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《国境以南 太阳以西》05
日期:2017-02-16 18:58  点击:529
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 大学での四年間について語るべきことはあまりない。
 大学に入った最初の年に僕は幾つかのデモに参加し、警官隊とも闘った。大学のストライキを支援し、政治的な集会にも顔を出した。そこで何人もの興味深い人々と知り合いもした。しかし僕はどうしてもそのような政治闘争に心から熱中することができなかった。デモに行って隣にいる誰かと手を繋ぐたびに僕はなんとなく居心地の悪い思いをすることになったし、警官隊に向かって石を投げなくてはならないときには、なんだか自分が自分ではなくなってしまっているような気がしたものだった。これが本当に自分の求めていたものだったのだろうか、と僕は思った。僕は人々とのあいだに連帯感というものを抱くことができなかった。街路を覆う暴力の匂いや、人々の口にする力強い言葉は、僕の中でだんだんその輝きを失っていった。少しずつ、僕はイズミと二人で過ごした時間を懐かしく思い出すようになった。でももうそこに帰ることはできなかった。僕はその世界を背後に捨て去ってしまったのだ。
 そしてその一方で、僕は大学で教えられていることにもほとんど興味か持てなかった。僕が取った講義の大半は無意味で退屈なものだった。そこには僕の心をかきたてるようなものは何ひとつなかった。アルバイトに忙しくてキャンパスにもろくに顔を出さなかったから、なんとか四年で卒業できたのは僥倖と言ってもいいくらいだった。カールフレンドも作った。三年生のときには半年ばかり同棲もした。でも結局はうまくいかなかった。そのころには自分がいったい人生に対して何を求めているのか、僕には見当もつかなくなっていた。
 気がついたときにはもう政治の季節も終わっていた。一時は時代を揺るがす巨大な胎動と見えたいくつかのうねりも、まるで風を失った旗のようにその勢いを落とし、色彩を欠いた宿命的な日常の中に呑み込まれていった。
 大学を出ると僕は知人の紹介で教科書を編集・出版する会社に就職した。髪を短く切って、革靴を履き、スーツを着た。見るからにぱっとしない会社だったが、その年の就職状況は文学部出身者にとってあまり温かいものではなかったし、僕の成績とコネクションとではもっと面白そうな会社を狙っても門前払いをくわされるのがおちだった。そこに入れただけでもよしとしなくてはならなかった。
 仕事は案の定退屈なものだった。職場の雰囲気自体は悪くなかったのだが、残念ながら僕は教科書を編集するという作業にほとんど何の喜びも感じなかった。それでも僕は何とかそこに興味を見いだせないものかと、半年ばかり熱心に仕事に打ち込んでみた。どんなことだって全力を尽してやってみれば何かしら得るものはあるだろうと。でも結局僕はあきらめた。どう転んでもこの仕事は僕には向いていない、それか僕の得た最終的な結論だった。僕はなんだかがっかりしてしまった。僕の人生はもうそこで終わってしまったように感じられた。おそらくこれからの歳月を、ここで面白くもない教科書を作りながら磨耗させていくことになるんだろうな、と僕は思った。何事もなければ定年まであと三十三年、来る日も来る日もこの机に向ってゲラ刷りを眺め、行数を計算したり、漢字表記を正したりするのだ。そして適当な女と結婚して何人か子供を作り、年に二回のボーナスをほとんど唯一の楽しみとして生きていくことだろう。僕は昔イズミが言ってくれたことを思い出した。「あなたはきっと素敵な人になると思う。あなたの中にはとても素晴らしいものがあるから」。僕はそれを思い出すたびに苦々しい気持ちになった。僕の中には素晴らしいものなんて何ひとつないんだよ、イズミ。今では君にもそれがよくわかっていると思うけどね。でもまあしかたない、誰だってみんな間違うんだ。
 僕は職場ではほとんど機械的に与えられた仕事をこなし、あとの時間はひとりで好きな本を読んだり音楽を聴いたりして過ごした。仕事というものはもともとか退屈な義務的作業であって、それ以外の時間を自分のために有効に使って、それなりに人生を楽しんでいくしかないんだと僕は考えるようにした。だから僕は仕事場の仲間とどこかに飲みに行ったりするようなこともしなかった。人づきあいが悪かったり、みんなから孤立していたというわけではない。ただ僕は仕事以外の時間に会社以外の場所で、同僚たちとの個人的な関係を積極的に発展させようとはしなかっただけのことだ。できることなら、自分の時間は自分ひとりだけのためにとっておきたかった。
