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世界尽头与冷酷仙境19
日期:2017-02-16 19:31  点击:426
 我々はまず最初にどこかで腹ごしらえをすることにした。私の方は|殆《ほと》んど食欲はなかったが、この先いつ食事できるかわからなかったし、何かを食べておいた方が良さそうだった。ビールとハンバーガーくらいならなんとか胃にもぐりこませることができるかもしれない。娘は昼にチョコレートを一枚食べたきりでひどくおなかがすいていると言った。チョコレートを買える程度の小銭しか持ちあわせていなかったのだ。
 私は傷口を刺激しないように注意しながらブルージーンズに両脚をつっこみ、Tシャツの上にスポーツ・シャツを着て、その上から薄手のセーターをかぶった。それから念のためにたんすを開けて登山用のナイロンのウィンドブレーカーをだした。彼女のピンクのスーツはどう見ても地底探索には不向きだったが、私のワードローブには残念ながら彼女の体型にあうようなサイズのシャツやズボンはなかった。私は彼女より十センチばかり背が高く、彼女は私より十キロばかり体重が重そうだった。本当はどこかの店に寄って体を動かしやすい衣類を買い集めればいいのだが、こんな夜中にはどこの店も開いてはいない。|辛《かろ》うじて昔着ていた米軍払いさげのぶ厚い戦闘ジャケットが彼女のサイズにあったので、私は彼女にそれを与えた。問題はハイヒールだったが、事務所に行けばジョギング・シューズとゴム|長《なが》|靴《ぐつ》が置いてあると彼女は言った。
「ピンクのジョギング・シューズとピンクのゴム長靴」と彼女は言った。
「ピンクが好きなの?」
「祖父が好きなの。私がピンクの服を着るととてもよく似合うって言うの」
「よく似合うよ」と私は言った。|嘘《うそ》ではなく、本当によく似合うのだ。太った女がピンクの服を着ると往々にして巨大なストロベリー・ケーキのようにぼんやりとした感じになってしまうものだが、彼女の場合はどういうわけかしっくりと色が落ちつくのだ。
「それから君のおじいさんは太った女の子が好きなんだろう?」と念のために私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、もちろんそうよ」とそのピンクの娘は言った。「だから私、いつも注意して太るように心懸けているの。食べるものなんかね。|放《ほう》っておくとどんどんやせちゃうものだから、バターやクリームなんかをいっぱい食べるようにしてるわ」
「ふうん」と私は言った。
 私は押入れを開けてナップザックをとりだし、それが切り裂かれていないことをたしかめてからそこに二人ぶんの上着とポケット・ライトと磁石と手袋とタオルと大型のナイフとライターとロープと固型燃料を詰めた。それから台所に行って、床にちらばった食品の中からパンを二個とコンビーフと桃とソーセージとグレープフルーツの|缶《かん》|詰《づめ》をあつめて、ナップザックの中に入れた。水筒にもたっぷりと水を入れた。次にズボンのポケットに家に置いてあった現金のぜんぶをつっこんだ。
「ピクニックみたいね」と娘は言った。
「まったく」と私も言った。
 私は出発する前に粗大ゴミの集積場のような様相を呈した私の部屋をもう一度ぐるりと見まわしてみた。生命の営みというものはいつも同じだ。築きあげるのには結構時間がかかるが、それを破壊するのは一瞬で事足りる。この三つの小さな部屋の中には、多少疲れ果ててはいたがそれなりに満ち足りた私の生活があったのだ。しかしそんなものはみんな缶ビールを二本あける間に朝霧のごとく消え|失《う》せてしまった。私の職、私のウィスキー、私の平穏、私の孤独、私のサマセット・モームとジョン・フォードのコレクション——それらはすべて何の意味もないがらくたと化してしまったのだ。
 草原の輝き・花の栄光、と私は声を出さずに朗読した。それから手をのばして入口にあるブレーカーのスウィッチを下におろし家じゅうの電気を切った。
 
