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赤い指(27)
日期:2017-02-02 15:29  点击:373
(27)
 
 彼の叫びに対して声を発する者はいなかった。驚きのあまり絶句しているのに相違なかった。彼はゆっくりと顔を上げた。まず八重子と目があった。彼女も座り込んでいた。苦しげに顔を歪め、絶望で目を暗くしていた。
「すまん。もう、無理だ」昭夫は妻にいった。「もう、やめさせてくれ。こんなこと、俺には無理だ。できない……」
 八重子はがっくりと項垂れた。彼女自身も忍耐の限界だったのかもしれない。
「わかりました。では犯人は誰ですか」
 そう訊いてきた加賀の口調があまりにも穏やかなものだったので、昭夫は刑事の顔を見返した。加賀は何ともいえぬ哀れみに満ちた目を向けていた。
 やはりこの刑事は何もかも知っていたのだ、と思った。だから昭夫の告白にも驚いてはいないのだ。
「息子さん、ですね」
 加賀の問いかけに昭夫は黙って頷いた。同時に八重子が、わっと泣きだした。突《つ》っ伏《ぷ》し、背中を震わせた。
「松宮刑事、二階に行ってくれ」
「待ってください」八重子が顔を伏せたままでいった。「息子はあたしが……あたしが、連れて……」涙で言葉が途切れた。
「わかりました。ではお任せします」
 八重子は頼りない足取りで部屋を出ていった。
 加賀が昭夫の前で片膝をついた。
「よく正直に話してくださいました。あなたは大きな過ちを犯すところでしたね」
「やはり刑事さんは、はじめから我々の嘘を見抜いておられたんですね」
「いえ、電話で呼ばれた時点では、何もわかりませんでした。あなた方の自供を聞いた時も、矛盾は見つからなかった」
「ではどうして?」
 すると加賀は政恵のほうを振り返った。
「あの赤い指です」
「あれが何か……」
「あれを見た時、この指はいつ塗られたのだろうと考えたのです。もし事件前から塗られていたのだとしたら、当然死体の首に赤い指の跡が残っていなければならない。おかあさんが手袋をはめたのは、事件の翌日ですからね。私がたまたまその場に居合わせたので、それは間違いない。
 でも死体に赤い指の跡などはありませんでした。あなたの話の中にも、そういうものを消したという内容は出てきませんでした。すると指を塗ったのは事件の後ということになる。ところが、おかあさんがその際に使ったはずの口紅が見当たらない。この部屋のどこにもないのです」
「口紅は、そりゃあきっと八重子の……」
 そういってから昭夫は、その可能性がないことに気づいた。
「奥さんの鏡台は二階にある。おかあさんは階段を上がれないんでしたね」
「じゃあ、どこに?」
「この家にないとすれば、どこにあるのか。誰かが持ち出したとしか考えられない。それは誰か。そこで妹さんに確認してみたのです。最近、おかあさんが使った可能性のある口紅を知らないか、とね。──田島さん、例のものを見せてください」
 春美はハンドバッグを開け、中からビニール袋を取り出した。そこには一本の口紅が入っていた。
「あれが、その口紅です。色を確認しましたが、間違いないようです。詳しく成分を調べれば、さらにはっきりするでしょう」
「どうしておまえが持っているんだ?」昭夫は春美に訊いた。
「前原さん、問題はそこです」加賀はいった。「田島さんがちょっと目を離した隙に、おかあさんが田島さんの口紅で悪戯をしたこと自体は不思議でも何でもない。奇妙なのは、その口紅を現在田島さんが持っているという点なんです。──田島さん、今日以前であなたが最後におかあさんに会ったのはいつですか」
「……木曜の夜です」
「なるほど。つまりその口紅は、それ以後、この家にはなかったということになる。前原さん、これがどういうことかわかりますね」
「わかります」昭夫はいった。「母が指を赤く塗ったのは木曜の夜、ということですね」
「そういうことになるでしょうね。となれば、おかあさんが犯人だとするあなたの話と矛盾してくる。何度もいうように、死体に赤い指の痕跡はなかったのです」
 昭夫は爪が掌に突き刺さりそうなほど強く拳を固めた。
「そういうことか……」
 虚しさが彼の全身を包んでいった。

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