クローゼットの奥には前に見たときと同じように|暗《くら》|闇《やみ》が広がっていたが、やみくろの存在を知るようになったせいか、それは以前よりも深く冷ややかに感じられた。これほどまでの|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇というものにはまず|他《ほか》ではお目にかかれない。都市が街灯とネオンサインとショーウィンドウの照明を使って大地から闇をひきはがすまでは、世界はこのような息も詰まるほどの暗黒に|充《み》ちていたはずなのだ。
彼女が先に|梯《はし》|子《ご》を下りた。彼女はやみくろよけの発信機を|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》の深いポケットにつっこみ、肩かけ式の大型フラッシュ・ライトのストラップをはす[#「はす」に丸傍点]に体にかけ、|長《なが》|靴《ぐつ》のゴム底をきしませながら一人で素速く闇の底へと降りていった。しばらくすると流れの音にまじって「いいわよ、降りてきて」と下の方から声が聞こえた。そして黄色い|灯《ひ》が揺れた。私が記憶しているよりその奈落の底はずっと深いようだった。私は懐中電灯をポケットにつっこみ、梯子を下りはじめた。梯子の段はあいかわらず湿っていて、注意しないと足を踏みはずしてしまいそうだった。梯子を下りながら、私はずっとスカイラインに乗った男女とデュラン・デュランの音楽のことを考えていた。彼らは何も知らないのだ。私が懐中電灯と大型ナイフをポケットにつめて、腹の傷を抱えながら、闇の底に下降していることなんて。彼らの頭の中にあるのはスピード・メーターの数字とセックスの予感だか記憶だかと、ヒットチャートを上がっては落ちていく無害なポップソングだけなのだ。しかしもちろん、私には彼らを非難することはできなかった。彼らはただ知らないだけなのだ。
私だって何も知らなければ、こんなことをしないで済ますこともできたのだ。私は自分がスカイラインの運転席に座り、隣に女の子を乗せて、デュラン・デュランの音楽とともに夜中の都市を疾走しているところを想像してみた。あの女の子はセックスをするときに左の手首にはめた二本の細い銀のブレスレットをはずすのだろうか? はずさないでくれればいいな、と私は思った。服を全部脱いだあとでも、その二本のブレスレットは彼女の体の一部みたいにその手首にはまっているべきなのだ。
しかしたぶん、彼女はそれをはずすことになるだろう。|何《な》|故《ぜ》なら女の子はシャワーを浴びるときにいろんなものをはずしてしまうものだからだ。とすると、私はシャワーを浴びる前に彼女と交わる必要があった。あるいは彼女にブレスレットをはずさないでくれと頼むかだ。そのどちらが良いのかは私にはよくわからなかったが、いずれにせよなんとか手を尽して、ブレスレットをつけたままの彼女と交わるのだ。それが肝要だった。
私は自分がブレスレットをつけたままの彼女と寝ている様を想像してみた。彼女の顔がまるで思いだせなかったので、私は部屋の照明を暗くすることにした。暗くて顔がよく見えないのだ。|藤《ふじ》|色《いろ》だか白だか淡いブルーだかのつるつるとしたシックな下着をとってしまうと、ブレスレットが彼女が身につけている|唯《ゆい》|一《いつ》のものとなった。それはかすかな光を受けて白く光り、シーツの上で軽やかな心地良い音を立てた。
そんなことをぼんやりと考えながら梯子を下りていくうちに、雨合羽の下で私のペニスが|勃《ぼっ》|起《き》しはじめるのが感じられた。やれやれ、と私は思った、どうして|選《よ》りに選ってこんなところで勃起が始まるんだろう? どうしてあの図書館の女の子——胃拡張の女の子——とベッドに入ったときは勃起しないで、こんなわけのわからない梯子のまん中で勃起したりするのだ? たった二本の銀のブレスレットにいったいどれだけの意味があるというのだ。それも世界が終ろうとしているようなときに。
私が梯子を下りきって岩盤の上に立つと、彼女はライトをぐるりとまわして、まわりの風景を照らしだした。
「たしかにやみくろがこのへんをうろついているようね」と彼女は言った。「音が聞こえるわ」
「音?」と私は聞きかえした。
「|鰓《えら》で地面を|叩《たた》くようなぴしゃっぴしゃっていう音。小さな音だけど、注意すればわかるわ。それから気配と|臭《にお》い」
私は耳を澄まし、臭いを|嗅《か》いでみたが、それらしいものには気づかなかった。
