タクシーに乗ってアパートに|戻《もど》った。外に出るともう日はすっかり暮れていて、街は仕事を終えた人々でいっぱいだった。おまけに小雨まで降っていたから、タクシーをつかまえるのにずいぶん時間がかかった。
それでなくても私の場合はタクシーをつかまえるのに手間がかかる。というのは私は危険を避けるために、やってきた空車を最低二台はやりすごすことにしているからだ。記号士たちは|偽《にせ》のタクシーを何台か持っていて、それで仕事を終えたばかりの計算士を拾い、そのままどこかに連れ去ってしまうことがときどきあるという話だった。それはもちろんただの|噂《うわさ》かもしれない。私も私のまわりの|誰《だれ》も実際にそんな目にあったことは一度もない。しかし用心するに越したことはないのだ。
だからいつもは地下鉄やバスを使うようにしているのだが、私はそのときとても疲れていて眠かったし、雨も降っていたし、夕方すぎのラッシュアワーの電車やバスに乗ることを思うとぞっとしたので、時間をかけてもタクシーを拾った。タクシーの中で思わず何度か眠りこみそうになったが、必死になってそれをこらえた。部屋に帰ればベッドの上で好きなだけ眠れるのだ。今ここで眠りこんでしまうことはできない。ここで眠るのはあまりにも危険すぎる。
それで私はタクシーのカー・ラジオの野球中継に神経を集中した。プロ野球のことはよくわからないので、便宜的に現在攻撃している方のチームを応援し、守備についている方のチームを憎むことにした。私の応援しているチームの方が三対一で負けていた。ツーアウト二塁からヒットが出たのだが、走者があわてて二三塁間でつまずいて転び、結局スリーアウトになって点が入らなかった。解説者はひどい話だと言ったが、私もそう思った。誰だってあわてて転ぶことくらいはあるにしても、野球の試合中に二三塁間で転ぶべきではないのだ。それでがっくりしたせいか、ピッチャーは相手のトップバッターにつまらないストレート・ボールを投げて、レフト・スタンドにホームランを打ちこまれ、四対一になった。
タクシーが私のアパートの前についたときも、得点は四対一のままだった。私は料金を払い、帽子の箱とぼんやりとかすんだ頭を抱えてタクシーを下りた。雨はもうほとんどあがりかけていた。
郵便受けには郵便物はひとつも入っていなかった。留守番電話にもメッセージは入っていなかった。誰も私には用事がないみたいだった。結構。私も誰にも用事はないのだ。私は冷蔵庫から氷をとりだし、大きなグラスに大量のウィスキー・オン・ザ・ロックを作り、少しだけソーダを加えた。そして服を脱いでベッドに潜りこみ、ベッドの背もたれにもたれてちびちびとそれを飲んだ。今すぐにも意識を失ってしまいそうだったけれど、一日の終りの甘美な儀式を欠かすわけにはいかない。私はベッドにもぐりこんでから眠りにつくまでのささやかなひとときが何よりも好きなのだ。何か飲み物をもってベッドにもぐりこみ、音楽を聞いたり本を読んだりするのだ。美しい夕暮やきれいな空気が好きなのと同じように、私はそういった時間が好きだった。
ウィスキーを半分ばかり飲んだところで電話のベルが鳴った。電話はベッドの足もとから二メートルほど離れた丸テーブルの上に載っていた。せっかくもぐりこんだベッドを離れてわざわざ歩いていくつもりはまったくなかったから、私はそのまま電話のベルが鳴りつづけるのをぼんやりと|眺《なが》めていた。ベルは十三回か十四回鳴ったが、私は気にしなかった。昔の漫画映画だとベルが鳴るたびに電話機がビリビリと震えるところだが、じっさいにはもちろんそんなことは起らない。電話機はテーブルの上にじっとうずくまったまま鳴りつづけていた。私はウィスキーを飲みながら、それを見ていた。
電話機のとなりには財布とナイフとおみやげにもらってきた帽子の箱が置いてあった。今日のうちにそれを開けて中身をたしかめてみた方がいいのではないだろうかと私はふと思った。冷蔵庫に入れなくてはならないものかもしれないし、生きものかもしれないし、あるいはすごく大事なものかもしれないのだ。しかし私はそうするには余りにも疲れはてていた。だいいち、もしそうだとしたら相手の方からその|旨《むね》をきちんと指示するのが一応の筋というものだ。私は電話のベルが鳴り終えるのを待ってからウィスキーの残りをひとくちで飲み干し、|枕《まくら》もとのライトを消して目を閉じた。目を閉じると待ちかまえていたように黒い巨大な網のような眠りが空から降りかかってきた。眠りにおちながら、何がどうなろうと知るものかと私は思った。
目覚めたとき、あたりは薄暗かった。時計は六時十五分をさしていたが、それが朝なのか夕方なのか私には判断できなかった。私はズボンをはいてドアの外に出て、となりの部屋のドアの前を見てみた。ドアの前には朝刊が置いてあったので、朝だということがわかった。新聞をとっていると、こういうときにとても便利である。私も新聞をとるべきなのかもしれない。