 そのようにして四年か五年があっという間に過ぎていった。そのあいだに僕は何人かのガールフレンドを作った。でも誰とも長つづきしなかった。僕は彼女たちと何カ月かデートする。そしてこう思う。「違う、こういうんじゃないんだ」と。僕は彼女たちの中にどうしても僕のために用意された何かを見るいだすことができなかった。僕は彼女たちの何人かと寝た。でもそこにはもう感動のようなものはなかった。それが僕の人生の第三段階だった。大学に入ってから三十代を迎えるまでの十二年間を、僕は失望と孤独と沈黙のうちに過ごした。そのあいだ僕はほとんど誰とも心を通い合わせることがなかった。それは僕にとってはいわば冷凍された歳月だった。
 僕は前よりももっと深く自分一人の世界に引きこもるようになった。僕は一人で食事をし、一人で散歩をし、一人でプールに行って泳ぎ、一人でコンサートや映画に行くことに慣れた。そしてそれをとくに寂しいとも辛いとも感じなかった。僕はよく島本さんのことを考え、イズミのことを考えた。彼女たちは今頃どこで何をしているんだろう。あるいは二人とももう結婚してしまったかもしれない。子供だっているかもしれない。でもたとえどのような境遇にあるにせよ、僕は彼女たちと会って、少しでもいいから話をしたいと思った。ほんの一時間でもいい。島本さんになら、あるいはイズミになら、僕は自分の気持ちをもっと正確に表現することかできるのだ。僕はイズミと仲直りをする方法を考えたり、島本さんと再会する方法を考えたりして時間を潰したものだった。もしそうすることができたらどんなにいいだろうと思った。でも僕はそれを実現させるために何かの努力をしたわけではなかった。結局のところ彼女たちはもう僕の人生から失われてしまった存在なのだ。時計を逆に回すことはできないのだ。僕はよく独り言を言い、夜に一人で酒を飲むようになった。あるいはもう一生結婚しないかもしれないと思うようになったのもそのころのことだった。
 
 会社に入って二年目の年のことだが、脚の悪い女の子とデートをしたことがあった。それはダブル・デートだった。僕の同僚が誘ってくれたのだ。
「ちょっと脚が悪いんだよ」と彼は少し言いにくそうに言った。「でも綺麗だし、性格もいい子なんだよ。会えば気に入ると思うよ。それに脚が悪いと言っても、そんなに目立つわけじゃない。ちょっとひきずるだけなんだ」
「そんなことはべつにかまわないよ」と僕は言った。正直に言って、もし彼がそのときに脚の悪いことを持ち出さなかったなら、僕はそんなデートになんかたぶん出かけなかったと思う。僕はダブル・デートとかブラインド・デートといった類のものにはもううんざりしていたのだ。でも僕はその女の子の脚が悪いと聞かされたときに、どうしてもその誘いを断ることができなくなってしまった。
(脚が悪いと言っても、そんなに目立つわけじゃない。ちょっとひきずるだけなんだ)
 その女の子は僕の同僚のカールフレンドの友だちだった。高校のときの同級生か何かだったと思う。彼女は小柄で、整った顔だちをしていた。でもそれは派手な美しさではなくて、物静かで、引っ込みがちな感じのする美しさだった。それは僕に、森の奥の方からなかなか出てこない小動物を思わせた。僕らは日曜日の朝の映画を見て、そのあと四人で昼食を食べた。そのあいだ彼女はほとんど喋らなかった。水を向けても何も言わずにただにこにこしているだけだった。それから僕らは二組に別れて散歩をした。僕と彼女は日比谷公園に行って、お茶を飲んだ。彼女は島本さんとは逆の方の脚をひきずっていた。脚のひねりかたも少し違っていた。島本さんが脚を少し回転させるようにして運ぶのに対して、彼女の場合は脚の先をちょっと横に向けてまっすぐにひきずった。でもそれにもかかわらず、彼女たちの歩き方はよく似ていた。
 彼女は赤いタートルネックのセーターに、ブルージーンという恰好で、靴は普通のデザート・ブーツをはいていた。化粧気はほとんどなく、髪はポニーテイルにしていた。大学の四年生だと言ったが、もっと若く見えた。本当に無口な女の子だった。いつもそんなに無口なのか、初対面の相手だから緊張してうまく口がきけないのか、あるいはただ単に話題に乏しいだけなのか、僕には判断できなかった。でもとにかく最初のうち、そこには会話と呼べるようなものはほとんどなかった。僕にわかったのは、彼女が私立の大学で薬学を専攻しているということくらいだった。
「薬学を勉強するのは面白いの?」と僕は聞いてみた。僕と彼女は公園の中のコーヒーハウスに入ってコーヒーを飲んでいた。
 僕がそう言うと、彼女は少し赤くなった。
「大丈夫だよ」と僕は言った。
「教科書を作るんだって、そんなに面白いものじゃないんだ。世の中には面白くないことなんて山ほどあるし、いちいち気にすることはないよ」
 彼女はしばらく考えていた。それからやっと口を開いた。
「とくに面白いわけじゃありません。でも家が薬局をやっているものだから」
