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島本さんと二人で石川県に行った四日後に義父から電話がかかってきた。ちょっと折入って話があるので、明日の昼飯でも一緒に食べないかという誘いだった。いいですよと僕は言ったが、正直言って少し驚いた。義父はきわめて忙しい人物だったし、彼が仕事の関係者以外と食事をするのは異例なことだったからだ。
義父の会社は半年ほど前に代々木から四谷にある新しい七階建での社屋に引っ越したばかりだった。自社ビルだったが、持ち主の会社は六階から上を使っているだけで、下の五階ぶんは別の会社やレストランや店舗に貸していた。僕はそのビルを訪れるのは初めてだった。そこでは何もかもが新しくぴかぴかに光っていた。ロビーの床は大理石で、天井は高く、大きな焼き物の花瓶には花がたっぷりと盛られていた。六階でエレベーターを下りると、受付にはシャンプーの宣伝に出てきそうな綺麗な髪の女の子が座っていて、僕の名前を電話で義父に伝えた。計算機つきのフライかえしみたいな恰好をしたダーク・グレイの電話機だった。それから彼女はにっこりと笑って、僕に「どうぞ、社長はお部屋でお待ちです」と言った。とてもゴージャスな笑顔だったけれど、島本さんの笑顔に比べるといくぶん見劣りがした。
社長室はビルのいちばん上の階にあった。大きなガラス窓から衝を見渡すことができた。それほど心なごむ景色とは言えなかったが、日当たりは良かったし、広々としていた。壁には印象派の絵がかけてあった。灯台と船の絵だった。スーラーの絵のように見えたが、あるいは本物かもしれない。
「見たところ景気がいいようですね」と僕は義父に言った。
「悪くない」と彼は言った。そして窓の脇に立って、外を指さした。「悪くない。それにこれからもっと良くなる。今が稼ぎ時だよ。俺たちの商売にとっちゃ、二十年、三十年に一度っていう好機なんだよ。今儲けなくちゃ儲けるときがないんだ。どうしてだかわかるか?」
「わかりませんね。建設業については素人ですから」
「いいか、ここからちょっと東京の街を見てみろよ。空き地がそこかしこにあるのがわかるだろう。まるで歯が抜けたみたいにあちこちに何も建っていない更地が見える。上から見るとよくわかるんだ。歩いていてもなかなかわからん。あれは古い家屋や古いビルが壊されたあとだよ。このところ土地の価格が急騰したんで、これまでのような古いビルではだんだん収益があがらなくなってきたんだ。古いビルでは高い家賃も取れないし、テナントの数も少なくなる。だから新しいもっと大きな入れ物が必要になってるんだ。個人の家だって、こう都心の土地が高くなると固定資産税やら相続税やらが払いきれない。だからみんな売ってしまう。都心の家を手はなして郊外に引っ越すんだ。そういう家を買うのはだいたいがプロの不動産屋だ。そういった連中はもとあった古い建物を壊して、そのあとに新しいもっと有効利用できる建物を建てる。つまりだな、あそこに見える空き地にはこれからビルかどんどん建ち並んでいくことになるんだよ。それもこの二、三年のうちにだよ。この二、三年のうちに東京の様相はがらっと変わってしまうんだよ。資金の問題もない。日本経済は活発だし、株価も上昇を続けている。銀行はたっぷり金を持っている。土地があれば銀行はそれを担保にいくらでも金を貸してくれるから、土地さえ持っていれば金には不自由することがない。だから次から次へとビルが建つ。そして誰がそんなビルを建てると思う。もちろん我々が建てるんだよ。言うまでもなく」
「なるほどね」と僕は言った。「でもそんなにいっぱいビルができたら、東京はいったいどうなるんですか」