「慣れないとわからないの」と彼女は言った。「慣れると彼らの話し声も少しは聞きとれるようになるわよ。話し声といっても音波に近いものだけどね。コウモリと同じよ。もっともコウモリとは違って一部の音波は人間の可聴範囲とかさなっているし、彼らどうしはちゃんと意思|疎《そ》|通《つう》がはかれるんだけど」
「じゃあ記号士たちはどういう風にして彼らとコンタクトしたんだろう? しゃべれなければコンタクトしようがないじゃないか?」
「そういう機械は造ろうと思えば造れるわ。彼らの音波を人間の音声に転換し、人間の言語を彼らの音波に転換するの。たぶん記号士たちはそういう機械を造ったんでしょうね。祖父だってそれを造ろうと思えば簡単に造れたんだけれど、結局造らなかったの」
「どうして?」
「彼らと話したくなかったからよ。彼らは邪悪な生きもので、彼らの語ることばは邪悪なの。彼らは腐肉や腐ったゴミしか食べないし、腐った水しか飲まないの。昔から墓場の下に住んで死んで埋められた人の肉を食べてたの。火葬になる前の時代まではね」
「じゃあ生きた人間は食べないんだね?」
「生きた人間をつかまえると何日も水に|漬《つ》けて、腐りはじめた部分から順番に食べていくの」
「やれやれ」と私は言ってため息をついた。「何がどうなってもいいから、このまま帰りたくなったよ」
それでも我々は流れに沿って前進した。彼女が先に立ち、私があとにつづいた。私がライトを彼女の背中にあてると、切手くらいの大きさの金のイヤリングがきらきらと光った。
「そんな大きなイヤリングをいつもつけていて重くないのかい?」と私はうしろから声をかけてみた。
「慣れればね」と彼女は答えた。「ペニスと同じよ。ペニスを重いと感じたことある?」
「いや、べつに。そういうことはないな」
「それと同じよ」
我々はまたしばらく無言のうちに歩きつづけた。彼女は足場を知りつくしているらしく、ライトでまわりの風景を照らしながらすたすたと前に進んだ。私はいちいち足もとをたしかめながら、苦労してそのあとを追った。
「ねえ、君はシャワーとかお|風《ふ》|呂《ろ》に入るときにそのイヤリングをとるの?」と私は彼女においてきぼりにされないためにまた声をかけた。彼女はしゃべるときだけ歩くスピードを少し落とすのだ。
「つけたままよ」と彼女は答えた。「裸になってもイヤリングだけはつけてるの。そういうのってセクシーだと思わない?」
「そうだな」と私はあわてて言った。「そう言われれば、そうかもしれないな」
「セックスってあなたはいつも前からやるの? 向いあったまま?」
「まあね。だいたいは」
「うしろからやるときもあるんでしょ?」
「うん。そうだね」
「それ以外にもいろいろと種類があるんでしょ? 下になるのとか、座ってやるのとか、|椅《い》|子《す》を使うのとか……」
「いろんな人がいるし、いろんな場合があるからね」
「セックスのことって、私よくわからないの」と彼女は言った。「見たこともないし、やったこともないし。そういうことって|誰《だれ》も教えてくれなかったの」
「そういうのは教わるもんじゃなくて、自分でみつけるものなんだよ」と私は言った。「君にも恋人ができて彼と寝るようになればいろいろと自然にわかるようになるさ」
「そういうのあまり好きじゃないのよ」と彼女は言った。「私はもっと……なんていうか、圧倒的なことが好きなの。圧倒的に犯されて、それを圧倒的に受け入れたいの。いろいろと[#「いろいろと」に丸傍点]とか自然に[#「自然に」に丸傍点]じゃなくてね」
「君はたぶん年上の人と一緒に長くいすぎたんだよ。天才的で圧倒的な資質を持った人とね。でも世の中って、そういう人ばかりじゃないんだ。みんな平凡な人で、暗闇の中を手さぐりしながら生きてるんだ。僕みたいにさ」
「あなたは違うわ。あなたならオーケーよ。それはこの前に会ったときにも言ったでしょ?」
しかしとにかく、私は頭の中から性的なイメージを一掃しようと決心した。私の勃起はまだつづいていたが、こんな地底のまっ暗闇の中で勃起したところで意味はないし、だいいち歩きにくいのだ。
「つまりその発信機はやみくろの|嫌《いや》がる音波を出しているんだね」と私は話題を変えてみた。
「ええそうよ。この音波を発信している限り、連中は私たちからおおよそ十五メートル以内には近づけないの。だからあなたも私から十五メートル以上離れないようにしてね。でないと、彼らにつかまって巣につれていかれて井戸に|吊《つる》されて、腐ったところからかじられるわよ。あなたの場合はおなかの傷から先に腐っていくわね、きっと。彼らの歯と|爪《つめ》はすごく鋭いの。まるで太い|錐《きり》をずらりと並べたみたいにね」
