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赤い指(16)
日期:2017-02-02 15:14  点击:316
(16)
 
 松宮たちが受け持ち分の地域の家を全部回った時には、すでに夜になっていた。鞄の中は採取した芝を入れたビニール袋でいっぱいだ。
 収穫があったのかどうか、松宮自身にもよくわからなかった。当たってみた家のどこにも、少女を殺しそうな人間は住んでいなかった。誰もが平凡で、豊かさに多少の差はあれど、皆、懸命にその日その日を生きているように見えた。
「この町内にはいないよ」バス通りに向かって歩きながら松宮はいった。「あんなことをするのは、やっぱり変質者だ。独り暮らしをしている男で、歪んだ性癖を持った奴だ。考えてみろよ。歩いている女の子を、突然車につれ込んで、そのまま拉致したわけだぜ。どんな悪戯をする気だったか知らないけど、とにかくその場から遠ざかろうとするのがふつうじゃないか。で、どこかで殺しちまったもんだから、この町に戻ってきて死体を捨てることにしたわけだ。犯人がこの町の人間だと思わせるためにね。ということはつまり、犯人はこの町の住人ではないということになる。俺のいってること、何かおかしいかな」
 隣を歩いている加賀は無言だ。俯き、何事かを考えている顔だった。
「恭さん」松宮は呼びかけた。
 加賀はようやく顔を上げた。
「聞いてなかったのかよ」
「いや、聞いている。君の考えはよくわかった。妥当性もあるように思える」
 回りくどい言い方に、松宮は少し苛立った。
「いいたいことがあるならいえよ」
 加賀は苦笑した。
「そんなものはない。いっただろ。所轄の人間は一課の指示にしたがうだけだ」
「なんかそういうの、むかつくな」
「嫌味をいったつもりはない。気を悪くしたのなら謝る」
 二人はバス通りに出た。松宮はタクシーを捕まえようとしたが、その前に加賀がいった。
「俺はちょっと寄っていきたいところがある」
 空車を見つけたので手を上げかけていた松宮は、あわててその手を下ろした。
「どこだよ、寄っていきたいところって」
 加賀はためらいを見せた後、松宮をごまかすのは無理と思ったか、吐息をついてから答えた。
「一軒、気になる家があるんだ。少し調べていきたい」
「どこの家?」
「前原という家だ」
「前原……」松宮は鞄からファイルを出し、家のリストを眺めた。「あの家か。痴呆の婆さんがいる家だな。どうしてあの家が気になるんだ」
「話せば長くなる。それにまだ思いつきの段階だ」
 松宮はファイルを振り下ろし、加賀を睨んだ。
「所轄は一課の指示にしたがうんだろ? だったら、一課の人間に隠し事をするなよ」
「別に隠す気はないんだが」加賀は困惑したように無精髭《ぶしょうひげ》の伸びた顎を指先で掻き、肩をすくめた。「わかった。だけど、無駄足の可能性が高いぞ」
「大いに結構。無駄足をどれだけ踏んだかで捜査の結果が変わってくるって、ある人が教えてくれた」
 隆正の言葉だ。加賀がどんな顔をするかと思い、松宮は表情を窺ったが、彼は何もいわずに歩きだした。
 松宮が加賀の後をついていくと、銀杏公園に着いた。すでに立ち入り禁止は解除されていたが、公衆トイレの周辺にはまだロープが張られている。人気が全くないのは、夜だということもあるだろうが、事件のことがすでに知れ渡っているせいかもしれない。
 加賀はロープをまたぎ、トイレに近づいていった。入り口の前で足を止めた。
「なぜ犯人は死体をこんな場所に捨てたんだろう」加賀が立ったまま訊いてきた。
「そりゃあ、夜の公園なら人目につきにくいし、朝まで死体が発見される心配もない。まあそんなところじゃないのかな」
「しかし人目につきにくい場所なら、ほかにいくらでもある。山中でなくても、たとえば隣接している新座市のほうへ行けば、しばらくは誰も足を踏み入れなさそうな草むらが、あちこちにある。そういうところへ捨てたほうが、死体の発見だって遅れるはずだ。なぜ犯人はそういうことを考えなかったのか」
「だからさっきもいったように、この町の人間の仕業だと思わせるためじゃないのか」
 だが加賀は首を傾げた。「そうかな」
「違うというのか」
「犯人としては、そういうカムフラージュをするより、死体が見つかりにくくするほうがメリットが大きいはずだ。誘拐の可能性があるから、警察もすぐには表だって動けない」
「じゃあ恭さんは、なぜだと思うんだ。どうして犯人はこの場所を選んだのか?」
