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《国境以南 太阳以西》07
日期:2017-02-16 18:59  点击:577
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 三十になって僕は結婚をした。僕は夏休みに一人で旅行をしているときに彼女と出会った。彼女は僕より五歳年下だった。田舎道を散歩していると突然激しい雨が降りだして、雨宿りに飛び込んだところに、たまたま彼女と彼女の女友だちかいたのだ。僕らは三人ともぐしょ濡れになっていて、そんな気安さで雨があがるまであれこれと世間話をしているうちに仲良くなった。もしそこで雨が降らなかったら、あるいはもし僕がそのとき傘を持っていたら(それはあり得ることだった。僕は傘を持っていこうかどうしようか、ホテルを出るときにけっこう迷ったのだから)、僕は彼女とめぐり会わなかったはずだ。そしてもし彼女とめぐり会うことがなかったなら、僕は今でも教科書の会社に勤めていて、夜になると一人でアパートの部屋の壁にもたれて独り言を言いながら酒を飲んでいたかもしれない。そういうことを考えると僕はいつも、我々は本当に限られた可能性の中でしか生きていないのだという事実を思い知らされることになる。
 僕と有紀子(というのが彼女の名前だ)とは一目で引かれあうことになった。一緒にいた女の子の方がずっと美人だったのだが、僕が引かれたのは有紀子だった。それも理不尽なくらいに激しく引かれたのだ。それは僕が久しぶりに感じた吸引力だった。彼女も東京に住んでいたので、僕らは旅行から帰ってきたあとも何度かデートした。会えば会うほど僕は彼女が好きになった。彼女はどちらかといえば平凡な顔だちだった。少なくとも行く先々で男が言い寄ってくるというタイプではない。でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のためのもの」を感じることができた。僕は彼女の顔が好きだった。僕は会うと、長いあいだじっと彼女の顔を見つめていたものだった。僕はその中に見える何かを強く愛した。
「何をそんなにじっと見るの?」と彼女は僕に尋ねた。
「君が椅麓だからだよ」と僕は言った。
「そんなことを言ったの、あなたが初めてよ」
「僕にしかわからないんだ」と僕は言った。「でも僕にはそれがわかる」
 最初のうち、彼女は僕の言うことをなかなか信じなかった。でもそのうちに信じるようになった。
 僕らは会うと二人でどこか静かなところに行っていろんな話をした。僕は彼女に対しては何でも正直に素直に話すことができた。彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分が失いつづけできたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほとんど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れになってしまう前に、少しでもそれを取り返しておかなくてはならない。彼女を抱いていると、僕は懐かしい胸の震えを感じることができた。彼女と別れると、僕はひどく頼りない、寂しい気持ちになった。孤独は僕を傷つけ、沈黙は僕を苛立たせるようになった。そして三カ月はどデートを続けたあとで、僕は彼女に結婚を申し込んだ。僕の三十の誕生日の一週間前のことだった。
 彼女の父親は中堅の建設会社の社長だった。なかなか興味深い人物で、正規の教育はほとんど受けていなかったけれど、仕事に関してはやり手だったし、自分なりの哲学というものを身につけていた。あまりにも強引に過ぎて僕には賛同できないこともあったけれど、彼なりのある種の洞察には感心させられることになった。そういう種類の人間に出会ったのは僕には生まれて初めてだった。そして彼はまた運転手つきのメルセデスに乗っているわりには、あまり偉そうなところはなかった。僕が訪ねていって実はお嬢さんと結婚をしたいのですがと言うと、「もうどちらも子供じゃないんだから、お互いが好きなのなら、結婚すればいいさ」と言っただけだった。僕は世間的に見ればあまりぱっとしない会社に勤めるあまりぱっとしないサラリーマンだったが、そんなことは彼にとってはどうでもいいようだった。
