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赤い指(09)
日期:2017-02-02 14:40  点击:377
(09)
 
 現場に向かうタクシーの中で、松宮は少し緊張していた。捜査一課に配嘱されてから、本格的な殺人事件に関わるのはこれがまだ二度目だった。しかも前回の主婦殺害事件では、先輩刑事の後について回っただけで、捜査に携わったという実感も満足感も得られなかった。今回こそは少しは実のある仕事をしたい、と意気込んでいた。
「子供ってのが参るよな」横に座っている坂上《さかがみ》がうんざりしたような声を出した。
「辛いですよね。親もショックだろうし」
「そういうのはもちろんあるよ。だけど俺がいってるのは仕事のことだ。こういうのは案外捜査が難しかったりするんだ。大人が殺された場合だと、被害者の人間関係を洗っていくうちに、動機とか容疑者とかが浮かんでくるってこともあるだろ。だけど子供の場合、そういうことはまず期待できねえからな。噂になるような変質者が近所に住んでて、そいつが犯人だっていうんなら話は早いけどさ」
「じゃあ、流しの犯行ってことですか」
「そうはいいきれねえよ。前々から狙ってたってこともありうる。とにかく頭のいかれた野郎だってことはたしかだ。ただ問題なのは、どこのどいつの頭がいかれてるかは、表からじゃあなかなかわからないってことだ。それでも大人なら、そんなやつが近づいてきたら何となくわかるけど、子供の場合はそうはいかねえ。優しい素振りをして近寄ってきたら、ころっとだまされちまうからなあ」
 坂上は三十代半ばだが、捜査一課に配属されてから十年以上になる。これまでにも似たような事件を担当したことがあるのだろう。
「所轄は練馬署か……」坂上がぽつりといった。「最近、署長が代わったばっかりだ。張り切ってるぜ、きっと」ふんと鼻を鳴らした。
 練馬署と聞き、松宮は密《ひそ》かに深呼吸した。彼を緊張させているのは、事件を前にしてのプレッシャーだけではなかった。それが練馬署管内で起きたことも、じつは気にかかっていた。練馬署の刑事課には、彼と関わりの深いある人物がいる。
 隆正の黄色い顔が頭に浮かんだ。彼を見舞ったのはほんの数日前だ。それなのにこんな事態になるというのは、何か見えない力が働いているように思えてならなかった。
 タクシーは住宅地の中へと入っていった。きちんと区画整理がなされていて、定規で引いたように真っ直ぐな道路に沿って、雰囲気の似た住居が並んでいる。生活水準は中の上といったところかなと松宮は想像した。
 前方に人だかりが出来ていた。パトカーが何台か止まっている。その先では制服警官が、通行しようとする車を迂回させていた。
 ここでいい、と坂上は運転手にいった。
 タクシーを降り、松宮は坂上と共に野次馬をかきわけるように前に進んだ。見張りの警官に挨拶し、立ち入り禁止区域内に足を踏み入れた。
 現場は銀杏公園という施設内にある公衆トイレだと松宮は聞いていた。ただし殺人現場かどうかはさだかではない。死体がそこで見つかったというだけのことだ。つまり最初は死体遺棄事件だった。だが死体に明らかな他殺の痕跡があるということで、殺人事件の可能性が高いと判断されたのだ。
 銀杏公園に接する道路から内側が立ち入り禁止区域に設定されていた。公園に近づいていくと、その入り口付近に知っている顔があった。小林《こばやし》というベテラン主任だった。しかし係長である石垣《いしがき》の姿は見えない。
「早いですね」坂上が小林にいった。
「俺もさっき着いたところだ。まだ中を見てない。所轄から大体の話を聞いたところだ」小林は煙草を右手に挟んだままいった。左手には携帯用の灰皿が握られている。松宮の所属する捜査五係では、最近になって何人かが煙草をやめた。しかし小林は禁煙の話題すら嫌うほどのヘビースモーカーだ。
「死体を見つけたのは?」坂上が訊く。
「近所の爺さんらしい。早起きして、公園で煙草を吸うのが楽しみなんだってさ。健康的なんだか不健康なんだかわからんな。で、老人だから小便が近い。公衆便所に入ったところ、個室のドアが妙な具合に半開きになっていたので覗いたら、女の子の死体が捨てられていたというわけだ。爺さんも、朝っぱらからどえらいものを見つけちまったもんだ。寿命が縮まらなきゃいいがな」話をしながら毒舌を吐くのは小林の癖だ。