「どうなるって……活発になり、もっともっと綺麗になり、もっと機能的になるだろうな。街の様相というのは、その経済の様相を如実に映し出すものだからな」
「活発になり、綺麗になり、機能的になるのはいいですよ。結構なことだと僕だって思います。だけど今だって東京の街は車で溢れているんですよ。これ以上ビルが増えたら、それこそ道路が身動きできなくなっちゃいますよ。水道だってちょっと雨が降らなかったらパンクします。それに全部のビルが夏場になってエアコンを一斉にかけたら、たぶん電力不足になるでしょう。その電気は中東の石油を燃やして作っているんですよ。また石油危機が来たらどうなるんですか」
「それは日本政府と東京都の考えることだよ。そのために俺らはえらい額の税金を払ってるんだろう。東大を出た役人がせっせと考えればいい。あいつらはいつも偉そうな顔して威張ってるんだ。まるで自分が国を動かしてるみたいな顔をしてな。だからたまには少しくらい、その上等な頭を使ってものを考えた方がいいんじゃないかな。俺は知らん。俺はただのしがない土建屋だよ。注文がくればビルを建てるんだ。そういうのを市場原理っていうんだよ。違うか?」
僕はそれについては何も言わなかった。べつに義父と日本経済のありかたについて議論をするためにここにきたわけではないのだ。
「まあむずかしいことを議論するのはよしにして、とにかく飯を食いにいこう。腹が減った」
と義父は言った。
僕らは電話のついた彼の黒い大きなメルセデスに乗って赤坂にある鰻屋に行った。奥の部屋に通されて、僕らは二人だけで向かい合って鰻を食べ、酒を飲んだ。まだ昼間なので僕は口をつける程度にしか飲まなかったが、義父はけっこう早いペースで飲んだ。
「それで話というのは何ですか?」と僕は切りだしてみた。悪い話なら先に聞いてしまいたかったのだ。
「実はちょっと頼みがあるんだ」と彼は言った。「いや、たいしたことじゃないんだけどね、お前の名前をちょいと借りたいんだ」
「名前を借りる?」
「今度新しい会社をひとつ作ろうと思うんだが、設立の名義人というのが必要なんだ。名義人といっても、別に何かとくべつな資格が必要なわけじゃない。ただ名前がそこにあればいいんだよ。お前には何も迷惑はかけないし、しかるべき礼はきちんとするよ」
「礼なんかいりませんよ」と僕は言った。「本当に必要ならいくらでも名前くらい貸しますよ。でもそれはいったい何の会社なんですか? 設立人のひとりに名前をつらねるからにはそれくらいは知っておきたいですからね」
「正確に言えば、何の会社でもないんだ」と義父は言った。「お前だから正直に言うけれど、それは何もしない会社なんだよ。名前だけ存在している会社だ」
「要するに幽霊会社ということですね? ペーパー・カンパニー。トンネル会社」
「まあそういうことだな」
「目的はいったい何ですか。節税ですか?」
「というのでもない」と彼は言いにくそうに言った。
「裏金ですか?」と僕は思い切って尋ねてみた。
「まあな」と彼は言った。「本当は好ましいことじゃないが、我々の商売ではそういうのが少しは必要になる」
「もし何か問題が出てきたら僕はどうなるんですか?」
「会社を作ること自体は合法的なんだよ」
「僕はその会社が何をするかを問題にしているんですよ」
義父はポケットから煙草を取り出し、マッチを擦って火をつけた。そして宙に向かって煙を吐いた。
「問題というほどのものはとくにないよ。それにもし仮に何か問題のようなものが出てきたとしてもだね、お前が俺に対する義理で名前を貸しただけだというのは誰か見てもわかる。女房の父親に頼まれて仕方なく名前を貸したんだってな。誰もお前のことを責めたりはしないよ」
僕はそれについてしばらく考えてみた。
「その裏金はいったいどこに行くためのものなんですか?」