 有紀子には兄が一人と妹が一人いた。兄の方は父親の会社のあとを継ぐことになっていて、そこで副社長として働いていた。人柄は悪くないのだが父親に比べるとどことなく影が薄いところがあった。兄弟の中では大学生の妹がいちばん外向的で派手で、他人に命令するのに馴れていた。彼女が父親のあとを継いだ方がいいんじゃないかという気がしたくらいだった。
 結婚して半年ほどしてから、父親が僕を呼んで今の会社を辞めるつもりはないのかと尋ねた。僕がその教科書出版社の仕事をあまり気に入っていないということを妻から聞いたのだ。
「辞めることにはまったく問題はありません」と僕は言った。「でもそのあと何をするかというのが問題になりますね」
「うちの会社で働く気はないか。仕事はちょっときついかもしれんが、給料はいいぞ」と彼は言った。
「僕はたしかに教科書の編集には向いていないと思いますが、たぶん建設業にはもっと向かないと思います」と僕は正直に答えた。「誘っていただいたのは非常に嬉しいんですが、向かないことをやるとあとになって結局ご迷惑をかけることになると思うんです」
「それはそうだ。向かないことを無理にやることはない」と父親は言った。彼は僕がそういう答えを返すことをあらかじめ予期していたようだった。そのとき僕らは酒を飲んでいた。長男は酒をほとんど飲まなかったので、彼はときどき僕と一緒に酒を飲むことがあった。「ところでうちの会社が青山に一軒ビルを持ってるんだ。今建てているところで、来月にはだいたい仕上がる。場所もいいし、建物もいい。今はちょっと奥まっているように見えるかもしれんが、これから伸びる場所だよ。よかったらそこで何か商売をやらないか。会社の持ち物だから家賃も敷金も相場はもらうことになるが、もし本当にやる気があるんなら資金は要るだけ貸してやるよ」
 僕はそれについてしばらく考えてみた。悪くない話だった。
 
 結局僕はそのビルの地下でジャズを流す、上品なバーを始めることにした。僕は学生時代にそういう店でアルバイトをずっとやっていたから、経営のおおよそのノウハウは呑み込んでいた。どんな酒や食事を出して、客層をどのあたりに絞ればいいのか、どのような音楽を流せばいいのか、どのような内装にすればいいのか、だいたいのイメージは頭の中にあった。内装の工事に関しては妻の父親が全部引き受けてくれた。彼は最高のデザイナーと最高の内装業者をつれてきて、相場から見れば安い値段でかなり手のこんだ工事をさせた。仕上がりはたしかに見事だった。
 店は予想を遥かに越えて繁盛し、二年後にはやはり青山にもう一軒別の店を出した。こちらの方はピアノ・トリオを入れたもっと規模の大きな店だった。手間もかかったし、相当な資金をつぎ込むことになったが、かなり面白い店ができたし、客もよく入った。それで僕はやっと一息つくことができた。僕は与えられたチャンスをなんとかものにすることができたのだ。その頃、僕には最初の子供が生まれた。女の子だった。最初のうちは僕も店のカウンターに入ってカクテルを作ったりしていたが、店が二軒に増えるとそんな余裕もなくなって、店の管理と経営だけに専念するようになった。僕は仕入れの交渉をし、人手を確保し、帳簿をつけ、すべての物事が円滑に運ぶように気を配った。様々なアイデアを思いついて、それをすぐに実行に移した。食事のメニューも自分でいろいろと作って試してみた。それまでは気がつかなかったのだが、僕はそういう仕事にけっこう向いているようだった。僕はゼロから何かを作り上げたり、その作り上げたものを時間をかけて丁寧に改良したりする作業を愛した。そこは僕の店であり、僕の世界であった。そのような喜びは教科書会社で校閲をしているときには決して味わえなかった種類のものだった。
 僕は昼のあいだに様々な雑用をこなし、夜になると毎晩二軒の自分の店をまわってカウンターでカクテルを味見しなから、客の反応を観察し、従業員の仕事ぶりをチェックし、音楽を聴いた。毎月義父に借金を返しつづけてはいたが、それでもかなりの収入があった。僕らは青山に4LDKのマンションを買い、BMW320を買った。そして二人めの子供を作った。そちらも女の子だった。僕は二人の娘の父親になったのだ。
