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赤い指(10)
日期:2017-02-02 14:41  点击:406
(10)
 
 午前十時を少し過ぎた頃だった。前原家の玄関のチャイムが鳴らされた。その時昭夫はトイレに入っていた。あわてて手を洗っていると、八重子がインターホンで応対する声が聞こえてきた。インターホンの受話器はダイニングルームの壁に取り付けてある。
「……はい、あの、でも、うちは何も知らないんですけど」相手が何かいっているらしく、少し間を置いてから再び彼女はいった。「……あ、わかりました」
 昭夫が入っていくと、八重子が受話器を戻しているところだった。
「来たわよ」
「何が?」
「警察よ」八重子は目元を曇らせた。「決まってるじゃないの」
 昭夫の心臓の鼓動は、それまでも落ち着くことはなかったが、彼女の言葉で一層騒ぎ始めた。体温が上昇したような気がした。そのくせ、ぞくり、と背中に悪寒《お かん》が走った。
「どうしてうちに来たんだ」
「知らないわよ。とにかく早く出てちょうだい。怪しまれちゃうわ」
 昭夫は頷き、玄関に向かった。途中、何度か深呼吸を繰り返した。それでも速まった鼓動は一向におさまらない。
 警察が来ることは予想していなくもなかった。直巳が少女を殺すまでにどんな行動をとったのか、昭夫はまるで知らない。もしかすると誰かに目撃されていたかもしれないのだ。その場合でも何としてでもごまかさねばならない、と昭夫は心を決めていた。もう後戻りはきかないのだ。
 それでもこうして実際に警察がやってきたとなると、やはり不安と恐ろしさで足が震えそうになった。捜査のプロたちに対して、素人のごまかしがどこまで通用するのか全く見当がつかなかったし、正直なところごまかしきれる自信もなかった。
 ドアを開ける前に、昭夫は瞼を閉じ、懸命に息を整えた。胸の鼓動が激しいのは、外から見ただけではわからないだろうが、明らかに息が乱れているとなれば、警察官たちも怪しむに違いなかった。
 大丈夫だ、と彼は白分にいい聞かせた。警察官が来たからといって、何かがばれたと決まったわけではないのだ。事件現場の周辺を、単に虱潰《しらみつぶ》しに当たっているだけなのかもしれない。
 昭夫は唇を舐め空咳《からせき》をひとつしてからドアを押し開いた。
 小さな門の外に、黒っぽいスーツを着た男が立っていた。背の高い、三十代半ばと思われる男だった。日に焼けているので、彫りの深い顔の陰影がいっそう濃く見えた。男は昭夫を見て、軽く会釈を寄越してきた。
「お休みのところ、申し訳ありません」男が快活な調子でいった。「あの、ちょっとよろしいですか」門扉を指さした。
 門をくぐってもいいかという意味らしい。どうぞ、と昭夫は答えた。
 男は門扉を開け、短いアプローチに入ってきた。ドアのぞばまで来てから警察手帳を出した。
 男は練馬署の刑事で加賀といった。言葉遣いは柔らかく、いかにも刑事といった威圧感はない。しかし、何となく近寄りがたい雰囲気を持った人物だった。
 すぐ向かいの家の玄関先にも、スーツを着た男が立っていた。その家の主婦を相手に何か話し込んでいる。彼も刑事なのだろう。つまり大勢の捜査員が、現在この付近一帯で聞き込みをしているということだ。
「何かあったんですか」昭夫は聞いた。事件のことは知らないふうを装ったほうがいいと判断した。なぜ知っているのかと問われた時、答えられないからだ。
「銀杏公園を御存じですか」加賀は訊いた。
「知ってますけど」
「じつは、あそこで今朝、女の子の遺体が見つかりましてね」
 へえ、と昭夫は発した。少しは驚いた芝居をしたほうがいいのかもしれなかったが、そんな余裕はなかった。無表情なのが自分でもわかった。
「そういえば、朝からパトカーのサイレンが聞こえてましたね」
「そうでしたか。早朝から申し訳ありませんでした」刑事は頭を下げた。
「いえ……あの、どこのお子さんなんですか」
「四丁目の、あるお宅のお嬢さんです」加賀は懐《ふところ》から一枚の写真を出してきた。被害者の名前は明かせないきまりなのかもしれない。「こういう女の子なんですがね」
 その写真を見せられ、昭夫は一瞬呼吸が出来なくなった。全身が総毛立つのがわかった。