 ものごとを深く考えるのには腹の傷が痛みすぎていたし、疲れすぎてもいたので、私は結局何も考えないことにした。中途|半《はん》|端《ぱ》に考えをめぐらすくらいなら、何も考えない方がずっとマシだ。それで私は堂々とエレベーターに乗って地下の駐車場に下り、車のドアを開けて荷物を後部座席に放りこんだ。見張りがいるのなら我々の姿をみつければいいし、|尾《つ》けたければ尾ければいい。そんなのは私にとってはもうどうでもいいことであるような気がした。だいいち私はいったい|誰《だれ》に対して警戒をすればいいのだ? 記号士か、それとも『|組織《システム》』か、それともあのナイフの二人組か? 三つものグループを相手にまわしてうまく立ちまわることなんて、とてもではないが今の私の手にあまる。腹を六センチ横に裂かれたうえに睡眠不足で、太った娘をひきつれて地底の|闇《やみ》の中でやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]と対決するだけで、私には精いっぱいだった。何かをやりたければみんな好きなようにやればいいのだ。
 できれば車の運転はしたくなかったので、娘に車は動かせるかと|訊《き》いてみた。できない、と彼女は言った。
「ごめんなさい。馬なら乗れるんだけど」と彼女は言った。
「いいよ、いつか馬に乗るのが必要なときが来るかもしれない」と私は言った。
 燃料計の針がFに近いことをたしかめてから、車を外に出した。そして曲りくねった住宅街をぬけて大きな通りに出た。夜中だというのに通りは車でいっぱいだった。車の約半分はタクシーで、あとはトラックと乗用車だった。こんなにたくさんの数の人間がどうして真夜中に車で街を走りまわる必要があるのか私には理解できなかった。なぜみんな六時には仕事を終えて家に帰り、十時前にベッドにもぐりこんで電気を消して寝てしまわないのだ?
 でもそれは結局のところ他人の問題だった。私がどんな風に考えたところで、世界はその原則に従って拡大していくのだ。私が何を考えたところでアラブ人は石油を掘りつづけるだろうし、人々はその石油で電気とガソリンを作り、深夜の街にそれぞれの欲望を追い求めつづけるだろう。そんなことより私は私自身が今直面している問題を処理しなくてはならない。
 私はハンドルの上に両手を置いて信号を待ちながら大きなあくびをした。
 私の車の前には荷台に天まで届かんばかりに紙の束を積みあげた大型トラックがとまっていた。右横にはスポーツタイプの白いスカイラインに乗った若い男女がいた。夜遊びに向う途中か帰る途中かはわからないが、二人ともなんとなく退屈そうな顔をしていた。二本の銀のブレスレットをつけた左手首を窓の外に出した女がちらりと私の方を見た。べつに私に興味があったわけではなく、|他《ほか》にこれといって見るべきものがないので私の顔を見たのだ。「デニーズ」の看板だろうが、交通標識だろうが、私の顔だろうが、べつになんだってよかったのだ。私もちらりと女の顔を見た。まあ美人の部類だったが、どこにでもありそうな顔だった。TVドラマでいえば女主人公の友だちで、喫茶店でお茶を一緒に飲みながら「どうしたの? このごろなんだか元気ないじゃない?」とかなんとか質問するような役まわりの顔だ。たいていは一度しか出てこないし、画面から消えてしまうとどんな顔だったかも思いだせない。
 信号が青にかわると、私の車の前のトラックがもたもたしているあいだに、白いスカイラインは派手な排気音を立ててカー・ステレオのデュラン・デュランとともに私の視野から消えてしまった。
「うしろの車に気をつけていてくれないか」と私は太った娘に言った。「ずっとあとをついてくる車がいたら教えてくれ」
 娘は|肯《うなず》いてうしろを向いた。
「誰かがあとを尾けてくると思うの?」
「わからない」と私は言った。「でも注意するに越したことはないからね。食べるものはハンバーガーでいい? あれなら時間がかからないからさ」
「なんでもいいわ」
 私は最初に目についたドライヴ・スルーのハンバーガー・ショップに車を|停《と》めた。赤い短かめのワンピースを着た女の子がやってきて窓の両側にトレイをかけ、注文を聞いた。
「ダブルのチーズバーガーにフライド・ポテトにホット・チョコレート」と太った娘が言った。
「普通のハンバーガーとビール」と私は言った。
「申しわけありませんがビールは置いていませんので」とウェイトレスが言った。
「普通のハンバーガーとコーラ」と私は言った。どうしてドライヴ・スルーのハンバーガー・ショップにビールがあるなんて考えたりしたのだろう?