「そういうのは知らん方がいいよ」
「僕は市場原理についてもう少し詳しい内容が知りたいんですよ」と僕は言った。「行く先は政治家ですか?」
「それもまあ少しはある」と義父は言った。
「官僚ですか?」
父は煙草の灰を灰皿に落とした。「おいおい、それをやると贈賄になるぜ。後ろに手がまわる」
「でも多かれ少なかれ業界ではみんなやっていることでしょう?」
「まあ少しはな」と彼は言った。そして難しい顔をした。「後ろに手が回らない程度にはな」
「暴力団はどうですか? 土地の買収には連中が役に立つでしょう」
「それはない。俺は昔からあいつらのことが好きじゃない。俺は土地の買い占めまではやらんよ。金にはなるが、それはやらん。俺はただ上屋《うわもの》を建てるだけだ」
僕は深いため息をついた。
「こういう話はきっとお前には気に入らんだろうな」
「でも僕が気に入っても気に入らなくても、あなたは僕のことをもうちゃんと予定に入れて話を先まで進めているんでしょう。僕が承諾するということを前提にして?」
「実はそうだ」と彼は言って、力なく笑った。
僕はため息をついた。「ねえお父さん、正直に言って僕はこういうのはあまり好きじゃないんです。僕は何も社会的な不正が許せないとかそういうことを言ってるわけじゃないんですよ。でもご存じのように、僕は当たり前の生活をしている当たり前の人間です。できたらそういう裏側の物ごとにはあまり巻き込まれたくないんです」
「それは俺にもよくわかっているよ」と義父は言った。「そんなことはわかっている。だからここはひとつ俺にまかせておいてくれ。とにかくお前に迷惑がかかるようなことは絶対にしない。もしそんなことになれば、結果的に有紀子にも孫たちにも迷惑がかかることになるからな。俺がそんなことをするわけはないだろう。俺が娘と孫とをどれくらい大事にしてるか知ってるだろう?」
僕は頷いた。何を言ったところで僕は義父の頼みを断れるような立場にはない。そう思うと気が重くなった。僕は少しずつ少しずつ世界に足を搦めとられているのだ。まずこれが一歩だ。これを引き受ける。するとこの次にはたぶん、また何か別のものがやってくるだろう。
僕らはそれからしばらく食事を続けた。僕はお茶を飲んでいたが、義父はまだ速いペースで酒を飲みつづけていた。
「なあ、お前は幾つになったっけなや」と義父が突然尋ねた。
「三十七です」と僕は言った。
義父はじっと僕の顔を見ていた。
「三十七といえば遊びたい盛りだな」と彼は言った。「仕事もばりばりできるし、自信もついてくる。だから女もけっこう向こうから寄ってくる。違うか?」
「残念ながらそれほど沢山は寄ってきませんね」と僕は笑って言った。そして彼の表情をうかがった。僕は一瞬義父が僕と島本さんのことを知っていて、その話をするために僕をここに呼んだのかと思った。でも彼の口調には何かを追及するようなはりつめた響きはなかった。彼はただ僕を相手に世間話をしているだけなのだ。
「俺もその年頃にはずいぶん遊んだもんだ。だからお前にも浮気をするなとは言わんよ。娘の亭主にこんなことを言うのも変なもんだが、むしろ適当に遊んだ方がいいと思っているくらいなんだ。ときにはその方がすっきりするんだ。適当にそういうのは解消しておいた方が、家庭もうまくいくし、仕事にも集中できる。だから俺はお前がどこかで他の女と寝ていても、それは責めないよ。でもな、遊ぶのはいいが遊ぶ相手だけはきちんと選んだ方がいいぞ。うっかり選び方を間違えると、人生を踏み誤ることになる。俺は幾つもそういう例を見てきた」
僕は頷いた。それから僕は有紀子の兄の夫婦仲がうまくいっていないという話を彼女の口から聞いたことをふと思い出した。有紀子の兄は僕よりひとつ年下だったが、他に女を作って、あまり家に帰らないようになってしまったということだった。義父はたぶんその長男のことが気になっているのだろうと僕は想像した。だから僕を相手にこんな話を持ち出したのだろう。
