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世界尽头与冷酷仙境06
日期:2017-02-16 19:17  点击:434
 彼女がテーブルの上に最初の古い夢を置いたとき、それが古い夢そのものであることを|僕《ぼく》はしばらく認識することができなかった。僕は長いあいだじっと|眺《なが》めてから顔をあげて、となりに立った彼女の顔を見た。彼女は何も言わずにテーブルの上の〈古い夢〉を見下ろしていた。それは〈古い夢〉という名にはおよそふさわしくない物体であるように僕には思えた。僕は〈古い夢〉という言葉の響きから古い文書か、そうでなければもっと|漠《ばく》|然《ぜん》としてとりとめのない形状の何かを予想していたのだ。
「それが古い夢なのよ」と彼女は言った。彼女の口調には僕に対して説明するというよりは自分に対して何かを確認するといったようなぼんやりとした行き場のない響きがこめられていた。「正確に言うと古い夢はその中に入っているの」
 僕はわけのわからないままに|肯《うなず》いた。
「手にとってみて」と彼女は言った。
 僕はそっと手にとって、そこに古い夢の|痕《こん》|跡《せき》のようなものが認められないかと目で追ってみた。しかしどれだけ注意深く眺めまわしてみても、そこには何ひとつとして手がかりらしきものは見あたらなかった。それはただの動物の頭骨だった。大きな動物ではない。骨の表面は長いあいだ陽光にさらされていたかのように乾ききっており、|色《いろ》|褪《あ》せて本来の色を失っていた。前方に長く突きだした|顎《あご》は何かを語りかけようとしたところで急に凍りついてしまったかのように軽く開かれたまま固定し、ふたつの小さな|眼《がん》|窩《か》はその中身をどこかで失ったまま奥に広がる虚無の部屋へとつづいていた。
 頭骨は不自然なほど軽く、おかげで物体としての存在感はあらかた失われているようだった。僕はそこにどのような種類の生命の残像をも感じとることができなかった。そこからはあらゆる肉と記憶とぬくもりが奪い去られていた。額の中央にはざらりとした感触の小さなくぼみがひとつあった。そのくぼみに指をあててしばらく観察してみたあとで、それはおそらく|角《つの》をもがれたあとであろうと僕は推測した。
「これは街にいる一角獣の頭骨だね?」と僕は彼女に|訊《き》いてみた。
 彼女は肯いた。「古い夢はその中にしみこんで閉じこめられているの」と彼女は静かに言った。
「僕はここから古い夢を読みとるわけなんだね?」
「それが夢読みの仕事なの」と彼女は言った。
「読みとったものをどうすればいいんだい?」
「どうもしないのよ。あなたはただそれを読みとるだけでいいの」
「どうもよくわからないな」と僕は言った。「僕がここから古い夢を読みとるというのはわかったよ。しかしそれ以上何もしなくていいというのがよくわからないんだ。それじゃ仕事の意味が何もないような気がする。仕事には何かしらその目的といったものがあるはずだ。たとえばそれを何かに書きうつすとか、ある順序に従って整理し分類するとかね」
 彼女は首を振った。「その意味がどこにあるのかは私にもうまく説明することはできないわ。古い夢を読みつづけていれば、あなたにもその意味が自然にわかってくるんじゃないかしら。でもいずれにせよその意味というのはあなたの仕事そのものにはあまり関係がないのよ」
 僕は頭骨をテーブルの上に|戻《もど》し、遠くからもう一度眺めてみた。無を思わせる深い沈黙が頭骨をすっぽりと包んでいた。しかしあるいはその沈黙は外部からやってくるものではなく、頭骨の中から煙のように|湧《わ》きだしているのかもしれなかった。どちらにしても不思議な種類の沈黙だった。それはまるで頭骨を地球の中心までしっかりと結びつけているかのように僕には感じられた。頭骨はじっと黙したまま実体のない視線を|虚《こ》|空《くう》の一点に向けていた。