結局十時間ほど眠ったわけだった。体はまだ休息を求めていたし、どうせ今日一日することは何もなかったから、そのままもうひと眠りしてもよかったのだけれど、やはり思いなおして起きることにした。新しい手つかずの太陽とともに目覚めることの心地良さは何ものにもかえがたい。私はシャワーを浴びて丁寧に体を洗い|髭《ひげ》を|剃《そ》った。そして約二十分いつもどおりの体操をしてから、ありあわせの朝食をとった。冷蔵庫の中身はあらかた空っぽになっていたので、補充する必要があった。私は台所のテーブルに座って、オレンジ・ジュースを飲みながら、鉛筆でメモ用紙に買物のリストを書きあげた。リストは一枚では足りなくて、二枚になった。いずれにしてもまだスーパーマーケットは開いていないから、昼食をとりに外出するついでに買物をすることにした。
|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》のかごに入った汚れものを|洗《せん》|濯《たく》|機《き》に|放《ほう》りこみ、流しでテニス・シューズをごしごしと洗っている途中で、老人からもらった|謎《なぞ》のプレゼントのことをふと思いだした。私はテニス・シューズの洗濯を右半分で放りだしてキッチン・タオルで手を|拭《ふ》き、ベッドルームに戻って帽子の紙箱を手にとってみた。あいかわらず箱はそのかさ[#「かさ」に丸傍点]のわりに軽かった。それはどことなく|嫌《いや》なかんじのする軽さだった。必要以上に軽いのだ。何かが私の頭の中でひっかかっていた。これはいわば職業的な勘のようなもので、具体的な根拠があるわけではない。
私はぐるりと部屋を見まわしてみた。部屋は奇妙にしんとしていた。まるで音抜きをされたような具合だったが、|咳《せき》|払《ばら》いをしてみるとちゃんと咳払いの音がした。ナイフの刃を出して、背中の部分でテーブルを|叩《たた》いてみたが、これもちゃんとコンコンという音がした。一度音抜きを経験するとどうやらしばらくは静けさに対して疑ぐり深くなる傾向があるようだった。それで私はベランダの窓を開けた。ベランダの窓を開けると、車の音や鳥のさえずりが聞こえてきたので、私はほっとした。進化だろうがなんだろうが、やはり世界は様々な音に|充《み》ちているべきなのだ。
それから私は中身を傷つけぬように注意しながらナイフでガムテープを切った。箱のいちばん上には新聞紙がくしゃくしゃに丸められてつまっていた。新聞を二、三枚広げて読んでみたが、べつに何の特徴もない三週間前の毎日新聞だったので、台所からビニールのごみ袋をもってきて、その中に丸めて捨てた。新聞は全部で二週間ぶんくらい詰まっていた。どれも毎日新聞だった。新聞をどけてしまうと、下にはポリエチレンだか|発《はっ》|泡《ぽう》スチロールだかの、子供の小指ほどの大きさのふにゃふにゃとした詰めものがでてきた。私はそれを両手ですくって、かたっぱしからごみ袋に放りこんだ。いったい何が入っているのかはわからないけれど、やけに手間のかかるプレゼントだった。そのポリエチレンだか発泡スチロールだかを半分くらい取り去ってしまうと、あとにまた新聞紙の包みがでてきた。私はいささかうんざりしたので台所に戻って冷蔵庫からコカコーラの|缶《かん》を持ってきて、ベッドに腰をかけてゆっくりとそれを飲んだ。そして何ということもなくナイフの刃で|爪《つめ》の先を削った。ヴェランダに胸の黒い鳥がやってきて、いつものようにカツカツという音をたててテーブルの上にまいておいたパン|屑《くず》をついばんでいた。平和な朝だった。
やがて私は気をとりなおしてテーブルにむかい、箱の中から新聞紙に包まれた物体をそっとひっぱりだした。新聞紙の上にはガムテープがぐるぐるとまきつけられていて、それは何かしら現代美術のオブジェを思わせた。|西瓜《す い か》を細長くしたような形状で、やはり重さというほどの重さはなかった。私は箱とナイフをテーブルから下ろし、広々としたテーブルの上でガムテープと新聞紙を丁寧にはぎとった。その下から現われたのは動物の頭骨だった。
やれやれ、と私は思った。いったいなんだってあの老人は私が頭骨をもらって喜ぶなんて思いついたのだろう? 誰かに動物の頭骨をプレゼントするなんて、どう考えてもまともな神経ではない。
頭骨の形は馬に似ていたが、馬よりはずっとサイズが小さかった。いずれにせよ私の生物学の知識からすればその頭骨はひづめがはえていて、顔が細長くて、草を食べて、それほど大きくないという|類《たぐ》いの|哺乳《ほにゅう》動物の肩の上に存在していたことはまず間違いなさそうだった。私はそういう種類の動物をいくつか思い浮かべてみた。|鹿《しか》・|山《や》|羊《ぎ》・羊・かもしか・となかい・ロバ……|他《ほか》にまだいくつかあるかもしれないが、私にはそれ以上そういった類いの動物の名を思いだせなかった。
とりあえず私はその頭骨をTVの上に置くことにした。あまりぱっとする眺めではなかったが、他に置く場所も思いつけなかった。アーネスト・ヘミングウェイならきっとそれを暖炉の上に大鹿の頭と並べて置くところだろうが、私の家には当然のことながら暖炉なんてなかった。暖炉どころかサイドボードもなく、|下《げ》|駄《た》|箱《ばこ》すらないのだ。だからTVの上以外に、そのよくわからない獣の頭骨を置くべき場所がないのだ。
帽子箱の底に残った詰めものをごみ袋にあけていると、底の方にやはり新聞紙にくるまれた細長いものがあった。開けてみると、それは老人が頭骨を|叩《たた》くのに使っていた例のステンレス・スティールの|火《ひ》|箸《ばし》だった。私はそれを手にとってしばらく眺めてみた。火箸は頭骨とは逆にずっしりと重く、まるでフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮するのに使う|象《ぞう》|牙《げ》のタクトのような威圧感があった。