「なあ、あまりつまらん女は相手に選ぶな。つまらん女と遊んでいると、そのうちに本人までつまらん人間になってしまう。馬鹿な女と遊んでいると、本人まで馬鹿になってしまう。でも、かといってあまりいい女とも遊ぶな。あまりいい女と関わると、もとに戻れなくなってしまう。もとに戻れなくなると、行き迷うことになる。俺の言ってることはわかるだろう」
「なんとか」と僕は言った。
「幾つかのことに気をつければそれでいいんだよ。まず女に家を世話しちゃいけない。これは命取りだ。それから何があっても午前二時までには家に帰れ。午前二時が疑われない限界点だ。もうひとつ、友だちを浮気の口実に使うな。浮気はばれるかもしれない。それはそれで仕方ない。でも友だちまでなくすことはない」
「ずいぶん経験的に聞こえますね」
「そのとおり。経験でしか人は学ぶことはできないんだ」と彼は言った。「経験から学べない人間だって中にはいる。でもお前はそうじゃない。俺は思うんだけどな、お前には人を見る目というのかある。そういうものは経験から学ばない人間には身につかないものなんだ。俺はお前の店に二、三度しか行ったことがないけれど、それは一目見ればわかる。お前はなかなか良い人間を集めて、うまく使っているよ」
僕は黙って話の成り行きを見ていた。
「女房を選ぶ目もある。結婚生活でもお前はこれまでのところずっとうまくやってきた。有紀子もお前と二人で幸せに暮らしている。子供たちもふたりともいい子だ。それについては俺は感謝してるんだ」
今日はだいぶ酔っているようだなと僕は思った。でも僕は何も言わずに黙って話を聞いていた。
「たぶんお前は知らんと思うけど、有紀子は一度自殺しかけたことがあるんだ。睡眠薬を飲んだんだ。病院に担ぎ込まれて二日間意識が戻らなかった。俺はもうあのときは駄目だと思ったよ。体がつめたくなって、呼吸もないくらいになっていたんだ。これはもう確実に死ぬと思った。目の前が真っ暗になったよ」
僕は顔を上げて義父の顔を見た。「それはいつのことですか?」
「二十二のときだよ。大学をでてすぐだった。原因は男のことだ。その男とは婚約までしてたんだ。つまらん男だった。有紀子は見かけはおとなしいけれど、芯はしっかりした子だ。頭だっていい。だからどうしてあんなつまらん男に関わったのか、俺にはいまだに理解できんのだけどな」、義父は床の間の柱にもたれかかり、煙草をくわえて火をつけた。「でもまあそれが有紀子にとっては最初の男だった。最初というのは誰だって多かれ少なかれ間違いを犯すもんだ。しかし有紀子の場合はそのショックが大きかったんだよ。だから自殺まで図ったんだ。そしてそのあとずっと、あの子は男とは一切つきあおうとはしなかった。それまではけっこう積極的な子供だったんだが、その事件があってからはろくに外にも出なくなった。無口になって、いつも家の中にひきこもっていた。でもお前と知り合ってつきあうようになってから、とても明るくなったんだ。人が変わったようになった。たしか旅先で出会ったんだっけな?」
「そうです。八ヶ岳です」
「あれだって俺が勧めてほとんど無理やりに送りだしたんだ。たまには旅行くらい行ってこいって」
僕は頷いた。「自殺のことは知らなかったな」と僕は言った。
