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赤い指(05)
日期:2017-02-02 14:37  点击:406
(05)
 階段を下りると、ダイニングルームではなく、廊下を挟んだ向かい側の和室に入った。昭夫が帰宅した時、八重子が出てきた部屋だ。テレビと座卓と小さな茶箪笥《ちゃだんす 》があるだけの殺風景で狭い部屋だが、彼が唯一落ち着ける場所だった。八重子もここで気持ちを静めようとしていたのだろう。
 畳に両膝をつき、座卓に片手を載せた。あの死体をもう少しよく見ておかねばと思うが、鉛《なまり》の鎧《よろい》を着たように全身が重かった。ため息も出ない。
 直巳の喚き声は聞こえてこなかった。八重子がうまく話を引き出しているのだろうか。
 いつもの調子で、まるで幼児の機嫌をとるように話かけているに違いなかった。直巳は小さい頃から癇癪《かんしゃく》持ちだったので、いつの間にかそれが八重子のスタイルになってしまったのだ。昭夫は気に食わなかったが、子育ての大半を彼女に任せてきた以上、うるさいことはいえなかった。
 それにしても一体何があったのか。
 だが全く想像がつかないわけではなかった。直巳がしたことを、昭夫は漠然と思い描くことができた。二ヵ月ほど前に、八重子からある詰を聞かされていたからだ。
 その日の夕方、彼女が買い物から帰ると、庭からダイニングルームへの上がり口で、直巳が近所の女の子と並んで座っていたという。彼はコップを持っていて、女の子に何かを飲ませようとしているところだった。だが八重子を見ると直巳はコップの中身を庭に捨て、女の子を帰した。それだけならば問題はない。だが後で八重子が調べてみると、日本酒の瓶を触った形跡があった。
 女の子を酔わせて、悪戯《いたずら》しようとしていたのではないか、と彼女はいうのだった。
 まさか、と昭夫は笑ってみせた。冗談として聞き流したかった。しかしそんな彼に八重子は真剣な目をして訴えたのだった。直巳には幼女趣味があるのではないか、と。
「家の前の道を小さな子が通りかかったりすると、じっと見てたりするのよ。それに、この前のお葬式の時、直巳はやたら絵理香《え り か 》ちゃんのそばに行きたがってたでしょう? 相手は小学校に上がったばかりの女の子よ。変だと思わない?」
 たしかにそれらの話には、直巳の異常性を感じさせるものがあった。だが昭夫には何ら対策が思いつかなかった。というより、思考が空回りしていたというべきかもしれない。思いもかけなかったことを知らされて、彼自身が混乱していたのだ。何とかしなければという思いより、そんなことは勘違いであってほしいと願う気持ちのほうが強かった。
「とりあえず、様子を見るしかないかな」考えた末に出した答えがそれだった。
 八重子がこの答えに満足しているはずはなかった。それでもしばらく沈黙した後、そうねと呟いた。
 その日以後、昭夫は、なるべく息子の様子を窺《うかが》ってみることにした。しかし彼が見るかぎり、直巳に幼女趣味のようなものがあるとは思えなかった。もっとも、彼は息子のすべてを見ているとはとてもいえなかった。そもそも顔を合わせることが極《きわ》めて少ないのだ。昭夫が家を出る時には直巳はまだ布団の中だし、会社から帰った時にはすでに部屋に籠《こ》もっている。土曜か日曜の食事時だけが、空間を共有する数少ない時間だった。その時にしても直巳は極力父親の顔を見ないようにし、やむをえず話をしなければならない時でも、最小限以下の言葉で済ませようとした。
 直巳がいつからあんなふうになったのか、昭夫は正確には把握していない。多少感情の起伏が激しくはあったが、小学生の時は親のいうこともきいたし、叱れば改める素直さもあった。ところがいつからか、昭夫には手に負えない存在になってしまった。何か注意してもまるで無反応であり、それに苛立ってさらに叱りつけたりすると、今度は逆上して暴れだすという有様だった。