 写っているのは目の大きい、かわいい女の子だった。冬場に写されたらしく、首にマフラーを巻き、頭の上で束ねた髪には毛糸の飾りがついていた。その笑顔は幸福感に満ちあふれていた。
 この少女が、昨夜自分が段ボール箱で運び、汚く暗い公衆トイレに捨てた死体だとは、昭夫にはとても思えなかった。考えてみれば、じつは死体の顔をしっかりと見たわけではなかったのだ。
 こんなにかわいい子供を──そう思うと、昭夫は立っていられなくなった。しゃがみこみ、思いきり叫びたかった。さらには今すぐに二階に駆け上がり、現実に背を向け、自分の作り上げた貧相な世界に閉じこもっている息子を、この刑事たちの前に突き出したかった。もちろん自らも罪を償いたかった。
 だが彼はそうはしなかった。足の力が抜けそうになるのを堪え、表情が強張りそうになるのを必死で耐えた。
「見かけたことはないですか」加賀は尋ねてきた。口元に笑みを浮かべていたが、じっと昭夫を見つめる目が不気味だった。
 さあ、と昭夫は首を捻った。
「このぐらいの年格好の女の子なら、このあたりでもよく見かけますけど、いちいち顔を見てないし、それにそもそも、そういう時間帯は家にいないし……」
「会社にお勤めなんですね」
「ええ」
「では一応、ご家族の方にもお尋ねしたいのですが」
「家族って……」
「今はどなたもいらっしゃらないのですか」
「いや、そうじゃないですけど」
「すみませんが、どなたが?」
「妻がいます」政恵と直巳のことは伏せておくことにした。
「では、奥様にも声をかけていただけますか。お時間はとらせません」
「それはいいですけど……じゃあ、ちょっと待っていてください」
 昭夫は一旦ドアを閉めた。長く、太いため息が出た。
 八重子はダイニングチェアに座っていた。不安と怯えの混じった目で夫を見た。
 刑事たちの用件を伝えると彼女は嫌悪感を示す顔でかぶりを振った。
「いやよ、刑事と会うなんて。あなた、何とかしてよ」
「だけど刑事はおまえに訊きたいといってるんだから」
「そんなの、何とでもいいようがあるでしょ。今はちょつと手が離せないとか。とにかく、あたしは嫌だから」そういうと八重子は立ち上がり、部屋を出ていった。
 おい、と昭夫が声をかけたが返事をせず、階段を上がっていく。寝室にこもる気なのだろう。
 昭夫は頭を振り、顔をこすりながら再び玄関に向かった。
 ドアを開けると刑事が愛想笑いをしていた。それを見ながら昭夫はいった。
「なんか、手が離せないらしいんですけど」
「ははあ、そうですか」刑事は当てが外れたような顔をした。「それではですね、誠に申し訳ないのですが、これを奥さんに見せてきていただけませんか」さっきの少女の写真を出してきた。
「あ……それは構いませんけど」昭夫は写真を受け取った。「見かけたことがないかどうかだけ訊けばいいわけですよね」
「そうです。お手数をおかけします」恐縮するように加賀はいい、頭を下げた。
 ドアを閉めると、昭夫は家の階段を上がっていった。
 直巳の部屋から物音は聞こえない。さすがにテレビゲームはしていないようだ。
 向かい側のドアを開けた。そこが夫婦の寝室になっている。八重子は鏡台の前に座っていた。だがさすがに、化粧を始めているわけではない。
「刑事、帰ったの?」
「いや、おまえにこれを見せてくれってさ」昭夫は写真を差し出した。
 八重子は写真から目をそむけた。
「なんで、うちに来たのよ」
「知らないよ。どうやら、付近の家を片っ端から当たっているらしい。目撃情報を集めてるんだろ」
「見たことないらしいって、刑事にいっておいてよ」
「もちろん、そういうしかないさ。でも、おまえも一度見ておけ」
「なんでよ」
「自分たちがどんなひどいことをしたか、自覚するためだ」
「何いってるのよ、今さら」八重子は横を向いたままでいった。
「いいから、見ておけ」
「いやよ。見たくない」
 昭夫は吐息をついた。少女の天使のような笑顔を見れば、自分の気持ちが切れてしまうことを八重子も知っているのだ。
 彼は踵《きびす》を返し、部屋を出た。向かい側のドアを開けようとした。しかし、鍵がかかっている。元々ついていたわけではなく、直巳が勝手に取り付けた掛け金式の錠だ。