「知らない方がいいと思ったから、これまでは言わないことにしていたんだ。でもそろそろもう知っておいたほうがいいと思うんだ。お前たちはこれから長いあいだ一緒に暮らしていくんだから、いいことも悪いことも一応全部知っておいた方がいいだろう。もうずいぶん昔の話だしな」、義父は目を閉じて煙草の煙を宙に吐いた。「親の俺が言うのもなんだけど、あれはいい女だよ。俺はそう思う。俺はいろいろと女遊びもしてきたから、女を見る目はできてると思うんだ。自分の娘だろうがなんだろうが、女の良い悪いはちゃんと見分けられる。同じ俺の娘でも顔だちは妹の方が美人だが、人間の出来はぜんぜん違う。お前は人を見る目があるよ」
僕は黙っていた。
「なあ、お前にはたしか兄弟がいなかったな?」
「いません」と僕は言った。
「俺には三人子供がいる。それで、俺は三人の子供たちみんなのことを公平に好きだと思うか?」
「わかりませんね」
「お前はどうだい。二人の娘はどっちも同じくらい好きかい?」
「同じくらい好きですね」
「それはまだ小さいからだよ」と義父は言った。「子供だってもっと大きくなると、こっちにもだんだん好みというものが出てくる。あちらにも好みは出てくるけれど、こっちにだって出てくる。それはお前にも今にわかるよ」
「そうですか」と僕は言った。
「俺は、お前にだから言うけど、三人の子供の中では有紀子がいちばん好きなんだ。他の子には悪いと思うけど、それはたしかなんだ。有紀子とは気が合うし、信用できる」
僕は頷いた。
「お前には人を見る目があるし、人を見る目があるというのは、ものすごく大きな才能なんだよ。その目をいつまでも大事にした方がいい。俺自身はくだらん人間だけれど、くだらんものだけを生み出しているわけじゃないんだ」
僕はかなり酔っぱらった義父をメルセデスに乗せた。彼は後部席に座ると、脚を開いてそのまま目を閉じた。僕はタクシーを拾って家に帰った。家に帰ると有紀子が父親と僕とがどんな話をしたのか聞きたがった。
「たいした話なんて何もなかったんだよ」と僕は言った。「お父さんはただ誰かと一緒に酒が飲みたかっただけさ。ずいぶん酔ってたみたいだけど、これから会社に帰ってちゃんと仕事ができるのかな、あれで」
「いつもそうなのよ」と有紀子は笑って言った。「昼間からお酒を飲んで寝ちゃうの。そして社長室のソファーで一時間くらい昼寝するの。でも会社はまだ潰れてないでしょう。だから大丈夫なのよ、放っておけば」
「でも以前に比べればずいぶん酒に弱くなったような気がするな」
「そうね。あなたは知らないだろうけど、お母さんが死ぬまでは、どれだけ飲んでも絶対顔には出なかったのよ。底抜けに強かったの。でも仕方ないわよ。みんな年を取るんだもの」
彼女はコーヒーを新しく作り、僕らは台所のテーブルでそれを飲んだ。幽霊会社の名義人に名前を連ねる話は有紀子には言わないでおくことにした。それを知ったら、父親が僕に迷惑をかけたことで彼女はきっと嫌な気持ちになるだろうと思ったからだった。「たしかにお父さんからお金は借りたわよ。でもそれとこれとは話が別でしょう。だってあなたはそのお金をちゃんと利子もつけて返しているじゃない」と有紀子は言うことだろう。でもそんな簡単な問題ではないのだ。
下の娘は自分の部屋でぐっすりと眠っていた。僕はコーヒーを飲んでしまうと、有紀子をベッドに誘った。僕らは服を脱いで裸になり、明るい昼の光の下で静かに抱き合った。僕は時間をかけて彼女の体を温めてから中に入った。でもその日、僕は彼女の中に入りながら、ずっと島本さんのことを考えていた。僕は目を閉じて、今自分は島本さんを抱いているのだと思った。自分は今島本さんの中に入っているのだと想像した。そして僕は激しく射精した。
僕はシャワーを浴びてから、またベッドに入って少し眠ることにした。有紀子はもうきちんと服を着ていたが、僕がベッドに戻るととなりに入ってきて僕の背中に唇をつけた。僕は目を閉じたままじっと黙っていた。僕は島本さんのことを考えながら彼女と交わったことで、うしろめたさを感じていた。僕は目を閉じたままじっと黙っていた。