私はそれを聞いてあわてて彼女のすぐうしろまで寄った。
「おなかの傷はまだ痛む?」と娘が|訊《たず》ねた。
「薬のせいで少しはマシになったみたいだな。激しく体を動かすとずきずきするけれど、普通にしているぶんにはそれほど痛くはない」と私は答えた。
「もし祖父に会うことができたら、彼が痛みを取り去ってくれると思うわ」
「おじいさんが? どうして?」
「簡単よ。私も何度かやってもらったことあるわ。頭痛なんかがひどいときにね。意識の中に痛みを忘れさせる信号をインプットするの。本当は痛みというのは体にとっては重要なメッセージだから、あまりそういうことしちゃいけないんだけど、今回は非常事態だからかまわないんじゃないかしら?」
「そうしてもらえるとすごくたすかるな」と私は言った。
「もちろん祖父に会うことができればの話だけれど」と娘は言った。
彼女は強力なライトを左右に振りながら、しっかりした足どりで地底の川を上流に向けて上りつづけた。左右の岩壁には割れめのようにぽっかりと口を開けた枝道や不気味な横穴が方々についていた。岩のすきまのところどころから水が|浸《し》みだして小さな流れをつくり、そのまま川にそそいでいた。そんな流れに沿って、ぬるぬるとした|泥《どろ》のような|苔《こけ》が密生している。苔は不自然なほど鮮かな緑色だった。光合成のできない地底の苔がどうしてそのような色になるのか、私には理解できなかった。おそらく地底には地底の摂理というものがあるのだろう。
「ねえ、やみくろたちは今我々がこうしてここを歩いているのを知ってるのかな?」
「もちろんよ」と娘は平然とした口調で言った。「ここは彼らの世界よ。地底で起っていることで彼らの知らないことはないわ。今も彼らは私たちのまわりにいて、私たちの姿をじっと見ているはずよ。さっきからずっとざわざわした音が聞こえるもの」
私は懐中電灯の光をまわりの壁にあててみたが、ごつごつとしたいびつな形の岩と苔の他には何も見えなかった。
「みんな横穴か枝道の奥の、光の届かない闇の中にひそんでいるのよ」と娘は言った。「それから私たちのうしろからもついてきているはずよ」
「発信機のスウィッチを入れて何分たった?」と私は訊ねた。
娘は腕時計を見てから「十分」と言った。「十分二十秒。あと五分で滝に着くから大丈夫」
ちょうど五分で我々は滝に到着した。音抜きの装置はまだ作動しているらしく、滝は前と同じようにほとんど無音だった。我々はフードをしっかりと頭にかぶって|顎《あご》のひもをしめ、ゴーグルをかけて、無音の滝をくぐった。
「変ね」と娘は言った。「音抜きが作動しているということは、研究室が破壊されていないということだわ。もしやみくろたちがここを襲ったんだとしたら、連中は中を無茶苦茶に破壊しているはずよ。彼らはこの研究室のことをすごく憎んでいたから」
彼女の推測を裏づけるように、研究室の|扉《とびら》にはきちんと|鍵《かぎ》がかかっていた。もしやみくろが中に入りこんだのだとしたら、彼らは出るときに鍵をかけなおしたりはしない。やみくろ以外の誰かがここを急襲したのだ。
彼女は長い時間をかけて扉のナンバー錠をあわせ、それから電子キイを使って扉を開けた。研究室の中はひやりとして暗く、コーヒーの|匂《にお》いがした。彼女は急いで扉を閉めて錠をかけ、扉が開かないことをたしかめてからスウィッチを押して部屋のあかりをつけた。
研究室の中のありさまは、上の事務所や私の部屋が追い込まれた極限的な状況とだいたい同じようなものだった。書類が床じゅうにとびちり、家具がひっくりかえされ、食器が割られ、カーペットがむしりとられ、その上にバケツ一杯ぶんくらいの量のコーヒーがばらまかれていた。どうしてこんな大量のコーヒーを博士が沸かしていたのか、私には見当もつかなかった。いくらコーヒー好きとはいえ、これだけのコーヒーを一人で飲みきれるものではない。
しかしこの研究室の破壊は、他のふたつの部屋の破壊とは根本的に違っている点があった。それは破壊者が、破壊するものと破壊しないものとをきちんと区別しているということだった。彼らは破壊するべきものは完膚なきまでに破壊していたが、それ以外のものには指一本触れてはいなかった。コンピューターや通信装置や音抜き装置や発電設備はそっくりそのまま残されていて、スウィッチを入れるときちんと作動した。大型のやみくろよけ音波発信機だけはプラントをいくつかもぎとられて使いものにならないようにされていたが、それも新しいプラントを埋めこめばすぐにでも動きはじめるようになっている。