 三十六になったときには、僕は箱根に小さな別荘を持っていた。妻は自分の買い物と子供たちの移動のために赤いジープ・チェロキーを買った。店の方はどちらもかなりの収益をあげていたからその金で三軒めを出すことはできたのだが、それ以上支店の数を増やすつもりは僕にはなかった。店が増えればどうしても細かいところに目が行き届かなくなるし、おそらくそれを管理するだけでくたくたになってしまうだろう。それに僕はこれ以上仕事のために自分の時間を犠牲にしたくはなかった。妻の父親にそのことで相談すると、彼は余った金を株と不動産に投資することを勧めてくれた。それなら手間も時間も取らないだろうと。でも僕は株についても不動産についてもまったくと言っていいくらい何も知らなかった。僕がそう言うと、「細かいことは俺にまかせておけばいい。俺が言うとおりにやっていればまず間違いない。こういうことにはちゃんとしたやり方というものかあるんだ」と義父は言った。彼が言うとおりに僕は投資をした。そしてそれは短期間にかなり大きな収益をあげた。
「なあ、わかっただろう」と義父は言った。「ものごとにはそれなりのやり方というものがあるんだ。会社勤めなんかしてたら、百年たってもこううまくはいかない。成功するためには幸運だって必要だし、頭だって良くなくちゃならない。それは当然だ。でもそれだけじゃ足りないんだ。まず資金が必要だ。十分な資金がなければ何もできやしない。しかしそれよりももっと必要なのは、やり方を知ることなんだよ。やり方を知らなければ、他の全部が揃っていたって、まずどこにも行けない」
「そうですね」と僕は言った。義父の言わんとすることは僕にはよくわかった。彼の言うやり方[#「やり方」に傍点]というのは、彼がこれまでに築き上げてきたシステムのことなのだ。有効な情報を呑み込み、人的ネットワークの根を張り、投資し、収益をあげるためのタフで複雑なシステムのことだ。収益された金はときには様々な法律や、税金の網を巧妙にくぐり抜け、あるいは名前を変え、かたちを変えて、増殖していく。彼はそういうシステムの存在を僕に教えようとしているのだ。
 たしかにもし義父に出会わなかったなら、僕はたぶん今でも教科書を編集していたはずだった。そして西荻窪のぱっとしないマンションに住んで、エアコンのききのわるい中古のトヨタ・コロナにでも乗っていたことだろう。僕はたしかに与えられた条件のなかでかなりうまくやったと思う。僕は二軒の店を短期間で軌道に乗せ、全部で三十人以上の従業員を使い、水準を遥かに越えた収益を上げていた。経営は税理士が感心するくらい優良だったし、店の評判も良かった。とはいっても、その程度の才覚のある人間なら世の中にはいくらでもいる。僕でなくても、それくらいのことができる人間はほかにもいる。でも義父の資金と、そのやり方[#「やり方」に傍点]を抜きにしては僕ひとりでは何もできなかっただろう。そう思うと僕は居心地の悪さを感じないわけにはいかなかった。なんだか自分ひとりが不正な近道をして、不公平な手段を使って、いい思いをしているような気がした。僕らは六〇年代後半から七〇年代前半にかけての、熾烈な学園闘争の時代を生きた世代だった。好むと好まざるとにかかわらず、僕らはそういう時代を生きたのだ。ごくおおまかに言うならそれは、戦後の一時期に存在した理想主義を呑み込んで貪っていくより高度な、より複雑でより洗練された資本主義の論理に対して唱えられたノオだった。少なくとも僕はそう認識していた。それは社会の転換点における激しい発熱のようなものだった。でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理[#「より高度な資本主義の論理」に傍点]によって成立している世界だった。結局のところ、僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。僕はBMWのハンドルを握ってシューベルトの『冬の旅』を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだった。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。ハンドルを握っている僕の手の、いったいどこまでが本当の僕の手なんだろう。このまわりの風景のいったいどこまでが本当の現実の風景なんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。