 眺めれば眺めるほど、僕にはその頭骨が何かを語りたがっているように思えてならなかった。まわりにはどことなく|哀《かな》しげな空気さえ漂っているようだったが、僕にはそこにこめられた哀しみを自分に対してうまく表現することはできなかった。正確な言葉が失われてしまっているのだ。
「読むことにするよ」と僕は言って、もう一度テーブルの上の頭骨を手にとり、手の中で重みを測ってみた。「いずれにせよ、そうする以外に僕には選びようもなさそうだからね」
 彼女はほんの少しだけ|微笑《ほ ほ え》んで僕の手から頭骨を受けとって、表面につもったほこりを二枚の布で丁寧に|拭《ふ》きとり、その白さを増した頭骨をテーブルの上に戻した。
「じゃあ古い夢の読み方をあなたに説明するわ」と彼女は言った。「でももちろん私は|真《ま》|似《ね》をするだけで、実際に読むことはできないの。読むことができるのはあなただけ。よく見ていてね。まずこういう風に頭骨を正面に向け、両手の指をこめかみのあたりにそっと置くの」
 彼女は頭骨の側頭部に指をあて、たしかめるように僕の方を見た。
「そして骨の額をじっと見るの。力を入れてにらむんじゃなくて、そっとやさしく見るの。でも目を離しちゃだめよ。どんなに|眩《まぶ》しくても目をそらせてはだめ」
「眩しい?」
「ええ、そう。じっと見ていると頭骨が光と熱を発しはじめるから、あなたはその光を指先で静かにさぐっていけばいいの。そうすればあなたは古い夢を読みとることができるはずよ」
 僕は頭の中で彼女の説明してくれた手順をもう一度繰りかえしてみた。彼女の言う光がどのような光でどのような感触なのかはもちろん想像がつかなかったが、一応の手順はのみこむことができた。頭骨にあてられた彼女の細い指をしばらく眺めているうちに、僕は以前どこかでその頭骨を見たことがあるという強い既視感のようなものに襲われた。骨の洗いざらしにされたような白さと額のくぼみが、最初に彼女の顔を見たときと同じような奇妙な心の揺れを僕にもたらした。しかしそれが正しい記憶の断片なのか、あるいは時や場所の一瞬の|歪《ゆが》みがもたらす錯覚なのか、僕には判断することができなかった。
「どうかしたの?」と彼女が|訊《たず》ねた。
 僕は首を振った。「どうもしないよ。少し考えごとをしてたんだ。たぶん君の今の説明で手順は一応のみこめたと思う。あとは実際にやってみるしかないな」
「まず食事を済ませてしまいましょう」と彼女は言った。「作業にかかるとそんな暇はなくなっちゃうと思うから」
 彼女は奥にある小さな台所から|鍋《なべ》を持ってきて、ストーヴの上であたためた。|玉《たま》|葱《ねぎ》やじゃが芋の入った野菜の煮こみだった。やがて鍋があたたまって気持の良い音を立てはじめると彼女は中身を|皿《さら》に移し、くるみの入ったパンと一緒にテーブルに運んだ。
 我々は向いあって、口をきかずに食事を口にはこんだ。料理そのものは質素だったし、調味料の味も僕のこれまで味わったことのないものばかりだったが、決してまずくはなかったし、食べ終えると体があたたかくなったような気がした。それから熱い茶が出た。薬草で作ったような苦みのある緑色の茶だった。
 
 夢読みは彼女が口で説明してくれたほど楽な作業ではなかった。光の筋はあまりにも細かく、どれだけ神経を指先に集中させてもその迷路のような混乱をうまく|辿《たど》っていくことはできなかった。それでも僕は古い夢の存在を指先にはっきりと感じとることができた。それはざわめきのようでもあり、とりとめもなく流れていく映像の|羅《ら》|列《れつ》のようでもあった。しかし僕の指はそれをまだ明確なメッセージとして|把《は》|握《あく》することはできなかった。それがたしかに存在しているということを感じとるだけだ。
 僕がやっとふたつぶんの夢を読み終えたとき、時刻は既に十時をまわっていた。僕はもう夢を解き放ってしまった頭骨を彼女に返し、眼鏡を外して鈍くなってしまった眼球をゆっくりと指でほぐした。
