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《国境以南 太阳以西》09
日期:2017-02-16 19:00  点击:544
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 それからずいぶん長いあいだ島本さんは姿を見せなかった。僕は毎晩『ロビンズ・ネスト』のカウンターに座って長い時間を過ごした。僕は本を読みながら、ときどき入口のドアに目をやった。でも彼女はやってこなかった。僕は自分が島本さんに対して何か間違ったことを言ってしまったのではないかと心配になってきた。何か余計なことを言って彼女を傷つけてしまったのではないだろうかと。僕はあの夜に自分が口にしたことをひとつひとつ思い返し、彼女が口にしたことを思い出した。でも思い当たるようなことはとくに何もなかった。あるいは島本さんは僕と会って本当はがっかりしてしまったのかもしれない。それは十分にあり得ることだった。彼女はあんなに美しく、そして脚だってもう悪くはない。彼女は僕の中に、自分にとって貴重なものをもはや何も見いだせなかったのだろう。
 年が暮れていき、クリスマスが過ぎ、新年がやってきた。そしてあっと言う間に一月が終わった。僕は三十七になった。僕はもうあきらめて、彼女を待つのをやめることにした。僕は『ロビンズ・ネスト』にはほんの少ししか顔を出さないようになった。そこに行けばつい彼女
のことを思い出してしまったし、客席に島本さんの姿を追い求めてしまったからだ。僕はパーのカウンターに座って、本のページを開き、あてのない物思いに耽るようになった。何かに神経を集中することに僕は困難を感じるようになった。
 彼女は僕のことを自分にとってのただ一人の友だちだと言った。生まれてこのかたただひとりの友だちだと言ったのだ。僕はそれを聞いてとても嬉しかった。僕らはまたもう一度友だちになれるだろうと思った。僕はいろんなことを彼女に話したかった。そしてそれについての彼女の意見を聞きたかった。もし彼女が自分について何も語りたくないとしても、それはそれでかまわないと思った。島本さんに会えて話ができるだけで、僕は嬉しかった。
 でもそれっきり彼女は姿を見せなかった。あるいは島本さんは僕に会いに来る暇もないくらい忙しかったのかもしれない。でも三カ月というのはあまりにも長い空白だった。——もし本当に来ることができなかったのだとしても、電話をかけることくらいはできたはずだ。結局彼女は僕のことを忘れてしまったのだろう、と僕は思った。僕という人間はもう彼女にとってはそれほど大事な存在ではないのだろう。そう思うと僕は辛かった。まるで心の中に小さな穴があいてしまったような気分だった。彼女はあんなことを口にするべきではなかったのだ。ある種の言葉はいつまでも人の心に残るものなのだ。
 でも二月の初めの、やはり雨の降る夜に彼女はやってきた。音のない、凍てついた雨だった。その夜僕はたまたま用事があって、早い時間から『ロビンズ・ネスト』に出ていた。客が持ち込んでくる傘が冷やかな雨の匂いを漂わせていた。その夜はピアノ・トリオにテナー・サックスが飛び入りで入って何曲かを演奏した。かなり有名なサックス奏者で、客席は沸いていた。いつものカウンターの隅の席に腰掛けて本を読んでいると、隣の席に島本さんが音もなくやってきて座った。
「今晩は」と彼女は言った。
 僕は本を置いて彼女の顔を見た。彼女が本当にそこにいることが僕にはうまく信じられなかった。
「もう君は二度とここに来ないのかと思ってたよ」
「ごめんなさい」と島本さんは言った。
「怒ってる?」
「怒ってなんかいないよ。僕はそんなことで怒ったりなんかしない。ねえ島本さん、ここはお店なんだ。お客はみんな来たいときに来て、帰りたいときに帰っていくんだよ。僕はただ人々が来るのを待っているだけなんだ」
「でもとにかくごめんなさい。うまく説明できないんだけれど、とにかく私にはここに来ることができなかったの」
「忙しかったの?」
「忙しくなんかない」と彼女は静かな声で言った。「忙しかったわけじゃないの。ただここに来ることができなかっただけ」
