大男は流し台の中で一本残らず——たったの一本も残さず——私のストックしておいたウィスキーの|瓶《びん》を割った。私は近所の酒屋の主人と知りあいになって、輸入ウィスキーのバーゲンがあるたびに少しずつそれをとどけてもらい、今ではけっこうな在庫量になっていたのだ。
男はまずワイルド・ターキーを二本|叩《たた》き割り、次にカティー・サークに移り、I・W・ハーパーを三本始末し、ジャック・ダニエルズ二本を砕き、フォア・ローゼズを|葬《ほうむ》り、ヘイグを粉みじんにし、最後にシーヴァス・リーガルを半ダースまとめて|抹《まっ》|殺《さつ》した。音もすさまじかったが、|匂《にお》いもそれ以上だった。なにしろ私の約半年かけて飲むぶんのウィスキーを一度に叩き割ったのだから、並の匂いではない。部屋じゅうがウィスキーの匂いでいっぱいになった。
「ここにいるだけで酔払っちまうね」と小男は感心したように言った。
私はあきらめてテーブルに|頬《ほお》|杖《づえ》をつき、粉々になった瓶が流しの中にうずたかくつもっていく様を|眺《なが》めていた。上ったものは必ず下り、形のあるものは必ず崩れさるものなのだ。瓶の割れる音にまじって、大男が発する耳ざわりな口笛が聴こえた。それは口笛というよりは、空気の裂けめの|不《ふ》|揃《ぞろ》いな線を歯を掃除するためのフロス糸でこすっているような音に聴こえた。曲名はわからない——というか、メロディーそのものがないのだ。フロス糸が裂けめの上の方をこすったり、まん中あたりをこすったり、下の方をこすったりしているだけだ。聴いているだけで神経が擦り減ってしまいそうだった。私は首をぐるぐるとまわしてから、ビールを|喉《のど》の奥に流しこんだ。胃は外まわりの銀行員の皮かばんみたいに固くなっている。
男は意味のない破壊をつづけた。もちろんそれは彼らにとっては何かしらの意味があるのだろうが、私にとっては意味なんてない。大男はベッドをひっくりかえし、マットレスをナイフで裂き、洋服だんすの中のものをぜんぶ外に|放《ほう》りだし、机のひきだしを洗いざらい床にぶちまけ、エアコンのパネルをむしりとり、ごみ箱をひっくりかえし、押入れの中身を一掃して必要に応じていろんなものを叩き壊した。作業は素速く、|手《て》|際《ぎわ》がよかった。
ベッドルームと居間が|廃《はい》|墟《きょ》と化してしまうと、男はこんどはキッチンにとりかかった。私と小男は居間に移り、背中をずたずたに裂かれてひっくりかえされたままのソファーをもとどおりにして、そこに腰かけ、大男がキッチンを破壊していく様子を眺めていた。ソファーの表面が|殆《ほと》んど傷つけられなかったのは実に不幸中の幸いだった。とても座り心地の良い上等のソファーで、私はそれを知りあいのカメラマンから安く買うことができた。そのカメラマンは広告写真専門の腕ききだったのだがどこか神経がおかしくなって長野県の山奥にとじこもってしまい、それで事務所にあったソファーを私に安く払い下げてくれたのだ。私は彼の神経については心から気の毒だと思ったが、それでもそのソファーを手に入れることができたのはラッキーだったと考えていた。とにかくこれで少くともソファーだけは買いなおさずに済む。
私はソファーの右端に座ってビールの|缶《かん》を両手ではさみ、小男は左端で足を組んで|肘《ひじ》かけにもたれかかっていた。これだけ大きな音がしても、アパートの住人は|誰《だれ》一人として様子をうかがいにはこなかった。この階に住んでいるのは殆んどが独身者で、よほどの例外的な事情がないかぎり平日の昼間は殆んど誰もいなくなってしまうのだ。彼らはそんな事情を知っていて、何の気がねもなく好き放題に大きな音を立てているのだろうか? たぶんそうなのだろう。彼らは何もかもを心得ている。彼らは粗暴そうに見えても、|隅《すみ》から隅まできちんとサイズを測って行動しているのだ。
小男はときどきローレックスに目をやって、作業の|進捗《しんちょく》ぶりをチェックし、大男は|無《む》|駄《だ》な動きをすることなく、ひとつひとつしらみつぶしに部屋を叩き壊していった。こんな風にものを捜されたら、鉛筆一本だって隠しきることはできなかったろう。しかし彼らは——最初に小男が宣言したように——何も捜してはいなかった。彼らはただ壊しているだけだった。
何のために?
たぶん彼らが何かを捜しまわったと第三者に思わせるためだろう。
第三者とは誰だ?