「ねえ、あなたのことが本当に好きよ」と有紀子は言った。
「もう結婚して七年経って、子供も二人いるんだぜ」と僕は言った。「そろそろ飽きてもいい頃だろう」
「そうね。でも好きなのよ」
僕は有紀子の体を抱いた。そして彼女の服を脱がせはじめた。僕は彼女のセーターとスカートを取り、下着を取った。
「ねえ、あなたまさかまたもう一度……」と有紀子はびっくりして言った。
「もちろんもう一度やるんだよ」と僕は言った。
「ふうん、日記につけておかなくちゃ」と有紀子は言った。
今度は僕は島本さんのことを考えないように努めた。僕は有紀子の体を抱きしめ、顔を見て、有紀子のことだけを考えた。僕は有紀子の唇と喉と乳首に口づけした。そして有紀子の体の中に射精した。射精し終わったあとも、僕はそのままずっと彼女の体を抱きしめていた。
「ねえ、どうかしたの?」と有紀子は僕の顔を見て言った。「今日お父さんと何かあったの?」
「何もないよ」と僕は言った。「まったく何もない。でもしばらくのあいだこうしていたいんだ」
「いいわよ、好きなようにして」と彼女は言った。そして僕を中に入れたまま僕の体をじっと強く抱きしめていてくれた。僕は目を閉じて、自分がどこかに行ってしまわないように彼女の体に僕の体を押しつけていた。
僕は有紀子の体を抱きながら、さっき義父に聞かされた彼女の自殺未遂の話をふと思い出した。(俺はもうあのときは駄目だと思ったよ、これはもう確実に死ぬと思った)。あるいはちょっと間違えばこの体ももう消えてなくなっていたかもしれないのだ、と僕は考えた。僕は有紀子の肩や髪や乳房にそっと手を触れてみた。それは温かく、柔らかく、確かだった。僕は有紀子の存在を手のひらに感じることができた。でもそんなものがいつまで存在しつづけるのかは誰にもわからない。かたちのあるものはあっという間に消えてしまうのだ。有紀子も、そしてこの僕らのいる部屋も。この壁もこの天井もこの窓も、気かついたときにはみんな消えてしまっているかもしれないのだ。それから僕はイズミのことをふと思い出した。おそらくその男が有紀子を深く傷つけたのと同じように、僕もイズミを深く傷つけたのだろう。有紀子はそのあとで僕にめぐり会った。でもおそらくイズミは誰にもめぐり会わなかったのだろう。
僕は有紀子のやわらかな首にキスをした。
「少し眠るよ」と僕は言った。「それから幼稚園に迎えに行ってくる」
「ぐっすり眠りなさい」と彼女は言った。
僕はほんの少し眠っただけだった。目が覚めたのは午後の三時すぎだった。寝室の窓からは青山墓地が見えた。僕は窓際の椅子に腰をおろして、長いあいだその墓地をじっと眺めていた。いろんなものの風景が島本さんの現れる前とあととではずいぶん違って見えるような気がした。台所からは有紀子が夕食の下ごしらえをしている音が聞こえてきた。それは僕の耳には虚ろに響いた。ずっと遠くにある世界からパイプか何かをつたって聞こえてくる音のように思えた。
それから僕はBMWを地下の駐車場から出して幼稚園に上の娘を迎えに行った。その日は幼稚園で何かとくべつな催しかあったせいで、娘が外に出てきたのは四時少し前だった。幼稚園の前にはいつものように綺麗に磨かれた高級車が並んでいた。サーブやらジャカーやらアルファ・ロメオやらの姿が見えた。いかにも上等そうなコートを着た若い母親がそこから出てきて、子供を受け取り、車に乗せて家に帰っていった。父親が迎えに来ているのは僕の娘だけだった。僕は娘をみつけると名前を呼び、大きく手を振った。娘も僕の姿を目にとめてその小さな手を振り、こちらにやって来ようとした。でもその前にブルーのメルセデス260Eの助手席に乗った女の子の姿をみつけると、何かを叫びながらそちらの方に走っていった。その女の子は赤い毛糸の帽子をかぶって、停まった車の窓から身を乗り出していた。その娘の母親は赤いカシミアのコートを着て、大きなサングラスをかけていた。僕がそこまで行って娘の手を取ると、彼女は僕に向かってにっこりと微笑んだ。僕も微笑み返した。その赤いカシミアのコートと大きなサングラスは僕に島本さんのことを思い出させた。僕が渋谷から青山まであとをつけていったときの島本さんをだ。