 昭夫は息子と接触する機会を減らそうとした。いずれは反抗期も過ぎるに違いないと、自分に都合よく期待していた。
 あの時にしても、一人息子に異変が生じているならば何とか早めに芽を摘み取ろう、などという積極性はなかった。むしろ、仮に何らかの問題が発生していたとしても、自分の目の前でだけはその気配を感じさせないでくれと願っていた。
 あそこで何か手を打っておけば、と昭夫は空《むな》しい後悔をする。しかし、どんな対策を講じればよかったのだろう。
 みしり、と木の軋《きし》む音がした。八重子が階段を下りてくるところだった。口を半開きにし、じっと昭夫を凝視《ぎょうし》しながら部屋に入ってきた。
 彼女は座り込むと、ふうーっと息を吐いた。その顔には幾分赤みがさしていた。
「聞いたのか」昭夫はいった。
 八重子は夫に横顔を見せたまま頷いた。
「何といってる」
 唇を開く前に、八重子は唾を飲んだ。
「首を、絞めたって」
 昭夫は思わず目をつぶった。わかっていたことではあるが、万に一つ、何かの間違いであることを夢想していたのだ。
「どこの子だ」
 彼女は首を振った。
「知らないといってるわ」
「じゃあ、どこから連れてきたんだ」
「道で会っただけで、自分が連れてきたんじゃなく、勝手についてきたんだって」
「馬鹿な。そんな話を信じたのか」
「信じられないけど……」彼女は後の言葉を呑み込んだ。
 昭夫は拳《こぶし》を固め、座卓を叩いた。
 直巳は街をぶらつきながら、適当な獲物を探していたのかもしれない。あるいは、彼の好みの少女を見つけた途端、胸の中に巣くっていた魔性の何かが目覚めたのかもしれない。いずれにしても、彼のほうから近づいたに違いなかった。少女の親は、知らない人間には絶対についていくなと日頃から厳しくいっていたと思われるからだ。幼い子供が襲われることの多い昨今、どの親も神経を尖《とが》らせている。
 だがまさか自分の息子が襲う側の人間になろうとは──。
 直巳が言葉巧みに少女の心を掴もうとしている様子を昭夫は想像した。自分の好きな相手に対する時や、自分の我《わ》が儘《まま》をきいてもらおうとする時、彼が驚くほど優しい物言いをすることを昭夫は知っていた。
「なぜ首を絞めたんだ」
「一緒に遊ぼうと思ったのに女の子がいうことをきかないから、脅かすつもりで絞めたっていってるわ。死なせる気なんかなかったって」
「遊ぶって……中学生が小さい女の子と一体どんな遊びをするつもりだったんだ」
「知らないわよ、そんなこと」
「訊かなかったのか」
 八重子は黙っている。訊けるわけがないとその横顔は語っていた。
 昭夫は妻を睨みつけながら、訊く必要もないのかもしれないと思った。テレビのニュース番組でしばしば耳にする、「幼い少女に悪戯しようとして」というフレーズを思い出していた。その「悪戯」の内容について詳しく考えたことはなかった。今、こういう局面になっても、考えたくはなかった。
 しかし、「脅すつもりで」というのが、たぶん事実と違うことは想像がついた。本性を剥き出しにした直巳の前で、女の子は抵抗し、騒いだのだ。それを防ぐため、彼は少女の首に手をかけた。手加減などしなかったから、少女は動かなくなったのだ。
「どこで殺したんだ」
「ダイニング……」
「あんなところで?」
「一緒にジュースを飲もうとしたって」
 そのジュースに酒か何かを仕込むつもりだったのだろう、と昭夫は推測した。
「殺した後、どうしたっていってる」
「女の子がおしっこを漏らしてたから、床が汚れると思って、庭に転がしたって」
 それでダイニングルームに異臭が漂っていたらしい。
「……それから?」
「それだけよ」
「それだけ?」
「どうしていいかわからず、部屋に戻ったといってるわ」
 昭夫は目眩《めまい》を覚えた。このまま気を失えればどれほど楽かと思った。小さな子供を殺しておいて、気にしたことは床が汚れることだけだったとは──。