 彼女の髪は雨に濡れていた。湿った前髪が額に幾筋か張りついていた。僕はウェイターに新しいタオルを持ってこさせた。
「ありがとう」と言って彼女はそのタオルを受け取り、髪を拭いた。それから煙草を取り出し、自分のライターで火をつけた。雨に濡れて冷えたせいか指が少し震えていた。「細かい雨だったし、タクシーに乗るつもりでレインコー卜だけで出てきたんだけれど、歩いているうちになんだかずいぶん長く歩いちゃったの」
「何か温かいものでも飲む?」と僕は尋ねた。
 島本さんは僕の顔をのぞきこむようににっこりと微笑んだ。「ありがとう。でも大丈夫」
 僕はその微笑みを見ると、三カ月間の空白のことなんて一瞬にして忘れてしまった。
「何を読んでいるの?」と彼女は僕の本を指さして言った。
 僕は彼女に本を見せた。それは歴史の本だった。ヴェトナム戦争のあとに行われた中国とヴェトナムとの戦争を扱った本だ。彼女はそれをぱらぱらと読んで僕に返した。
「もう小説はあまり読まないの?」
「小説も読むよ。でも昔ほど沢山は読まないし、新しい小説のことはほとんど何も知らない。読んでいるのは古い小説ばかりだよ。ほとんどが十九世紀の小説だね。それも昔読んだものを読み返すことが多いな」
「どうして新しいものを読まないの?」
「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない」
「そうね、まあ年をとったというのはたしかね」と彼女は言って、いたずらっぽく笑った。
「君はまだよく本を読んでる?」
「ええ、いつも読んでるわよ。新しいのも古いのも。小説も、小説じゃないのも。つまらないのも、つまらなくないのも。あなたとは逆に、私はきっとただ本を読んで時間をつぶしていくのが好きなのね」
 そして彼女はバーテンターに『ロビンズ・ネスト』を注文した。僕も同じものを頼んだ。彼女は運ばれてきたカクテルを一口飲み、軽く頷いてからそれをカウンターの上に置いた。
「ねえハジメくん、どうしてここのお店のカクテルはどれを飲んでも他のお店のよりおいしいのかしら?」
「それなりの努力を払っているからだよ」と僕は言った。「努力なしにものごとが達成されることはない」
「たとえばどんな努力?」
「たとえば彼だよ」と僕は言って、真剣な顔つきでアイスピックで氷を砕いている若いハンサムなバーテンターを示した。「僕はあの子にとても高い給料を払っている。みんながちょっとびっくりするくらいの額の給料だよ。そのことは他の従業員には内緒に」であるけれどね。どうしてあの子にだけそんな高い給料を払っているかというと、彼には美味いカクテルを作る才能があるからだよ。世間の人にはよくわかっていないみたいだけれど、才能なしには美味いカクテルを作ることはできないんだ。もちろん誰でも努力すれば、けっこういいところまではいく。何カ月か見習いとして訓練すれば、客に出して恥ずかしくないくらいのものはちゃんと作れるようになる。たいていの店が出しているカクテルはその程度のものだ。それでももちろん通用する。でもその先にいくには特別な才能が必要なんだ。それはピアノを弾いたり、絵を描いたり、百メートルを走ったりするのと同じことなんだ。僕自身もかなりうまくカクテルを作れると思う。ずいぶん研究もしたし練習もした。でもどう転んでも彼にはかなわない。同じ酒を入れて、同じように同じ時間だけシェーカーを振っても、できたものの味が違うんだ。どうしてかはわからない。それは才能というしかないものなんだよ。芸術と同じなんだよ。そこには一本の線があって、それを越えることのできる人間と、越えることのできない人間とがいる。だから一度才能のある人間をみつけたら、大事にして離さないようにする。高い給料を払う」。その男の子はホモ・セクシュアルで、おかげでゲイの連中がカウンターに集まることもあった。でも彼らは静かな人々だったし、僕はとくに気にもしなかった。僕はその男の子のことが気に入っていたし、彼も僕を信頼して、よく働いてくれた。
「あなたにはひょっとして見かけより経営の才能があるのかしら?」と島本さんは言った。