「疲れたでしょう?」と彼女は僕に訊ねる。
「少しね」と僕は答えた。「目がうまく慣れないんだ。じっと見ていると古い夢の光を目が吸いこんで、頭の奥の方が痛くなってくるんだ。たいした痛みじゃないけれどね。目がにじんでじっとものを見ていることができなくなってしまうんだ」
「最初はみんなそうなの」と彼女は言った。「はじめのうちは目が慣れなくて、うまく読みとれないの。でもそのうちに慣れるから心配することはないわ。しばらくはゆっくりとやりましょう」
「その方がいいみたいだ」と僕は言った。
 古い夢を書庫に戻してしまうと、彼女は帰り仕度をはじめた。ストーヴのふたを開けて赤く燃える石炭を小さなシャベルでとりだし、砂をはったバケツの中に埋めた。
「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」
「そのとおりだ」と僕は言った。
「でも本当のことを言うと、私には心がどういうものなのかがよくわからないの。それが正確に何を意味し、どんな風に使えばいいかということがね。ただことばとして覚えているだけよ」
「心は使うものじゃないよ」と僕は言った。「心というものはただそこにあるものなんだ。風と同じさ。君はその動きを感じるだけでいいんだよ」
 彼女はストーヴのふたを閉め、|琺《ほう》|瑯《ろう》のポットとカップを奥に運んで洗い、洗い終ると粗い布地の青いコートに身をつつんだ。ひきちぎられた空の切れはしが長い時間をかけてその本来の記憶を|失《な》くしてしまったようなくすんだ青だ。しかし彼女は何かを考えこんだまましばらく火の消えたストーヴの前に立っていた。
「あなたは|他《ほか》の土地からここにやってきたの?」と彼女はふと思いだしたように僕に訊ねた。
「そうだよ」と僕は言った。
「そこはどんな土地だったのかしら?」
「何も覚えてないんだ」と僕は言った。「悪いけれど僕には何ひとつとして思いだせない。影をとられたときに古い世界の記憶も一緒にどこかに行っちゃったみたいだ。でもそれはとにかくずっと遠い場所だよ」
「でもあなたには心のことがわかるのね?」
「わかると思う」
「私の母も心を持っていたわ」と彼女は言った。「でも母は私が七つのときに消えてしまったの。それはきっと母があなたと同じように心というものを持っていたせいね」
「消えた?」
「ええ、消えたのよ。でもその話はやめましょう。ここでは消えた人の話をするのは不吉なことなのよ。あなたの住んでいた街の話をして。何かひとつくらいは思いだせるでしょ?」
「僕に思いだせることはふたつしかない」と僕は言った。「僕の住んでいた街は壁に囲まれてはいなかったし、我々はみんな影をひきずって歩いていた」
 
 そう、我々は影をひきずって歩いていた。この街にやってきたとき、僕は門番に自分の影を預けなければならなかった。
「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。「影を捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」
 僕は影を捨てた。
 門番は僕を門のそばにある空地に立たせた。午後三時の太陽が僕の影をしっかりと地面に|捉《とら》えていた。
「じっとしてるんだ」と門番は僕に言った。そしてポケットからナイフをとりだして鋭い刃先を影と地面のすきまにもぐりこませ、しばらく左右に振ってなじませてから、影を要領よく地面からむしりとった。
 影は抵抗するかのようにほんの少しだけ身を震わせたが、結局地面からひきはがされて力を失くし、ベンチにしゃがみこんだ。体からひきはなされた影は思ったよりずっとみすぼらしく、疲れきっているように見えた。
 門番はナイフの刃を収めた。僕と門番は二人でしばらく本体を離れた影の姿を眺めていた。
