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《国境以南 太阳以西》12
日期:2017-02-16 19:02  点击:488
    12
 
 それから春が来るまでの二カ月ほどのあいだに、僕は島本さんとほとんど毎週のように会っていた。彼女はときどきふらりと店にやってきた。バーの方に来ることもあったか、『ロビンズ・ネスト』に来ることの方が多かった。来るのはいつも九時過ぎだった。そしてカウンターに座ってカクテルを二杯か三杯飲んで、十一時頃には帰っていった。彼女かいると、僕はその隣に座って話をした。店の従業員たちが僕と彼女のことをどう思っていたのかは知らない。でも僕はそんなことをほとんど気にもしなかった。小学校のときに同級生たちか僕らのことをどう思おうとほとんど気にもとめなかったのと同じように。
 ときおり彼女は店に電話をかけてきて、明日の昼間にどこかで待ち合わせしないかと言った。僕らはだいたい表参道にあるコーヒーハウスで待ち合わせた。そして二人で軽い食事をしたり、そのへんを散歩をしたりした。彼女が僕と一緒にいる時間はだいたい二時間か長くて三時間というところだった。帰る時刻がやってくると、彼女は時計に目をやって、それから僕を見てにっこりと微笑み、「さあもうそろそろ行かなくちゃ」と言った。それはいつものように本当に素敵な微笑みだった。しかし僕はその微笑みの中に、彼女がそのときに抱いている感情らしきものをほとんど読み取ることができなかった。彼女がもう行かなくてはならないことを辛く思っているのか、あるいはそれほど辛くは思っていないのか、あるいは僕と別れることができてほっとしているのか、それすら読み取ることができなかった。その時刻に本当に彼女がどこかに帰らなくてはならないのかどうかさえ、僕にはたしかめようもなかった。
 でもとにかく、その別れの時刻かくるまでの二時間か三時間のあいだ、僕らはかなり熱心に話をした。でも僕が彼女の肩を抱いたり、彼女が僕の手を握ったりするようなことはもうなかった。僕らはもう二度と体を触れ合わせなかった。
 東京の街の中では、島本さんはまた以前のクールで魅力的な笑顔を取り戻していた。あの二月の寒い日に、石川県にいったときに見せたような感情の激しい揺れ動きは、もう目にすることはできなかった。そのときに僕らのあいだに生じた温かい自然な親しみも、もう戻ってこなかった。とくに申し合わせたわけではないのだが、その奇妙な小旅行で起こったことが、我々の口にのぼることは一度もなかった。
 僕は彼女と肩を並べて歩きながら、彼女はその心の中にどんなものを抱え込んでいるのだろうとよく思った。そしてそれらのものごとは彼女をこれからどこへ連れていこうとしているのだろう。僕はときどき彼女の瞳を覗き込んでみた。でもそこには穏やかな沈黙があるだけだった。彼女の瞼についた一本の小さな線は、あいかわらず僕に遠くの水平線を思わせた。僕は高校時代にイズミが僕に対して抱いたであろう孤独感のようなものを、今では少しは理解できるような気がした。島本さんの中には彼女だけの孤立した小世界がある。それは彼女だけが知っていて、彼女だけが引き受けている世界だった。僕にはそこに入っていくことができなかった。その世界の扉は一度だけ僕に向けて開きかけた。でも今ではその扉はまた閉じてしまっていた。
 それについて考え始めると、何が正しくて何が間違っているのかよくわからなくなった。僕は自分がもう一度あの無力で途方に暮れた十二歳の少年に戻ってしまったような気がした。彼女を前にすると、自分が何をすればいいのか、自分が何を言えばいいのか、判断することができなくなってしまうのだ。僕は冷静になろうとした。頭を働かせようとした。でも駄目だった。僕はいつも自分が彼女に向かって何か間違ったことを言って、何か間違ったことをしているように感じた。でも僕が何を言っても何をやっても、いつも彼女はすべての感情を呑み込んでしまうような、あの魅力的な微笑みを浮かべて僕を見ていた。「いいのよ、別に。それでいいんだから」とでもいうように。