 加賀はゆっくりと松宮のほうに顔を巡らせた。
「俺はね、犯人はやむをえずこの場所に捨てたんじゃないかと思うんだ」
「やむをえず?」
「そう。犯人にはほかに選択肢がなかった。もっと遠くに捨てに行きたかったが、その手段がなかったというわけだ」
「手段……車か」
「そういうことだ。犯人は車の運転ができない。もしくは車を持っていない」
「そうかな。それはないと思うけどな」
「どうして?」
「だって、車がなかったら今回の犯行は不可能だ。第一、どうやって死体を運んだんだ。抱えてここまで歩いてきたっていうのか。いくら子供だといっても、二十キロ以上あるんだぜ。それに死体は段ボール箱に入れられていた。かなりでかい箱だ。抱えて歩くのはかなり大変だ」
「その段ボール箱のことだが、死体には発泡スチロールの粒がついていたという話だったな」
「ああ、だから家電製品の空き箱を使ったんだろうとみられている」
「発泡スチロールの粒がついていたということは」加賀は人差し指を立てた。「犯人は段ボール箱に、直に死体を入れたということになる」
 一瞬松宮は、加賀のいっている意味が理解できなかった。頭の中で光景を思い浮かべ、ようやく合点がいった。「そうだな」
「君は車を持っていたかな」
「持ってるよ。中古で買ったんだけどね」
「中古だろうが、大事なマイカーだ。さて君ならどうする。車で運ぼうとする時、段ボール箱に死体を直に入れたりするかな」
「別に問題はないと思うけどね」
「死体が濡れててもかい?」
「濡れて……?」
「被害者は首を絞められた時、排尿している。発見された時もスカートがぐっしょりと濡れていた。俺は鑑識よりも先に現場を見たから、よく覚えている。トイレの中だったから、臭いには気づかなかったけどね」
「そういえば、捜査資料に書いてあった気がする」
「もう一度訊く。そういう死体でも直に段ボール箱に入れるかい?」
 松宮は唇を舐めた。
「死体の尿が段ボール箱に浸みて車が汚れるのは、あまり歓迎できないな」
「汚れて臭くなる。おまけに死体の痕跡が残ってしまうことになる」
「死体をいったんビニールシートか何かで包んで、それから箱に入れる……だろうな」
「今回の犯人はそうしなかった。なぜか」
「車で運んだのではないから……か」
 加賀は肩をすくめた。
「もちろん、必ずしも断言できるわけじゃない。犯人が雑な性格で、車が汚れることを気にしなかったのかもしれないからな。だけど俺は、その可能性は低いと思う」
「だけど車を使わないのなら、どうやって大きな段ボール箱を運んだんだ」
「問題はそこだ。君ならどうする?」
「さっきもいったように、抱えて運ぶのは大変だ。台車があれば便利だけど、夜中にそんなものを押していたら、それこそ目立ってしまう」
「同感だ。目立たず、台車と同様の働きを期待できるものといったら何だろう?」
「ベビーカー……いや、昔の乳母車ならともかく、最近のやつじゃ無理だな」
 加賀はにやりと笑い、携帯電話を取り出した。それを操作して、松宮のほうに向けた。
「これを見てくれ」
 松宮は携帯電話を受け取った。液晶画面には、カメラで撮影された地面らしきものが写っている。
「これは?」
「今、君が立っている地面を撮影したものだ。鑑識も撮ってると思うけど、一応俺も押さえておいた」
「これがどうしたんだ」
「よく見ると、何かを消したようにこすられているのがわかるだろ」
 たしかに地面に何本かの太い筋が入っている。
「子供が地面に落書きしただけじゃないのか」
「だとすると今度は、犯人の痕跡がないことのほうが気になる。台車にせよ、台車に代わる何かにせよ、犯人はそれを使ってここまで運んできたはずなんだ。昨日は午前中まで雨が残っていたから、このあたりの地面は結構|緩《ゆる》かったはずだ」
「じゃあもしかしたら、これがそうなのかもしれないな。でも消されてるんじゃ仕方がない」そういって松宮は携帯電話を加賀に返そうとした。
「よく見ろよ。消されている幅はどの程度だと思う?」
「幅?」もう一度画面を見た。「三十センチぐらいかな」
「俺もそう思う。三十センチだと、台車にしては小さすぎる」
「たしかに。するとこれは……」松宮は画面から顔を上げた。「自転車の跡か」
「おそらくね」加賀はいった。「しかも後ろに荷台がついているやつだ。最近の自転車はついていないタイプが多いからな。さらにいえば、あまり大きくない」
「どうして?」
「やってみればわかる。でかい段ボール箱を載せ、それを支えながらもう一方の手でハンドルを握ろうとしたら、あまり大きな自転車だと手が届かない」