私は考えるのをやめてビールの最後のひとくちを飲み、空になった缶を低いテーブルの上に載せた。大男は|食器《しょっき》|棚《だな》をあけてグラスを床に払い落とし、それから|皿《さら》にとりかかった。パーコレーターもティーポットも塩の|瓶《びん》も砂糖の瓶も小麦粉の瓶もぜんぶ割れた。米は床にばらまかれた。冷凍庫の中の冷凍食品も同じ運命をたどった。一ダースばかりの凍った|海《え》|老《び》と牛フィレ肉のかたまりとアイスクリームと最高級のバターと三十センチほどの長さのあるすじこと作りだめしておいたトマト・ソースが、|隕《いん》|石《せき》|群《ぐん》がアスファルト道路にぶつかるような音をたててばらばらとリノリウム|貼《ば》りの床に落ちた。
男は次に冷蔵庫を両手で持ちあげて、前に出し、それからドアの面が下側にくるように床に倒した。ラジエーターの近くの配線が断線したらしく、細かい火花が散った。いったい修理に来た電気屋に故障の理由をなんといって説明したものか頭が痛んだ。
破壊はそれが始まったときと同じように、突然終った。「だけど」も「もし」も「しかし」も「それでも」もなく、一瞬にして破壊は完全に終息し、まのびした沈黙があたりを|覆《おお》った。口笛もやみ、大男はキッチンと居間の敷居に立って、ぼんやりとした目で私を眺めていた。私の部屋を見事なスクラップにするのにどれくらいの時間がかかったのか私にはわからなかった。十五分か三十分か、そのあたりだ。十五分よりは長いし、三十分よりは短かい。しかし小男がローレックスの文字盤を眺めたときの満足そうな顔つきからすると、それはおそらく2LDKのアパートを破壊するのに要する標準的なタイムに近いものだったのだろうと私は想像した。フル・マラソン・レースのタイムからトイレット・ペーパーの一回に使用する長さに至るまで、世間には実に様々な種類の標準値が|充《み》ちている。
「かたづけに時間がかかりそうだね」と小男は言った。
「まあね」と私は言った。「金もかかる」
「金なんてこの際たいした問題じゃない。これは戦争なんだ。金の計算してちゃ戦争には勝てない」
「|僕《ぼく》の戦争じゃない」
「誰の戦争かなんて問題じゃないし、誰の金かも問題じゃない。戦争とはそういうものだ。まああきらめることだな」
ちびはポケットからまっ白なハンカチを出して口にあて、二、三度|咳《せき》をした。そしてしばらくハンカチを点検してからもとのポケットにしまった。これは私の偏見だが、私はハンカチを持っている男をあまり信用しない。私はそのように数多くの偏見に充ちているのだ。だからあまり人に好かれない。人に好かれないとますます偏見が増える。
「|俺《おれ》たちが帰ってしばらくしたら、『|組織《システム》』の連中が来る。そうしたら|奴《やつ》らに俺たちのことをしゃべるんだ。俺たちがあんたの部屋を襲って何かを探した。そして『頭骨はどこだ』と|訊《き》かれたっていうんだ。しかし頭骨のことなんてあんたは何も知らない。わかったかね? 知らないことは教えられないし、ないものは出せないよな。たとえ拷問を受けたとしてもだ。だから俺たちは来たときと同じ手ぶらで帰っていった」
「拷問?」と私は言った。
「あんたは疑われないよ。奴らはあんたが博士のところに行ったことを知らない。それを知ってるのは今のところ俺たちだけだ。だからあんたには危害が及ばない。あんたは成績優秀な計算士だから奴らはきっとあんたの言うことを信用する。そして俺たちのことを 『|工場《ファクトリー》』だと思う。そして動きはじめる。ちゃんと計算してあるんだ」
「拷問?」と私は言った。「拷問って、どんな拷問?」
「あとで教えるよ、ちゃんと」と小男は言った。
「もし、僕が本部の連中に洗いざらい本当のことをぶちまけたら?」と私は訊いてみた。
「そんなことしたら、あんた奴らに消されるよ」と小男は言った。「これは|嘘《うそ》やおどしじゃない。本当のことさ。あんたは『|組織《システム》』に黙って博士のところに行き、禁止されているシャフリングをやった。それだけでも大変なことなのに、博士はあんたを実験に使ってるんだ。ただじゃすまない。あんたは今、自分で想像しているよりもずっと危険な立場にいるんだ。いいかい、率直に言って、あんた橋の欄干に片足で立っているようなもんなんだぜ。どっちに落ちるかはよくよく考えた方がいいね。|怪《け》|我《が》してから後悔したってはじまらないからね」
我々はソファーの端と端で互いの顔を見つめあった。
「ひとつ訊きたいんだけれど」と私は言った。「君たちに協力して『|組織《システム》』に嘘をつくことのメリットはいったいどこにあるんだろう?なにしろ僕は現実問題として計算士の『|組《シス》|織《テム》』に属しているわけだし、君たちのことはそれに比べて何ひとつ知らない。どうして身内に嘘をついて、他人と組まなくてはならないんだろう?」