 僕は今の島本さんが置かれている状況についてほとんど何一つ知識を持たなかった。彼女かどこに住んでいるのかも知らなかった。誰と住んでいるのかも知らなかった。彼女がどこから収入を得ているのかも知らなかった。結婚しているのか、あるいはかつて結婚したことがあるのかどうかも知らなかった。ただ一度だけ子供を生んで、その子供は翌日には死んでしまった。それは去年の二月のことだった。そして彼女はこれまでに一度も働いたことがないと言った。でも彼女はいつも高価な服を着て、高価な装身具を身に着けていた。それが意味するのは、彼女はどこかで高い収入を得ているということだった。僕が彼女に関して知っていると言えるのはそれだけだった。たぶん子供を生んだときには彼女は結婚していたのだろう。でももちろん確証があるわけではない。それはただの推測に過ぎない。結婚せずに子供を生むことだってないわけではないのだ。
 それでも何度か会っているうちに島本さんは少しずつ、中学校や高校時代の話をするようになった。その時代のことは現在の状況とは直接的な関係を持たないので、話しでもべつにさしつかえないと思っているようだった。そして僕は彼女がその当時どれくらい孤独な日々を送っていたかを知った。彼女はまわりの人々に対して出来るだけ公平になろうとした。そして何があっても言い訳することをしなかった。「私は言い訳だけはしたくないの」と島本さんは言った。「人間というのは一度言い訳を始めると、限りなく言い訳をしてしまうものだし、私はそういう生き方をしたくないの」。でもそういう生き方は、その時代の彼女のためにはうまく作用しなかった。それはまわりの人々のあいだに多くのつまらない誤解を生み出したし、そのような誤解は島本さんの心を深く傷つけた。彼女はどんどん自分の中に閉じこもるようになっていった。朝起きると、彼女はよく嘔吐した。学校に行くのが嫌だったからだ。
 彼女は一度高校に入った頃の写真を見せてくれた。その写真の中で島本さんはどこかの庭のカーデン・チェアに座っていた。庭にはひまわりの花が咲いていた。季節は夏だった。彼女はデニムのショート・パンツをはいて、白いTシャツを着ていた。そして彼女は本当に美しかった。彼女はカメラに向かってにっこりと微笑みかけていた。その微笑みは今よりはいくらかぎこちなかったけれど、それでも素晴らしい微笑みだった。ある意味では不安定なぶんだけ人の心を打つ微笑みだった。それは不幸な日々を送っている孤独な少女の微笑みには見えなかった。
「この写真を見ているかぎりでは、君は幸せそのもののように見えるけどね」と僕は言った。
 島本さんはゆっくりと首を振った。何か遠い昔の情景を思い出すときのように目のわきにチャーミングな皺が寄った。
「ねえハジメくん、写真からは何もわからないわ。それはただの影みたいなものなのよ。本当の私はもっと違うところにいるのよ。それは写真には写らないのよ」と彼女は言った。
 その写真は僕の胸を痛くさせた。その写真を見ていると、僕は自分がこれまでにどれほど多くの時間を失ってしまったのかを実感することができた。それはもう二度と戻ってくることのない貴重な時間だった。どれだけ努力しても二度と取り戻すことのできない時間だった。それはそのときのその場所にしか存在しなかった時間だった。僕は長いあいだじっとその写真を見つめていた。
「どうしてそんなに熱心に見ているの?」と島本さんは言った。
「時間を埋めるためだよ」と僕は言った。「僕はもう二十年以上君に会ってなかったんだ。その空白を少しでもいいから埋めたいんだ」
 彼女はちょっと不思議な感じのする微笑を浮かべて僕の顔を見ていた。まるで僕の顔に何かおかしなところかあるみたいに。「変なものね。あなたはその歳月の空白を埋めようとしている。私はその同じ歳月を少しでも空白にしてしまいたいと思っているのに」と彼女は言った。
 中学校から高校にかけて、島本さんにはずっとボーイフレンドというものがいなかった。なんといっても彼女は綺麗な娘だったから、声をかけてくる人間がいないわけではなかった。でも彼女はそういった男の子たちとはほとんどつきあわなかった。何度かつきあおうとしたことはあったのだが、長くはつづかなかった。