奥の部屋の状況も同じようなものだった。一見救いようのないカオスみたいだが、すべてが入念に計算されている。|棚《たな》に並べられた頭骨はそっくり破壊をまぬがれているし、研究に必要な計器類は残されていた。買いかえのきく安物の機械や実験材料だけが派手に|叩《たた》き壊されていた。
娘は壁の金庫のところに行って扉を開け、中をたしかめた。扉には鍵がかかっていなかった。彼女はその中から白い灰になった紙の燃えかすを両手にいっぱいかいだして、床にばらまいた。
「非常用の自動燃焼装置はうまく働いたようだね」と私は言った。「連中は何も手に入れることができなかった」
「誰がやったんだと思う?」
「人間がやったんだ」と私は言った。「記号士だかなんだかがやみくろと結託してここにやってきて扉を開け、人間だけがここの中に入って部屋の中をひっかきまわしたんだ。彼らはあとで自分たちがここを使うために——たぶんここで博士の研究をつづけさせるためだと思うんだけれど——大事な機械類はそのままにしておいた。そしてやみくろに荒されないようにまた扉の鍵をかけておいたのさ」
「でも彼らは大事なものを手に入れることはできなかったわけね」
「たぶんね」と私は言って部屋の中をぐるりと見まわした。「しかし彼らはとにかく君のおじいさんを手に入れた。大事といえばそれがいちばん大事なものだろう。おかげで僕の方は博士が僕の中に何をしかけたのか知るすべもなくなってしまった。もう手の打ちようもない」
「いいえ」と太った娘は言った。「祖父はつかまったりしてはいないわ。安心して。ここにはひとつ秘密の抜け道があるの。祖父はきっとそこから逃げ出したはずよ。私たちと同じやみくろよけの発信機を使ってね」
「どうしてそれがわかるんだい?」
「確証はないけれど、私にはわかるのよ。祖父はとても用心深い人だし、簡単につかまったりはしないわ。誰かが扉の鍵をこじあけて中に入ろうとしていたら、必ずそこから逃げ出すはずだもの」
「じゃあ博士は今ごろはもう地上に脱出しているわけだ」
「いいえ」と娘は言った。「そんなに簡単な話じゃないの。その脱出口は迷路のようになっていて、やみくろの巣の中心へとつながっているし、どんなに急いでもそこから抜け出すのに五時間はかかるのよ。やみくろよけの発信機は三十分しかもたないから、祖父はまだその中にいるはずだわ」
「あるいはやみくろに捕えられたかね」
「その心配はないわ。祖父は万一の場合に備えて地底の中でも絶対にやみくろの近寄れない安全な避難場所をひとつ確保していたの。祖父はたぶんそこに潜んで、私たちが来るのをじっと待っているんじゃないかしら」
「たしかに用心深そうな人だな」と私は言った。「君にはその場所がわかる?」
「ええ、わかると思うわ。祖父は私にもそこに着くまでの道筋をくわしく教えてくれたから。それにこの手帳にも簡単な地図が|描《か》いてあるの。いろんな注意するべき危険なポイントとかね」
「たとえばどんな危険?」
「たぶんそれはあなたは知らない方がいいんじゃないかと思うんだけど」と娘は言った。「そういうのを聞いちゃうと必要以上にナーヴァスになる人っているみたいだから」
私はため息をついて、この先自分の身にふりかかってくるはずの危険についてそれ以上の質問をすることをあきらめた。私は今だって相当ナーヴァスになっているのだ。
「そのやみくろの近づけない場所に着くにはどれくらい時間がかかるんだい?」
「二十五分から三十分でその入口には着くわ。そこから祖父のいる場所までは一時間から一時間半。入口についてしまえばもうやみくろの心配はないけれど、入口に着くまでが問題ね。相当急がないと、やみくろよけのバッテリーが切れてしまうから」
「もし我々の発信機のバッテリーがその途中で尽きてしまったら?」
「あとは運にまかせるしかないわね」と娘は言った。「懐中電灯の光を体のまわりにぐるぐるとまわして、やみくろが近づけないようにしながら逃げ切るのよ。やみくろは光を浴びせかけられるのを嫌がるから。でもほんの少しでもその光のすきまができたら、やみくろはそこから手をのばしてあなたや私を捕えてしまう」
「やれやれ」と私は力なく言った。「発信機の充電は終った?」