私はことのなりゆきとしてそれを持ってTVの前に立ち、獣の頭骨の額の部分を軽く叩いてみた。くうん[#「くうん」に丸傍点]という大型犬の鼻息に似た音がした。私としてはコオン[#「コオン」に丸傍点]とかカツン[#「カツン」に丸傍点]といったタイプの硬質な音を予想していたので、それはいささか意外といえば意外だったが、べつにだからといってとりたてて文句をつける筋合もなかった。とにかく現実問題としてそういう音がするのだからあれこれと言ってもはじまらない。とやかく言って音が変るというものでもないし、音が変ったからそれで状況がどう変るというものでもないのだ。
頭骨を眺めたり叩いたりするのに飽きると、私はTVの前を離れてベッドに腰を下ろし、電話機を|膝《ひざ》の上にのせて仕事の日程をたしかめるために『|組織《システム》』のオフィシャル・エージェントの番号をまわした。私の担当者が出て、私の仕事は四日後に一件予定されているがそれで問題はないか、と言った。ない、と私は言った。私はあとあとの問題を避けるために彼に余程シャフリング使用の正当性を確認してみようかとも思ったが、話が長くなりそうなのでやめた。書類も正式なものだし、報酬もきちんとしている。それに老人は秘密を守るためにエージェントを通さなかったと言ったのだ。何もそれ以上話をややこしくする必要はない。
それに加えて私はその私の担当者が個人的にあまり好きではなかった。三十前後の背の高いやせた男で、自分がなんでも承知していると考えているようなタイプだ。そんな人間と面倒な話をしなければならない状況に自分を追いこむようなことはできることなら避けたい。
事務的な打ちあわせだけを簡単に済ませると私は電話を切り、居間のソファーに座って缶ビールを開け、ヴィデオ・テープでハンフリー・ボガートの『キー・ラーゴ』を|観《み》た。私は『キー・ラーゴ』のローレン・バコールが大好きだった。『三つ数えろ』のバコールももちろん良いが、『キー・ラーゴ』の彼女には何かしら他の作品には見られない特殊な要素が加わっているように私には思える。それがいったい何であるのかをたしかめるために私は何度も『キー・ラーゴ』を観ているのだが、正確な答はまだ出ていない。それはあるいは人間存在を単純化するために必要な|寓《ぐう》|話《わ》|性《せい》のようなものかもしれない。しかし私にははっきりとしたことは言えない。
じっとTVを観ていると、どうしても自然にその上に置いた動物の頭骨の方に目がいった。それで私はいつもほど画面に神経を集中することができず、ハリケーンがやってきたあたりでテープを|停《と》めて映画のつづきを観るのをあきらめ、あとはビールを飲みながらぼんやりとTVの上の頭骨を眺めた。じっと眺めているとその頭骨には何かしら見覚えがあるような気がした。でもそれがどのような種類の見覚えなのかはまったく思いだせなかった。私はひきだしからTシャツを出して頭骨の上にすっぽりとかぶせ、そして『キー・ラーゴ』のつづきを観た。それでやっと私はローレン・バコールに神経を集中させることができた。
十一時になるとアパートを出て、駅の近くのスーパーマーケットで食料品を手あたり次第に買いこみ、それから酒屋に寄って赤ワインと炭酸水とオレンジ・ジュースを買った。クリーニング屋で上着を一枚とシーツ二枚を受けとり、文具店でボールペンと封筒とレターペーパーを買い、雑貨屋でいちばんめ[#「め」に丸傍点]の細かい|砥《と》|石《いし》を買った。本屋に寄って雑誌を二冊買い、電気屋で電球とカセット・テープを買い、写真店でポラロイド・カメラ用のフィルムを買った。ついでにレコード店にも寄って何枚かレコードを買った。おかげで私の小型車の後部座席は買物袋でいっぱいになった。たぶん私は生まれつき買物が好きなのだろう。私はたまに街に出るたびに、十一月のリスみたいにこまごまとしたものを山ほど買いあつめてしまうのだ。
私の乗っている車にしたって純粋に買物用に買った車なのだ。その車を買ったときもあまりにも買物が多すぎて持ちきれなくなり、それで車を買ってしまったのだ。私が買物袋を抱えたまま、たまたま目についた中古車ディーラーの中に入ると、そこには実にいろんな種類の車が並んでいた。私は車が好きでもないし、くわしくもないので、「何でもいいからそれほど大きくないのをひとつほしい」と言った。
私の相手をした中年の男は車種を決めるためにカタログをひっぱりだしてきていろいろと見せてくれたが、私はカタログなんて見たくはなかったから、彼に自分が欲しいのは純粋な買物用の車なのだと説明した。だから高速道路も走らないし、女の子を乗せてドライヴにもいかないし、家族旅行もしない。高性能のエンジンもいらないし、エアコンもカー・ステレオもルーフ・ウィンドウも高性能タイヤもいらない。小まわりがきいて、排気ガスが少なくて、うるさくなくて、故障が少なくて、信頼性の高い、性能の良い小型車が欲しいと言った。色はダークブルーなら申しぶんない。
