音抜きされたままの孫娘に正当な音を与えるために老人が地上に|戻《もど》っているあいだ、私はコーヒーを飲みながら一人で黙々と計算をつづけた。
どれくらいの時間老人が部屋を留守にしていたのか、私にはよくわからない。私はディジタル式腕時計のアラームを一時間—三十分—一時間—三十分……というサイクルで鳴りつづけるようにセットし、その信号にあわせて計算し休み、計算し休んだ。時計の文字盤は見えないようにブラック・アウトして消してしまった。時間が気になると、計算がやりにくくなるからだ。現在の時刻が何時であろうがそんなことは私の仕事には何の関係もない。私が計算を始めるときが仕事の始まりであり、私が計算を終えるときが仕事の終りである。私にとって必要な時間は一時間—三十分—一時間—三十分というサイクルだけだ。
老人が留守にしているあいだに二回か三回休憩時間があったと思う。休憩時間には私はソファーに寝転んでぼんやり考えごとをしたり、便所に行ったり、腕立て伏せをしたりした。ソファーの寝心地はとても良かった。固すぎもせず柔かすぎもせず、頭の下に敷くクッションの具合もちょうど良い。私は計算に出向く先々で休憩時間になるとそこにあるソファーに寝かせてもらうのだが、寝心地の良いソファーというのはまずない。大抵はいきあたりばったりで買ってきたような雑なつくりのソファーだし、見映えの良い一見高級そうなソファーでも実際に寝転んでみるとがっかりしてしまう場合がほとんどなのだ。人々がどうしてそんなにソファー選びに手を抜くのかよくわからない。
私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと——またこれはたぶん偏見だと思うが——確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。しかしこれは良いソファーに座って育った人間にしかわからない。良い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。ひとつの良いソファーはもうひとつの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。そういうものなのだ。
私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いていない人間を何人か知っている。こういう人間を私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば|誰《だれ》にだって買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金はかかるが、金を出せばいいというものではない。ソファーとは何かという確固としたイメージなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。
そのとき私が寝転んだソファーは間違いなく一級品だった。それで私は老人に対して好感を持つことができた。私はソファーに寝転んで目を閉じ、その奇妙なしゃべり方と奇妙な笑い方をする老人についていろいろと考えを巡らせてみた。あの音抜きのことを思いかえしてみると、老人が科学者として最高の部類に属するというのはまず間違いないところだった。並の学者には音を勝手に抜いたり入れたりなんていうことはできない。並の学者ならそんなことができるなんてまず思いつきもしないだろう。それから彼が相当に偏屈な人間であることもまたたしかだ。科学者が変人であったり|人《ひと》|嫌《ぎら》いであったりするのはよくある例だが、人目を避けて地下深くの滝の裏に秘密の研究室を作るところまではなかなかいかない。