「あの年頃の男の子たちのことが、きっと私はあまり好きになれなかったのね。わかるでしょう。あの頃の男の子たちつて、みんながさつで、自分のことしか考えていなくて、女の子のスカートの下に手を入れることしか頭にないんだもの。何かそういうことがあると、私はがっかりしてしまったの。私が求めていたのは、昔あなたとよく一緒にいたときに存在したようなものだったのよ」
「ねえ島本さん、十六のときには、僕だって自分のことしか考えていなくて、女の子のスカートの下に手をいれることしか頭にないがさつな男の子だったと思うね。間違いなくそうだった」
「じゃあ私たちはその頃に会わないでよかったのかもしれないわね」と島本さんは言って、にっこりと笑った。「十二で離ればなれになって、三十七でまたこういう風に出会って……、私たちにとってはそれがいちばん良かったんじゃないかしら」
「そんなものかな」
「今のあなたは女の子のスカートの下に手を入れる以外のことだって少しは考えられるでしょう?」
「少しはね」と僕は言った。「少しは。でももし僕の頭の中のことが気になるんなら、今度会うときはズボンをはいてきた方がいいかもしれないな」
 島本さんはテーブルの上に両手を載せて、笑いながらそれをしばらく眺めていた。彼女の指にはあいかわらず指輪がなかった。彼女はブレスレットをよくつけたし、腕時計もいつも違うものをつけていた。イヤリングもつけた。でも指輪だけははめなかった。
「それに私は男の子たちの足手まといになるのが嫌だったの」と彼女は言った。「わかるでしょう。私にはできないことがいっぱいあったのよ。ピクニックに行ったり、泳ぎに行ったり、スキーやらスケートに行ったり、ディスコに行ったり、私にはそういうことができなかったのよ。散歩をするときだってゆっくりとしか歩けなかった。私にできることといえば、二人で一緒に座って、お話をしたり、音楽を聴いたりしているだけ。そしてその年代の普通の男の子というのは、そういうのに長い時間は耐えられないのよ。私にはそれが嫌だったの。他人の足手まといにだけはなりたくなかったの」
 彼女はそう言って、レモンを入れたペリエを飲んだ。それは三月の半ばの暖かい午後だった。表参道を歩く人の中には半袖のシャツを着た若者の姿も見えた。
「もしその頃にあなたとつきあっていたとしでも、きっと私は最後にはあなたの足手まといになっていたと思うわ。あなたは私にきっとうんざりするようになったと思う。あなたはもっと活動的で、もっと大きな広い世界に飛びだして行きたいと思ったはずよ。そしてそういう結果を迎えることは私にとっては辛いことだったでしょうね」
「ねえ、島本さん」と僕は言った。「そんなことはありえないんだ。僕は君にうんざりしたりはしなかったと思う。何故なら僕と君とのあいだには何か特別なものがあるからだよ。それが僕にはよくわかるんだ。言葉では説明できない。でもそれはちゃんとそこにあるし、それはとても貴重で大切なものなんだ。そのことはきっと君にもわかっているはずだよ」
 島本さんは表情を変えずに、僕をじっと見ていた。
「僕はべつに立派な人間じゃない。他人に自慢できるほどのものも持ちあわせていない。それに昔は今よりもっとがさつで、無神経で、傲慢だった。だからあるいは僕は君にふさわしい人間とはいえなかったかもしれない。でもね、これだけは言える。僕は君にうんざりしたりはしない。そういう点では僕は他の人間とは違うんだ。君に関していえば、僕は本当に特別な人間なんだ。僕はそれを感じることができる」
 島本さんはテーブルの上に置かれた自分の両手にもう一度目を向けた。彼女は十本の指のかたちを点検するみたいに、手を軽く広げていた。
「ねえ、ハジメくん」と彼女は言った。「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」
 