 注文した食べ物がやってくるまで、我々のあとからやってくる車に注意していたが、車は一台も入ってこなかった。もっとも誰かが真剣に尾行していたとしたら、彼らはおそらく同じ駐車場に入ってきたりはしないだろう。どこか目につかないところで、我々の車が出てくるのをじっと待ち受けているはずだ。私は見張るのをやめて運ばれてきたハンバーガーとポテトチップと高速道路のチケットくらいの大きさのレタスの葉をコーラと一緒に機械的に胃の奥に送りこんだ。太った娘は丁寧に時間をかけて、いとおしそうにチーズバーガーをかじり、フライド・ポテトをつまみ、ホット・チョコレートをすすった。
「フライド・ポテト少し食べる?」と娘が私に訊いた。
「いらない」と私は言った。
 娘は|皿《さら》にのったものをきれいにたいらげてしまうと、ホット・チョコレートの最後のひとくちを飲み、それから手の指についたケチャップとマスタードを|舐《な》め、紙ナプキンで指と口を|拭《ぬぐ》った。はたで見ていてもとてもおいしそうだった。
「さて君のおじいさんのことだけれど」と私は言った。「まず地下の実験室に最初に行ってみるべきだろうね」
「そうでしょうね。何か手がかりが残っているかもしれないしね。私も手伝うわ」
「でもやみくろの巣の近くを通り抜けることができるかな? やみくろよけの装置が破壊されちゃったんだろう?」
「それは大丈夫よ。非常の場合のための小さなやみくろよけがひとつあるの。たいして威力はないけれど、持って歩けば身のまわりからやみくろを遠ざけるくらいのことはできるのよ」
「じゃあ問題はないな」と私は安心して言った。
「それがそう簡単でもないのよ」と娘は言った。「その携帯用の装置はバッテリーの関係でだいたい三十分しか連続して動かないの。三十分たつとスウィッチを切って充電しなくちゃならないの」
「ふうん」と私はうなった。「それで、充電しおわるのに何分くらいかかるんだい?」
「十五分。三十分動いて、十五分休むの。事務所と研究室を|往《ゆ》き|来《き》するにはそれだけの時間があれば十分だから、容量が小さく作ってあるのよ」
 私はあきらめてそれについては何も言わなかった。何もないよりはましだし、あるもので我慢するしかないのだ。私は駐車場から車を出し、途中で深夜営業のスーパーマーケットをみつけて缶ビールを二本とウィスキーのポケット|瓶《びん》を買った。そして車を停めてビールを二本飲み、ウィスキーを四分の一ほど飲んだ。それで少しは気が楽になったようだった。残ったウィスキーのふたを閉めて娘にわたし、ナップザックの中に入れてもらった。
「どうしてそんなにお酒を飲むの?」と娘が訊いた。
「たぶん怖いからだな」と私は言った。
「私も怖いけどお酒飲まないわよ」
「君の怖さと|僕《ぼく》の怖さとでは怖さの種類が違うんだ」
「よくわからないわ」と彼女が言った。
「年をとるととりかえしのつかないものの数が増えてくるんだ」と私は言った。
「疲れてくるし?」
「そう」と私は言った。「疲れてくるし」
 彼女は私の方を向いて手をのばし、私の耳たぶに触った。
「大丈夫よ。心配しないで。私がずっとそばについてるから」と彼女は言った。
「ありがとう」と私は言った。
 
 私は彼女の祖父の事務所のあるビルの駐車場に車を停め、車を降りてナップザックを背負った。傷は一定の時間をおいて鈍く痛んだ。腹の上を干草をつんだ荷車がゆっくり踏みこえていくようなかんじの痛みだった。これはただの痛みなのだ、と私は便宜的に考えるようにした。ただの表層的な痛みで、私自身の本質とは無関係なのだ。雨ふりと同じだ。通りすぎていってしまうものなのだ。私は残り少なくなった自尊心のありったけをかきあつめて傷のことを頭から追い払い、急ぎ足で娘のあとを追った。
 ビルの入口には|大《おお》|柄《がら》の若い守衛がいて、彼女にこのビルの住人である証明書の提示を求めた。彼女はポケットからプラスティックのカードを出して守衛にわたした。守衛は机の上のコンピューターのスリットにカードを入れ、モニターTVに出た名前と部屋番号を確認してから、スウィッチを押してドアを開けた。