彼が勧めてくれたのは黄色い小型の国産車だった。色はあまり気に入らなかったが、乗ってみると性能は悪くなく、小まわりもよくきいた。デザインがさっぱりしていて余分な装備が何ひとつついていないところも私の好みにあっていたし、旧型モデルだったので値段も安かった。
「車というのは本来こういうもんなんです」とその中年のセールスマンは言った。「はっきり言って、みんな頭がどうかしてるんです」
私もそう思う、と私は言った。
私はそのようにして買物専用の車を手に入れた。買物以外の目的に車を使うことはまずない。
買物をすませてしまうと手近なレストランの駐車場に車を入れ、ビールと|海《え》|老《び》のサラダとオニオン・リングを注文して一人で黙々と食べた。海老は冷えすぎていて、オニオン・リングは少しふやけていた。レストランの中をぐるりと見まわしてみたが、ウェイトレスをつかまえて苦情を言ったり床に|皿《さら》を叩きつけている客の姿は見あたらなかったので、私も文句を言わずに全部食べることにした。期待をするから失望が生じるのだ。
レストランの窓からは高速道路が見えた。道路の上には様々な色とスタイルの車が走っていた。私は車を眺めながら昨日仕事をした奇妙な老人と太った孫娘のことを思いかえした。しかしどう好意的に考えても彼らは私の理解をはるかに超えた異常な世界に住んでいるように私には思えた。あの|馬《ば》|鹿《か》|気《げ》たエレベーターやクローゼットの奥にある巨大な穴ややみくろや音抜き、何もかもが異常だった。おまけに帰りのおみやげに動物の頭骨までくれたのだ。
私は食後のコーヒーを待っているあいだ退屈しのぎに太った娘の体の細部をひとつひとつ思いかえしてみた。四角いイヤリングやピンクのスーツやハイヒール、それにふくらはぎや首の肉のつき具合や顔の造作や、そんなことだ。私はそんなひとつひとつを比較的はっきりと思いだすことができたが、それらを集合させた全体像ということになるとイメージは意外にぼんやりとしていた。おそらくそれは私が最近太った女と寝たことがないせいだろうと思った。だから私には太った女の体つきというものをうまく思い浮かべることができないのだ。私が太った女と最後に寝たのはもう二年近くも前のことだ。
しかし、老人が言ったように同じ太っているといっても、世間には様々な種類の太り方がある。私は一度——たしか連合赤軍事件の起った年のことだ——腰と|太《ふと》|腿《もも》が異様といってもいいくらい太い女の子と寝たことがあった。彼女は銀行員で、いつも窓口で顔をあわせているうちに親しく口をきくようになり、一緒に酒を飲みにいってそのついでに寝たのだ。私は彼女と寝てみて、そのときはじめて彼女の下半身が人並外れて太いことに気づいた。というのは彼女はいつもカウンターの向うに座っていたから、下半身にはまったく目が届かなかったのである。学生時代にずっと卓球をしていたせいよ、と彼女は説明したが、そのあたりの因果関係は私にはよくわからない。卓球をして下半身だけが太るというような話を聞いたことは他にないからだ。
でも彼女の太り方はとてもチャーミングだった。腰骨の上に耳をあてると、晴れた午後に春の野原に寝転んでいるようなかんじがした。太腿は干した|布《ふ》|団《とん》のようにやわらかく、そのままふわりとしたカーブを描いて静かに性器にまで届いていた。私がその太り方をほめると——私は何か気に入ったことがあるとすぐに口に出してほめる方なのだ——彼女は「そうかしら」とだけ言った。あまり私のことばを信用していない風だった。
もちろん全体がむらなく太った女と寝たこともある。全身が筋肉というがっしりした女とも寝たことがある。はじめの方はエレクトーンの教師で、あとの方はフリーのスタイリストだった。そんな風に太り方にもいろんな特徴があるのだ。
このようにたくさんの数の女と寝れば寝るほど、人間はどうも学術的になっていく傾向があるみたいだ。性交自体の喜びはそれにつれて少しずつ減退していく。性欲そのものにはもちろん学術性はない。しかし性欲がしかるべき水路をたどるとそこに性交という滝が生じ、その結果としてある種の学術性をたたえた滝つぼへと|辿《たど》りつくのだ。そしてそのうちに、ちょうどパブロフの犬みたいに、性欲から直接滝つぼへという意識回路が生まれることになる。でもそれは結局、私が年をとりつつあるというだけのことなのかもしれない。
私は太った娘の裸体について考えることをやめ、勘定を払ってレストランを出た。それから近所の図書館まで行き、リファレンスのデスクに座った髪の長いやせた女の子に「|哺乳類《ほにゅうるい》の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》に関する資料はあるでしょうか?」とたずねてみた。彼女は文庫本を読みふけっていたが、顔をあげて私を見た。
「失礼?」と彼女は言った。
「哺乳類の/頭蓋骨に関する/資料」と私はきちんと文節を切って繰りかえした。
「ほにゅうるいのずがいこつ」と|唄《うた》でも唄うように女の子は言った。そういう風に言うと、まるで詩の題みたいに聞こえた。詩の朗読の前に詩人がその題を聴衆に告げるときの、あのかんじだった。どんな相談が来ても、彼女はそんな風に反復するのだろうか、と私はちょっと考えてみた。
にんぎょうげきのれきし、とか
たいきょくけんにゅうもん、とかいう風に?