音抜き・音入れの技術を商品化すれば|莫《ばく》|大《だい》な額の金が入りこんでくるに違いないと私は想像してみた。まずコンサート・ホールからPA装置がぜんぶ消えてしまう。巨大な機械類を使って音を増幅する必要なんてなくなってしまうからだ。それから逆に騒音を消してしまうこともできる。飛行機に音抜き装置をとりつければ、空港近辺に住む人々はとても助かるだろう。しかしそれと同時に音抜き・音入れは様々なかたちで軍事産業や犯罪にとりいれられていくに違いない。無音の爆撃機や消音銃、大音量を立てて脳を破壊する爆弾なんていうものが次々に生まれ、組織的大量殺人をより洗練されたスタイルに作りかえていくであろうことは目に見えていた。おそらく老人もそれをよく承知していて、あえてその研究成果を世間には公表せずに手もとにとどめているのだろう。そのことで私はますます老人に好意を持つようになった。
私が五回めだか六回めだかの仕事のサイクルに入っているときに老人が戻ってきた。腕には大きなバスケットをさげていた。
「新しいコーヒーとサンドウィッチを持ってきたですよ」と老人は言った。「キュウリとハムとチーズだが、それでよろしいですかな?」
「ありがとう。好物です」と私は言った。
「今すぐ食事にしますか?」
「この計算のサイクルが終ったら頂きます」
腕時計のアラームが鳴ったとき、七枚の数値リストのうちの五枚までの|洗いだし《ブレイン・ウオッシュ》が終っていた。あと一息というところだ。私は区切りをつけて立ちあがり、大きくのびをしてから食事にとりかかった。
サンドウィッチは普通のレストランやスナックで出てくるサンドウィッチの五、六|皿《さら》ぶんはあった。私はその三分の二くらいを一人で黙々と食べた。洗いだしを長くつづけているとどういうわけかひどく腹が減るのだ。ハムとキュウリとチーズを順番に口の中に|放《ほう》りこみ、熱いコーヒーを胃に送りこんだ。
老人は私が三つ食べるあいだにひとつつまむ程度だった。彼はキュウリが好きなようで、パンをめくってキュウリの上に注意深く適量の食塩を振り、ぱりぱりという小さな音を立ててかじった。サンドウィッチを食べているときの老人はどことなく礼儀正しいコオロギのように見えた。
「好きなだけどんどん召しあがって下さい」と老人は言った。「私のように年をとると、食というのはだんだん細くなってくるです。ちょっとだけ食べて、ちょっとだけ動くようになるんですな。しかし若い人はどんどん食べるべきです。どんどん食べてどんどん太ればよろしい。世間の人々は太ることを嫌っておるようだが、私に言わせれば、それは間違った太り方をしておるんですな。だから太ることによって不健康になったり美しさを失ったりするです。しかし正しい太り方をすればそんなことは絶対にありません。人生は充実し、性欲はたかまり、頭脳は|明《めい》|晰《せき》になるです。私も若い|頃《ころ》はよく太っておったですよ。今じゃもう見るかげもありませんがな」
ふおっほっほっほと老人は口をすぼめるようにして笑った。
「どうです、なかなかうまいサンドウィッチでしょう?」
「そうですね。とてもおいしい」と私は|賞《ほ》めた。本当においしいのだ。私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価の辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではり[#「はり」に丸傍点]があり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過されがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ。どれだけ立派な材料を|揃《そろ》えても包丁が悪ければおいしいサンドウィッチはできない。マスタードは上物だったし、レタスはしっかりとしていたし、マヨネーズも手づくりか手づくりに近いものだった。これほどよくできたサンドウィッチを食べたのはひさしぶりだった。
「これは孫娘が作ったんです、あんたへのお礼にといってね」と老人は言った。「あの子はサンドウィッチを作るのが得意でしてな」
「立派なもんです。プロでもなかなかこううまくは作れませんよ」
「それは良かった。それを聞けばきっとあの子も喜ぶでしょう。なにしろうちに人が来ることはほとんどないし、誰かに食べていただいて感想をうかがうという機会がまずありませんからな。あの子が料理を作っても食べるのはいつも私とあの子の二人だけという状態でして」