「経営の才能なんて僕にはないな」と僕は言った。「僕は実業家なんかじゃない。小さな店を二軒持っているだけだよ。それにこれ以上店の数を増やすつもりはないし、これ以上大きく儲けようというようなつもりもない。そんなのは才能とも手腕とも呼べない。でもね、僕は暇があればいつも想像するんだ。もし自分が客だったらってね。もし自分が客だったら、誰とどんな店に行って、どんなものを飲んだり食べたりしたいと思うだろう。もし僕が二十代の独身の男で、好きな女の子を連れていくんだったら、どういう店に行くだろう。そういう状況をひとつひとつ細かいところまで想像していくんだ。予算はどれくらいなのか。どこに住んでいて、何時頃までに帰らなくてはならないのか。そういう具体的なケースをいくつもいくつも考える。そういう考えをかさねていくうちに、店のイメージがだんだん明確なかたちをとっていくんだ」
 島本さんはその夜はライト・ブルーのタートルネックのセーターに、紺色のスカートをはいていた。耳には小さなイヤリングかふたつ光っていた。ぴったりとした薄いセーターは乳房のかたちを綺麗に浮かび上がらせていた。そしてそれは僕の胸を息苦しくさせた。
「もっと話してくれる?」と島本さんは言った。そしてまたいつもの楽しげな微笑みを顔に浮かべた。
「何について?」
「あなたの経営方針について」と彼女は言った。「そういう風にあなたが話しているのを聞くのって素敵だわ」
 僕は少し赤くなった。人前で赤くなったりしたのは本当に久しぶりだった。「それは経営方針というほどのものじゃないんだ。ただね島本さん、僕は思うんだけど、そういう作業には、僕は昔から慣れているんだよ。一人で頭の中でいろんなことを考える。想像力を働かせる。それは小さい頃から僕がずっとやってきたことなんだよ。ひとつの架空の場所を作って、それをひとつひとつ丁寧に肉づけしていく。ここはこうすればいい、あれはこっちに変えた方がいいってね。シミュレーションのようなものだね。前にも言ったように、僕は大学を出てからずっと教科書を出版する会社に勤めていた。そこでの仕事というのは本当につまらないものだった。何故なら僕はそこでは想像力というものを働かせることができなかったからだよ。そこではむしろ想像力を殺すことが仕事だったんだ。だから僕は仕事が退屈でしかたなかった。会社に行くのが嫌でしかたなかった。本当に息が詰まりそうだった。そこにいると僕は自分がだんだん小さく縮んでいって、そのうちに消えてなくなってしまうんじゃないかという気がした」
 僕はカクテルを一口飲み、ゆっくりと客席を見渡した。雨の降っているわりには席はよく埋まっていた。遊びにきたテナー奏者がテナーをケースに仕舞いこんでいた。僕はウェイターを呼んで、彼のところにウィスキーのボトルを一本持っていって、何か食べるものはいらないかと訊くように言った。
「でもここではそうじゃない。ここでは想像力を働かせないことには、生き残っていけないんだ。そして僕は頭の中で思いついたことをすぐに実行に移すことができる。ここには会議もないし、上役もいない。前例もないし、文部省の意向もない。それは本当に素敵なことなんだよ、島本さん。君は会社に勤めたことはある?」
 彼女は微笑みをうかべたまま首を振った。
「ないわ」
「それはよかった。会社というところは僕には向いていない。きっと君にも向いていない。八年間その会社で働いたおかげで僕にはそれがよくわかるんだ。僕はそこで八年間、人生をほとんど無駄に費やした。二十代のいちばんいい歳月だよ。よく八年も我慢できたと思う。でもその年月がなかったら、たぶん店もこんな風にはうまくいかなかっただろうね。そう思うんだ。僕は今の仕事が好きだよ。僕は今二軒の店を持っている。でもそれはときどき、僕が自分の頭の中に作りだした架空の場所にすぎないように思えることかある。それはつまり空中庭園みたいなものなんだ。僕はそこに花を植えたり、噴水を作ったりしている。とても精妙に、とてもリアルにそれを作っている。そこに人々がやってきて、酒を飲んで、音楽を聴いて、話をして、そして帰っていく。どうして毎晩毎晩多くの人が高い金を払ってわざわざここに酒を飲みに来ると思う? それは誰もがみんな、多かれ少なかれ架空の場所を求めているからなんだよ。精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、その風景の中に自分も入り込むために、彼らはここにやってくるんだよ」