「どうだね、離れちまうと奇妙なもんだろう?」と彼は言った。「影なんて何の役にも立ちゃしないんだ。ただ重いだけさ」
「悪いとは思うけれど、君と少しのあいだ別れなくちゃいけないみたいだ」と僕は影のそばに寄って言った。「こんなつもりはなかったんだけれど、なりゆき上仕方なかったんだ。少しのあいだ我慢してここに一人でいてくれないか?」
「少しのあいだっていつまでだい?」と影が訊いた。
 わからない、と僕は言った。
「君はこの先後悔することになるんじゃないかな?」と小さな声で影は言った。「くわしい事情はわからないけれど、人と影が離れるなんて、なんだかおかしいじゃないか。これは間違ったことだし、ここは間違った場所であるように|俺《おれ》には思えるね。人は影なしでは生きていけないし、影は人なしでは存在しないものだよ。それなのに俺たちはふたつにわかれたまま存在し生きている。こんなのってどこか間違っているんだよ。君はそうは思わないのか?」
「たしかに不自然なことは認めるよ」と僕は言った。「でもこの場所は何もかもがはじめから不自然なんだ。不自然な場所ではその不自然さにあわせていくしか仕方ないんだよ」
 影は首を振った。「それは理屈だよ。しかし俺には理屈以前にわかるんだ。ここの空気は俺にはあわないよ。ここの空気は他の場所の空気とは違うんだ。ここの空気は俺にも君にも良い影響を与えない。君は俺を捨てたりするべきじゃなかったんだ。俺たちはこれまで二人一緒に結構うまくやってきたじゃないか? どうして俺を捨てたりしたんだい?」
 いずれにせよ、それはもう手遅れだった。僕の体から影は既にひきはがされてしまったのだ。
「そのうちに落ちついたところで君をひきとりに来るよ」と僕は言った。「これはたぶん一時的なことだし、いつまでもは続かない。また二人で一緒になれるさ」
 影は小さくため息をつき、それから力を失って焦点の定まらない目で僕を見あげた。午後三時の太陽が我々二人を照らしていた。僕には影がなく、影には本体がなかった。
「それは君の希望的な推測にすぎないんじゃないかな」と影は言った。「そううまくは事は運ぶまい。俺にはどうも|嫌《いや》な予感がするんだ。チャンスをみつけてここを逃げだし、二人でもとの世界に戻ろう」
「もとの場所には戻れない。戻り方がわからないんだ。君にだってやはりわからないだろう?」
「今はね。でも俺はこの命にかけてもその戻り方をみつけるよ。君とときどき会って話がしたい。会いに来てくれるね?」
 |僕《ぼく》は|肯《うなず》いて影の肩に手を置き、それから門番のところに行った。門番は僕と影が話しているあいだ、広場に落ちている石を拾ってあつめ、邪魔にならない場所に|放《ほう》りなげていた。
 僕がそばによると門番は手についた白い土をシャツの|裾《すそ》で|拭《ぬぐ》いおとし、大きな手を僕の背中においた。それが親密さの表現なのかあるいはその大きな力強い手を僕に認識させるためなのか、僕にはどちらとも決めかねた。
「あんたの影は俺がちゃんと大事に預っといてやるよ」と門番は言った。「食事も三度三度ちゃんと与えるし、一日一度は外に出して散歩もさせる。だから安心しな。あんたが心配するようなことは何もないよ」
「ときどき会うことはできますか?」
「そうだな」と門番は言った。「いつでも自由にというわけにはいかんが、会えんわけじゃない。時期が合い、事情が許し、俺の気が向けば会える」
「じゃあもし僕が影を返してもらいたいと思ったときはどうすればいいんですか?」
「あんたはどうもまだここの仕組がよくわかっていないようだな」と門番は僕の背中に手をあてたまま言った。「この街では|誰《だれ》も影を持つことはできないし、一度この街に入ったものは二度と外にでることはできない。したがってあんたの今の質問はまったく意味をなさないということになる」
 そのようにして僕は自分の影を失ったのだ。
 