「二人暮しなんですか?」と私は質問してみた。
「そうです。もうずいぶん長いあいだの二人暮しですな。私はずっと世間とかかわっておらんもので、あの子にもそういう癖がついてしまって、私としても困っておるのです。外の世界に出ようとせんのですな。頭も良いし体もきわめて健康なんですが、外界にかかわろうとせんのです。若いうちはそれではいかん。性欲は好ましい形で解消せねばならんです。どうです? あの子には女性的魅力が備っておるでしょうが?」
「ええ、たしかにそうですね、それは」と私は言った。
「性欲というものは正しいエネルギーです。これは実にはっきりとしておるです。性欲をはけ口のないままにためておっては頭脳の明晰さも失われるし、体のバランスも悪くなる。これは男も女も同じです。女の場合は月経が不規則になり、月経が不規則になると精神の安定が失われる」
「ふうん」と私は言った。
「あの子は正しい種類の男と早い機会に交わるべきなのです。私は後見者としても生物学者としてもそう確信しておるですよ」と老人はキュウリに塩をふりながら言った。
「彼女には、その、音はうまく入ったんですか?」と私は質問してみた。仕事中に他人の性欲の話なんてあまり聞きたくなかったのだ。
「おうおう、それを申しあげるのを忘れておったですな」と老人は言った。「そりゃもうもちろん音はちゃんと戻りましたとも。しかしあの子に音を入れ忘れておったことをよく思いださせて下さった。あんたが教えて下さらんかったらこの先何日もあの子は音なしで暮さねばならんところだった。私はここにこもるとしばらく地上には戻らんのです。音なしで暮すというのもあれはあれでなかなか面倒なものでしてな」
「まあそうでしょうね」と私はあいづちを打った。
「あの子はさっきも申しあげたとおり一般社会とはほとんどかかわってはおらんですから、とくにとりたてて不都合はないんですが、電話がかかってきたりすると困るですな。私は何度かここから電話をかけておったんですが、誰も出んので不思議に思っておったですよ。いや、実にうっかりしておった」
「口がきけないと買物だって困るでしょう?」
「いや買物は困らんです」と老人は言った。「世間にはスーパーマーケットというものがあって、あそこは口がきけんでも買物できるです。なかなか便利なもんですな。あの子はスーパーマーケットが大好きで、しょっちゅうあそこで買物をしておるですよ。なにしろスーパーマーケットと事務所を往復して生きておるようなものですな」
「家には帰らないんですか?」
「あの子は事務所が気に入っておるんです。キッチンもあるし、シャワーもあるし、普通に暮していくぶんには支障はないです。家に帰るのはせいぜい週に一回というところでしょう」
私は適当に|肯《うなず》いてコーヒーを飲んだ。
「ところであんたはよくあの子と話が通じましたな」と老人は言った。「どうやったんです? テレパシーか何かですか?」
「|読唇術《どくしんじゅつ》です。昔市民講座に通って読唇術を習ったんです。当時は暇で他にやることもなかったし、何かの役に立つかもしれないと思ったものですから」
「なるほど。読唇術ですか」と老人はいかにも納得したように何度も肯いた。「読唇術というのはたしかに有効な技術です。私もいささか心得がある。どうです、しばらく二人で無音でしゃべってみますか?」
「いや、よしましょう。普通にしゃべった方がいいです」と私はあわてて言った。一日に何度もあんな目にあわされてはたまったものじゃない。
「もちろん読唇術というのは非常に原始的な技術であって、いろいろと欠点も多い。あたりが暗かったりするとさっぱりわからんし、いつも相手の口を見ておらねばならん。しかし過渡的手段としては有効です。あんたが読唇術を習得したのは先見の明があったと言うべきですな」
「過渡的手段?」
「そうです」と老人は言ってまた肯いた。「よろしいですかな、あなただけに教えてさしあげるが、この先必ずや世界は無音になる」
「無音?」と思わず私は|訊《き》きかえした。