 だが直巳の頭の中が全くわからないわけではなかった。むしろその時の彼の心境は、昭夫には手に取るように推測できた。直巳は面倒なことになったと思い、その面倒から逃れるために部屋に籠もったのだ。先々のことなど考えているはずがない。とにかく女の子の死体をああしておけば、父や母が何とかするだろうと思ったのだ。
 茶箪笥の上に電話の子機が置いてある。昭夫はそれに手を伸ばした。
「何するのっ」八重子が声を上げた。
「警察に電話する」
「あなた……」
 電話を持つ昭夫の腕に彼女はしがみついてきた。その手を彼はふりほどいた。
「仕方がないだろう。もう取り返しがつかないんだよ。あれじゃあどう見たって、女の子は生き返らない」
「でも、だって、直巳が」八重子は諦めずに取りすがってきた。「あの子の将来はどうなるの? 人殺しってことで、一生生きてかなきゃならないのよ」
「しょうがないじゃないか。やってしまったんだから」
「あなたはそれでいいの?」
「よくはない。だけどほかにどういう方法があるっていうんだ。自首させれば、まだ未成年だし、更生するチャンスだって与えられる。名前も公表されない」
「そんなこと嘘よっ」彼女は険しい目をした。「新聞とかには名前は出ないかもしれないけど、このことは一生ついてまわるのよ。あの子がまともな人生を送れるとは思えない。きっと、ひどいことになるわ。めちゃくちゃになっちゃうわ」
 もうすでに俺の人生はひどいし、めちゃくちゃだよと昭夫はいいたかった。だがそれを口にする気力もなく、彼は子機のボタンを押そうとした。
「あっ、やめて」
「諦めろ」
 むしゃぶりついてくる八重子の胸を、昭夫はどんとひと突きした。彼女は後ろに倒れ、茶箪笥に肩をぶつけた。
「もう、おしまいなんだよ」昭夫はいった。
 八重子は放心した顔で夫を見返すと、茶箪笥の引き出しを開けた。そのまま手探りで何かを取り出してきた。それが先の尖った鋏《はさみ》であることに気づき、昭夫は息を呑んだ。
「何をする気だ」
 彼女は鋏を握りしめ、その先端を自分の喉元に当てた。
「お願い。電話しないで」
「馬鹿なことをするな。気でも狂ったのか」
 鋏を構えたまま、彼女は激しくかぶりを振った。
「脅かしでやってるんじゃないわよ。本当に死ぬ気なんだから。あの子を警察に渡すくらいなら、このまま死んだほうがまし。後のことはあなたに全部任せる」
「やめろ、鋏をはなせ」
 しかし八重子は歯を食いしばったままで、姿勢を変えなかった。
 まるで安手のドラマじゃないか、と昭夫はふと思った。人殺しなどという深刻な事態が絡《から》んでいなければ、あまりに芝居がかった態度に失笑を漏らしていたかもしれない。まさかこの局面で彼女が自分に陶酔しているとは思えなかったが、これまでに目にしてきたテレビドラマや小説が、彼女にこうした行動を思いつかせたことは間違いなさそうだった。
 八重子が本当に死ぬ気なのかどうか、昭夫は見極められなかった。仮に現時点では本気でなくても、それを見破られたことで逆上し、衝動的に喉を突いてしまうことは避けねばならない。
「わかった。俺は電話を置くから、おまえも鋏を離せ」
「いや。あたしがこれを離したら、電話する気でしょう」
「しないといってるだろ」昭夫は子機を元の場所に戻した。
 だが信用できないのか、八重子は鋏を置こうとしない。疑念のこもった目を夫に向けてくる。昭夫は吐息をつき、畳の上に胡座をかいた。
「どうする気なんだ。このままじゃ済まないぞ」
 しかし八重子は答えない。このままではどうしようもないことは彼女にもわかっているはずだった。少女の家も騒ぎ出しているだろう。
 そう思った時、駅前にいた男性のことが蘇《よみがえ》った。
「女の子の服、見たか?」昭夫は訊いた。
「服?」
「ピンクのトレーナーを着てなかったか」
 ああ、と声を漏らしてから、八重子は小さく首を振った。
「トレーナーかどうかはわからないけど、ピンク色だった。それがどうかしたの?」
 昭夫は髪に手を突っ込み、頭をがりがりと掻いた。そして駅前で見たことを八重子に話した。