「ねえ、薬学について僕に何か教えてくれないかな。僕は薬学について何も知らないんだ。申し訳ないけれど僕はこの六年間、薬というものをほとんど一粒も飲んだことがないんだ」
「丈夫なんですね」
「おかげさまで二日酔いひとつしない」と僕は言った。「でも子供の頃は体が弱くて病気ばかりしていた。薬だってけっこう飲んだ。僕は一人っ子だったから、きっと親が過保護にしていたんだね」
 彼女は頷いて、しばらくコーヒーカップの中をのぞきこんでいた。彼女が次に口を開くまでにまた長い時間がかかった。
「薬学というのは、たしかにそれほど面白い学問じゃないと思います」と彼女は言った。「世の中には薬の成分をひとつひとつ暗記するより面白いことはきっといっぱいあるだろうと思います。同じ科学でも天文学みたいにロマンティックじゃないし、医学みたいにドラマティックでもありません。でもそこにはもっと身近で親しみの持てるものがあるんです。等身大とでも言えばいいのかしら」
「なるほど」と僕は言った。この女の子は話そうと思えばちゃんと話せるのだ。言葉を探すのに人より時間がかかるだけなのだ。
「君には兄弟がいるの?」と僕は聞いてみた。
「兄が二人います。ひとりはもう結婚していますが」
「薬学を専攻しているということは、君がゆくゆくは薬剤師になって薬局を継ぐことになるのかな?」
 彼女はまた少し赤くなった。それからまた長いあいだ黙っていた。「わかりません。兄は二人とも就職していますから、あるいは私が継ぐことになるかもしれません。でもそう決まっているわけでもないんです。もし私に継ぐつもりがないのなら、それでもかまわないと父は言っています。店は自分がやれるところまでやって、あとは売ればいいんだからって」
 僕は頷いて、彼女の話の続きを待った。
「でも私は継いでもいいと思っているんです。私は脚が悪いから、仕事もそんなにうまく見つからないと思うし」
 
 そんな具合に僕らは二人で話をして、その午後を過ごした。沈黙が多くて、話すのに時間はかかった。何かを尋ねるとすぐに赤くなった。でも彼女と話すのは決して退屈ではなかったし、気づまりでもなかった。僕はその会話を楽しんだと言ってもいいと思う。それは当時の僕にとっては珍しいことだった。そのコーヒーハウスのテーブルをはさんでしばらく向かい合って話をしたあとでは、僕はずっと前から彼女のことを知っていたような気持ちにさえなった。それは懐かしさに似た心持ちだった。
 しかし、それでは彼女に強く心を引かれたのかというと、正直なところ、僕はそれほど強くはその娘に心を引かれなかったと言うしかないと思う。僕はもちろん彼女に好感を持ったし、一緒にいて楽しい時間を過ごすことができた。綺麗な娘だったし、僕の同僚が最初に言ったように性格も良さそうだった。でもそういう事実の羅列を越えて、彼女の中に僕の心を圧倒的に揺さぶるような何かが発見できたかというと、その答えは残念ながらノオだった。
 そして島本さんの中にはそれがあったのだ、と僕は思った。僕はその娘と一緒にいるあいだ、ずっと島本さんのことを考えていた。悪いとは思うのだけれど、僕は島本さんのことを考えないわけにはいかなかった。島本さんのことを考えると、僕の心は今でも震えた。自分の心の奥にある扉をそっと押し開けていくような、微熱を含んだ興奮がそこにはあった。しかしその脚の悪い綺麗な娘と二人で日比谷公園を散歩していても、僕はそのような種類の興奮なり震えなりを感じることはできなかった。僕が彼女に対して感じていたのは、ある種の共感と、穏やかな優しさだけだった。
 彼女の家は、つまりその薬局は、文京区の小日向にあった。僕はバスに乗ってそこまで彼女を送っていった。バスのシートに二人で並んで座っているあいだも、彼女はほとんど口をきかなかった。
 何日かあとで同僚が僕のところにやってきて、あの子は君のことがずいぶん気に入っていたみたいだよ、と言った。そしてもしよかったら、今度の休みにまた四人でどこかに行かないかと誘った。でも僕は適当な口実を作ってそれを断った。もう一度彼女に会って話をすること自体には何の問題もなかった。正直に言えば、僕はもっとゆっくり彼女と話をしたかった。もし僕らが別の状況で出会っていたなら、僕らはあるいは仲のいい友人になれたかもしれないと思う。しかしそれは何と言ってもダブル・デートだった。恋人をみつけるのが、その行為の本来の目的である。もしその相手と二度つづけてデートをすれば、そこにはそれなりの責任というものが生じることになる。僕はたとえどのようなかたちにせよ、その女の子の気持ちを傷つけたくはなかった。僕には断わるしかなかった。そしてもちろん、僕が彼女に会うことはもう二度となかった。

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