 島本さんは小さなパースの中からセイラムを出した。彼女がライターを手に取る前に、僕はマッチを擦って、それに火をつけた。僕は彼女の煙草に火をつけるのが好きだった。彼女が目を細め、そこに炎の影が揺れるのをみるのが好きだったのだ。
「正直に告白すると、私は生まれてこのかた一度も働いたことがないのよ」と彼女は言った。
「一度も?」
「ただの一度も。アルバイトしたこともないし、就職もしなかった。労働と名のつくものを経験したことがないの。だから私は今あなたが話したようなことを聞いていると、とてもうらやましいのよ。私はそういったものの考え方をしたことが一度もないの。私はいつもずっと一人で本を読んでいただけ。そして私が考えるのは、どちらかといえばお金を使うことだけ」、そう言って彼女は両腕を僕の前にさしだした。彼女の右手には細い金のブレスレットが二本、左手にはいかにも高価そうな金の時計がはめられていた。彼女はその両手をいつまでも商品見本みたいに僕の前に差し出していた。僕は彼女の右手を取って、その手首のブレスレットをしばらく眺めていた。そして僕は十二歳のときに彼女に手を握られたことを思い出した。僕はそのときの感触を今でもまだありありと覚えていた。それがどれほど僕の心を震わせたかも覚えていた。
「お金の使い方だけを考えている方が、あるいはまともなのかもしれないよ」と僕は言った。
そして彼女の手を放した。手を放してしまうと、なんだか自分がそのままどこかに飛んで行ってしまいそうな錯覚に襲われた。「お金の儲け方を考えているとね、いろんなものがだんだん磨耗していくんだ。少しずつ、知らないうちにすり減っていくんだ」
「でもあなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものかということが」
「僕はそうは思わないね。君はいろんなものを生み出しているような気がするな」
「たとえばどんなものを?」
「たとえばかたちにならないものを」と僕は言った。僕は膝の上に置いた自分の両手に目をやった。
 島本さんはグラスを手に持ったまま長いあいだ僕を見ていた。「それは気持ちのようなもののこと?」
「そうだよ」と僕は言った。「なんだっていつかは消えてしまう。こんな店だっていつまで続いているかはわからない。人々の嗜好が少し変化し、経済の流れが少し変れば、今ここにある状況なんてあっという間に消えてしまう。僕はそんな実例を幾つも見てきた。本当に簡単なものだよ。かたちがあるものは、みんないつかは消えてしまう。でもある種の思いというものはいつまでもあとに残る」
「でもねハジメくん、残るだけ辛い思いというのもあるのよ。そうは思わない?」
 テナー奏者がやってきて、僕に酒の礼を言った。僕は演奏の礼を言った。
「最近のジャズ・ミュージシャンはみんな礼儀正しくなったんだ」と僕は島本さんに説明した。「僕か学生の頃はこんなじゃなかった。ジャズ・ミュージシャンといえば、みんなクスリをやっていて、半分くらいが性格破綻者だった。でもときどきひっくりかえるくらい凄い演奏が聴けた。僕はいつも新宿のジャズ・クラブに通ってジャズを聴いていた。そのひっくりかえるような経験を求めてだよ」
「そういう人たちが好きなのね、ハジメくんは」
「たぶんね」と僕は言った。「まずまずの素晴らしいものを求めて何かにのめり込む人間はいない。九の外れがあっても、一の至高体験を求めて人間は何かに向かっていくんだ。そしてそれが世界を動かしていくんだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う」
 僕は膝の上にある自分の両手をまたじっと眺めた。それから顔をあげて島本さんを見た。彼女は僕の話の続きを待っていた。
「でも今は少し違う。今では僕は経営者だからね。僕がやっているのは資本を投下して回収することだよ。僕は芸術家でもないし、何かを創り出しているわけでもない。そして僕はここでべつに芸術を支援しているわけではないんだ。好むと好まざるとにかかわらず、この場所ではそういうものは求められてはいないんだ。経営する方にとっては礼儀正しくてこぎれいな連中の方がずっと扱いやすい。それもそれでまた仕方ないだろう。世界じゅうがチャーリー・パーカーで満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」