そんな題の詩がほんとうにあったらとても楽しいだろうと私は思った。
彼女はしばらく|下唇《したくちびる》をかんで考えこんでいたが、「ちょっとお待ち下さい。調べてみます」と言って、くるりとうしろを向き、コンピューターのキイボードに『ほにゅうるい』という単語をうちこんだ。二十ばかりの書名がスクリーンにあらわれた。彼女はライトペンを使ってそのうちの三分の二ばかりを消した。そしてそれをメモリーしてから、こんどは『こっかく』という単語をうった。七つか八つの書名が出てきて、彼女はそのうちの二つだけを残し、前のメモリーぶんの下にそれを並べた。図書館も昔に比べれば変ったものだ。貸出しカードが袋に入って本のうしろについていた時代が夢のようだ。私は子供の|頃《ころ》貸出しカードに並んだスタンプの日付けを見るのが大好きだったのだ。
私は彼女が慣れた手つきでキイボードを操作しているあいだずっと彼女のほっそりとした背中と長い髪を見ていた。彼女に好意を抱いていいものかどうか、私はかなり迷った。彼女は美人だったし、親切だったし、頭も良さそうだったし、詩の題のようなしゃべり方をした。好意を抱いてはいけないという理由は何ひとつとしてないように思えた。
彼女はコピーのスウィッチを押してモニターTVのスクリーン・コピーをとり、それを私にわたしてくれた。
「この九冊の中から選んで下さい」と彼女は言った。
1 ホニュウルイガイセツ
2 ズセツ・ホニュウルイ
3 ホニュウルイノコッカク
4 ホニュウルイノレキシ
5 ホニュウルイトシテノワタシ
6 ホニュウルイノカイボウ
7 ホニュウルイノノウ
8 ドウブツノコッカク
9 ホネハカタル
とあった。
私のカードでは三冊まで借りることができる。私は2・3・8を選んだ。『哺乳類としての私』とか『骨は語る』というのも|面《おも》|白《しろ》そうではあったが、今回の問題には直接的な関係はなさそうなので、それを借りるのはまたの機会にゆずることにした。
「申しわけありませんが『図説・哺乳類』は禁帯出ですので貸出しはできません」と彼女はボールペンでこめかみを|掻《か》きながら言った。
「ねえ」と私は言った。「これはすごく大事なことなんだ。必ず明日の午前中に返しにくるし、君には迷惑はかけないから、なんとか一日だけ貸してもらえないかな?」
「でも図説シリーズは人気があるし、禁帯出の本を貸したのがわかったら、上の人に私がすごく|叱《しか》られるのよ」
「たった一日だけだよ。そんなのわかりゃしないさ」
彼女はどうしたものかしばらく迷っていた。迷いながら舌の先を下側の歯の裏につけていた。とても|可愛《か わ い》いピンク色の舌だった。
「オーケー、いいわ。でもほんとに今度だけよ。それから明日の朝の九時半までに持ってきてね」
「ありがとう」と私は言った。
「どういたしまして」と彼女は言った。
「ところで君に個人的に何かお礼がしたいんだけれど、何がいいかな?」
「向いに『サーティーワン・アイスクリーム』があるから、それを買ってきてくれる? コーンのベースのダブルで、下がピスタチオ、上がコーヒーラム。大丈夫、覚えた?」
「コーンのベースのダブル、上がコーヒーラムで下がピスタチオ」と私は確認した。
そして私は図書館を出て『サーティーワン・アイスクリーム』に向い、彼女は奥に私の本をとりにいった。私がアイスクリームを買って|戻《もど》ってくると、彼女はまだ戻っていなかったので、私は左手にアイスクリームを持ったままじっとデスクの前で待っていた。時折ベンチで新聞を読んでいる老人たちが、物珍らしそうに私の顔と私の持っているアイスクリームとをかわりばんこに見ていた。幸いアイスクリームはとても固かったので、溶け出すまでにはまだ間があった。ただアイスクリームを食べないでじっと手に持っているというのは、見捨てられた銅像みたいで奇妙に|居《い》|心《ごこ》|地《ち》の悪いものだった。
デスクの上には彼女の読みかけの文庫本が眠りこんだ小型ウサギみたいな格好でつっぷしていた。『時の旅人』というH・G・ウエルズの伝記の の方だった。それは図書館の本ではなく、彼女自身の本であるようだった。そのとなりには鉛筆が三本きれいに削られて並んでいた。それからペーパー・クリップが七個か八個ちらばっていた。どうしてこんなにいたるところにペーパー・クリップがあるのか、私には理解できなかった。
あるいは何かの加減でとつぜんペーパー・クリップが世の中にはびこりだしたのかもしれない。あるいはそれは単なる偶然で、私の方が必要以上に気にしすぎているのかもしれない。でも、それは何かしら不自然で、おさまりが悪かった。クリップはまるできちんと計画されたみたいに、私の行く先々に、目につきやすいようにちらばっているのだ。何かが私の頭にひっかかっていた。ここのところ、いろんなものが頭にひっかかりすぎる。獣の頭骨やペーパー・クリップや、そういうものだ。そこにはある種のつながりがあるように感じられたが、それでは獣の頭骨とペーパー・クリップのあいだにどういう関連性があるかということになると、私にも皆目見当がつかなかった。