 その状況を松宮は思い浮かべた。加賀のいっていることは妥当性があるように感じられた。
「犯人の周辺に芝生を生やしたところがある。犯人は車の運転ができない、あるいは車を持っていない、そのかわりに荷台付きの自転車を持っている……か」そういいながら松宮は、その条件に合致する家に思い当たった。「それで前原か。たしかにあの家にはガレージも駐車スペースもなかった。自転車は……そういえば恭さん、あの家の自転車を見ていたな」
「荷台がついていた。あの自転車なら、大きな段ボール箱も運べる」
「なるほどね。でも……」
「なんだ」
「それだけで一軒の家に絞るっていうのは乱暴すぎやしないか。たとえば、家に車はあるけれど、犯人自身には運転ができなかったという可能性もあるわけだし」
 松宮の言葉に加賀は頷いた。
「俺も、それだけであの家に目をつけたわけじゃない。もう一つ、引っかかることがある。手袋だ」
「手袋?」
「初動捜査の段階で、俺は一度あの家に行っている。春日井優菜の写真を見せて、目撃情報を集めていた時だ。その時、あそこの認知症の婆さんと会った。婆さんは庭にふらふらと出てきて、そこに落ちていた手袋を拾ってはめていた」
「どうしてそんなことを?」
 加賀は肩をすくめた。
「詔知症の患者の行動に論理的な説明をつけようとしても無駄だ。それより問題はその手袋だ、婆さんはその手袋を俺に見せてくれた。こんなふうにしてな」彼は松宮の顔の前で手を広げた。「その時、臭ったんだよ」
「えっ……」
「かすかに異臭がしたんだ。尿の臭いだった」
「被害者は尿を漏らしていた……その臭いだっていうのか」
「犬じゃないから、そんなことまではわからない。だけどその時俺は思ったんだよ。犯人が手袋をはめていたなら……いや、おそらくはめていただろう。素手で死体に触れると指紋が残ってしまうおそれがあるからな。だとすれば、その手袋は被害者の尿で汚れていたはずだってな。その後、発泡スチロールのことが判明したりして、今話したようなことを考えた。するとますますあの家のことが気になり始めたというわけだ」
 松宮は前原という家のことを思い出した。どこにでもありそうな平凡な家だった。前原昭夫という世帯主からも、犯罪の気配は感じなかった。強《し》いていえば認知症の母親が暴れるので困っているという話が印象に残っている程度だ。
 松宮はファイルを開け、前原家に関する資科を調べた。
「四十七歳の会杜員、その妻、中学生の息子、それから認知症の婆さん……。この中の誰かが犯人だというのかい。するとほかの家族は、そのことを知らないわけか。家族に知られずに、今度の犯行は可能かな」
「いや、不可能だろう」加賀は即座に答えた。「だからもしあの家の誰かが犯人なら、ほかの者は犯行隠蔽の手伝いをしたと考えられる。そもそも今回の事件は、少なくとも二人以上の人間が犯行に関わっていると俺は見ている」
 断定する口調に松宮は、加賀の目を見返した。それに応じるように加賀は懐から何かを出してきた。一枚の写真だった。
 松宮はそれを受け取った。それは被害者の足を撮影した写真だった。両足とも運動靴が履かされた状態だ。
「これが何か?」松宮が訊いた。
「靴紐の結び方だ」加賀はいった。「よく見ると両足の結び方が微妙に違っている。どちらも蝶結びだが、紐の位置関係が逆になっているんだ。しかも一方がきっちりと縛ってあるのに比べて、もう一方はずいぶんと緩めだ。ふつう、同じ人間が靴紐を結んだ場合、左右で結び方が異なるということはあまりない」
「そういわれれば……」松宮は顔を近づけ、写真を凝視した。たしかに加賀のいうとおりだった。
「鑑職の報告では、靴は一度両方とも脱がされた形跡があるということだったな。どういう理由でかは不明だが、右と左で別の人間が紐を縛ったと考えるべきじゃないかな」
 松宮は思わず唸《うな》った。
「家族ぐるみの犯行、というわけか」
「殺人は単独犯でも、隠蔽に家族が協力したことは十分にありうる」
 松宮は写真を返しながら加賀の顔を改めてしげしげと眺めた。
「なんだ?」加賀が怪訝そうに訊いた。
「いや、何でもない」
「というわけで、これから前原家について少し聞き込みをしておこうと思ったわけだ」
「付き合うよ、俺も」
「捜査一課さんの賛同を得られて、俺もほっとした」
 歩きだした加賀の後を追いながら、さすがだな、と松宮は思った。

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