「ここはすごく特殊なビルなのよ」と娘は広いフロアを横切りながら私に説明してくれた。「ここのビルに入っている人たちはみんな何かしらの秘密を持っていて、その秘密を守るために特別な警備体制が敷かれているの。たとえば重大な研究がおこなわれているとか、秘密の会合があるとか、そういうことね。今のように入口で|身《み》|許《もと》がチェックされるし、入った人間がちゃんと決められた場所に|辿《たど》りつくかどうかTVカメラで調べられるの。だからもしあとを尾けてきた人がいたとしても中に入ることはできないわ」
「じゃあ君のおじいさんがこのビルの中に地底に下りる|竪《たて》|穴《あな》を作ったことも彼らは知っているの?」
「さあ、どうかしら? たぶん知らないと思うわ。祖父はこのビルが出来るときに部屋から直接地底に下りることができるように特別に設計させたんだけれど、そのことを知っているのはひと握りの人たちしかいないの。ビルのオーナーと設計者くらいね。工事をした人には|排《はい》|水《すい》|溝《こう》だと言ってあるし、図面の申請もうまくごまかしたから」
「きっととてつもないお金がかかったんだろうね?」
「そうね。でも祖父はお金ならいくらでも持っているから」と娘は言った。「私もそうよ。私もとてもお金持なの。両親の遺産と保険金を株で増やしたの」
 彼女はポケットから|鍵《かぎ》を出してエレベーターのドアを開けた。我々は例のだだっ広い奇妙なエレベーターに乗りこんだ。
「株で?」と私は訊いた。
「ええ、祖父が株のやり方を教えてくれたの。情報の選択方法とか、市況の読み方とか、税金のごまかし方とか、海外の銀行への送金方法とか、そういうこと。株って|面《おも》|白《しろ》いわよ。やったことある?」
「残念ながら」と私は言った。私は積立定期すらやったことがないのだ。
「祖父は科学者になる以前は株屋をやっていたんだけど、株でお金がたまりすぎたんで株屋をやめて科学者になったの。すごいでしょ?」
「すごいね」と私は同意した。
「祖父は何をやっても一流なの」と娘は言った。
 エレベーターは以前に乗ったときと同じように上昇しているのか下降しているのかよくわからないくらいのスピードで進んでいた。あいかわらずひどく長い時間がかかったし、そのあいだずっとTVカメラでモニターされていることを思うと、私はどうも落ちつかなかった。
「一流になるためには学校教育は効率が悪すぎるって祖父が言ってたけど、どう思う?」と彼女が私に訊ねた。
「そうだね、たぶんそうだろうな」と私は言った。「僕は十六年学校に通ったけど、それがとくに何かの役に立ったとも思えないから。語学もできないし、楽器もできないし、株のことも知らないし、馬にも乗れないし」
「じゃあどうして学校をやめなかったの? やめようと思えばいつでもやめられたんでしょ?」
「まあ、そりゃね」と私は言って、そのことについて少し考えてみた。たしかにやめようと思えばいつだってやめられたのだ。「でもそのときはそんなこと思いつかなかったんだ。僕の家は君のところと違ってとても平凡であたり前の家庭だったし、自分が何かの面で一流になれるかもしれないなんて考えもしなかったしさ」
「それは間違ってるわよ」と娘は言った。「人間は誰でも何かひとつくらいは一流になれる素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そしてそのまま擦り減ってしまうの」
「僕のようにね」と私は言った。
「あなたは違うわ。あなたには何か特別なものがあるような気がするの。あなたの場合は感情的な|殻《から》がとても固いから、その中でいろんなものが無傷のまま残っているのよ」
「感情的な殻?」
「ええ、そうよ」と娘は言った。「だから今からでも遅くないの。ねえ、これが終ったら私と一緒に暮さない? 結婚とかそういうのじゃなくて、ただ一緒に暮すの。ギリシャだかルーマニアだかフィンランドだか、そういうのんびりしたところに行って、二人で馬に乗ったり|唄《うた》を唄ったりして過すの。お金ならいくらでもあるし、そのあいだにあなたは一流の人間に生まれかわるの」