やがて髪の長い女の子が三冊の本を抱えて戻ってきた。彼女は私に本をわたしてそのかわりに私からアイスクリームをうけとり、表から見えないようにカウンターの中で下を向いて食べはじめた。上からのぞきこむと、彼女の首筋は無防備でとても|綺《き》|麗《れい》だった。
「どうもありがとう」と彼女は言った。
「こちらこそ」と私は言った。「ところでこのペーパー・クリップは何に使うの?」
「ぺーぱあくりっぷ」と彼女は唄うように繰りかえした。「ペーパー・クリップは紙をまとめるのに使うのよ。知ってるでしょ? どこにでもあるし、みんな使ってるわ」
たしかにそのとおりだった。私は礼を言って本を抱え、図書館の外に出た。ペーパー・クリップなんてどこにでもある。千円だせば一生使うぶんくらいのペーパー・クリップが買える。私は文房具屋に寄って千円ぶんのペーパー・クリップを買った。そして家に帰った。
私は部屋に戻ると食料品を冷蔵庫にしまった。肉と魚はきちんとビニール・ラップに包み、冷凍するべきものは冷凍した。パンとコーヒー豆も冷凍した。豆腐は水をはったボウルに入れた。ビールを冷蔵庫にしまい、野菜は古いものを前の方に出した。洋服はたんすに|吊《つ》るし、洗剤を台所の|棚《たな》に並べた。それから私はTVの上の頭骨のとなりに、ペーパー・クリップをばらまいてみた。
奇妙なとりあわせだった。
|羽《は》|根《ね》|枕《まくら》と氷かきとか、インクびんとレタスとかいったくらいに奇妙なとりあわせだった。私はヴェランダに出て遠くからそれを|眺《なが》めてみたが、その印象はかわらなかった。共通点なんてどこにもなかった。しかしどこかに、必ず私の知らない——あるいは思いだせない——秘密のトンネルがあるはずなのだ。
私はベッドに腰をかけて、長いあいだTVの上をにらんでいた。でも何も思い浮かばなかった。時間だけがどんどん過ぎていった。救急車が一台と右翼の宣伝カーが一台近所をとおりすぎていった。ウィスキーが飲みたくなったが、我慢することにした。しばらくは|素面《し ら ふ》で頭を働かさねばならないのだ。しばらくして右翼の宣伝カーが同じ道を戻ってきた。たぶん道を間違えたのだろう。このあたりの道路は曲りくねっていてわかりにくいのだ。
私はあきらめて立ちあがり、台所の机に座って図書館で借りた本のページを繰ってみた。草食性の中型哺乳類の種類をまず調べ、それからその骨格をひとつひとつあたってみることにした。草食性の中型哺乳類の数は私が予想していたよりずっと多かった。|鹿《しか》の種類だけでも三十はくだらなかった。
TVの上から獣の頭骨を持ってきて台所のテーブルの上に置き、それと見比べながら、ひとつひとつ本のさし絵をあたってみた。一時間二十分かけて九十三種類の動物の頭蓋骨をあたってみたが、どれひとつとしてテーブルの上の頭蓋骨にあてはまるものはなかった。ここでも私はいきどまりだった。私は三冊の本を閉じて机の|隅《すみ》につみあげ、腕を上にあげてのびをした。どうしようもない。
あきらめてベッドにねそべってジョン・フォードの『静かなる男』のヴィデオ・テープを|観《み》ていると、入口のベルが鳴った。ドアの魚眼レンズをのぞくと、東京ガスの制服を着た中年の男が立っていた。防犯鎖をつけたままドアを開けると、私は用件を|訊《たず》ねた。
「ガス|洩《も》れの定期点検です」と男は言った。
「ちょっと待って」と私は返事をしベッドルームに戻り、机の上のナイフをズボンのポケットに入れてからドアを開けた。ガス洩れの定期点検は先月来たばかりなのだ。男の態度もどことなく不自然だった。
でも私はわざと無関心なふりを装って『静かなる男』を観つづけていた。男はまず血圧計のような器械を使って|風《ふ》|呂《ろ》のガスを点検し、それから台所にまわった。台所のテーブルの上には獣の頭骨を置いたままだった。私がTVのヴォリュームをあげたまましのび足で台所にいってみると、案の定男は黒いビニールのバッグに頭骨をしまいこもうとしているところだった。私はナイフの刃を開けてから台所にとびこみ、男のうしろにまわってはがいじめにしてナイフを鼻のすぐ下につきつけた。男はあわててビニール・バッグをテーブルの上に|放《ほう》り投げた。
「悪気はなかったんです」と男は声をふるわせて弁解した。「これを見ていたら急に欲しくなったんでついバッグの中に入れちゃったんです。出来心です。許して下さい」
「許さない」と私は言った。ガスの点検員が台所のテーブルの上にある動物の骨を見ているうちに出来心で欲しくなるなんていう話は聞いたことがない。「本当のことを言わなければ|喉《のど》を切って殺す」と私は言った。それは私の耳にはまるっきりの|嘘《うそ》に聞こえたが、男はそうは感じなかったようだった。
「すみません、本当のことを言います。許して下さい」と男は言った。「本当は金をもらってこれを盗んでくるようにって言われたんです。道を歩いていたら二人づれの男が寄ってきて、アルバイトをしないかって五万円くれたんです。うまく持ってくればあと五万やるからって。私だってそんなことやりたくなかったんだけれど、一人の方はすごい大男で断るとひどい目にあいそうだったんです。それで|嫌《いや》だけど仕方なくやったんですよ。お願いです。殺さないで下さい。高校生の娘が二人いるんです」