 僕らは一度、二人でコンサートに出かけたことがあった。リストのピアノ協奏曲を聴きにいったのだ。島本さんが電話をかけてきて、もし時間があったら一緒に聴きにいかないかと僕を誘った。演奏者は南米出身の有名なピアニストだった。僕は時間をあけて、彼女と一緒に上野のコンサート・ホールまで行った。それはなかなか見事な演奏だった。テクニックは文句のつけようがなかったし、音楽自体も緻密で奥行が深く、演奏者の熱い感情も随所に感じられた。でもそれにもかかわらず、いくらじっと目を閉じて意識を集中しようとしても、僕はどうしてもその音楽の世界に投入することが出来なかった。その演奏と僕とのあいだには薄いカーテンのような仕切りが一枚介在していた。それはあるのかないのかわらないくらいのとても薄いカーテンだったが、どれだけ努力しても僕にはその向こう側に行くことができなかった。コンサートのあとで僕がそう言うと、島本さんもだいたい僕と同じ感想を抱いていたことかわかった。
「でも、あの演奏のどこに問題があるんだと思う?」と島本さんは訊いた。「とてもいい演奏だったと思うんだけれど」
「覚えているかな? 僕らの聴いていたあのレコードでは、第二楽章の最後の方で二度小さなスクラッチ・ノイズが入ってたんだ。プチップチッで」と僕は言った。「あれがないと、僕はどうしても落ちつかない」
 島本さんは笑った。「そういうのは芸術的発想とは呼べそうにないわね」
「芸術なんかどうでもいい。そんなものは禿ワシにでも食われてしまえばいい。僕は誰がなんと言おうとあのスクラッチ・ノイズが好きだったんだ」
「たしかにそうかもしれない」と島本さんも認めた。「でも禿ワシっていったい何なの、それや私は禿タカは知ってるけど禿ワシというのは知らない」
 帰りの電車の中で僕は禿ワシと禿タカの違いについて彼女に細かく説明した。生息地の違いについて、鳴き声の違いについて、交尾期の違いについて。「禿ワシは芸術を食べて生きる。禿タカは名もなき人々の死体を食べる。ぜんぜん違う」
「おかしな人」と彼女は言って笑った。そして電車のシートの上でほんの少しだけ自分の肩と僕の肩とをつけた。それがその二カ月のあいだに僕らが体をくっつけあったただ一度の体験だった。
 そのようにして三月が過ぎ去り、そして四月がやってきた。下の娘も上の娘と同じ幼稚園に入った。娘たちが手を離れると有紀子は地域のヴォランティアのグループに入って、障害児の施設の仕事を手伝ったりするようになった。だいたいは僕が娘たちを幼稚園に送り届け、そして連れて帰った。僕に時間がなければ、妻かかわりに送り迎えをした。子供たちが少しずつ大きくなっていくことで、自分もまた少しずつ歳を取りつつあるのだということを知った。僕の思惑とは関係なく、子供たちはひとりでにどんどん大きくなっていくのだ。僕は娘たちのことをもちろん愛していた。彼女たちの成長を見るのは僕にとってはひとつの大きな幸福だった。でも娘たちが実際に一月ひとつきと大きくなっていくのを見ていると、ときどきひどく息苦しくなった。まるで自分の体の中で樹木がどんどん成長し、根を張り、枝を広げているみたいに感じられた。それが僕の内臓や筋肉や骨や皮膚を圧迫し、無理に押し広げていくようだった。そんな思いはときどき僕をうまく眠れないくらい息苦しくさせた。
 僕は週に一度島本さんと会って話をした。そして娘たちの送り迎えをし、週に何度か妻を抱いた。島本さんと会うようになってから、僕は前より頻繁に有紀子を抱くようになったと思う。でもそれは罪悪感からではなかった。有紀子を抱くことによって、そしてまた有紀子に抱かれることによって、僕は自分をなんとかどこかにつなぎ止めておきたかったからだった。
「ねえ、どうかしたの、あなたこの頃なんだか変よ」と有紀子は僕に言った。それはある日の午後に彼女と抱きあったあとのことだった。「三十七になると男の人の性欲が突然高まるなんていう話は聞いたことがないけど」
「べつにどうもしないよ。普通だよ」と僕は言った。
 有紀子はしばらく僕の顔を見ていた。そして小さく首を振った。
「やれやれ、あなたの頭の中にはいったい何が入っているのかしら」と彼女は言った。
 僕は暇な時間にはクラシック音楽を聴きながら、居間の窓から見える青山墓地をぼんやりと眺めた。もう以前ほど本を読まなくなった。本に気持ちを集中することがだんだん困難になってきたのだ。