 でも僕はおおむね幸せな生活を送っていたと言っていいと思う。不満と呼べるほどのものは僕にはなかった。僕は妻を愛していた。有紀子は穏やかで思慮深い女性だった。彼女は出産のあとから少し太り始めて、ダイエットとワークアウトが重要な関心事になっていた。でも僕は彼女のことをあいかわらず美しいと思っていた。僕は彼女と一緒にいるのが好きだったし、彼女と寝るのが好きだった。彼女の中には何か僕を慰撫し、安心させてくれるものがあった。僕は何があっても、もう二度とあの二十代のうら寂しい孤独な生活に戻りたくなかった。ここが自分の場所なんだと僕は思った。ここにいれば僕は愛されて、護られている。そしてそれと同時に僕は妻と娘たちを愛し、護っているのだ。それは僕にとってはまったく新しい体験であり、自分がそういう立場に立ってやっていくことができるのだということは思いがけない発見であった。
 僕は上の娘を車で毎朝私立の幼稚園まで送り、カー・ステレオで子供の歌をかけて二人で歌った。それから家に帰って、近くに借りた小さなオフィスに行く前に下の娘と遊んだ。夏の週末には四人で箱根の別荘に泊まりに行った。僕らは花火を見たり、湖でボートに乗ったり、山道を散歩したりした。
 僕は妻が妊娠しているあいだに何度か軽い浮気をしたことかあった。でもそれは深刻なものではなかったし、長くも続かなかった。僕は一人の相手とは一度か二度しか寝なかった。多くてせいぜい三度だった。正直に言って、僕には自分が浮気をしているという明確な自覚すらなかった。僕が求めていたのは「誰かと寝る」という行為そのものだったし、相手の女たちもまた同じようなものを求めていたのだと思う。僕はそれ以上の深入りを避けたし、そのためには慎重に相手を選んだ。僕はたぶんそのとき、彼女たちと寝ることによって何かを試してみたかったのだろう。自分が彼女たちの中に何を見出せるのか、彼女たちが僕の中に何を見出すのか、そういうことを。
 
 最初の子供が生まれて少ししてから、僕は実家から転送されてきた一通の葉書を受け取った。それは会葬御礼の葉書だった。そこには女性の名前が書いてあった。その女性は三十六歳で亡くなったのだ。しかし僕はその名前には心当たりがなかった。消印は名古屋になっていた。名古屋には僕の知り合いは一人もいなかった。でもしばらく考えているうちに、その女性があの京都に住んでいたイズミの従姉であることに思い当たった。僕は彼女の名前をすっかり忘れてしまっていたのだ。そして彼女の実家は名古屋だった。
 その葉書を送ってきたのがイズミであることは考えるまでもなくわかった。彼女以外に僕のところにそんなものを送ってくる相手はいない。でもイズミがいったい何のためにそんな通知を送ってきたのか、最初のうち僕にはよくわからなかった。でも何度かその葉書を見ているうちに、僕はそこに彼女の硬く冷たい感情を読み取ることができた。イズミはまだ僕のやったことを忘れてもいないし、許してもいないのだ。そして彼女はそのことを僕に知らせたかったのだ。そのためにイズミはこの葉書を僕に送ってきたのだ。イズミは今きっとあまり幸せではないのだろう。僕にはそれがなんとなくわかった。もし彼女が今幸せだとしたら、彼女は僕のところにこんな葉書を送ってはこないだろう。もし送ってくるにしても、そこに何か一言メッセージなり説明なりを書き加えることだろう。
 それから僕はその従姉のことを考えた。僕は彼女の部屋と彼女の肉体のことを思い出した。僕らの激しい性交のことを思い出した。それらのものはかつてはあんなにありありと存在していたのに、今ではもうまったく存在していない。それらは風に吹き払われる煙のように消えてしまった。彼女がどうして死んだのか、僕には見当もつかなかった。三十六というのは人が自然に死ぬ年齢ではない。そして彼女の姓は昔のままだった。結婚していないか、あるいは結婚して離婚したかだ。
 僕にイズミの消息を教えてくれたのは、僕の高校時代の同級生だった。彼は『ブルータス』の「東京バー・ガイド」という特集記事に載っていた僕の写真を目にして、それで僕が青山で店を経営していることを知ったのだ。彼はカウンターに座っていた僕のところにやってきて、やあ久しぶりだな、元気か、と言った。とはいっても彼はべつに僕個人に会いに来たというわけでもなかった。ただ同僚と酒を飲みにきていて、たまたまそこに僕がいたので声をかけたのだ。