「あれはたぶん父親だろう。あの様子からすると、早々に警察にだって届けてるかもしれない。おまわりがこのあたりを見回りに来たら、すぐに見つかっちまう。どの道、逃げられないんだ」それにしても、と彼は続けた。「あの人が探してた女の子が、うちにいるとはな。しかもあんな姿で……」
 顔はよく見ていないが、くず餅の売り子に尋ねていた男性の背中には、必死の思いが漂っていた。今日まで娘を大事に育ててきたに違いない。そんなことを思うと、あまりの申し訳なさに胸がつぶされそうだった。
 八重子は鋏を両手で握りしめたままだった。その格好で何か呟いた。声が小さくて聞こえなかった。
「えっ、何だって?」昭夫は訊いた。
 彼女は顔を上げていった。「捨ててきて」
「えっ……」
「あれを」唾を飲み込み、続けた。「どこかに捨ててきて。あたしも手伝うから」
 お願いします、と最後に頭を下げた。
 昭夫は大きく息を吐き出した。
「おまえ、それ、本気でいってるのか」
 八重子は頭を下げたまま動かない。彼が同意するまでは、石になっているつもりのようだった。
 昭夫は呻《うめ》いた。呻き声の後に、「無茶だよ、それは」と続けた。
 八重子の背中が小刻みに震えていた。しかし顔を上げようとはしない。
 無茶だ──昭夫は口の中で繰り返した。だがそう呟きながら、彼女のこの提案をじつは自分も待っていたことを自覚していた。そのことはずっと頭の隅にこびりついていたが、敢《あ》えて目をそらし、考えまいとしてきたのだ。考え始めれば、たやすくその誘惑に負けてしまいそうで怖かった。
 そんなことはできるわけがない、うまくいくはずがない、かえって自分たちを追い込むだけだ──理性的な反論が頭の中を駆け巡っていた。
「どうせ」八重子が俯《うつむ》いたままでいった。「どうせ、あたしたちはおしまいよ。あの子を自首させたところで、もうまともに生きていくことなんてできやしない。あたしたちはあの子をあんなふうに育てた罪を償わされる。自首させたって、誰もあたしたちを許してなんかくれない。あたしたちは何もかも失うのよ」
 読経《どきょう》のように抑揚のない口調だった。混乱が極限に達しているから、感情を込めることさえできないのだろう。
 しかし彼女のいうことは事実かもしれなかった。いやおそらくそのとおりだろうと昭夫も思った。たとえ直巳に自首させたところで、自分たちが人から少しでも同情される余地など全くない。殺された女の子には何の罪もないのだ。
「捨てるといったって、そんなこと、無理だろ」昭夫はいった。この台詞が重大な一歩だということはわかっていた。無理という一言は、拒絶とは違うのだ。
「どうして?」彼女は訊いてきた。
「どうやって運ぶんだ。遠くになんて行けないぞ」
 昭夫は運転免許証を持っていたが、車を所持していなかった。古いこの家に駐車スペースがなかったからというのが主な理由だ。また、八重子はともかく昭夫は、マイカーの必要性をさほど感じたことがなかった。
「だったら、どこかに隠すとか……」
「隠す? この家のどこかに隠せっていうのか」
「一時的によ。その後、じっくりと処分すれば……」
 八重子の言葉の途中から昭夫は首を振り始めていた。
「だめだ。やっぱりだめだ。あの女の子と直巳が一緒にいるところを、誰かに見られてるかもしれないじゃないか。もしそうだったら、警察はすぐにうちに来る。家の中だって調べられるだろう。死体が見つかったら、どうにも言い訳できない」
 昭夫は再び茶箪笥の上の電話機に目を向けた。無意味な議論をしているような気がしていた。警察がここへ来るからには、死体がどこで見つかろうと同じだと思った。彼等の疑念を払拭《ふっしょく》させられる自信などまるでなかった。
「今夜中に移せば、何とかなるかもしれない」八重子が口を開いた。
「えっ……」
 彼女が顔を上げた。
「遠くじゃなくてもいいから、どこか別のところに移せば……別のところで殺されたように見せかけて」