「簡単さ」と小男は言った。「俺たちはあんたの置かれたおおよその状況を|把《は》|握《あく》しているが、あんたを生かしている。あんたの組織はあんたの置かれた状況についてまだ|殆《ほと》んど何も知らない。知ったら、あんたを消すかもしれない。俺たちの方が|賭《か》け|率《りつ》はずっと良い。簡単だろ?」
「しかし『|組織《システム》』は遅かれ早かれ状況を知るよ。それがどんな状況かはしらないけどね。『|組織《システム》』はとても巨大だし、それに|馬《ば》|鹿《か》じゃないからね」
「たぶんな」と彼は言った。「しかしそれにはまだ少し時間がかかるし、うまくいけばそのあいだに我々もあんたもおのおのの抱えた問題を解決することができるかもしれない。選択というのはそういうものなんだよ。たとえ一パーセントでも可能性が多い方を選ぶんだ。チェスと同じさ。チェックメイトされたら逃げる。逃げまわってるうちに相手がミスをするかもしれない。どんな強力な相手だってミスをしないとは限らないんだ。さて——」
と言って男は時計に目をやり、それから大男に向ってぱちん[#「ぱちん」に丸傍点]と指を鳴らした。小男が指を鳴らすと、大男はスウィッチを入れられたロボットのようにぴくりと|顎《あご》を上げ、すばやくソファーの前までやってきた。そして私の前についたてのように立ちはだかった。いや、ついたてというよりはドライヴ・イン・シアターの大スクリーンと言った方が近いかもしれない。前が何も見えなくなった。天井のライトがその体ですっぽりと隠され、淡い色あいの影が私を包んだ。私は小学生の|頃《ころ》、学校の校庭で観察した|日蝕《にっしょく》のことをふと思いだした。みんなでガラス板にロウソクの|煤《すす》をつけ、それをフィルターがわりに太陽をのぞいたものだった。もうかれこれ四分の一世紀も昔のことだ。四分の一世紀という歳月は実に奇妙な場所に私を運んできたようだった。
「さて——」と男は繰りかえした。「これから少々不愉快な目にあってもらう。少々というか——かなり不愉快な目と言っても|差《さし》|支《つか》えないと思うんだが、これもあんた自身のためと思って我慢してもらうしかない。我々だって、べつにやりたくてやるわけじゃない。仕方なくやるんだ。ズボンを脱いでくれ」
私はあきらめてズボンを脱いだ。さからってどうなるというものでもない。
「床におりて|膝《ひざ》をついて」
私は言われたとおりソファーからおりて、カーペットに膝をついた。トレーナー・シャツとジョッキー・ショーツだけという格好で床に膝をついているのはなんだか奇妙なものだったが、それについて深く思いわずらう間もなく、大男が私のうしろにまわって両腕を私のわきの下に入れ、腰のあたりで手首をつかんだ。彼の動きはスムースで|無《む》|駄《だ》がなかった。とくに強く押さえつけられているという感触はないのだが、ためしに体を少し動かしてみようとすると、肩と手首にひきちぎられるような痛みが走った。それから彼は私の足首を自分の脚でしっかりとロックした。それで私は射的屋の|棚《たな》に並んだあひるの置きものみたいにぴくりとも動けなくなってしまった。
小さな方の男はキッチンに行って、テーブルの上にあった大男のフラッシュ・ナイフをとって|戻《もど》ってきた。そして七センチばかりの長さの刃をはじき出し、ポケットからライターを出して刃先をよく焼いた。ナイフそのものはコンパクトなつくりであまり凶暴な印象は与えなかったが、それがそのへんの雑貨屋で売っているようなちゃちな|代《しろ》|物《もの》でないことは一目見ただけでわかった。人間の体を裂くのにはそれだけの大きさで十分なのだ。人間の体は|熊《くま》とちがって桃みたいにやわらかいから、しっかりした七センチの刃があれば大抵の目的には事足りるわけだ。
刃を焼いて消毒をすませると、小さな男はしばらくじっと熱をさました。それから彼は左手を私の白いジョッキー・ショーツの腹のゴムの部分にかけ、ペニスが半分露出するあたりまでひっぱって下げた。
「少し痛いけど我慢しな」と男は言った。
テニス・ボールくらいの大きさの空気のかたまりが、胃から|喉《のど》のまん中あたりまで上ってくるのが感じられた。鼻の頭に汗が浮かんでくるのがわかった。私は|怯《おび》えているのだ。私はたぶん自分のペニスが傷つけられるのを怯えているのだ。ペニスが傷つけられて永遠に|勃《ぼっ》|起《き》できなくなってしまうのを。
しかし男は私のペニスを傷つけたりはしなかった。彼は私のへその五センチほど下の部分を六センチばかり真横に切った。熱の残ったナイフの鋭利な刃先が、私の下腹部に軽く食いこみ、それが定規で線を引くみたいに右に走った。私は一瞬腹を引こうとしたが、大男に背中をブロックされていたせいで、ぴくりとも動けなかった。おまけに小さな男は私のペニスを左手でしっかりと握っていた。体じゅうの毛穴から冷たい汗が吹きだしてくるような気がした。一瞬間を置いてずきんという鈍い痛みがやってきた。小男がティッシュ・ペーパーで刃についた血を|拭《ふ》きとってから刃を収めると、大男は私の体を離した。血が私の白いジョッキー・ショーツを赤く染めていくのが見えた。大男がバスルームから新しいタオルを持ってきてくれたので、私はそれで傷口をおさえた。