「この店は何度か来てたんだよ、前から。場所も会社の近くだしね。でも君がやっているとは全然知らなかったな。世間は狭いもんだ」と彼は言った。
 高校では僕はどちらかというとクラスからはみ出した存在だったが、彼は成績がよくスポーツもできてというまともな学級委員タイプだった。性格も穏やかで、でしゃばるところがなかった。感じが良いといってもいい男だった。彼はサッカー部に所属していて、もともと体が大きかったのだが、今ではそこにかなりの量の贅肉がついていた。顎は二重になりかけていて、紺のスリーピース・スーツのヴェストはいささか窮屈そうに見えた。これもみんな接待のせいだよ、と彼は言った。まったく商社なんかに勤めるもんじゃないね。残業は多い、接待には追いまくられる、転勤はしょっちゅう、成績が悪きや尻を蹴飛ばされる、成績が良きやノルマを上げられる、まともな人間のやることじゃないよ。彼の会社は青山一丁目にあったから、仕事の帰りに僕の店までは歩いて来ることができた。
 僕らは高校時代の同級生が十八年ぶりで会って話すような話をした。仕事はどうだとか、結婚して子供が何人いるだとか、誰それにどこで会ったというようなことだ。そのときに彼はイズミの話をしたのだ。
「君があの頃つきあっていた女の子がいただろう。いつも一緒にいた子。大原っていう女の子だったよね」
「大原イズミ」と僕は言った。
「そうそう」と彼は言った。「大原イズミ。あの子にこのあいだ会ったよ」
「東京で?」と僕はびっくりして言った。
「いや、違う。東京じゃない。豊橋だよ」
「豊橋?」と僕はもっとびっくりして言った。「豊橋って、あの愛知県の豊橋?」
「そうだよ。その豊橋だよ」
「よくわからないな。なんで豊橋なんかでイズミに会うんだよ。どうしてイズミがそんなところにいるんだ?」
 彼はそのときの僕の声の中に、何か硬くこわばったものを聞きとったらしかった。「どうしてだかは知らないよ。とにかく彼女と豊橋で会ったんだよ」と彼は言った。「いや、まあそんなたいした話じゃないんだ。本当に彼女だったかどうかもわからないしさ」
 彼はワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックのおかわりを注文した。僕はウオッカ・ギムレットを飲んでいた。
「たいした話じゃなくてもかまわないよ。話してくれ」
「というか、それだけじゃないんだ」と彼はちょっと困ったような声で言った。「たいした話じゃないというのはね、つまり、ときどきそれが本当に起こったことじゃないような気がするっていうことなんだよ。それはすごく変な感じなんだよ。まるですごくリアルな夢を見ていたような、そんな感じなんだ。本当に起こったことのはずなのに、どういうわけか現実の出来事とは思えないんだよ。どうもうまく説明できないけれど」
「でも本当に起こったことなんだろう?」と僕は訊いた。
「本当に起こったことだ」と彼は言った。
「じゃあ聞きたいね」
 彼はあきらめたように頷いて、運ばれてきたウィスキーを一口飲んだ。
「僕が豊橋に行ったのは、そこに妹が住んでいるからなんだ。名古屋に出張があって、それが金曜日で終わったから、豊橋で妹の家に一泊して帰ってくることにしたんだ。そこで彼女に会ったんだよ。僕が妹の住んでいるマンションのエレベーターに乗ったら、そこに彼女がいたんだ。僕はずいぶん似た人がいるなと思っていた。でもまさかそれが本当に大原イズミだとは思わなかった。まさか豊橋の妹のマンションのエレベーターで彼女に出会うなんて思わないものな。それに顔だってずいぶん変わっていた。どうして彼女だってすぐにわかったのか、自分でも理解できないくらいだよ。きっと勘みたいなもんだね」
「でもイズミだったんだね?」
 彼は頷いた。「彼女はたまたまうちの妹と同じ階に住んでいたんだ。僕らは同じフロアでエレベーターを下りて、同じ方向に廊下を歩いていった。そして彼女は妹の住んでいる部屋のふたつ手前のドアの中に入って行った。僕は気になったんで、ドアの表札を見てみた。そこには大原って書いてあった」
「向こうは君には気づかなかったの?」
 彼は首を振った。「僕とあの子とはクラスこそ同じだったけどとくに親しく話をするような仲じゃなかったし、それにだいいちこっちはあの頃に比べたら体重が二十キロも増えているんだよ。わかるわけないさ」