 図書館を出ると、僕は彼女に|家《うち》まで送ろうと言った。
「私を送ってくれる必要なんてないのよ」と彼女は言った。「べつに夜は怖くないし、あなたの家とは方角が違うわ」
「送りたいんだよ」と僕は言った。「気持がたかぶっているみたいで、部屋に戻ってもすぐには眠れそうもないからね」
 我々は二人で並んで旧橋を南にわたった。冷ややかさを残した初春の風が|中《なか》|洲《す》の柳の枝を揺らし、妙に|直截的《ちょくせつてき》な月の光が足もとの丸石をつややかに光らせていた。大気は湿り気をふくんで、どんよりと重たげに地表をさすらっていた。彼女は束ねていた|紐《ひも》をといた髪を手でひとつにまとめ、前にまわしてコートの中に入れた。
「君の髪はとても|綺《き》|麗《れい》だな」と僕は言った。
「ありがとう」と彼女は言った。
「前にも髪をほめられたことはある?」
「いいえ、ないわ。あなたがはじめてよ」と彼女は言った。
「ほめられるとどんな気がする?」
「わからないわ」と彼女は言ってコートのポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を見た。「あなたが私の髪をほめたというのはわかるわ。でもほんとうはそれだけではないのね。私の髪があなたの中に何かべつのものを作りだして、あなたはそのことについて何かを言っているのね?」
「違うよ。僕は君の髪の話をしているんだ」
 彼女は空中に何かを探し求めるように小さく微笑んだ。「ごめんなさい。あなたのしゃべり方にうまく慣れることができないだけなの」
「かまわないよ。そのうちに慣れる」と僕は言った。
 
 彼女の家は職工地区にあった。職工地区は工場地区の南西部の一郭にあるさびれた場所だ。工場地区自体がほとんど見捨てられてしまったような|淋《さび》しい場所なのだ。かつては美しい水をたたえ荷船やランチが|往《ゆ》き|来《き》した大運河も今はその水門を閉ざし、ところどころでは水が干あがって底が露出していた。白くこわばった|泥《どろ》が、巨大な古代生物のしわだらけの死体のように浮き上がっている。河岸には荷を積み下ろすための広い石段がついていたが、今はもう使うものもなく、丈の高い雑草が石のすきまにしっかりと根を下ろしていた。古い|瓶《びん》や|錆《さ》びた機械の部品が泥の上に首を出し、そのとなりでは平甲板の木造船がゆっくりと朽ち果てていた。
 運河に沿って、見捨てられた人気のない工場がつづいていた。門は閉ざされ、窓のガラスは消え|失《う》せ、壁にはつたが|絡《から》みつき、非常階段の手すりは錆びこぼれ、いたるところに雑草が茂っていた。
 工場の並びを抜けると職工住宅だった。五階建ての古びた建てものだ。かつては金持のための優雅なアパートメントだったのだが、時代が変り、そこを細かく区切って貧しい職工たちが住みつくようになったのだ、と彼女は言った。しかしその職工たちも、今はもう職工ではない。彼らの働いていた工場の|殆《ほと》んどは閉鎖されてしまったのだ。彼らの技術はもう何の役にも立たず、街の要求する|細《こま》|々《ごま》としたものを必要に応じて作っているだけだ。彼女の父親もそんな職工の一人だった。
 最後の運河にかかった手すりのない短かい石橋を渡ったところが彼女の住む|棟《むね》のある地区だった。棟と棟のあいだには中世の城の攻防戦を思わせる|梯《はし》|子《ご》のような渡り廊下がついていた。
 時刻は真夜中に近くほとんどの窓の|灯《ひ》は消えていた。彼女は僕の手をひいて、まるで頭上から人々を|狙《ねら》う巨大な鳥の目を避けるかのように、その迷路のような通路を足ばやに通り抜けた。そしてひとつの棟の前で立ちどまり、僕にさよならと言った。
「おやすみ」と僕は言った。
 そして僕は一人で西の丘の斜面を上り、自分の部屋に戻った。

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