「そう。まったくの無音になるです。|何《な》|故《ぜ》なら人間の進化にとって音声は不要であるばかりか、有害だからです。だから早晩音声は消滅する」
「ふうん」と私は言った。「ということは鳥の声とか川の音とか音楽とか、そういうものもまったくなくなってしまうわけですか?」
「もちろん」
「しかしそれは何かさびしいような気がしますね」
「進化というものはそういうものです。進化は常につらく、そしてさびしい。楽しい進化というものはありえんです」老人はそういうと立ちあがって机の前に行き、ひきだしから小さな|爪《つめ》|切《き》りをとりだしてソファーに戻り、右手の親指から始めて、左手の小指まで十個の爪を順番に切り|揃《そろ》えた。「まだ研究の途上であり、詳しいことは申しあげられんですが、大筋としては、ま、そういうことですな。しかしこのことは外部には口外せんでほしい。記号士の耳に届いた日には、大変なことになるですからな」
「御心配なく。我々計算士は秘密の厳守ということについては誰にも負けませんから」
「それを聞いて安心しました」と老人は言って、机の上にちらばった爪を葉書のふちで集め、ごみ箱の中に捨てた。それからまたキュウリのサンドウィッチを手にとって食塩を振り、うまそうにかじった。
「私が言うのもなんだが、たしかにこれはうまい」と老人は言った。
「料理がお上手なんですか?」と私は訊いた。
「いや、そういうわけでもなくて、サンドウィッチだけがとびぬけて|上《う》|手《ま》いですな。他の料理も決して悪くはないが、サンドウィッチの|美《う》|味《ま》さにはかなわんです」
「純粋な才能のようなもんですね」と私は言った。
「そのとおり」と老人は言った。「実にそのとおり。どうやら私は思うに、あなたはあの娘のことを十全に理解しておられるようだ。あなたにならあの子は安心しておあずけできそうですな」
「私にですか?」と私はちょっとびっくりして言った。「サンドウィッチのことを賞めたというだけでですか?」
「サンドウィッチはお気に召さんですか?」
「サンドウィッチはとても気に入りました」と私は言った。そして太った娘のことを、計算の邪魔にならない程度に思い浮かべた。それからコーヒーを飲んだ。
「私は思うに、あなたには何かがある。あるいは、何かが欠けておる。どちらにしても同じようなもんですが」
「ときどき自分でもそう思います」と私は正直に言った。
「我々科学者はそういう状況を進化の過程と呼ぶです。遅かれ早かれあんたにもそれがわかるじゃろうが、進化というのは厳しいものです。進化のいちばんの厳しさとはいったい何だと思われるですかな?」
「わかりません。教えて下さい」と私は言った。
「それは|選《え》り|好《ごの》みできんということですな。誰にも進化を選り好みすることはできん。それは|洪《こう》|水《ずい》とか|雪崩《な だ れ》とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきてからでは|抗《あらが》いようがない」
「ふうん」と私は言った。「その進化というのは、さっきおっしゃった音声にかかわることですか? つまり私がしゃべれなくなってしまうとか?」
「正確にはそうじゃないです。しゃべれるとかしゃべれないとかは、本質的にはたいした問題じゃないです。それはひとつのステップにすぎんです」
よくわからない、と私は言った。私はだいたいが正直な人間である。わかったときにはちゃんとわかったと言うし、わからないときにはちゃんとわからないと言う。|曖《あい》|昧《まい》な言い方はしない。トラブルの大部分は曖昧なものの言い方に起因していると私は思う。世の中の多くの人々が曖昧なものの言い方をするのは、彼らが心の底で無意識にトラブルを求めているからなのだと私は信じている。そうとしか私には考えられないのだ。
「しかしまあ、こういう話はここまでにするです」と老人は言って、またふおっほっほという例の耳ざわりな笑い方をした。「あまりこみいった話をして計算のお邪魔をしてもいかんですし、まあほどほどにしておきましょう」