「別のところって?」
「それは……」八重子は答えを出せぬまま項垂《うなだ 》れた。
 その時、昭夫の背後でかすかに衣擦《きぬず 》れの音がした。彼はぎくりとして振り返った。
 廊下に落ちた影が動いていた。政恵が起きてきたらしい。調子の狂った鼻歌が聞こえる。昔の童謡らしいが、昭夫は題名を知らない。トイレのドアが開き、中に入っていく気配がした。
「こんな時に」顔を歪め、八重子が呟いた。
 昭夫たちが沈黙する中、間もなくトイレの水が流された。ドアの開閉する音。そして素足で廊下を歩く、ひたひたという音が、遠ざかっていく。
 水の流れる音は続いていた。奥の間の襖が閉じられると同時に八重子は立ち上がった。廊下に出て、トイレのドアを開ける。水の音は止まった。手洗い用の蛇口が開けっ放しになっていたのだろう。いつものことだ。
 ばんと大きな音をたて、八重子はトイレのドアを閉めた。昭夫はぎくりとした。
 彼女は壁にもたれ、そのまま崩れるように廊下にしゃがみこんだ。両手で顔を覆い、吐息をついた。
「もう最悪。死んじゃいたい」
 俺のせいなのか──喉元まで出かかったその言葉を昭夫は呑み込んだ。
 彼は赤茶色に変色した畳に目を落とした。その畳が青かった頃のことを覚えていた。彼はまだ高校を出たばかりだった。親父はあんなに一生懸命に働いて、この程度の家しか建てられないのか。そんなふうに父親を内心で罵《ののし》っていた。
 しかし、と昭夫は思う。自分は果たして何をしてきただろう。馬鹿にした小さな家に戻ってきて、まともな家庭さえも築けないでいる。それだけならまだしも、他人の家庭まで不幸にしてしまった。その要因を作り出してしまった。
「公園はどうかな」彼はいった。
「公園?」
「そこの銀杏《いちょう》公園だ」
「あそこに死体を?」
「うん」
「放り出しておくの?」
「いや」彼は首を一度振った。「公衆トイレがあっただろう。あそこの個室に隠しておこうかと思う」
「トイレに……」
「それなら、うまくすれば発見が遅れるかもしれない」
「そうね。いいかもしれない」八重子が四つん這《ば》いで部屋に入ってきた。彼の顔を覗き込んできた。「いつ、運ぶ?」
「夜中だ。二時頃……かな」
 昭夫は茶箪笥の上の時計を見た。まだ八時半を少し過ぎたところだった。
 押入から畳んだ段ボール箱を引っ張りだした。三ヵ月前に乾燥機を買った時のものだ。電器屋が取り付けに来た時、箱は置いていってくれと頼んだ。余った座布団を入れておくのにちょうどいいと八重子がいったからだ。結局、箱は使わなかったのだが、こんなことに役立つとは、その時の昭夫は夢にも思わなかった。
 彼はそれを持って、庭に降り立った。箱を組み立ててから、黒いビニール袋をかぶせたままの、少女の死体の横に置いた。見たところでは、うまく入りそうに思えた。
 昭夫は段ボール箱を再び畳み、部屋に戻った。八重子はダイニングチェアに腰掛け、両手で顔を抱えている。乱れた髪が落ちて、顔はよく見えない。
「どうだった?」その姿勢のまま、彼女が訊いてきた。
「うん……入りそうだ」
「入れてないの?」
「だって、まだ時間が早いだろう。庭でごそごそしていて、誰かに見られたりしたらまずいじゃないか」
 八重子の首が少し動いた。時計を見たらしい。そうね、とかすれた声で答えた。
 昭夫は喉が渇いていた。ビールを飲みたいと思った。いや、もっと強い酒でもいい。少し酔って、今の重苦しさから解放されたかった。だが無論、今酔うわけにはいかない。これから重大な仕事をしなければならないのだ。
 彼は煙草に火をつけた。たて続けに煙を吸い込んだ。
「直巳は何をしてるんだ」
 八重子は小さく頭を振った。わからない、という意味だろう。
「部屋へ行って、様子を見てきたらどうだ」
 八重子はふうーっと長いため息をつき、ようやく顔を上げた。目の周囲が真っ赤だった。
「今はそっとしておきましょうよ」
「だけど、もっといろいろと話を聞かないと。詳しいことを」
「何を訊くのよ」妻は顔を歪めた。