「七針でなおるよ」と小男の方が言った。「まあ少しは傷は残るけど、そこならたいして人目にもつかんだろう。気の毒だとは思うが、これも浮き世のなりゆきでね、我慢してもらうしかないな」
私はタオルを傷口から離して、切られたあとを眺めた。傷口はそれほど深くはないが、それでも淡いピンク色の肉が血にまじって見えた。
「俺たちがここを出たら『|組織《システム》』の連中が来るからその傷を見せるんだ。そして頭骨のありかを言わなかったらもっと下を切るとおどかされたって言うんだ。しかしあんたは本当にそのありかを知らなかったので教えようがなかった。それで俺たちはあきらめて帰っていった。これが|拷《ごう》|問《もん》だ。俺たちが真剣になるともっとすごいのをやるけどね。でもまあ今はこの程度で十分だ。またいつかチャンスがあったらもっとすごいのをじっくり見せてやるよ」
私は下腹部をタオルでおさえたまま、黙って|肯《うなず》いた。理由はうまく言えないけれど、彼らの言うとおりにした方が良いような気がした。
「ところであのかわいそうなガス屋は本当は君たちが雇ったんだろう?」と私は訊いてみた。「それで、わざと失敗するようにして、僕が用心して頭骨とデータをどこかに隠すように仕向けたんだろう?」
「頭がいいね」と小男は言って、大男の顔を見た。「頭はそういう風に働かせるもんさ。そうすれば生き残れる。うまくいけばね」
それから二人組は部屋を出ていった。彼らはドアを開ける必要もなく、閉める必要もなかった。私の部屋の|蝶番《ちょうつがい》が吹きとんで|枠《わく》がねじれたスティール・ドアは今や全世界に向けて開かれているのだ。
私は血で汚れたパンツを脱いでごみ箱に放りこみ、水にひたしたやわらかいガーゼで傷口のまわりについた血を|拭《ぬぐ》った。体を前後に曲げると傷がずきずきと痛んだ。トレーナー・シャツの|裾《すそ》にも血がついていたので捨てた。それから床にちらばった衣類の中から、血がついてもあまり目立たない色のTシャツとなるべく小さな型のブリーフを選んで身につけた。それだけでもひと仕事だった。
それから私はキッチンに行って水をグラスに二杯飲み、考えごとをしながら『|組織《システム》』の連中が来るのを待った。
本部の連中が三人やってきたのは三十分後だった。一人はいつも私のところに来てデータを受けとっていく生意気な連絡係の若い男だった。彼はいつもと同じようにダークスーツを着こみ、白いシャツに銀行の貸付け係みたいなネクタイをしめていた。あとの二人はスニーカーをはいて、運送会社の作業員のような格好をしていた。とはいっても、彼らは銀行員や運送屋にはとても見えなかった。ただそういう目立たない格好をしているというだけのことなのだ。目はまわりに絶えず注意をくばり、体の筋肉はあらゆる事態に対応できるように緊張し、ひきしめられている。
彼らもやはりドアをノックすることもなく、土足のままで私の部屋に入りこんできた。作業員風の二人が部屋を|隅《すみ》から隅まで点検しているあいだに、連絡係が私から事情を聴取した。彼は上着の内ポケットから黒いノートをひっぱりだして、シャープ・ペンシルで話の要点をメモした。私は二人組がやってきて、頭骨を探しまわっていったと説明し、腹の傷を見せた。相手は傷口をしばらく眺めていたが、それについては何の感想も述べなかった。
「頭骨って、いったい何ですか?」と彼が|訊《たず》ねた。
「そんなことは知らない」と私は言った。「こっちが訊きたいくらいさ」
「本当に[#「本当に」に丸傍点]覚えがないんですね?」とその若い連絡係が抑揚のない声で言った。「これはとても大事なことだからよく思いだして下さい。あとで訂正はききませんからね。記号士たちは何の根拠もなく|無《む》|駄《だ》な行動はとらない。彼らがあなたの部屋にきて頭骨を探しまわったのなら、それはあなたの部屋に頭骨があるという根拠があったからです。ゼロからは何も生まれない。そしてその頭骨には探すだけの価値があったんです。あなたが頭骨について何のかかわりもないとは考えられないんですがね」
「そんなに頭が良いんなら、その頭骨の持つ意味を教えてくれないかな?」と私は言った。
連絡係はしばらくシャープ・ペンシルの先でこんこんと手帳のかどを|叩《たた》いていた。
「これから調べあげますよ」と彼は言った。「徹底的に調べる。我々が真剣にやれば大抵のことはわかるんです。そしてもしあなたが何かを隠していたことが判明したら、これは|厄《やっ》|介《かい》なことになりますよ。それでかまいませんね?」