 彼女はカクテルのお代わりを注文した。そして新しい煙草を吸った。長い沈黙があった。島本さんはそのあいだじっと何かを二人で考えているようだった。僕はベーシストが『エンブレサブル・ユー』の長いソロを続けているのに耳を澄ましていた。ピアニストが時折コードを小さく叩き、ドラマーは汗を拭いて、酒を一口飲んでいた。常連のひとりが僕のところにやってきて、短い世間話をした。
「ねえ、ハ、ジメくん」とずいぶんあとで島本さんは言った。「あなたどこか川を知らない? 綺麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、川原があって、あまり淀んだりせずに、すぐに海に流れ込む川。流れは早い方がいいんだけれど」
 僕はちょっと驚いて島本さんの顔を見た。「川?」と僕は言った。彼女がいったい何を言おうとしているのか、僕にはよくわからなかった。島本さんの顔には表情らしいものは何も浮かんではいなかった。彼女の顔は僕に向けて何も語ろうとはしていなかった。彼女はずっと遠くにある風景を見るように僕を静かに見ていた。あるいは実際に、僕は彼女からずっと遠く離れたところに存在しているのかもしれないという気がした。彼女と僕とのあいだは、想像もつかないほどの距離によって隔てられているのかもしれない。そう思うと僕はある種の哀しみを感じないわけにはいかなかった。彼女の目には、そういう哀しみを感じさせる何かがあった。
「どうして急に川が出てくるの?」と僕は訊いてみた。
「ただふと思いついて訊いてみただけ」と島本さんは言った。「そういう川を知らない?」
 僕は学生時代に、ひとりで寝袋をかついで旅行をして回っていた。だから日本じゅうでいろんな川を見てきた。でも彼女の注文どおりの川はなかなか思い出せなかった。
「日本海にひとつ、そういうのがあったような気がするな」としばらく考えたあとで僕は言った。「川の名前は覚えてない。でもたしかあれは石川県だったと思う。行けばわかるけどね。たぶんその川か君の注文にいちばん近いんじゃないかと思う」
 僕はその川のことをよく覚えていた。僕がそこに行ったのは大学の二年生か三年生の秋の休みのときだった。紅葉が美しく、まわりの山々はまるで血で染められたみたいに見えた。山が海に迫っていて、川の流れは美しく、ときどき林の中から鹿の声も聞こえた。僕はそこで美味い川魚を食べたことを覚えていた。
「私をそこに連れていくことはできる?」と島本さんは言った。
「石川県だよ」と僕は乾いた声で言った。「江ノ島に行くのとはわけが違う。飛行機に乗っていって、そこから車でまた一時間以上かかるんだよ。行けば泊まりがけになるし、君にもわかっていると思うけれど、それは今の僕にはできない」
 島本さんはスツールの上でゆっくりと体の向きを変え、僕を正面から見た。
「ねえ、ハジメくん。こんなことをあなたにお願いするのが間違っているということは、私にはよくわかっているのよ。それがあなたにとって大きな負担になるだろうということもよくわかっている。でも私にはあなたしか頼める人がいないの。私はどうしてもそこに行かなくてはいけないし、一人では行きたくないの。そしてあなたの他には、私は誰にもそれを頼むことができないのよ」
 僕は島本さんの目を見た。彼女の目はどんな風も届かない静かな岩陰にある深い湧水のたまりのように見えた。そこでは何も動かず、すべてかぴたりと静まっていた。じっと覗き込んでいると、その水面に映っているものの像が見わけられそうな気がした。
「ごめんなさい」と彼女はふっと体の力を抜くように笑った。「私はそんなことをあなたにお願いするためにここに来たわけじゃなかったの。私はただあなたに会ってお話をしたかっただけなの。こんな話を持ち出すつもりはなかったのよ」
 僕は頭の中でざっと時間を計算してみた。「朝早く出て飛行機で往復すれば、たぶん夜の早いうちに帰ってくることができるだろうと思う。向こうでどれくらい時間を取るかによるけれど」