「ふうん」と私は言った。悪くない話だった。計算士としての私の生活もこの事件のせいで微妙な局面にさしかかっているし、外国でのんびり暮すというのは魅力的だった。しかし自分が本当に一流の人間になれるという確信が私にはどうしても持てなかった。一流の人間というのは普通、自分は一流の人間になれるという強い確信のもとに一流になるものなのだ。自分はたぶん一流にはなれないだろうと思いながら事のなりゆきで一流になってしまった人間なんてそんなにはいない。
 私がぼんやりとそんなことを考えているあいだにエレベーターのドアが開いた。彼女が外に出て、私もそのあとを追った。最初に会ったときと同じように、彼女はコツコツとハイヒールの靴音を響かせながら急ぎ足で廊下を進み、私はそのあとに従った。私の目の前で気持の良い形をしたお|尻《しり》が揺れ、金のイヤリングがきらきらと光った。
「でも仮にそうなったとしても」と私は彼女の背中に向って声をかけた。「君が僕にいろんなものを与えてくれるばかりで、僕の方は君に何も与えることができないし、そういうのはすごく不公平で不自然なような気がするんだ」
 彼女は歩をゆるめて私の横に並び、一緒に歩いた。
「本当にそう思うの?」
「そう思う」と私は言った。「不自然だし、それに不公平だ」
「あなたが私に与えることができるものはきっとあると思うわ」と彼女は言った。
「たとえば?」と私は|訊《たず》ねた。
「たとえば——あなたの感情的な殻。私はそれがとても知りたいの。それがどんな風に作られていて、どんな風に機能しているとか、そういうことね。私はこれまでそういうものに触れたことがあまりないから、すごく興味があるの」
「それほどおおげさなものじゃないよ」と私は言った。「誰だって多少の差こそあれ感情に殻をまとっているものだし、みつけようとすればいくらでもみつけられる。君は世間に出たことがないせいで、平凡な人間の平凡な心のありようというものが理解できないだけのことなんだよ」
「あなたって本当に何も知らないのね」と太った娘は言った。「あなたはシャフリング能力を持ってるんでしょ?」
「もちろん持ってるさ。でもそれはあくまでも仕事の手段として外部から与えられる能力なんだ。手術されたり、トレーニングを受けたりしてね。大抵の人は訓練さえすればシャフリングはできるようになる。|算《そろ》|盤《ばん》ができたりピアノが弾けたりするのとたいした違いはないんだ」
「それがそうとも言い切れないのよ」と彼女は言った。「たしかにはじめはみんなそう考えていたの。あなたと同じように、しかるべき訓練さえ受ければ|誰《だれ》でも——といってももちろんある程度テストで選抜された人だけど——シャフリング能力を一律に身につけることができるってね。祖父もそう思っていたわ。それに現実に二十六人の人があなたと同じ手術と訓練を受けて、シャフリング能力を身につけたの。その時点では不都合なことは何もなかった。でも問題はそのあとで起きたの」
「そんな話は聞いてないぜ」と私は言った。「僕が聞いている話では計画は何もかもがうまくいって……」
「公表ではね。でも本当はそうじゃないの。シャフリング能力を身につけた二十六人のうちの二十五人までが、訓練終了後一年から一年半くらいのうちに死んじゃったの。生き残ったのはあなた一人なのよ。あなた一人だけが三年以上生きのびて、何の問題も支障もなくシャフリング作業をつづけているの。これでもあなたはまだ自分が平凡な人間だと思うの? あなたは今、最重要人物になっているのよ」
 私はポケットに両手をつっこんだまま、しばらく黙って廊下を歩きつづけた。状況は私の個人的な能力の範囲を超えて、どこまでもどこまでもふくらみつづけているようだった。それが最終的にどこまでふくらんでいくのか、私にはもう見当もつかなかった。
「なぜみんな死んだんだ?」と私は娘に|訊《き》いた。