かまわない、と私は言った。何がどうなろうと知ったことではない。未来のことなんて|誰《だれ》にも予測できない。
「記号士たちが何かをたくらんでいるらしいことはうすうすわかっていたんです。奴らは動きはじめているんですよ。しかし具体的な|狙《ねら》いがどこにあるのかはまだわからない。そしてそれがどこであなたに結びついたのかもわからない。頭骨の意味もわからない。しかしヒントの数が増えれば、増えるぶんだけ我々は事態の核心に近づいていきます。これだけは間違いありません」
「僕はどうすればいいのかな?」
「注意するんですね。注意しつつ休養をとる。仕事は当分キャンセルして下さい。そして何かあったら我々にすぐ連絡して下さい。電話は使えますか?」
私は受話器をとってみた。電話はちゃんと生きていた。たぶんあの二人組は意識的に電話を残していったのだろうという気がした。どうしてなのかはわからない。
「使える」と私は言った。
「いいですか」と彼は言った。「どんな小さなことでもすぐに私に連絡して下さい。自分で解決しようとは思わないこと。何かを隠そうとも思わないこと。奴らは本気です。次は腹をひっかくくらいじゃすまない」
「ひっかく?」と私は思わず口に出した。
部屋の中を点検していた作業員風の男たちが仕事を済ませてキッチンに戻ってきた。
「徹底的に捜しまわってるね」と|年《とし》|嵩《かさ》の方が言った。「何ひとつ見逃してないし、手順もしっかりしている。プロの仕事だよ。間違いなく記号士だな」
連絡係が肯くと、二人は部屋から出ていった。あとには私と連絡係だけが残された。
「どうして頭骨を捜すのに服まで裂いたんだろう?」と私は質問してみた。「そんなところに頭骨は隠せないよ。たとえ何の頭骨であれね」
「奴らはプロです。プロはあらゆる可能性を考える。あなたはコインロッカーに頭骨をあずけて、そのキイをどこかに隠したのかもしれない。キイならどこにでも隠すことができる」
「なるほどね」と私は言った。なるほど。
「ところで記号士たちはあなたに何か提案しませんでしたか?」
「提案?」
「つまりあなたを『|工場《ファクトリー》』にひきこむための提案です。金や地位やそういうものです。あるいは逆に脅迫か」
「そういうことなら何も聞かなかったね」と私は言った。「腹を切られて頭骨のことを訊ねられただけさ」
「いいですか、よく聞いて下さい」と連絡係は言った。「もし奴らが何かそういうことを言ってあなたを誘ってもそれに乗ってはいけません。もしあなたが寝がえったら、我々は地の果てまで追いつめてもあなたを|抹《まっ》|殺《さつ》します。これは|嘘《うそ》じゃありません。約束します。我々には国家がついています。我々にできないことはないのです」
「気をつけるよ」と私は言った。
彼らが帰ってしまうと私はことのなりゆきをもう一度まとめてみた。しかしどれだけ要領よくまとめても、私はどこにも行きつけなかった。問題の核心は博士がいったい何をやろうとしているか、というところにあった。それがわからないことにはなんとも推理のしようがない。それにあの老人の頭の中にいったいどんな考えが|渦《うず》まいているかなんて、私にはまるで見当もつかない。
ただひとつわかっていることは私がなりゆき上とはいえ『|組織《システム》』を裏切ってしまったということだった。もしそのことがわかったら——遅かれ早かれわかるだろう——あの生意気な連絡係が予言したように、私はかなり|厄《やっ》|介《かい》な立場に追い込まれてしまうに違いない。たとえ脅されて|嘘《うそ》をつかざるを得なかったとしてもだ。もしそれを認めたとしても、それでも連中は私を許さないだろう。
そんなことを考えているうちにまた傷口が痛みはじめたので、私は電話帳で近くのタクシー会社の番号を調べてタクシーを呼び、病院に行って傷の手あてをしてもらうことにした。傷口にタオルをあてて、その上からゆったりとしたズボンをはき、|靴《くつ》をはいた。靴をはくために前かがみになると、体がまん中からふたつに裂けてしまいそうなほどの痛みを感じた。ほんの二ミリか三ミリばかり腹を切られただけで、人間はこれほど|惨《みじ》めな存在になってしまうのだ。満足に靴もはけず、階段を上り下りすることもできないのだ。
私はエレベーターに乗って下に降り、玄関の植え込みに座ってタクシーが来るのを待った。時計は午後の一時半を指していた。二人組が部屋のドアを叩き壊してからまだ二時間半しかたっていないのだ。実に長い二時間半だった。十時間かそこらは過ぎてしまったような気がする。