「向こうではそんなに時間はかからないと思う」と彼女は言った。「ハジメくんは本当にその時間を作ることができるの? 私と一緒に飛行機でそこに行って帰ってくるだけの時間か」
「たぶんね」と僕は少し考えてから言った。「僕にはまだ何とも言えない。でもたぶん作ることはできると思う。明日の夜にでもここに連絡してくれないか。この時間には僕はここにいるよ。そしてそのときまでに予定を決めておく。君の予定は?」
「私はいつでもいいのよ。予定なんか何もない。私の方はあなたの都合のいいときにいつでも行けるから」
 僕は頷いた。
「いろいろとごめんなさい」と彼女は言った。「私は本当はあなたに会わなかった方がよかったのかもしれない。私はいろんなものを結局だいなしにしているだけなのかもしれない」
 十一時前に彼女は帰っていった。僕は傘をさして彼女のためにタクシーを停めた。雨はまだ降り続いていた。
「さようなら。いろいろとありがとう」と島本さんは言った。
「さようなら」と僕は言った。
 それから僕は店に戻り、カウンターの同じ席に戻った。そこにはまだ彼女の飲んでいたカクテル・グラスが残っていた。灰皿には彼女の吸ったセイラムの吸殻が何本か入っていた。僕はウェイターにそれを下げるようにとは言わなかった。僕はそのグラスと吸殻に残った淡い色合いの口紅をいつまでも眺めていた。
 
 家に帰ったとき妻はまだ起きて僕を待っていた。彼女はパジャマの上にカーディガンを羽織って、ヴィデオで『アラビアのロレンス』を見ていた。ロレンスが幾多の困難を乗り越えた末に砂漠を横断して、スエズ運河にようやくたどり着くシーンだった。彼女はその映画を、僕の知っているだけでも既に三回は見ていた。何度見ても面白い、と彼女は言った。僕は彼女のとなりに座って、ワインを飲みながら一緒にその映画を見た。
 今度の日曜日にスイミング・クラブの集まりがあるんだ、と僕は彼女に言った。クラブの中にけっこう大きなヨットを持っている人間が一人いて、僕らはこれまでにもときどきそれに乗って沖に出て遊ぶことがあった。そこで酒を飲んだり、釣りをしたりするのだ。二月はヨット遊びをするにはいささか寒すぎたけれど、妻はヨットについてはほとんど何も知らなかったから、とくにそのことには疑問も持たなかった。僕が日曜日に一人で出かけるのは珍しいことだったし、たまには誰か他の世界の人間と会って、外の空気を吸ってきた方がいいと彼女は思っているようだった。
「朝は早く出ていくよ。たぶん八時前には帰れると思う。夕食は家で食べるよ」と僕は言った。
「いいわよ。日曜日はちょうど妹が遊びに来ることになってるの」と彼女は言った。
「だからもし寒くなければみんなでお弁当を持って新宿御苑にでも遊びに行ってくるわ。女ばかり四人で」
「それもなかなか悪くないね」と僕は言った。
 翌日の午後、僕は旅行代理店に行って日曜日の飛行機の座席とレンタカーの予約をした。夕方の六時半に東京に戻ってくる便があった。それならなんとか夕食に間にあいそうだった。そ
れから僕は店に行って彼女からの連絡を待った。電話は十時にかかってきた。「なんとか時間は取れると思う。少し忙しいことは忙しいけれどね。今度の日曜日でいいかな?」と僕は言った。
 それでかまわないと彼女は言った。
 僕は飛行機の出発時刻と、羽田空港での待ち合わせの場所を教えた。
「本当にいろいろとごめんなさい」と島本さんは言った。
 僕は電話を切ってからカウンターに座ってしばらく本を読んだ。でも店の喧騒が気になってどうしても本に気持ちが集中できなかった。僕は洗面所に行って冷たい水で顔と手を洗い、鏡に映った自分の顔をじっと眺めてみた。俺は有紀子に嘘をついているんだ、と僕は思った。僕はこれまでに何度か彼女に嘘をついた。他の女と寝たときにも、ちょっとした嘘をついた。でも僕はそのとき自分が有紀子を騙しているという風には思わなかった。それらはただの害のない気晴らしだった。でも今回は駄目だ、と僕は思った。僕は島本さんと寝るつもりはない。でもそれでも駄目なのだ。僕は鏡に映った自分の目を久しぶりにじっと覗き込んでみた。でもその目は僕という人間の像を何も映し出してはいなかった。僕は洗面台に両手をついて深いため息をついた。

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