私の方はべつにそれに対する異論はなかった。ちょうど時計のアラームが鳴ったので私は|洗いだし《ブレイン・ウオッシュ》のつづきに戻った。老人は机のひきだしからステンレス・スティールの|火《ひ》|箸《ばし》のようなものをとりだして、それを右手に持ち、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の並んだ|棚《たな》の前を|往《い》ったり来たりして、時折その火箸で何かの頭をこんこんと軽く|叩《たた》き、その響きに耳を澄ませた。まるでヴァイオリンの巨匠がストラディヴァリウスのコレクションを見まわって、そのうちのひとつを手にとってピッチカートの具合を点検してみるような感じだった。音だけを聞いていても、老人の頭蓋骨に対する人並はずれた愛情が感じられた。ひとことで頭蓋骨といっても、ほんとうにいろんな音色があるものだと私は思った。ウィスキーのグラスを叩くようなのもあれば、巨大な|植《うえ》|木《き》|鉢《ばち》を叩くようなのもあった。そういったそれぞれにはかつて肉と皮がついて、|脳《のう》|味《み》|噌《そ》が——量の差こそあれ——つまっていて、食事のこととか性欲のこととか、そんなことに思いを巡らしていたのだ。でも結局は何もかもが消えて、様々な種類の音だけになってしまった。グラスとか植木鉢とか弁当箱とか鉛管とかやかんとか、そんな種類の音だ。
私は自分の頭が皮や肉をそがれ脳味噌を取り去られてその棚に並び、老人にステンレス・スティールの火箸でこんこんと叩かれる様を想像してみた。なんだか変なものだった。老人は私の頭蓋骨の響きから、いったい何を読みとるのだろう? 彼は私の記憶を読みとるのだろうか、それとも私の記憶の外にあるものを読みとるのだろうか? どちらにしても、なんだか落ちつかない気分になった。
私は死ぬこと自体はそんなに怖くはなかった。ウィリアム・シェイクスピアが言っているように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。考えようによっては実に簡単なことだ。しかし死んだあとで頭蓋骨を棚に並べられて火箸でこんこんと叩かれるというのはどうもあまり気がすすまなかった。死んだあとまで、自分の中から何かをひっぱりだされることを考えただけで私の気は|滅《め》|入《い》った。生きることは決して容易なことではないけれど、それは私が私自身の裁量でやりくりしていることなのだ。だからそれはそれでかまわない。『ワーロック』のヘンリー・フォンダと同じだ。しかし死んだあとくらいは、静かにそっと寝かせておいてほしかった。私は大昔のエジプトの王様が死んだあとでピラミッドの中に閉じこもりたがった理由がよくわかるような気がした。
その何時間か後にようやく|洗いだし《ブレイン・ウオッシュ》は終った。時計ではかっていたわけではないのでどれだけの時間を要したのか正確にはわからなかったが、体の疲れ具合からするとだいたい八時間から九時間というあたりだろうと私は推測した。ちょっとした量の作業だ。私はソファーから立ちあがって大きくのびをし、体のいろんな部分の筋肉をほぐした。計算士に与えられるマニュアルにはぜんぶで二十六個の筋肉のほぐし方が図解してある。それだけを計算後にきちんとほぐしておくと頭脳の疲れはあとにまず残らないし、頭脳の疲れがあとに残らなければ計算士としての寿命も伸びることになる。計算士という制度は生まれてからまだ十年に|充《み》たないので、その職業的寿命がどの程度のものなのかは|誰《だれ》にもわからない。十年と言うものもいるし、二十年と言うものもいる。死ぬまでできると主張するものもいる。早晩廃人になるという説もある。しかしそれはぜんぶ推測にすぎない。私にできるのは二十六個の筋肉をきちんとほぐしておくことだけだ。推測は推測に適した人間にまかせておけばいいのだ。
私は筋肉をほぐしおわるとソファーに座って目を閉じ、左の脳と右の脳をゆっくりとひとつにまとめた。それで作業の一切は完了した。正確にマニュアルどおりだ。
老人は机の上に大型犬のようなかたちの頭骨を置いてノギスで細部のサイズをはかって、頭骨の写真コピーにその寸法を鉛筆で記入していた。