買物かごを提げた主婦が、私の前を次々にとおりすぎていった。スーパーマーケットの袋の上からはねぎや大根がのぞいていた。私は彼女たちのことを少しうらやましく思った。彼女たちは冷蔵庫を叩き壊されることもなく、ナイフで腹を裂かれることもない。ねぎや大根の調理法や子供の成績のことを考えていれば、世界は平和に流れていくのだ。一角獣の頭骨を抱えこんだり、わけのわからない秘密コードや複雑なプロセスに頭をわずらわされたりする必要もない。そういうのが普通の生活なのだ。
私はキッチンの床でいま溶けつつあるはずの|海《え》|老《び》や牛肉やバターやトマト・ソースのことを考えた。おそらく今日じゅうに食べてしまわなければならないだろう。ところが私の方はまるで食欲がないときている。
郵便配達夫が赤いスーパー・カブに乗ってやってきて、玄関のわきに並んだ郵便受けに|手《て》|際《ぎわ》よく郵便物をふりわけていった。|眺《なが》めていると、どっさりと郵便物をつめこまれていくボックスもあれば、まるで郵便のこないボックスもあった。私のボックスには彼は手も触れなかった。見向きもしない。
郵便受けの横にはゴムの木の|鉢《はち》|植《う》えがあり、鉢の中にはアイス・キャンディーの棒や|煙草《た ば こ》の|吸《すい》|殻《がら》が捨てられていた。ゴムの木も私と同じように疲れているように見えた。みんながやってきて勝手に煙草の吸殻を捨てたり、葉を破ったりしていくのだ。そんなところにいつからゴムの木の鉢植えがあったのか、私にはまるで思いだせなかった。その汚れ具合からするとずいぶん以前から鉢植えはそこにあったのだろう。私は毎日その前をとおり過ぎていながら、ナイフで腹を切られて玄関でタクシーを待つ羽目になるまで、ゴムの木の存在にさえ気づかなかったのだ。
医者は私の腹の傷を見てから、どうしてこんな傷がつくことになったんだ、と|訊《たず》ねた。
「女のことでね、少しもめたんです」と私は言った。そう言う以外に説明のしようがない。|誰《だれ》が見たって、これは明らかにナイフの傷なのだ。
「そういう場合は、こちらとしては警察に届け出る義務があるんだがね」と医者は言った。
「警察はまずいんです」と私は言った。「僕の方も悪かったし、傷も幸い深くはないし、内内で済ませたいんですよ。お願いします」
医者はしばらくぶつぶつと文句を言っていたが、そのうちにあきらめて私をベッドに寝かせて傷口を消毒し、注射を何本か打ち、針と糸を持ちだして手際良く傷口を縫いあわせてくれた。縫合が終ると看護婦がうさん臭そうな目つきで私をにらみながら、患部にぺたんとぶ厚いガーゼを|貼《は》り、ゴムのベルトのようなものを腰にまわしてそれを固定した。我ながら奇妙な格好だった。
「なるべく激しい運動はせんように」と医者は言った。「酒を飲んだり、セックスをしたり、笑いすぎたりというのも|駄《だ》|目《め》。当分は本でも読んでのんびりと暮すんだね。明日来なさい」
私は礼を言って窓口で金を払い、|化《か》|膿《のう》どめの薬をもらってアパートに帰った。そして医者に言われたとおりベッドに寝転んでツルゲーネフの『ルージン』を読んだ。本当は『春の水』を読みたかったのだが、|廃《はい》|墟《きょ》のような部屋の中から一冊の本をみつけだすのは至難の業だったし、それに考えてみれば『春の水』が『ルージン』よりとくに|秀《すぐ》れた小説であるというわけでもないのだ。
腹に包帯を巻いて夕方前からベッドに寝転んでツルゲーネフの古風な小説を読んでいると、何もかもがどうでもいいような気分になってきた。この三日ばかりのあいだに起ったことは何ひとつとして私が求めたことではないのだ。すべては向うからやってきて、私はただそれに巻きこまれてしまったというだけのことなのだ。
私はキッチンに行って流しの中にうずたかく積みあげられたウィスキーの|瓶《びん》の破片を注意深くどかしてみた。ほとんどの酒瓶は粉々に割れてガラスの破片がとび散っていたが、シーヴァス・リーガルの一本だけがうまい具合に下半分無傷で残り、ウィスキーがグラスに一杯ぶんくらい底にたまっていた。私はそれをグラスに|注《つ》ぎ、電灯の光にすかしてみたが、ガラスの破片は見当らなかった。グラスを持ってベッドに|戻《もど》り、生あたたかいウィスキーをストレートで飲みながら本のつづきを読んだ。私が『ルージン』をこの前読んだのは大学生のときで、十五年も前の話だった。十五年たって、腹に包帯を巻きつけられてこの本を読んでみると、私は以前よりは主人公のルージンに対して好意的な気持を抱けるようになっていることに気づいた。人は自らの欠点を正すことはできないのだ。人の性向というものはおおよそ二十五までに決まってしまい、そのあとはどれだけ努力したところでその本質を変更することはできない。問題は外的世界がその性向に対してどのように反応するかということにしぼられてくるのだ。ウィスキーの酔いも手伝って、私はルージンに同情した。私はドストエフスキーの小説の登場人物には|殆《ほと》んど同情なんてしないのだが、ツルゲーネフの小説の人物にはすぐ同情してしまうのだ。私は「87分署」シリーズの登場人物にだって同情してしまう。たぶんそれは私自身の人間性にいろいろと欠点があるせいだろう。欠点の多い人間は同じように欠点の多い人間に対して同情的になりがちなものなのだ。ドストエフスキーの小説の登場人物の抱えている欠点はときどき欠点とは思えないことがあって、それで私は彼らの欠点に対して百パーセントの同情を注ぐことができなくなってしまうのだ。トルストイの場合はその欠点があまりにも大がかりでスタティックになってしまう傾向がある。