「わからないわ。死因がはっきりしないの。脳の機能に障害が生じて死んだということはわかるんだけど、どうしてそうなったかという経緯は不明なの」
「何かしらの仮説はあるんだろう?」
「ええ、祖父はこう言っていたわ。普通の人間はおそらく意識の核の照射に耐えることができなくて、脳の細胞がそれに対するある種の抗体のようなものを作ろうと試みるんだけれど、その反応があまりにも急激すぎて、その結果死に至るんじゃないかって。本当はもっと複雑なんだけど、簡単に説明するとそういうことね」
「じゃあ、僕が生き残った理由は?」
「たぶんあなたには自然の抗体がそなわっていたのよ。私の言う感情的な殻のようなものね。何かの理由でそういうものがあなたの脳の中に既にできていて、それであなたは生きのびることができたのよ。祖父は人為的にその殻を作って脳をガードしようとしたんだけど、結局それが弱すぎたんだろうって」
「ガードというのはつまりメロンの皮のようなものだね?」
「簡単に言えばそうね」
「それで」と私は言った。「その僕の抗体なりガードなり殻なりメロンの皮なりというのは、先天的な資質なのかい? あるいは後天的なもの?」
「ある部分は先天的で、ある部分は後天的なものじゃないかしら? でもその先は祖父は何も教えてはくれなかったの。知りすぎると私の立場が危険になりすぎるってね。ただ、祖父の仮説をもとに計算すると、あなたのような自然の抗体を身につけた人は約百万から百五十万人に一人という割合でしか存在しないし、それも今のところは実際にシャフリング能力を|賦《ふ》|与《よ》してみないことにはみつけることができないということになるの」
「そうすると、もし君のおじいさんの仮説が正しいとすれば、その二十六人の中に僕が含まれていたのは|僥倖《ぎょうこう》に等しいということになるね」
「だからあなたはサンプルとして貴重だし、ドアのキイとなり得るのよ」
「君のおじいさんは僕にいったい何をしようとしていたんだろう? 彼が僕にシャフリングさせたデータとあの一角獣の頭骨はいったい何を意味してるんだろう?」
「それが私にわかっていれば、すぐにでもあなたを救ってあげることができるんだけれど」と娘は言った。
「僕と世界をね」と私は言った。
 
 事務所の中は私の部屋と同じように、とまではいかないにしても、かなり乱暴にひっかきまわされていた。様々な書類が床にばらまかれ、机がひっくりかえされ、金庫がこじあけられ、|戸《と》|棚《だな》のひきだしは|放《ほう》り投げられ、ずたずたに裂かれたソファー・ベッドの上にはロッカーの中に入っていた博士と彼女の着替え用の洋服がばらまかれていた。彼女の洋服はたしかにぜんぶピンクだった。濃いピンクから淡いピンクまでの見事なグラデーションだった。
「ひどいわね」と彼女は首を振って言った。「たぶん地下の方から上ってきたんだわ」
「やみくろがやったのかな?」
「いいえ、違うわ。やみくろはこんな地上までまず上ってこないし、もしやってきたとしても|臭《にお》いがのこっているはずだもの」
「臭い?」
「魚のような|泥《どろ》のような、|嫌《いや》な臭い。やみくろの仕業じゃないわ。あなたの部屋を荒したのと同じ人たちじゃないかしら。やりくちも似ているし」
「そうかもしれない」と私は言って、あたりをもう一度ぐるりと見まわした。ひっくりかえされた机の前にはペーパー・クリップが一箱ぶんちらばって|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》の光にきらきらと光っていた。私は以前からペーパー・クリップのことが何かしら気になっていたので、床をしらべるふりをしてそれをひとつかみズボンのポケットにつっこんだ。
「ここには何か重要なものは置いてあったの?」
「いいえ」と娘は言った。「ここにあるものはみんなほとんど意味のないものばかりよ。帳簿とか領収書とかあまり重要じゃない研究資料とか、そういうものだけ。盗まれて困るようなものは|殆《ほと》んど何もないわ」
「やみくろよけの発信装置というのは無事だったのかな?」
