするのは、家に早く帰りたくないからだった。帰宅したところで疲れた身体を休められる状況ではない。身体だけでなく、精神まで余計に疲れるだけだった。
同居さえしなければ、と後悔することもあるが、そこに至った経緯を振り返ると、結局こうするしかなかったのだと改めて思うだけのことだ。親と子の関係は断ち切れるものではない。
だけどよりによって、こんなことにならなくてもいいじゃないか──つい恨み言をいいたくなる。だがそれをぶつける相手など、どこにもいない。