「遺体の身元はわかっているんですか?」さらに坂上が訊いた。
「今、所轄のほうで遺族と思われる人に確認しているはずだ。鑑識の話だと、死後十時間ぐらいは経っているらしい。機捜と所轄が動いてくれているが、犯人がまだ近くに潜《ひそ》んでいるとは思えないな」
 小林の話を聞きながら、松宮は公園内に目を向けた。ブランコや滑り台といった一般的な遊戯施設は端のほうにあり、中央部はドッジボール程度ならできそうなスペースにしてある。鑑識課員たちが隅の植え込みの中で何か探しているのが見えた。
「公園にはまだ入るな」松宮の視線に気づいたらしく、小林がいった。「探し物があるそうだから」
「凶器ですか」松宮は訊いてみた。
「いや、凶器はたぶん使われていない。これだよ」小林は指に煙草を挟んだ手で、自分の首を絞めるしぐさをした。
「じゃあ、何を探しているんですか」
「ビニール袋とか段ボール箱とか、まあそういったものだ。死体を入れていたものだよ」
「現場はここではなくて、どこかから運ばれてきたっていうわけですか」
 松宮の質問に、小林は表情を変えずに小さく頷く。
「たぶんそうだろう」
「悪戯が目的で女の子をトイレに連れ込んで、騒がれたから殺した……っていう可能性はないんですか」
 すると隣で坂上がふっと吐息をついた。
「誰が入ってくるかわからない公衆トイレで悪戯しようなんていうことは、変質者だってあんまり考えないと思うぜ」
「でも夜中なら……」
「夜中に子供が一人でうろうろしていると思うか。それまでに拉致していたのだとしたら、もっと別の場所に連れていくだろ、ふつうは」
 それもそうかと思い、松宮は黙り込んだ。小林や坂上は、事件の概要を聞いた時点で、ここが殺害現場ではないことに気づいていたようだ。
「おっ、所轄さんだ」小林が煙を吐きながら松宮たちの後方を顎でしゃくった。
 松宮が振り返ると、グレーの背広を着た男が近づいてくるところだった。髪を奇麗《き れい》に分けているせいか、刑事というよりも生真面目な会社員といった雰囲気がある。
 所轄の刑事は牧村《まきむら》と名乗った。
「被害者の身元確認、どうなりました?」小林が牧村に訊く。
 牧村は眉間に皺を寄せた。
「どうやら間違いないようです。母親のほうは話を聞ける状態ではありませんが、父親は、一刻も早く話をすることが捜査に役立つなら、といってくれています」
「昨日の夜から捜索願いが出ていたと聞きましたが」
「夜八時過ぎに両親が練馬署に来ています。バス通りの向こうに住んでいて、父親は会社員です」牧村は手帳を開いた。「女の子の名前はカスガイユウナ。季節の春に、日曜の日、井戸の井、優しいに、菜の花の菜です」
 松宮も自分の手帳を取り出し、春日井優菜、と記した。
 牧村は両親の名前もいった。父親は春日井|忠彦《ただひこ》、母親は奈津子《な つ こ 》というらしい。
「被害者は小学校の二年生です。学校は、ここから徒歩約十分のところにあります。昨日の午後四時頃、一旦自宅に帰ったそうです。その後、母親の知らないうちに外出し、消息を絶ったというわけです。届けが出された後、手の空いていた警官が中心になって、自宅や学校周辺から駅付近までを探したそうですが、見つからなかったそうです。ただ、午後五時頃、バス通り沿いのアイスクリーム屋で、被害者と年格好の似た女の子がアイスクリームを買ったという情報があります。残念ながら店員は、優菜ちゃんの写真を見ても、同一人物とは断言できなかったようですが」
「アイスクリームねえ」小林が呟いた。
「その女の子はアイスクリーム一個を買ったということです、女の子に連れはいなかったそうです」
「アイスクリームを食べたくて、家を出たのかな」小林が誰にともなくいう。
「その可能性はあります。行動的な女の子らしく、勝手にどこへでも行ってしまうことがしばしばあったそうです」
 小林は頷いてから、「父親の話は聞けるんだね」と牧村に確認した。
「現在、ここの町内の集会所を借りて、そこで待機していただいています。いまお話ししたことなども、そこで聞きました。お会いになりますか」
「係長がまだ来ないけど、先に話を聞いておきたいですな。──おまえたちも一緒に来てくれ」小林は松宮たちにいった。