私は『ルージン』を読んでしまうと、その文庫本を|本《ほん》|棚《だな》の上に|放《ほう》り投げ、流しの中で更なるウィスキーの|残《ざん》|骸《がい》を求めた。底の方にジャック・ダニエルズのブラック・ラベルがほんの少し残っているのをみつけてそれをグラスに注ぎ、ベッドに戻って今度はスタンダールの『赤と黒』にとりかかった。私はとにかく時代遅れの小説が好きなようだった。いったい今の時代にどれだけの若者が『赤と黒』を読むのだろう? いずれにせよ、私は『赤と黒』を読みながら、またジュリアン・ソレルに同情することになった。ジュリアン・ソレルの場合、その欠点は十五歳までに決定されてしまったようで、その事実も私の同情心をあおった。十五歳にしてすべての人生の要因が固定されてしまうというのは、他人の目から見ても非常に気の毒なことだった。それは自らを強固な監獄に押しこめるのと同じことなのだ。壁に囲まれた世界にとじこもったまま、彼は破滅へと進みつづけるのだ。
何かが私の心を打った。
壁だ。
その世界は壁に囲まれているのだ。
私は本を閉じて残り少ないジャック・ダニエルズを|喉《のど》の奥に送りこみながら、壁に囲まれた世界のことをしばらく考えた。私はその壁や門の姿を比較的簡単に思い浮かべることができた。とても高い壁で、とても大きな門だ。そしてしん[#「しん」に丸傍点]としている。そして私自身がその中にいる。しかし私の意識はとてもぼんやりとしていて、まわりの風景を見きわめることはできなかった。街全体の風景は細部まではっきりとわかるのだが、私のまわりだけがひどくぼんやりとかすんでいるのだ。そしてその不透明なヴェールの向うから誰かが私を呼んでいた。
それはまるで映画の光景のようだったので、私はこれまでに|観《み》た歴史映画の中にそういうシーンがなかったかと思いかえしてみた。しかし『エル・シド』にも『ベン・ハー』にも『十戒』にも『聖衣』にも『スパルタカス』にも、そんなシーンはなかった。とすればそんな光景はおそらく私の気まぐれなでっちあげなのだろう。
おそらくその壁は私の限定された人生を暗示しているのに違いない、と私は思った。しん[#「しん」に丸傍点]としているのは音抜きの後遺症だ。あたりの風景がかすんでいるのは私の想像力が壊滅的危機に直面しているからだ。私を呼んでいるのはたぶんあのピンク色の娘だ。
その|束《つか》の|間《ま》の|妄《もう》|想《そう》の安上がりな分析がすんでしまうと、私はまた本を開いた。しかし私は意識を本に集中することができなくなってしまっていた。私の人生は無だ、と私は思った。ゼロだ。何もない。私がこれまでに何を作った? 何も作っていない。誰かを幸せにしたか? 誰をも幸せにしていない。何かを持っているか? 何も持っていない。家庭もない、友だちもいない、ドアひとつない。|勃《ぼっ》|起《き》もしない。仕事さえなくそうとしている。
私の人生の最終目的であるチェロとギリシャ語の平和な世界もまさに危機に直面していた。今ここで仕事を奪われたらとてもそんなことをしている経済的な余裕はなくなってしまうし、それに『|組織《システム》』に地の果てまで追いまわされながらギリシャ語の不規則動詞を暗記している暇はないのだ。
私は目を閉じてインカの井戸くらい深いため息をつき、それからまた『赤と黒』に戻った。失ったものは既に失われたものだ。あれこれと考えたところでもとに戻るわけではないのだ。
気がつくと日はすっかり暮れて、ツルゲーネフ=スタンダール的な|闇《やみ》が私のまわりにたれこめていた。腹の傷の痛みはじっと横になっていたせいか、少しは楽になった。ときおり遠くで太鼓を叩いているような鈍くぼんやりとした痛みが傷口からわき腹の方に向けて走ったが、それさえやりすごしてしまえば、あとは傷のことを思いださずに時を送ることができた。時計は七時二十分を指していたが、あいかわらず食欲はない。朝の五時半にやくざなサンドウィッチをミルクで流しこみ、そのあとキッチンでポテト・サラダを食べて以来何も口にしていないのだが、食べ物のことを考えただけで胃が身を固くするのが感じられた。私は疲れていて寝不足で、その上に腹まで裂かれ、部屋の中は小人の工兵隊に爆破でもされたみたいに混乱しているのだ。食欲の入りこんでくる余地もない。