「こんにちは」と僕は言った。
「こんにちは」と彼女も言った。
綺麗な顔立ちの女だった。歳はどうみでも二十五より上には見えなかった。カー・ステレオはトーキング・ヘッズの『バーニング・ダウン・ザ・ハウス』をかけていた。後部座席には紀ノ国屋の紙袋が二個乗っていた。彼女の笑顔はなかなか素敵だった。娘はその友だちとひそひそ声でしばらく何かを話してから、じゃあねと言った。じゃあね、とその女の子も言った。そしてボタンを押してするするとガラス窓を閉めた。僕は娘の手をひいてBMWを停めたところまで歩いていった。
「どうだい、今日いちにち何か楽しいことはあった?」と僕は娘に尋ねた。
彼女は大きく首を振った。「楽しいことなんて何もなかった。ひどかった」と彼女は言った。
「まあお互いに大変だったな」と僕は言った。それから身をかがめて彼女の額にキスした。彼女は気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取るときのような顔つきで僕のキスを受け入れた。
「でも明日はもっと楽になるよ、きっと」と僕は言った。
僕だってできることならそう信じたかった。明日の朝になって目がさめたら、世界はもっとすっきりとしたかたちを取っていて、いろんなことが今よりもっと楽になっているに違いないと。でもそんな風にうまくはいかない。明日になっても、おそらく事態はもっとややこしくなっているだけだろうと僕は思った。問題は僕が恋をしていることなのだ。そして僕にはこのように妻がいて、娘がいるのだ。
「ねえ、お父さん」と娘は言った。「私、お馬に乗りたいの。いつか私のためにお馬を買ってくれる?」
「ああ、いいよ。いつかね」と僕は言った。
「いつかって、いつ?」
「お父さんのお金がたまったらね。お金がたまったらそれで馬を買おう」
「お父さんも貯金箱を持ってるの?」
「うん、大きいのを持ってるよ。この自動車くらい大きい奴を持ってるんだ。それくらいお金をためないと馬は買えないからね」
「おじいちゃんに頼んだらお馬を買ってくれると思う? おじいちゃんはお金持ちなんでしょう」
「そうだよ」と僕は言った。「おじいちゃんはあそこにある建物くらい大きい貯金箱をもってるんだ。お金もいっぱい入っている。でも大きすぎてなかなか中のお金を取り出すことができないんだ」
娘はそれについてしばらく一人で考えこんでいた。
「でもおじいちゃんに一度訊いてみていいかしら。お馬を買ってほしいって」
「そうだね、一度訊いてみるといいな。ひょっとしたら買ってくれるかもしれないからね」
マンションの駐車場に着くまで僕は彼女と馬の話をしていた。どんな色の馬が欲しいのか。
どんな名前をつけるのか。馬に乗ってどこに行きたいのか。馬はどこに寝かせるのか。彼女を駐車場からエレベーターに乗せると、僕はそのまままっすぐに店に向かった。そして明日はいったいどうなるんだろうと思った。僕は車のハンドルに両手を載せ、目を閉じた。僕は自分の体の中にいるようには思えなかった。僕の体はどこかから間に合わせに借りてきた一時的な入れものみたいに感じられた。俺は明日はいったいどうなるんだろう、と僕は思った。僕はできることなら娘にすぐにでも馬を買ってやりたかった。いろんなものが消えうせてしまう前に。何もかもが損われて駄目になってしまう前に。