「二人とも高校生?」と私はちょっと気になって質問してみた。
「ええ、一年生と三年生です」と男は言った。
「ふうん」と私は言った。「どこの高校?」
「上が都立の志村高校で、下が|四《よつ》|谷《や》の|雙《ふた》|葉《ば》です」と男は言った。とりあわせが不自然なぶんだけリアリティーがあった。それで私は男の話を信用することにした。
念のために首筋にナイフをあてたままズボンの|尻《しり》ポケットから財布を抜きとって中身をしらべてみた。現金が六万七千円入っていて、そのうちの五万円はぱりぱりの新札だった。金の|他《ほか》には東京ガスの社員証と家族のカラー写真が入っていた。娘は二人とも正月用の晴着を着ていた。二人ともとくに美人というわけではなかった。二人とも同じような背格好だったので、どちらが志村でどちらが雙葉なのか判断できなかった。それから|巣《す》|鴨《がも》・|信濃《し な の》|町《まち》間の国電の定期券も入っていた。見たところとくに害もなさそうだったので、私はナイフをおろし、男をはなしてやった。
「もう行っていいよ」と私は言って、財布をかえしてやった。
「ありがとうございます」と男は言った。「でも私はこれからどうなるんでしょう? 金はもらったのに品物は持ってかえれなかったとなると?」
どうなるかは私にもわからない、と私は言った。記号士たち——たぶん相手は記号士にちがいない——はそれぞれの局面によってでたらめな行動をとる。彼らは行動パターンを読まれないために、わざとそうしているのだ。彼らはこの男の両目をナイフでえぐりとるかもしれないし、あるいはあと五万円与えてどうも御苦労さまと言うかもしれない。それは|誰《だれ》にもわからないのだ。
「それで一人は大男なんだね?」と私は男に|訊《き》いた。
「そうです、一人はすごい大男です。で、もう一人はちびです。一メートル五十やっとくらい。ちびの方が良い服を着ています。でもどちらも見るからにおっかない連中です」
私は彼に駐車場から裏口に出る方法を教えてやった。私のアパートの裏口は狭い路地になっているのだが、外からはわかりにくい。うまくいけばその二人組にみつからずに帰れるかもしれない。
「どうもありがとうございます」と男は救われたように言った。「会社にもこのことは内緒にしていただけますか?」
何も言わない、と私は言った。そして男を外に放りだし、ドアの|鍵《かぎ》をしめ、チェーンをかけた。それから台所の|椅《い》|子《す》に座って刃を戻したナイフをテーブルに置き、ビニール・バッグから頭骨を出した。ひとつだけわかったことがあった。記号士たちがこの頭骨を|狙《ねら》っているのだ。ということはこの頭骨が彼らにとって何か大きな意味を有しているということになる。
今のところ私と彼らの立場は互角だった。私は頭骨を持っているがその意味を知らない。彼らはその意味を知っている——あるいは|漠《ばく》|然《ぜん》と推測している——が頭骨を持っていない。フィフティー・フィフティーだった。私が今ここでとるべき行動の|選《せん》|択《たく》|肢《し》はふたつあった。ひとつは『|組織《システム》』に連絡し事情を説明し、私を記号士から保護してもらうか頭骨をどこかに持っていってもらうこと。もうひとつはあの太った娘に連絡をとって頭骨の意味を説明してもらうことだった。しかし『|組織《システム》』を今この状況にひきこむことに対して私はどうも気が進まなかった。おそらくそうすれば私は面倒な査問にかけられることになるかもしれない。私は大きな組織というのがどうも苦手なのだ。融通がきかないし、手間と時間がかかりすぎる。頭の悪い人間が多すぎる。
太った娘と連絡をとるというのも現実的に不可能な話だった。私はその事務所の電話番号を知らないのだ。直接にビルに出向くという手もあったが、今アパートを出るのは危険だし、それにあの警戒の厳重なビルがアポイントメントなしで私を簡単に中にとおしてくれるとも思えなかった。
それで結局私は何もしないことにした。
私はステンレス・スティールの|火《ひ》|箸《ばし》を手にとってもう一度その頭骨のてっぺんを軽く|叩《たた》いてみた。前と同じくうん[#「くうん」に丸傍点]という音がした。まるでその名前のわからない何かしらの動物が生きてうなっているようなどことなく|哀《かな》しげな音だった。どうしてそんな奇妙な音がするのか、私はその頭骨を手にとってじっくりと観察してみた。そしてもう一度火箸で軽く叩いてみた。くうん[#「くうん」に丸傍点]という同じ音がしたが、よく注意してみるとその音は頭骨のどこか一カ所から出てくるようだった。
私は何度もそれを叩いて、やっとその正確な位置をさぐりあてることができた。そのくうん[#「くうん」に丸傍点]という音は頭骨の額にあいた直径二センチほどの浅いくぼみから聞こえてくるのだ。私は指の腹でくぼみの中をそっとなでまわしてみた。普通の骨とはちがう少しざらりとした感触があった。まるで何かが暴力的にもぎとられたような、そんなかんじだった。何か———たとえば角のような………。
角?