私は何年か前に世界が不要物で埋まって廃墟と化してしまう近未来のSF小説を読んだことがあるが、私の部屋の光景がまさにそれだった。床にはありとあらゆる種類の不要物が散乱している。切り裂かれたスリーピース・スーツから壊れたヴィデオ・デッキ、TV、割れた花瓶、首の部分が折れたライト・スタンド、踏みつけられたレコード、溶けたトマト・ソース、ひきちぎられたスピーカー・コード……一面にばらまかれたシャツや下着の多くは土足で踏みつけられたり、インクがかかったり、|葡《ぶ》|萄《どう》のしみがついたりで、ほとんど使いものにならなくなっていた。私は三日前に食べかけていた葡萄の|皿《さら》をそのままベッドサイド・テーブルに置きっ放しにしていて、それが床にばらまかれて踏みつけられてしまったのだ。ジョセフ・コンラッドとトマス・ハーディーのひそかなコレクションは花瓶の汚れた水をたっぷりとかぶっていた。グラジオラスの切り花は戦死者にささげられた弔花のように淡いベージュのカシミアのセーターの胸の上に落ちていた。セーターの|袖《そで》のところにはペリカンのロイヤル・ブルーのインクのしみがゴルフ・ボールくらいの大きさに付着していた。
すべては不要品と化していた。
どこにも|辿《たど》りつくことのできない不要品の山だ。微生物は死んで石油となり、大木は倒れて石炭となる。しかしここにあるすべてはどこにも行き場所を持たぬ純粋な不要物だった。壊れたヴィデオ・デッキがいったいどこに辿りつけるというのか?
私はもう一度キッチンに行って流しの中のウィスキーの瓶のかけらをひっかきまわしてみた。しかし残念ながら、ウィスキーはもう一滴も残ってはいなかった。残りのウィスキーは私の胃にのみこまれることなく流しの配管をつたい、地下の虚無へ、やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]の支配する世界へとオルフェウスのごとく下降してしまったのだ。
流しの中をひっかきまわしているあいだに、右手の中指の先をガラスのかけらで切ってしまった。私はしばらく指の腹から血があふれでて、それがウィスキーのラベルの上にぽたぽたと落ちる様子を眺めていた。一度大きな傷を受けると、小さな傷なんてどうでもよくなってしまうのだ。指先からこぼれ落ちる血で死んだ人間はいない。
フォア・ローゼズのラベルが赤く染まってしまうまで私は血が流れるままにまかせたが、いつまでたっても出血がとまらないのであきらめてティッシュ・ペーパーで傷口を|拭《ぬぐ》い、指先にバンド・エイドを巻きつけた。
キッチンの床には|缶《かん》ビールが砲撃戦のあとの|薬莢《やっきょう》のように七個か八個転がっていた。拾ってみると、缶の表面はすっかり生ぬるくなっていたが、生ぬるいビールでもないよりはましだった。私は両手にひとつずつビールの缶を持ってベッドに戻り、『赤と黒』のつづきを読みながらちびちびとビールを飲んだ。私としてはアルコールでこの三日ばかりのあいだに体の中にたまった緊張をほぐして、そのままぐっすりと眠ってしまいたかったのだ。明日という日がどれほどのトラブルに|充《み》ちたものであろうと——まず間違いなくそうだろう——私は地球がマイケル・ジャクソンみたいにくるりと一回転するくらいの時間はぐっすりと眠りたかった。新たなるトラブルは新たなる絶望感で迎えいれればいいのだ。
九時前に睡魔が私を襲った。月の裏側のように荒廃した私のささやかな部屋にも、ちゃんと眠りはやってくるのだ。私は四分の三ばかり読みあげた『赤と黒』を床に放り出し、|虐殺《ぎゃくさつ》をまぬがれた読書灯のスウィッチを切り、横を向いて背中を丸めるようにして眠りについた。私は荒廃した部屋の中の、小さな胎児だった。|然《しか》るべき時が来るまでは、|誰《だれ》も私の眠りをさまたげることはできない。私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさのひきがえるがやってきて私に口づけするまで、私はこんこんと眠りつづけるのだ。
しかし私の思いに反して、眠りは二時間しかつづかなかった。夜の十一時に、ピンクのスーツを着た太った娘がやってきて、私の肩を揺すったのだ。どうやら私の眠りはひどく安い値段で競売にかけられているようだった。みんなが順番にやってきて、中古車のタイヤの具合をためすみたいに私の眠りを|蹴《け》とばしていくのだ。そんなことをする権利は彼らにはないはずなのだ。私は古びてはいるが中古車ではないのだ。
「放っておいてくれ」と私は言った。
「ねえ、お願い、起きてよ。お願い」と娘は言った。
「放っておいてくれ」と私は繰りかえした。
「寝ている場合じゃないのよ」と彼女は言って、こぶしで私のわき腹をどんどんと|叩《たた》いた。地獄のふたが開いたみたいに激痛が私の体を走り抜けた。
「お願い」と彼女は言った。「このままじゃ世界が終っちゃうのよ」