「だから、女の子と一緒のところを誰かに見られなかったかとか、そういうことだ」
「そんなこと、今さら訊いたってしょうがないじゃない」
「なんでだ。さっきもいっただろう。誰かに見られてたら、そんなことはすぐに警察に伝わるぞ。刑事が来て、直巳に問い質すことになる。それからあわてても遅いだろうが」
「刑事が来ても」八重子は黒目だけを斜め下に向けた。「あの子には会わせない」
「そんなことが通ると思ってるのか。余計怪しまれるだけだ」
「じゃあ、何も知らないっていわせる。女の子のことなんか知らないといい張れば、刑事だってそれ以上は何もできないでしょ」
「そんな簡単にいくもんか。もし目撃者が、直巳に間違いなかったと主張したらどうなる。警察は簡単に引き下がったりしないぞ。それどころか、直巳が女の子といる時に、誰かに声をかけられてたらどうする。声をかけられて、返事でもしてたらどうだ。言い逃れできないぞ」
「そんなふうに、もし、なんていう架空の話ばっかりしてたって意味ないじゃない」
「だからあいつにきちんと話をさせろといってるんだ。誰かに会わなかったかどうかだけでもはっきりさせないと」
 昭夫の話がもっともだと思ったのか、八重子は口をつぐんだ。無表情になり、ゆっくりと立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
「二階よ。直巳に訊いてくる。誰かに会わなかったかって」
「本人にここでしゃべらせろ」
「そんなことしなくたっていいでしょ。あの子だってショックを受けてるんだから」
「それなら余計に──」
 昭夫が話すのを無視し、八重子はダイニングルームから出ていった。スリッパをひきずる音をたてながら廊下を歩く。だが階段を上がり始めると、音は急に小さくなった。直巳を刺激しないように配慮しているらしい。どこまで息子の顔色を窺ったら気が済むんだ、と昭夫は忌々《いまいま》しく思った。
 煙草の火をひねり潰すように消し、乱暴に立ち上がると、冷蔵庫の扉を開けた。缶ビールを取り出すと、立ったまま飲み始めた。
 足元にスーパーの袋が置いてあった。八重子はスーパーから帰ってきて、少女の死体を見つけたのだろう。動転して、買ってきたものを冷蔵庫に入れるのも忘れたようだ。
 袋には野菜と挽肉が入っていた。またハンバーグを作るつもりだったらしい。直巳の好物だ。そのほかにパック入りの惣菜が人っていた。野菜の煮物だ。八重子はここ何ヵ月も、夫のためには料理をしていない。
 足音が聞こえてきた。ドアを開け、八重子が入ってきた。
「どうだった」昭夫は訊いた。
「誰にも会ってないって」彼女は椅子に座った。「だから、もし刑事が来て何か訊かれても、僕は何も知りませんって答えるようにいっておいたわ」
 昭夫はビールをぐびりと飲んだ。
「刑事が来るってことは、何か根拠があるからだ。それなのに、何も知りませんで通用するわけがないだろ」
「通用しなくても、とにかく何も知らないといい張らせるしかないじゃない」
 昭夫は、ふんと鼻を鳴らした。
「あいつにそんなことができると思うか」
「そんなことって?」
「刑事相手に嘘をつき続けることだよ。刑事ってのは、ふつうの人間じゃないんだぞ。人殺しを何人も見てきて、そんな連中を取り調べてきた人間だ。そんな奴らに睨まれたら、直巳なんか、一発でびびっちまうよ。俺たち相手には強がるが、あいつは本当はいくじのない弱虫なんだ。おまえだってわかってるだろ」
 八重子は答えない。夫のいうとおりだと思っているのだろう。
「あんなふうになったのは、おまえが甘やかすからだ」
「あたしのせいだっていうの?」八重子は目を剥いた。
「おまえが何でもいいなりになるから、堪《こら》え性《しょう》ってものがまるでなくなったんじゃないか」
「よくいうわね。あなたなんか何もしないで、面倒なことからはいつだって逃げるくせに」
「俺がいつ逃げた」
「逃げたじゃないの。六年生の時のこと、覚えてる?」
「六年生?」