 メルセデス260Eに乗った若い女とはそれからも何度か顔をあわせた。僕らは娘たちが幼稚園の門から出てくるのを待っているあいだ、ときおり世間話のようなものをした。僕らはだいたいにおいて青山近辺に住む人間にしか通じない実際的な話をした。どこのスーパーマーケットの駐車場がどの時間に比較的すいているとか、どこのイタリアン・レストランのシェフが代わってそれで味がかなり落ちたようだとか、明治屋の輸入ワインのバーゲンか来月あるだとか。やれやれこれじゃまるで主婦の井戸端会議だなと僕は思った。でも何はともあれ、そういった類いの話が我々の会話にとっての唯一の共通の話題だった。
 
 四月の半ばに島本さんはまた姿を消してしまった。最後に会ったとき、僕らは『ロビンズ・ネスト』のカウンターに並んで座って話をしていた。でも十時ちょっと前にバーの方から電話がかかってきて、僕はどうしてもそちらに行かなくてはならなかった。「たぶん三十分か四十分で戻ってくるよ」と僕は島本さんに言った。「いいわよ、大丈夫よ。行ってらっしゃい。本を読んで待っているから」と彼女はにっこり笑って言った。
 用事を済ませて急いで店に戻ってきたとき、カウンターの席には彼女の姿はもうなかった。時計は十一時を少しまわっていた。彼女は店の紙マッチの裏に僕あてのメッセージを書いて、それをカウンターの上に残していた。「たぶんこれからしばらくはここに来ることができないと思います。もう帰らなくてはなりません。さよなら。お元気で」とそこには書いてあった。
 それからしばらくのあいだ、僕はひどく手持ち無沙汰な気持ちになった。何をすればいいのか、よくわからなかった。僕は家の中を意味もなく歩きまわり、街を歩きまわり、早い時間から娘を迎えに行った。そして260Eの若い女と話をした。僕は彼女と近所の喫茶店に行ってコーヒーまで飲んだ。そしてあいかわらず紀ノ国屋の野菜やらナチュラル・ハウスの有精卵やらミキ・ハウスのバーゲンやらの話をした。彼女はイナバ・ヨシエの服のファンで、シーズンの前にはカクログで欲しい服を全部予約してしまうのだと言った。それから表参道の交番の近くにあって、今はなくなってしまった美味い鰻屋の話をした。僕らは話をしているうちにけっこう仲良くなった。彼女はみかけよりはずっと気さくで性格がよかった。でも僕は彼女に性的な興味を抱いていたわけではなかった。僕はただ誰かと何でもいいから話をしたかっただけなのだ。そして僕が求めていたのはなるべく無害で意味のない話だった。どこまでいっても島本さんに結びつくものが見いだせないような話を僕は求めていた。
 やることがなくなると、僕はデパートに行って買い物をした。シャツを一度に六着も買ったこともあった。娘たちのために玩具や人形を買い、有紀子のためにアクセサリーを買った。BMWのショウルームに何度も行ってM5を眺めまわし、買うつもりもないのにセールスマンにあれこれと説明を聞いたりした。
 しかしそういった落ちつかない日々が何週間かつづいたあとで、僕はまた神経を仕事に集中するようになった。いつまでもこんなことをしているわけにはいかないと思ったのだ。僕はデザイナーと内装業者を呼んで、店舗改装について話しあった。そろそろ店の内装を変え、経営方針を再検討する時期にさしかかっていた。店には落ちつくべき時期と、変化するべき時期とがある。それは人間と同じなのだ。どんなものでも同じ環境かいつまでも続くと、エネルギーが徐々に低下してくる。そろそろ何かしらの変化が求められていると僕は少し前からうすうす感じていた。空中庭園というものは、決して人々に飽きられてはならないのだ。僕はまず最初にバーの方を部分改装することにした。実際に使ってみると使いにくかった設備を取り替え、デザインを優先するために不便を余儀なくされていた部分を改装し、もっと機能的な店にする必要があった。オーディオ設備や空調設備もそろそろオーヴァーホールの時期にきていた。それからメニューも大きく変える。僕はそれまでに従業員たちひとりひとりと話をして現場の意見を聞き、どこをどう手直しすればいいのかを細かくリスト・アップしていた。それはかなり長いリストになっていた。僕は自分の頭の中にできあがっていた新しい店の具体的なイメージをデザイナーに細かく伝えて、そのとおりに図面を引かせ、できあがったものにまた注文をつけ、図面を引きなおさせた。それが何度も何度も繰り返された。僕は材料をひとつひとつ吟味し、業者に見積もりを出させ、その品質を値段によって細かく上げたり下げたりした。洗面所の石鹸台ひとつを決めるのに三週間もかけた。三週間、僕は理想的な石鹸台を求めて東京じゅうの店を歩き回ったのだ。そういった作業は僕を文字通り忙殺した。でもそれがまさに僕の望んだことだった。