 彼女はロッカーの前にちらばった懐中電灯やラジオ・カセットや目覚し時計やテープ・カッターや|咳《せき》どめドロップの|缶《かん》といったこまごまとしたものの山の中からVUメーターに似た形の小さな機械をとりだして、スウィッチを何度か入れたり切ったりした。
「大丈夫よ。ちゃんと動くわ。きっと意味のない機械だと思ったんでしょう。それにこの機械の原理はとても簡単だからちょっとぶっつけただけではなかなか壊れないの」と彼女は言った。
 それから太った娘は部屋の|片《かた》|隅《すみ》に行って、床にかがみこんでコンセントのふたを外し、その中にあった小さなスウィッチを押してから、立ちあがって壁の一部を手のひらでそっと押した。壁の一部が電話帳の大きさくらいに開き、中から金庫のようなものが現われた。
「ね? これならみつからないでしょ?」と娘は得意そうに言った。そして四つの番号をあわせて、金庫の|扉《とびら》を開けた。
「中のものを全部出して机の上に並べて下さる?」
 私はひっくりかえった机を傷の痛みに耐えながらもとに|戻《もど》し、その上に金庫の中身を一列に並べた。ゴムバンドのかかった五センチほどの厚さの預金通帳の束があり、株券や証書のようなものがあり、現金が二百万か三百万あり、布の袋に入ったずしりと重いものがあり、黒皮の手帳があり、茶封筒があった。彼女は茶封筒の中身を机の上にあけた。中には古いオメガの腕時計と金の指輪が入っていた。オメガのガラスは粉々にひびが入り、全体がまっ黒に変色していた。
「父の遺品なの」と娘は言った。「指輪は母のもの。あとはぜんぶ焼けちゃったの」
 私が|肯《うなず》くと彼女は指輪と腕時計をもとの茶封筒に戻し、札束をひとつかみスーツのポケットにつっこんだ。「そうだ、ここにお金を置いてあったことをすっかり忘れてたわ」と彼女は言った。それから布袋を開けてその中から古いシャツでぐるぐると巻かれたものをとりだし、シャツをほどいて中身を私に見せた。小型のオートマティック・タイプのピストルだった。その古びかたからすると明らかにモデル・ガンではなく、本物の弾丸のでる|拳銃《けんじゅう》のようだった。銃についてはくわしくないのでよくわからないが、ブローニングかベレッタか、その手のものだ。映画で見たことがある。銃には予備のカートリッジがひとつと弾丸が一箱ついていた。
「あなたは射撃は得意?」と娘が言った。
「まさか」と私は驚いて言った。「そんなの持ったこともないよ」
「私、|上《う》|手《ま》いのよ。もう何年も練習したの。北海道の別荘に行ったときに山の中で一人で撃ってたんだけど、十メートルくらいの距離だったら葉書程度の的は撃ち抜けるわよ。すごいでしょ?」
「すごい」と私は言った。「でもそんなものどこで手に入れたんだい?」
「あなたって本当に|馬《ば》|鹿《か》ね」と娘はあきれたように言った。「お金さえあれば何だって手に入るのよ。知らないの? でもとにかくあなたが射撃ができないんなら、私が持ってくわ。それでいい?」
「どうぞ。でも暗いから間違えて僕を撃ったりしないでほしいな。これ以上傷が増えると立っていられそうもないから」
「あら大丈夫よ。心配しないで。私はすごく注意深い方だから」と彼女は言って、上着の右ポケットにオートマティックをつっこんだ。不思議なことに彼女のスーツのポケットはどれだけものをつっこんでも少しもふくらんで見えなかったし、形も崩れなかった。何か特殊なしかけがあるのかもしれない。あるいはただ仕立てが良いだけなのかもしれない。
 次に彼女は黒皮の手帳のまん中あたりのページを開き、電灯の下で長いあいだ真剣にそれを|睨《にら》んでいた。私もちらりとそのページに目をやったが、手帳にはわけのわからない暗号のような数字とアルファベットが並んでいるだけで、私に理解できるようなことは何ひとつとして書かれてはいなかった。
「これは祖父の手帳なの」と娘は言った。「私と祖父のあいだだけでわかる暗号で書いてあるの。予定とかその日に起ったことがメモしてあるのよ。自分の身に何かあったら手帳を読めって祖父は言ってたわ。えーと、ちょっと待ってね。九月二十九日にあなたはデータの洗いだしを済ませているわね」