「終ったですか」と老人は言った。
「終りました」と私は言った。
「いやいや、長いあいだ御苦労でしたな」と彼は言った。
「今日はこれから|家《うち》に|戻《もど》って眠ります。そして明日かあさって自宅でシャフリングにかけ、しあさっての正午までに必ずまたここにお持ちします。それでよろしいですね?」
「結構結構」と老人は言って|肯《うなず》いた。「しかし時間厳守ですぞ。正午より遅れては困るです。大変なことになる」
「よくわかりました」と私は言った。
「それからそのリストを誰かに奪われんようにくれぐれも気をつけてな。それを奪われると私も困るし、あんたも困るです」
「大丈夫です。それについては我々はかなりきちんとした訓練を受けています。計算済みのデータをみすみす奪われるようなことはしません」
私はズボンの内側につけた特別なポケットから重要書類を入れるためのやわらかな金属でできた札入れのようなものをとりだして、そこに数値リストを入れてロックした。
「このロックは私以外にあけることはできないんです。私以外の人間がこのロックを外そうとすると、中の書類は消滅します」
「なかなかよくできておるですな」と老人は言った。
私はその書類入れをズボンの内ポケットに戻した。
「ところでサンドウィッチをもう少し召しあがらんですか? まだ少し残っておるし、私は研究しておる最中はほとんど食事をせんものだから、残しておくのもどうももったいない」
まだ腹が減っていたので、私は勧められるままに残りのサンドウィッチをぜんぶたいらげた。老人が集中して食べたせいでキュウリはもう一切れもなく、残っているのはハムとチーズばかりだったが、私はとりたててキュウリが好きというわけでもなかったから、べつにそれはそれでかまわない。老人は新しくコーヒーをカップに|注《つ》いでくれた。
私はまた|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》を着こみ、ゴーグルをつけ、懐中電灯を片手に地下道を戻った。今回は老人はついてこなかった。
「やみくろはもう音波をだして追い払ったし、当分はこちらに侵入しては|来《こ》んから大丈夫です」と老人は言った。「やみくろの方にしたって、こっちに来るのはやはり怖いんです。ただ記号士に言いふくめられてるだけだから、ちょっとおどせばもう来んです」
しかしそうは言われても、やみくろなどというものが地底のどこかに存在していることを知ったあとで、一人で|暗《くら》|闇《やみ》の中を歩くのはあまり気持の良いものではなかった。とくに私の方はやみくろのいったい何たるかを知らず、その習性や形態やそれに対する防御法も何ひとつ知らないのだから、その不気味さもまたひとしおである。私は左手に懐中電灯をかざし、右手にナイフを握りながら、地底の川に沿ってもと来た道を下った。
そんなわけで最初に私が降りてきたアルミニウムの長い|梯《はし》|子《ご》の下にピンクのスーツを着た太った娘の姿をみつけたとき、私は救われたような気持になった。彼女は私の方に向けて懐中電灯の光をひらひらと振った。私がそこにたどりつくと彼女は何か言ったが、川の音抜きは解除されたらしく水音がうるさくて声はまるで聞こえなかったし、まっ暗で|唇《くちびる》の動きも見えなかったので、何を言ってるのかまったくわからなかった。
それで何はともあれ梯子を上って、光のあるところに出ることにした。私が先に上るとあとから彼女がついてきた。梯子はひどく高かった。下りるときはまっ暗で何もわからないままに下りたから怖くはなかったけれど、一段一段と上にのぼっていくとその高さが想像できて顔やわきの下に冷や汗がにじんだ。ビルでいえば三、四階ぶんくらいの高さがあるし、おまけにアルミニウムの梯子は湿気でつるつると足が滑るから、相当に用心をして上らないと大変なことになる。
途中で一息つきたかったがあとから彼女が上ってくることを思うと休むわけにもいかず、結局一気に梯子の上まで上った。三日後にもう一度同じ道を|辿《たど》って研究室に行くのかと思うと私は暗い気持になったが、これもボーナスのうちに入っているのだから仕方ない。