 五月が過ぎ去り、六月がやってきた。それでも島本さんは姿を見せなかった。もう彼女は去ってしまったのだと僕は思った。「たぶんこれからしばらくは」来られない、と彼女は書いていた。その「たぶん」と「しばらく」というふたつの曖昧な言葉はその曖昧さで僕を苦しめた。彼女はまたいつか戻ってくるかもしれない。でも僕はぼんやりその辺に座ってその「たぶん」と「しばらく」を待っているわけにはいかない。そんな生活を続けていたら、僕はきっとそのうちに腑抜けたようになってしまうだろう。僕はとにかく自分を忙しくすることに神経を集中した。僕は前よりももっと頻繁にプールに通った。毎朝のように休みなしで二千メートル近くを泳いだ。そしてそのあとで階上のジムでウェイトリフティングをやった。一週間ほどで筋肉が悲鳴を上げはじめた。信号待ちをしているときに左脚が攣って、しばらくクラッチを踏むことができなかったくらいだ。でもやがて僕の筋肉はその運動量を当然なものとして受け入れていった。そのようなハードワークは僕に余計なことを考える余裕を与えなかったし、毎日しっかりと体を動かすことは、日常的なレヴェルでの集中力を与えてくれた。僕はぼんやりと時間を過ごすことを避けた。どんなことをするときでもいつも集中してやるように努力した。顔を洗うときは真剣に顔を洗ったし、音楽を聴くときは真剣に音楽を聴いた。実際のところそうしないことにはうまく生きていけなかったのだ。
 夏になると、僕と有紀子は週末によく子供たちをつれて、箱根の別荘に泊まりに行った。東京を離れて自然の中にいると、妻と娘たちは寛いで楽しそうに見えた。彼女たちは三人で花を摘んだり、双眼鏡で鳥を眺めたり、追いかけっこをしたり、川で水遊びをしたりした。あるいはただのんびりとみんなで庭に寝ころんだりしていた。でも彼女たちは本当のことを何も知らないのだと僕は思った。あの雪の降る日に、もし東京行きの飛行機が欠航したら、僕は何もかもを捨ててそのまま島本さんと二人でどこかに行ってしまったかもしれないのだ。あの日なら、僕はすべてを捨ててしまうことができた。仕事も家庭も金も、何もかもをあっさりと捨ててしまえた。そして僕は今でも島本さんのことをずっと考えて続けている。僕は自分が島本さんの肩を抱き、その頬に唇をつけたときの感触をまだはっきりと覚えている。そして僕は妻と交わりながら、島本さんのイメージを頭から追い払うことができずにいた。僕が本当に何を考えているのかは、誰にもわからないのだ。島本さんが何を考えているのかが僕にわからないのと同じように。
 僕は夏休みをバーの改装にあてることにした。妻と二人の娘が箱根に行っているあいだ、僕は一人で東京に残り、店の改装に立ち会って細かい指示を与えた。そしてそのあいまにプールに通い、ジムでウェイトリフティングを続けた。週末には箱根に行って、娘たちと一緒に富士屋ホテルのプールで泳いで食事をした。そして夜になると僕は妻の体を抱いた。
 僕はそろそろ中年と呼ばれる年齢にさしかかっていたが、体には賛肉というほどのものはまだついていなかったし、髪が薄くなる兆候も見えなかった。白髪も一本もなかった。スポーツを続けているおかげで、体力の衰えもとくに感じなかった。規則正しい生活を続け、不節制を避け、食事に気をつかった。病気ひとつしたことはなかった。外見はまだ三十代の始めに見えた。
 妻は僕の裸の体に触るのが好きだった。僕の胸の筋肉に触り、僕のまったいらな腹を撫で、僕のペニスや睾丸をいじるのが好きだった。彼女もジムに通って真剣にワークアウトをやっていた。でも彼女の体の余分な肉はなかなか落ちないようになってきた。
「残念ながらもう歳だわ」と彼女はため息をつきながら言った。「体重は減っても脇腹の肉がどうしても落ちてくれないの」
「でも僕は今の君の体が好きだよ。わざわざ苦労してワークアウトとかダイエットとかやらなくても、べつにそのままでいいじゃないか。とくに太っているというわけでもないんだから」