「ほら、もう忘れてる。いじめに遭ってた時よ。あなた、直巳を叱ったわよね。男の子なら黙ってないでやり返せとかいって。学校に行きたくないという直巳を、無理やり引っ張っていったでしょ。あたしはやめてっていったのに」
「あいつのためだと思ったからだ」
「違う。あなたは逃げただけよ。あんなことしたって、何の解決にもならなかった。直巳はね、あの後もずっといじめられてたのよ。先生がいじめグループに注意したから、それまでみたいに暴力は受けなかったけど、卒業までずっとクラスでは仲間はずれ、誰も口をきいてくれないし、無視され続けてたの」
 初めて聞く話だった。直巳が学校に通うようになっていたから、いじめは解消されたのだと思っていた。
「どうして俺にいわなかった」
「直巳がいわないでくれっていったからよ。あたしも話さないほうがいいと思った。だってあなた、どうせあの子を叱るだけだもの。あなたにとっては、家族なんて面倒くさいだけなんでしょ」
「何いってるんだ」
「そうじゃないの。特にあの頃は、どっかの女に夢中で、家のことなんかほったらかしだったくせに」八重子は昭夫を恨めしそうに睨んだ。
「まだそんなこといってるのか」昭夫は舌打ちをした。
「いいわよ。女のことはもういいわよ。あたしがいいたいのは、外で何をやってようと、家のことぐらいはきちんとしてってこと。あなたはあの子のこと、何もわかっちゃいない。この際だからいうけど、今だってあの子は学校ではひとりぼっちなのよ。小学校時代のいじめグループが昔のことをいいふらすから、誰も友達になろうとしない。そんなあの子の気持ちを考えたことがある?」
 八重子の目に、再び涙が溜まってきた。悲しみのほかに、悔しさも混じっているのかもしれない。
 昭夫は目をそらした。
「もういいよ。やめよう」
 自分からいいだしたくせに、と八重子は呟いた。
 昭夫はビールを飲み干し、空き缶を握りつぶした。
「警察が来ないことを祈るしかないな。万一警察が来たら……おしまいかもしれないな。その時には、諦めよう」
「いやよ」八重子はかぶりを振った。「絶対にいや」
「だけど、どうしようもないだろ。俺たちに何ができるっていうんだ」
 すると八重子は背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を向いていった。
「あたしが自首する」
「えっ?」
「あたしが殺したっていうわよ。そうすれば、直巳は捕まらなくても済む」
「馬鹿なこというなよ」
「じゃあ、あなたが自首してくれるっていうの?」大きく目を見開き、八重子は夫の顔を見つめた。「嫌でしょ? だったら、あたしが自首するしかないじゃない」
 昭夫は舌打ちをし、激しく頭を掻いた。頭痛がし始めていた。
「俺やおまえが、どうして小さい女の子を殺すんだ。理由がないじゃないか」
「そんなの、これから考えるわよ」
「じゃあ、いつ殺したっていうんだ。おまえはパートに出てたんだろ。俺にしたってそうだ。いわゆるアリバイってものが、俺やおまえにはあるんだよ」
「パートから帰って、すぐに殺したっていう」
「無駄だ。解剖とかで、殺された時間なんてものはかなり正確にわかるんだぞ」
「そんなの知らない。とにかくあたしが身代わりになる」
 馬鹿なこというな、と昭夫はもう一度いった。そしてつぶした空き缶をそばのゴミ箱に放り込んだ。
 その時ふと、ある考えが彼の脳裏を横切った。それは彼の心をひきつけるものだった。数秒間、その考えを頭の中で転がした。
「何よ、今度は何がいいたいの?」八重子が訊いてきた。
「いや、何でもない」昭夫は首を振った。同時に、たった今生じたアイデアを振り払おうとした。それについては今後一切考えまいとした。考えること自体がおぞましく、思いついた自分自身を嫌悪しなければならないほど、そのアイデアは邪悪なものだったからだ。
 

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