クローゼットを通り抜けて最初の部屋に入ると、娘が私のゴーグルをとり、雨合羽を脱がせてくれた。私は|長《なが》|靴《ぐつ》を脱ぎ、懐中電灯をそのへんに置いた。
「仕事はうまくいった?」と女が言った。はじめて聞く彼女の声はやわらかく澄んでいた。
私は彼女の顔を見ながら肯いた。「うまくいかなければ帰ってこないよ。それが我々の仕事だからね」と私は言った。
「音抜きのこと、祖父に言ってくれてどうもありがとう。すごく助かったわ。もう一週間もずっとあのままだったのよ」
「どうして筆談でそのことを|僕《ぼく》に言わなかったんだ? そうすればいろんなことがもっと早くわかったし、混乱しないですんだのにさ」
娘は何も言わずに机のまわりをぐるりと一周し、それから両耳につけた大きなイヤリングの位置をなおした。
「それがルールなのよ」と彼女は言った。
「筆談をしないことが?」
「そういうのもルールのひとつ」
「ふうん」と私は言った。
「退化にむすびつくことはすべて禁止されてるの」
「なるほど」と私は感心して言った。さすがにやることが徹底している。
「あなたいくつ?」と娘がたずねた。
「三十五」と私は言った。「君は?」
「十七」と女は言った。「計算士に会ったのって、私はじめてよ。記号士に会ったこともないけれど」
「ほんとうに十七?」と私は驚いて|訊《き》いた。
「ええ、そうよ。|嘘《うそ》なんかつかないわ。ほんとうに十七よ。でも十七に見えないでしょ?」
「見えない」と私は正直に言った。「どう見ても|二《は》|十《た》|歳《ち》以上だな」
「十七になんて見えてほしくないのよ」と彼女は言った。
「学校には行ってないの?」
「学校のことは話したくないの。少くとも今はね。こんど会ったときにちゃんと教えてあげるわ」
「ふうん」と私は言った。きっと何か事情があるのだろう。
「ねえ、計算士ってどんな生活をしているのかしら?」
「計算士にしたって記号士にしたって、仕事をしていないときは世間のみんなと同じごく普通のまともな人間さ」
「世間のみんなはごく普通かもしれないけれど、まともじゃないわ」
「まあそういう考え方もあるにはある」と私は言った。「でも僕が言っているのはごくあたり前という意味なんだ。電車でとなりに座っても注意もひかないし、みんなと同じように飯も食べるし、ビールも飲むし——ところでサンドウィッチをどうもありがとう。とてもおいしかったよ」
「ほんとう?」と言って、彼女はにっこり笑った。
「あんなにおいしいサンドウィッチはあまりないよ。サンドウィッチはずいぶん食べたけどね」
「コーヒーは?」
「コーヒーもおいしかったな」
「ねえ、ここでもう少しコーヒーを飲んでいかない? そうすればもう少しお話もできるし」
「いや、コーヒーはもういいよ」と私は言った。「下で飲みすぎてもう一滴も入らない。それに|家《うち》に帰って一刻も早く眠りたいんだ」
「残念だわ」
「僕も残念だけれど」
「じゃあとにかくエレベーターのところまで送るわ。一人じゃたどりつけないでしょ? 廊下がこみいってるし」
「たどりつけそうもないな」と私は言った。
彼女は机の上にあった丸い帽子の箱のようなものをとって私に手わたした。私はそれを受けとって重さをはかってみた。箱は大きさのわりにあまり重くはなかった。もしそれが本当に帽子の箱だとしたら、中にはずいぶん大きな帽子が入っていたことだろう。簡単に開かないように太い接着テープがぐるぐると巻きつけてある。
「なんだいこれは?」
「祖父からあなたへのプレゼントよ。家に帰ってからあけてみてね」
私は箱を両手で軽く上手に振ってみた。何の音もせず、何の|手《て》|応《ごた》えもない。
「割れものだから気をつけるようにって」と娘は言った。
「|花《か》|瓶《びん》か何かそういうものかな」
「私も知らないわ。家に帰ってあけてみればわかるでしょ」
それから彼女はピンク色のハンドバッグを開けて封筒に入った銀行小切手を私にくれた。そこには私の予想よりは少し多めの金額が記入されていた。私はそれを財布に入れた。
「領収書は?」