「たしかに」と私は言った。
「そこに㈰って書いてあるわ。たぶんこれが第一ステップね。それからあなたは三十日の夜か十月一日の朝のどちらかにシャフリングを済ませている。違う?」
「違わない」
「それが㈪よ。第二ステップ。次は、えーと、十月二日の正午ね。これが㈫。『プログラム解除』とあるわ」
「二日の正午に博士に会うことになっていた。たぶんそこで僕の中に組みこんだ特殊なプログラムを解くことにしていたんだろう。世界を終らせないためにね。しかし状況は変化してしまった。博士は殺されたかもしれないし、どこかに連れ去られてしまったかもしれない。それが今のいちばんの問題なんだ」
「ちょっと待ってね。先を見てみるわ。暗号がすごく込み入ってるの」
 彼女が手帳に目をとおしているあいだに、私はナップザックの中を整理し、懐中電灯の電池を新しいものに入れかえた。ロッカーの中の|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》とゴム|長《なが》|靴《ぐつ》は乱暴に床の上に放りだされていたが、ありがたいことに使いものにならないほど傷つけられてはいなかった。雨合羽なしで滝をくぐったりしたらぐしょ|濡《ぬ》れになって体の|芯《しん》まで冷えきってしまう。体が冷えると傷口がまた痛みはじめることになる。それから私はやはり床の上に放りだされていた彼女のピンクのジョギング・シューズをナップザックの中に入れた。腕時計のディジタル数字はそろそろ真夜中の十二時が近づいていることを示していた。プログラム解除のタイム・リミットまであとちょうど十二時間ということになる。
「そのあとにはかなり専門的な計算が並んでいるわ。電気量とか溶解速度とか抵抗値とか誤差とか、そういうの。私にはわからない」
「わからないところはとばしていいよ。時間があまりないから」と私は言った。「わかるところだけでいいから暗号を解読してくれないかな」
「解読の必要ないわ」
「どうして?」
 彼女は私に手帳をわたして、その部分を指さした。その部分には暗号も何もなく、ただ巨大な×印と日付けと時刻が記してあるだけだった。虫めがねで見なければ読みとれないようなちまちまとしたまわりの字に比べて、×印はあまりに大きく、そのバランスの悪さが不吉な印象を一層強めていた。
「これがデッドラインという意味なのかしら?」と彼女が言った。
「あるいはね。これがたぶん㈬なのだろう。㈫でプログラム解除されれば、この×印は起らない。でもそれが何かの都合で解除されなかった場合にはそのプログラムはどんどん進行し、この×印に至るんだと僕は思う」
「じゃあ私たちはどうしても二日の正午までに祖父に会わなくちゃならないということになるわね」
「僕の推測が正しければね」
「あなたの推測は正しいかしら?」
「たぶん」と私は小さな声で言った。
「それはそうと、あと何時間残っているの?」と娘が私にたずねた。「その世界の終りなり、ビッグ・バンなりまでには」
「三十六時間」と私は言った。時計を見る必要もなかった。地球が一回半自転するだけの時間だ。そのあいだに朝刊が二回と夕刊が一回配達される。目覚し時計が二回鳴り、男たちは二回|髭《ひげ》を|剃《そ》る。運の良い人間はそのあいだに二回か三回性交するかもしれない。三十六時間というのはそれだけの時間だ。もし人間が七十年生きると仮定すれば人生の中の一七〇三三分の一の時間だ。そしてその三十六時間が過ぎ去ったあとには何かが——たぶん世界の終りが——やってくるのだ。
「これからどうするの?」と娘がたずねた。
 私はロッカーの前に転がっていた救急用の薬箱から痛みどめの薬をみつけだして、水筒の水と一緒に|呑《の》みこみ、ナップザックを背中にかけた。
「地下に降りるしかないさ」と私は言った。

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