「ちょっとあなた、何してるのよ」八重子が彼の肩に手をかけてきた。
「あいつに見せるんだ」
「そんなことして、何になるのよ」
「反省させる。自分のやったことを思い知らせるんだ」
「今そんなことしなくたって、直巳は十分に反省してるわよ。だから部屋に閉じこもってるんでしょ」
「いいや、あいつは逃げてるだけだ。現実から目をそらしている」
「だとしても……」八重子は顔を歪め、昭夫の身体を揺すった。「今はそっとしておいてやってよ。全部終わってから……うまく隠し終えてから、ゆっくりと話し合えばいいじゃない。何もこんな時に、わざわざあの子を苦しめるようなことをしなくてもいいでしょ。あなたそれでも父親なの?」
 妻の目から涙が流れるのを見て、昭夫はドアノブから手を離した。ゆらゆらと首を振っていた。
 たしかにそうだと思った。今は目の前の危機を乗り切ることが先決なのだ。
 しかし果たして乗り切れるのだろうか、馬鹿な過《あやま》ちを犯した息子とゆっくり話し合える日など本当に来るのだろうか──。
 玄関先に戻り、写真を刑事に返した。無論、妻は見たことがないそうだ、という台詞を添えた。
「そうですか。お手間をとらせてすみませんでした」加賀は写真を懐にしまった。
「もういいですか」昭夫はいった。
 ええ、と頷いてから、加賀はすぐ横の庭に目を向けた。昭夫はどきりとした。まだ何か、と問うてみた。
 変なことを訊くようですが、と加賀は前置きした。
「こちらの芝生は何という種類ですか」
「芝生?」声がうわずった。
「御存じないですか」
「さあ……以前からあるものですから。張ったのはずいぶん前だと思うし。この家は元々、うちの両親のものだったんです」
「そうですか」
「あの、芝生がどうかしたんですか」
「なんでもありません。気になさらないでください」刑事は笑顔で手を振った。「最後に一つだけ。昨日から早朝にかけて、家を留守にしておられた時間はありますか」
「咋日から今朝……ですか。さあ、なかったと思いますけど」
 それがどうしたのかと昭夫が尋ねようとした時だった。庭に面しているダイニングルームのガラス戸が、がちりと開いた。昭夫はぎょっとしてそちらを見た。政恵が出てくるところだった。
 加賀も驚いたようだ。「あの方は?」と訊いてきた。
「母親です。あ、でも、質問は無理です。こっちのほうにきていまして」そういって昭夫は自分の頭を指差した。「それで、さっきはいわなかったんですけど」
 政恵は何やらぶつぶついいながら、しゃがみこんで植木鉢の並んでいるあたりを覗き込んでいる。
 たまらずに昭夫は駆け寄った。
「何やってんだよ?」
 手袋、と彼女は呟いた。
「手袋?」
「手袋をしないと叱られるから」
 政恵は昭夫に背を向けたまま、植木鉢の前でごそごそしていたが、やがて立ち上がり、昭夫のほうを向いた。その手には汚れた手袋がつけられていた。それを見て昭夫は全身が凍り付くほどの寒気を感じた。その手袋は、咋夜彼が使ったものにほかならなかった。そういえば死体を処分した後、手袋をどこに置いたか記憶がない。無意織のうちに、放り出してしまったようだ。
「これでいいでしょ、おじさん」そういいながら政恵は加賀に近づいていき、両手を彼の顔の前に突き出した。
「あっ、何やってるんだ。どうもすみません。もういいから、家の中で遊んでなさい。雨が降ってくるよ」昭夫は子供に話しかけるようにいった。
 政恵は空を見上げると、納得したように庭を横切り、ダイニングに上がり込んだ。
 開けっ放しになっているガラス戸を閉め、昭夫は玄関のほうを見た。加賀が訝《いぶか》しげな顔をしていた。
「ああいう感じでして」昭夫は頭を掻きながら戻った。「だから、お役には立てないと思います」
「大変ですね。御自宅で介護を?」
「ええまあ……」昭夫は頷いた。「あのう、もういいでしょうか」
「結構です。お忙しいところ、御協力ありがとうございました」
 刑事が門扉を開けて出ていくのを、昭夫は立ったまま見送った。その姿が見えなくなってから、庭に視線を向けた。
 少女の服に付着していた芝のことを思い出し、息苦しくなった。

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