「でも本当に大原イズミだったのかな。大原という名はそんなに珍しい姓じゃないし、似た顔だってけっこうあるだろう」
「そこなんだよ。僕もそれが気になったから、妹に聞いてみたんだ。あの大原っていうのはどういう人なんだって。すると妹はマンションの住民の名簿を見せてくれた。ほら、よくあるだろう。壁の塗り替えの積立をするとか、そういうのを決定するやつ。そこに住人の名前が全部書いてあるんだ。そこにはちゃんと大原イズミって書いてあった。カタカナのイズミだよ。姓が大原で名前がカタカナのイズミというのはそれほど沢山はいないよ」
「ということは、彼女はまだ独身なのかな」
「妹もそれについては何も知らなかった」と彼は言った。「大原イズミさんは、そこのマンションでは謎の人なんだ。誰も彼女と口を利いたことがない。廊下ですれ違って挨拶しても返事がかえってこない。用事があってベルを押しても出てこない。いても出てこないんだ。どうやらご近所で人気のある人柄ではないようだったね」
「ねえ、それはきっと人違いだよ」と僕は言った。そして笑いながら首を振った。「イズミはそういう女じゃない。必要がなくても人に会ったらにこにこ挨拶する性格だぜ」
「オーケー。たぶん人違いだと思う」と彼は言った。「同名異人だ。とにかくこの話はよそうよ。あまり面白くない」
「でもその大原イズミは一人でそこに住んでいるんだね?」
「だと思う。これまで男が出入りしていたのを見た人はいないそうだ。何をして生計を立てているのかも、誰も知らない。すべては謎なんだ」
「それで、君はどう思った?」
「どう思ったって、何を?」
「彼女のことだよ。その同名異人だか何だかわからない大原イズミのことだ。エレベーターの中で顔を見て、どう思った。つまり元気そうだとか、あまり元気がなさそうだとか、そういうこと」
 彼はしばらく考えていた。「悪くないよ」と彼は言った。
「悪くないって、どんな風に?」
 彼はウィスキーのグラスをからからと音を立てて振った。「もちろんそれなりに年を取った。それはそうだよ、もう三十六だもんな。僕も君もみんな三十六だ。新陳代謝も鈍った。筋肉も衰えてくる。いつまでも高校生じゃない」
「もちろん」と僕は言った。
「もうこの話はやめようぜ。どうせたぶん人違いなんだからさ」
 僕はため息をついた。そしてカウンターの上に両手を置いて彼の顔を見た。「ねえ、僕は知りたいんだよ。知らなくちゃならないんだ。実を言うと、僕とイズミとは高校を出る直前にずいぶんひどい別れ方をしたんだ。僕がろくでもないことをやってイズミを傷つけたんだ。そしてそれ以来、彼女がどうなったのか僕には知りようもなかった。彼女が今どこにいて何をしているのか、ぜんぜんわからないんだ。僕はそのことがずっと胸につっかえていた。だからどんなことでもいいから、それがいいことでも悪いことでもいいから、正直に言ってほしいんだよ。君はそれが大原イズミだったことを知っているんだろう」
 彼は頷いた。「それなら言うけど、間違いないよ。あの子だよ。君には悪いと思うけどね」
「それで本当は彼女はどんなだったんだ?」
 彼はしばらく黙っていた。「なあ、このことはわかってほしいんだけれど、僕も同じクラスにいて、あの子のことは可愛いと思っていたんだ。いい子だったよ。性格もいいし、キュートだった。とくべつ美人というわけじゃない。でもなんというか、魅力があった。人の心をかきたてるものがあった。そうだろう?」
 僕は頷いた。
「本当に正直に話していいかな?」と彼は言った。
「いいよ」と僕は言った。
「ちょっときついかもしれないけど」
「かまわない。本当のことが知りたい」
 彼はまた一口ウィスキーを飲んだ。「僕は君が彼女といつも一緒にいるのを見ていてうらやましかった。僕だってああいうカールフレンドがほしかった。まあ今だから正直に言うけどさ。だからこそ彼女の顔ははっきりと覚えていたんだ。頭の中にくっきりと焼きついているんだよ。だから十八年後にエレベーターの中で突然会ってもばっと思い出せたんだ。つまり僕が言いたいのは、僕にはあの子のことを悪く言うような理由は何もないということだ。僕にだってそれはちょっとしたショックだったんだよ。僕だってそんなことは認めたくなかったんだよ。でもこれだけは言える。あの子はもう可愛くはないよ」
 僕は唇を噛んだ。「どういう風に可愛くないんだろう」
「あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖かっているんだ」
「怖がっている?」と僕は言った。僕はよくわけがわからなくて、彼の顔をじっと見た。この男は言葉の選び方を間違えているのだ、と僕は思った。「どういうことだよ。その怖がっているっていうのは?」
「ねえ、この話は本当にもうやめよう。そもそも言いだすべきじゃなかったんだ」
「彼女は子供たちに何か言うのかな?」
「彼女は誰にも何も言わないんだよ。さっきも言ったようにさ」
「じゃあ子供たちは彼女の顔を怖がるわけかい?」
「そうだよ」と彼は言った。
「何か傷でもあるのか?」
「傷はない」
「じゃあ何が怖いんだ?」
 彼はウィスキーを一口飲んで、それをそっとカウンターの上に置いた。そしてしばらくじっと僕の顔を見ていた。彼は少し困っているようでもあったし、迷っているようでもあった。でもそれとは別に、彼の顔には何かとくべつな表情が浮かんでいた。僕はそこに高校時代の彼の面影のようなものをふと認めることができた。彼は顔をあげてしばらく遠くの方をじっと見ていた。まるで川の流れていく先を見届けようとしているみたいに。それから彼は言った、
「僕にはそれがうまく説明できないし、また説明したくもないんだ。だからそれ以上は僕に尋ねないでくれ。君も自分の目で見ればそれがわかる。そして実際に見てない人間に向かってそれを説明することはできないんだよ」
 僕はそれ以上何も言わなかった。僕は頷いて、ウオッカ・ギムレットをすすっただけだった。彼の口調は穏やかだったけれど、そこにはそれ以上の追及を激しく撥ねつけるものがあった。
 それから彼は仕事で二年間ブラジルに駐在していたときの話をした。信じられるかい、僕はサンパクロで中学校のときの同級生に会ったんだぜ。そいつはトヨタのエンジニアをやっていて、サンパウロで仕事してたんだ。
 でももちろん僕はそんな話をほとんど聞いていなかった。帰り際に彼は僕の肩を叩いた。「なあ、年月というのは人をいろんな風に変えていっちゃうんだよ。そのときに君と彼女とのあいだで何かあったのかはしらない。でもたとえ何があったにせよ、それは君のせいじゃない。程度の差こそあれ、誰にだってそういう経験はあるんだ。俺にだってある。嘘じゃないよ。俺にだって同じような覚えはあるんだ。でも仕方ないことなんだよ、それは。誰かの人生というのは結局のところその誰かの人生なんだ。君がその誰かにかわって責任を取るわけにはいかないんだよ。ここは砂漠みたいなところだし、俺たちはみんなそれに馴れていくしかないんだ。なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画見たことあるだろう?」
「あるよ」と僕は言った。
「あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」
 彼が帰ってしまったあとも、僕はカウンターで一人で酒を飲んでいた。店が終わって、客がいなくなってしまい、従業員か片付けと掃除を終えて帰ってしまったあとも、一人でそこに残っていた。僕はこのまますぐに家に帰りたくはなかった。僕は妻に電話をかけて、今日は店の用事で少し遅くなると言った。そして店の照明を消し、真っ暗な中でウィスキーを飲んだ。氷を出すのが面倒だったので、ストレートで飲んでいた。
 みんなどんどん消えていってしまうんだ、と僕は思った。あるものは断ち切られたようにふっと消え去り、あるものは時間をかけて霞んで消えていく。そしてあとには砂漠だけが残るんだ[#「そしてあとには砂漠だけが残るんだ」に傍点]。
 夜明け前に店をでたときには、青山通りには細かい雨が降っていた。僕はひどく疲れていた。雨は墓石のようにしんとしたビルの群れを音もなく湿らせていた。僕は車を店の駐車場に残したまま家まで歩いた。途中でしばらくカードレールに腰をかけ、信号機の上で鳴いている大きな一羽のからすを眺めた。午前四時の街はひどくうらぶれて汚らしく見えた。そのいたるところに腐敗と崩壊の影がうかがえた。そしてそこにはまた僕自身の存在も含まれていた。まるで壁に焼きつけられた影のように。

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