 殺人事件が起きると、所轄の刑事や機動捜査隊の捜査員が初動捜査にあたる。遺族から話を聞くのもその一環だ。だが捜査一課が捜査を引き継ぐ以上、改めて話を聞き直すことになる。遺族としては何度も同じ話をさせられるわけで、前回の事件でも松宮はそのことをひどく気の毒に感じた。またあの憂鬱な手順を踏むのかと思うと気持ちが暗くなった。
 牧村が案内してくれた集会所は、二階建てアパートの一階にあった。近くに住んでいる大家が、格安で提供しているという話だった。築年数は二十年以上ありそうで、外壁にはひび割れが入っていた。借り手がつかないまま放置しておくより、町内に貸したほうが得だと考えたのかもしれない。
 ドアを開けるとかすかにカビの臭いがした。入ってすぐに和室があり、薄いブルーのセーターを着た男性があぐらをかいて座っていた。片手で顔を覆い、深く首を項垂れていた。人が入ってきたことに気づいていないはずはなかったが、石のように動かない。動けないのだ、と松宮は察した。
「春日井さん」
 牧村に声をかけられ、春日井忠彦はようやく顔を上げた。頬は青白く、目は落ち窪んでいる。やや薄くなりかけた前頭部が脂で光っていた。
「こちら、警視庁捜査一課の方々です。申し訳ないんですが、もう一度詳しい話をしていただけますか」
 春日井は虚ろな目を松宮たちに向けた。目の周囲には涙の跡があった。
「そりゃあ、何度でも話しますけど……」
「申し訳ありません」小林が頭を下げた。「一刻も早く犯人を捕まえるためには、やはり我々も御両親から直《じか》にお話を伺っておいたほうがいいと思いますから」
「どういったことから話せばいいですか」懸命に悲しみを堪えているのだろう、呻くような声になった。
「捜索願いを昨夜の八時頃に出されたそうですが、お嬢さんがいなくなっていることに気づいたのはいつですか」
「妻の話では六時頃だということです。食事の支度をしていて、いつ優菜が出ていったのかは全くわからないということでした。私が会社から帰る途中、ケータイに電諸がかかってきました。優菜がいないんだけど、もしかしたら駅のほうに行ってるかもしれないから、気をつけておいてくれって。去年、一度だけそういうことがありました。優菜が一人で私を迎えに来てくれたんです。その時、危ないから一人でそういうことをしてはいけないといって聞かせ、それ以後はそういうことはなかったんですが……」
 ここからだと駅まで徒歩で三十分近くかかる。幼い娘が父親を喜ばせようとして小さな冒険をしたのだろう。ありそうなことだと松宮は思った。
「その時点では、奥さんはそれほど心配しておられなかったのですか」
 小林の質問に春日井は首を振った。
「いえ、もちろん心配そうでした。私も落ち着きませんでした。ただ妻としては、自分が駅に探しに行ったのでは、万一優菜が帰ってきた時に家に入れなくなると思い、動くに動けなかったようです」
 この言葉から、どうやら彼等は三人家族らしいと松宮は理解した。
「私が家に着いたのが六時半頃です。まだ優菜が帰っていないと知り、さすがに不安になりました。それで近所の人に家の鍵を預けて、妻と二人で思いつくかぎりのところを探し回りました。駅前なんかも写真を持って訊いて回りました。そのほか近くの公園とか、小学校とか……。こっちの公園も見に来たんですけど、まさか、その、トイレなんて……」春日井は苦しげに顔を歪め、声を詰まらせた。
 松宮は彼のことを見ていられず、ただひたすらメモを取ることに没頭しようとした。だが手帳に書き込む内容は、無惨な状況を改めて噛みしめるようなものだった。
 松宮が手帳の頁をめくった時だった。かすかに物音が聞こえた。彼は顔を上げた。
 ひゅう、ひゅう、という隙間風のような音だった。それはぴったりと閉じられた襖の向こうから聞こえてくるようだった。
 ほかの刑事たちも気づいたらしく、松宮と同じところを見ている。
 すると春日井がぼそりといった。「妻です」
 えっ、と松宮は声を漏らしていた。
「奥の部屋で横になってもらっているんです」牧村が静かな口調でいった。
 また、ひゅう、と聞こえた。それはたしかに人間の声だった。泣いているのだ、と松宮はようやく悟った。だが、もはや声になっては出ないのだ。喉が嗄《か》れ、泣き叫ぼうにも、隙間風のような息が吐き出されるだけなのだ。
 ひゅう、ひゅう──。
 刑事たちは一時沈黙した。松宮は逃げださずにいるのが精一杯だった。

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