と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。僕はうっすらと肉のついた柔らかい彼女の体が好きだった。彼女の裸の背中を撫でるのが好きだった。
「あなたには何もわかってないのね」と有紀子は言って首を振った。「そのままでいいなんて簡単に言わないでよ。今のままを維持するのだって私には精一杯なんだから」
 他人の目から見れば、あるいはそれは申し分のない人生に見えたかもしれない。ときどき僕自身の目にさえ、それは申し分のない人生のように映った。僕は熱意を持って仕事をしていたし、それはかなり高い収入をもたらした。4LDKのマンションを青山に持ち、箱根の山の中に小さな別荘を持ち、BMWとジープ・チェロキーを持っていた。そして非のうちどころのない幸せな家庭を維持していた。僕は妻と二人の娘を愛していた。それ以上の何を人生に求めればいいのだろうやもし仮に妻と娘たちとが僕のところにやってきて、自分たちはもっといい妻と娘になって僕にもっと愛されたいのだが、そのために何かこうしてほしいということがあったら遠慮なく言ってはしいと頭をさげて言ったとしても、僕にはおそらく何も言うべきことを思いつけなかったと思う。僕は彼女たちには本当に何ひとつ不満がなかったのだ。家庭生活にだって何の不満もなかった。これ以上快適な生活は僕には思いつけなかった。
 でも島本さんが姿を見せなくなってしまうと、ときどきそこはまるで空気のない月の表面のように感じられた。島本さんがいなくなってしまうと、僕が心を開くことのできる場所はもうこの世界のどこにもなかった。眠れない夜には、僕はベッドの中でじっと横になったまま、雪の降りしきるあの小松空港のことを何度も何度も何度も思い出した。何度も繰り返して思い出しているうちに、その記憶が擦り切れてしまえばいいのにと思った。でもその記憶は絶対に擦り切れなかった。それは思い出せば思い出すほどますます強くなってよみがえってきた。空港の表示板には全日空東京行きの便の遅延の告示が出ていた。窓の外には雪が降りしきっていた。五十メートル先も見えないくらいの雪だった。島本さんはベンチの上で、自分の両肘をしっかりと抱え込むようにしてじっと座っていた。彼女はネイヴィー・ブルーのピーコートを着て、マフラーを首に巻いていた。その体には涙と哀しみの匂いが漂っていた。僕は今でもその匂いを嗅ぐことができた。隣では妻が静かな寝息を立てていた。彼女は何も知らないのだ。僕は目を閉じて首を振った。彼女は何も知らないのだ。
 僕は、あの閉鎖されたボウリング場の駐車場で、島本さんに雪を溶かした水を口移しに飲ませたときのことを思い出した。飛行機のシートの上で僕の腕の中にいた島本さんのことを思い出した。その閉じられた目と、ため息をつくときのように微かに開かれた唇のことを思い出した。彼女の体は柔らかく、そしてぐったりとしていた。あのときに、彼女は本当に僕のことを求めていた。彼女の心は僕のために開かれていた。でも僕はそこで踏みとどまったのだ。この日の表面のようながらんとした、生命のない世界に踏みとどまったのだ。やがて島本さんは去っていき、僕の人生はもう一度失われてしまった。
 鮮明な記憶は眠れない夜を作りだした。夜中の二時や三時という時間に目を覚まして、そのまま眠れなくなることがあった。そんなときには僕はベッドを出て台所に行き、グラスにウィスキーを注いで飲んだ。窓の外には暗い墓地と、その下の道路を走り過ぎていく車のヘッドライトが見えた。グラスを手に僕はそんな風景をずっと眺めていた。真夜中と夜明けを結ぶそれらの時間は、長く暗かった。ときどき、泣くことができれば楽になれるんだろうなと思えるときもあった。でも何のために泣けばいいのかかわからなかった。誰のために泣けばいいのかかわからなかった。他人のために泣くには僕はあまりにも身勝手な人間にすぎたし、自分のために泣くにはもう年を取りすぎていた。
 それから秋がやってきた。秋がやってきたときには、僕の心はもうほとんど定まっていた。
 
 こんな生活をこのままずっと続けていくことはできない、と僕は思った。それが僕の最終的な結論だった。

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