「いらない」と娘は言った。
我々は部屋を出て、|往《い》きと同じ長い廊下を曲ったり上ったり下りたりしながらエレベーターのところまで歩いた。彼女のハイヒールは前と同じようにこつこつという小気味の良い音を廊下に響かせていた。彼女の太り具合は最初に見たときほどはあまり気にならなくなっていた。一緒に歩いていると彼女が太っていることすら忘れてしまいそうだった。たぶん時間がたって私が彼女の太り具合になじんだせいなのだろう。
「結婚してるの?」と娘が|訊《たず》ねた。
「結婚していない」と私は言った。「昔はしてたけど、今はしていない」
「計算士になったせいで離婚したの? みんなよく計算士には家庭は持てないって言うけど」
「そんなことはないさ。計算士にだって家庭は持てるし、立派にやってる連中だっていっぱい知ってるよ。家庭を持たない方が仕事をやりやすいって考えている人間の方が多いことはたしかだけれどね。我々の仕事はすごく神経を使うし、危険も多いから、妻子がいるとやりにくいということはある」
「あなたの場合はどうだったの?」
「僕の場合は離婚してから計算士になったんだ。だから仕事とは関係ない」
「ふうん」と彼女は言った。「変なこと訊ねてごめんなさい。でも計算士に会ったのはじめてだからいろいろときいてみたかったの」
「いいよ、べつに」と私は言った。
「ねえ、計算士の人って仕事がひとつ終るとすごく性欲がたかまるって話を聞いたけど、本当?」
「さあどうだろう。そういうことはあるかもしれないな。なにしろ仕事をしているあいだはかなり変った神経のつかい方をするからね」
「そういう時って、誰と寝るの? きまった恋人がいるの?」
「きまった恋人はいない」と私は言った。
「じゃあ誰と寝るの? セックスに興味ないとかホモ・セクシュアルだとか、そういうんじゃないでしょ? 答えたくない?」
「そんなことないよ」と私は言った。私は自分の私生活をべらべらしゃべりまくるタイプの人間では決してないけれど、とくに隠すべきこともないのでちゃんと質問されればちゃんと答える。
「その時どきでいろんな女の子と寝る」と私は言った。
「私とでも寝る?」
「寝ない。たぶん」
「どうして?」
「そういう主義だから。知りあいとはあまり寝ない。知りあいと寝ると余計なことがついてまわるんだ。仕事でつながりのある相手とも寝ない。他人の秘密をあずかる職業だから、そういうことには一線を画す必要があるんだ」
「私が太ってて醜いからじゃなくて?」
「君はそんなに太ってないし、ぜんぜん醜くない」と私は言った。
「ふうん」と彼女は言った。「じゃあ誰と寝るの? そのへんの女の子に声をかけて寝るの?」
「そういうこともたまにはある」
「それともお金で女の子を買うの?」
「それもある」
「もし私があなたと寝てあげるからお金ほしいって言ったら寝る?」
「たぶん寝ない」と私は答えた。「年が離れすぎている。あまり年が離れた女の子と寝るとどうも落ちつかないんだ」
「私はべつよ」
「そうかもしれない。でも僕としてはこれ以上トラブルのたねを増やしたくないんだ。できることならそっと静かに暮したい」
「祖父は最初に寝る男は三十五歳以上がいちばんいいって言ってるの。性欲が一定量以上にたまると頭脳の|明《めい》|晰《せき》さが損なわれるんですって」
「その話は君のおじいさんから聞いたよ」
「ほんとうなのかしら?」
「僕は生物学者じゃないからよくわからない」と私は言った。「それに性欲の量は人によってずいぶん違うからそんなに簡単に断言はできないと思うね」
「あなたは多い方かしら?」
「まあ普通じゃないかな」と私は少し考えてから答えた。
「私には自分の性欲のことがまだよくわからないの」とその太った娘は言った。「だからいろいろとたしかめてみたいのよ」
私が何と答えればいいか迷っているうちに我々はエレベーターの前に出た。エレベーターは訓練された犬のように|扉《とびら》を開けて私が乗るのをじっと待っていた。
「じゃあ、また今度ね」と彼女は言った。
私が乗るとエレベーターの扉が音もなく閉まった。私はステンレス・スティールの壁にもたれてため息をついた。