もしそれがほんとうに角だとすれば、私が手にしているのは一角獣の頭骨ということになる。私はもう一度『図説・哺乳類』のページを繰って、額に一本だけ角のはえた哺乳類をさがしてみた。でもどれだけ探しても、そんな動物はいなかった。|犀《さい》だけがそれにかろうじて該当したが、大きさと形状からして、それは犀の頭骨ではありえなかった。
私は仕方なく、冷蔵庫から氷をだしてオールド・クロウのオン・ザ・ロックを飲んだ。もう日も暮れかけていたし、ウィスキーを飲んでもよさそうな気がした。それから|缶《かん》|詰《づめ》のアスパラガスを食べた。私は白いアスパラガスが大好きなのだ。アスパラガスを全部食べてしまうと、カキのくんせいを食パンにはさんで食べた。そして二杯めのウィスキーを飲んだ。
私は便宜的に、その頭骨のかつての持ち主を一角獣であると考えることにした。そう考えないとものごとが前に進まないのだ。
私は一角獣の頭骨を手に入れた
やれやれ、と私は思った。どうしてこんなに妙なことばかり起るんだろう? 私が何をしたというのだ? 私はただの現実的で個人的な計算士なのだ。とりたてて野心もないし、欲もない。家族もいないし、友だちも恋人もいない。なるべく沢山貯金をして、計算士の仕事を引退したらチェロかギリシャ語でも習ってのんびりと老後を送りたいと思っているだけの男なのだ。いったいどんな理由で一角獣とか音抜きとか、そんなわけのわからないものに|関《かか》わらなくてはならないのだ?
私は二杯めのオン・ザ・ロックを飲み干してから、ベッドルームに行って電話帳を調べ、図書館に電話をかけて、「リファレンスの係の方を」と言った。十秒後に例の髪の長い女の子が出てきた。
「『図説・哺乳類』」と私は言った。
「アイスクリームどうもありがとう」と彼女が言った。
「どういたしまして」と私は言った。「ところでもうひとつ頼みがあるんだけどいいかな?」
「たのみ[#「たのみ」に丸傍点]?」と彼女は言った。「頼みの種類によるわね」
「一角獣について調べてほしいんだけれど」
「いっかくじゅう[#「いっかくじゅう」に丸傍点]?」と彼女は繰りかえした。
「頼めないかな?」と私は言った。
しばらく沈黙がつづいた。たぶん|下唇《したくちびる》をかんでいるんだろうと私は想像した。
「一角獣について、私が何を調べればいいの?」
「ぜんぶ」と私は言った。
「ねえ、もう今は四時五十分で、閉館|間《ま》|際《ぎわ》のすごおく忙しいときなのよ。そんなことできないわ。どうして明日の開館いちばんに来ないの? そうすれば一角獣だろうが三角獣だろうが、なんだって好きに調べられるじゃない」
「とても急いでるし、とても大事なことなんだ」
「ふうん」と彼女は言った。「どの程度大事なことなの?」
「進化にかかわることなんだ」と私は言った。
「しんか[#「しんか」に丸傍点]?」と彼女は繰りかえした。さすがに少しは驚いたみたいだった。たぶん私のことを純粋な狂人か狂ったように見える純粋な人間のどちらかだと思っているのだろうと私は推測した。私は彼女がどちらかと言えばあとの方を選んでくれることを祈った。そうすれば少しは私に対して人間的な興味を抱いてくれるかもしれない。しばらく無音の振子のような沈黙がつづいた。
「進化って、何万年もかけて進行するあの進化のことでしょ? よくわからないんだけど、それがそんなに急を要することなの? 一日くらい待てるんじゃないかしら」
「何万年かかる進化もあるし、三時間しかかからない進化もあるんだよ。電話で簡単に説明できるようなことじゃない。でも信じてほしいんだけど、これはとても大事なことなんだ。人間の新しい進化にかかわることなんだ」
「『2001年宇宙の旅』みたいに?」
「そのとおり」と私は言った。『2001年』なら私もヴィデオで何度か観ている。
「ねえ、私があなたのことをどう考えているかわかる?」
「|質《たち》の良い気違いか質の悪い気違いか、どちらか決めかねているんじゃないかな? そんな気がするけれど」
「だいたいあたっているわね」と彼女は言った。
「自分で言うのもなんだけど、それほど質は悪くないよ」と私は言った。「ほんとうのことを言うと気違いですらない。まあ多少偏屈で|頑《がん》|迷《めい》で自己過信のきらいはあるけれど、気違いではない。これまで誰かに|嫌《きら》われたことはあっても気違いと言われたことはない」
「ふうん」と彼女は言った。「まあ話し方もちゃんとしてはいるわね。それほど悪い人でもなさそうだし、アイスクリームももらったことだし。いいわ、今日の六時半に図書館の近くの喫茶店で待ちあわせましょう。そこで本をあなたに渡すわ。それでいいでしょう?」
「ところが話はそう簡単じゃないんだ。ひとくちでは言えないいろんな事情があって、今家をあけるわけにはいかないんだ。悪いけれど」
「ということは」と言って、彼女は|爪《つめ》|先《さき》で前歯をコツコツと叩いた。少くともそんな音がした。「あなたは私に、あなたの家までその本を持ってきてほしいと要求しているのかしら? よく理解できないんだけれど」
「ありていに言うとそういうことになるね」と私は言った。「もちろん要求してるんじゃなくてお願いしているわけだけどね」
「好意にすがっているわけね?」
「そのとおり」と私は言った。「本当にいろんな事情があってね」
長い沈黙がつづいた。しかしそれが音抜きのせいでないことは、閉館を知らせる『アニー・ローリー』のメロディーが図書館内に流れていることでわかった。彼女が黙っているだけなのだ。
「私はもう五年図書館につとめているけれど、あなたくらいあつかましい人ってそんなにはいないわよ」と彼女は言った。「家まで本を配達しろなんていう人はね。それも初対面でよ。自分でもずいぶんあつかましいと思わない?」
「実にそう思うよ。でも今はどうしようもないんだ。八方ふさがりでね。とにかく君の好意にすがるしかないんだ」
「やれやれ」と彼女は言った。「あなたの家に行く道順を教えていただけるかしら?」
私は喜んで道順を教えた。