彼女は発信機のレベル・メーターを読み、それから腕時計に目をやった。
「あと五分で終るわ」
「急いだ方がいいな」と私は言った。「もし僕の推察が正しければ、やみくろたちは記号士に僕たちがここに来たことを通報しているはずだし、そうすると|奴《やつ》らはすぐにでもここに引き返してくるからね」
娘は|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》と|長《なが》|靴《ぐつ》を脱いで、僕の持ってきた米軍ジャケットとジョギング・シューズに着替えた。「あなたも着替えた方がいいわよ。今から行くところは身軽じゃないと通り抜けられないから」と彼女は言った。
私も彼女と同じように雨合羽を脱いでセーターの上にナイロンのウィンドブレーカーを着こみ、首の下までジッパーをあげた。そしてナップザックを背負い、ゴム長を脱いでスニーカーにはきかえた。時計は十二時半近くになっていた。
娘は奥の部屋に行ってクローゼットの中にかかっていたハンガーを床に|放《ほう》り出し、ハンガーをかけるステンレス・スティールのバーを両手でつかんでくるくるとまわした。しばらくそれをまわしているうちに、歯車のかみあうかちん[#「かちん」に丸傍点]という音が聞こえた。それからもなお同じ方向にまわしつづけていると、クローゼットの壁の右下の部分が縦横七十センチほどの大きさにぽっかりと開いた。のぞきこんでみるとその穴の向うには手にすくいとれそうなほどの濃い暗闇がつづいているのが見える。冷ややかなかび臭い風が部屋の中に吹きこんでくるのが感じられた。
「なかなかうまく作ってあるでしょ?」と娘がステンレス・スティールのバーを両手でつかんだまま、私の方を向いて言った。
「たしかによくできてる」と私は言った。「こんなところに脱出口があるなんて普通の人間じゃ考えつかないものな。まさにマニアックだな」
「あら、マニアックなんかじゃないわよ。マニアックというのはひとつの方向なり傾向なりに固執する人のことでしょ? 祖父はそうじゃなくて、あらゆる方面に人より優れているだけなのよ。天文学から遺伝子学からこの手の大工仕事までね」と彼女は言った。「祖父のような人は|他《ほか》にはいないわ。TVやら雑誌のグラビアやらに出ていろいろと|吹聴《ふいちょう》する人はいっぱいいるけれど、そんなのはみんな|偽《にせ》|物《もの》よ。本当の天才というのは自分の世界で充足するものなのよ」
「しかし本人が充足しても、まわりの人間はそうじゃない。まわりの人間はその充足の壁を破って、なんとかその才能を利用しようとするんだ。だから今回のようなアクシデントが起るんだ。どれだけの天才でもどれだけの|馬《ば》|鹿《か》でも自分一人だけの純粋な世界なんて存在しえないんだ。どんなに地下深くに閉じこもろうが、どんな高い壁をまわりにめぐらそうがね。いつか誰かがやってきて、それをほじくりかえす。君のおじいさんだってその例外じゃない。そのおかげで僕はナイフで腹を切られ、世界はあと三十五時間あまりで終ろうとしている」
「祖父がみつかればきっと何もかもうまく収まるわ」彼女は私のそばに寄って背のびし、私の耳の下に小さくキスをした。彼女にキスされると私の体はいくらかあたたまり、傷の痛みもいくぶん引いたように感じられた。私の耳の下にはそういう特殊なポイントがあるのかもしれない。あるいはただ単に、十七歳の女の子に口づけされたのが久しぶりだったせいかもしれない。この前十七歳の女の子に口づけされたのは十八年も前の話である。
「みんなうまくいくって信じていれば、世の中に怖いものなんて何もないわよ」と彼女は言った。
「年をとると、信じることが少なくなってくるんだ」と私は言った。「歯が擦り減っていくのと同じだよ。べつにシニカルになるわけでもなく、懐疑的になるわけでもなく、ただ擦り減っていくんだ」
「怖い?」
「怖いね」と私は言った。それから身をかがめて穴の奥をもう一度のぞきこんだ。「狭くて暗いのは昔から苦手なんだ」
「でももううしろには引き返せないわ。前に進むしかないんじゃないかしら?」
「理屈としてはね」と私は言った。私はだんだん自分の体が自分のものではなくなっていくような気分になりはじめていた。高校生の|頃《ころ》バスケット・ボールをやっていて、ときどきそういう気分になったことがあった。ボールの動きがあまりにも速すぎて、体をそれに対応させようとすると、意識の方が追いついていけなくなってしまうわけだ。
娘はじっと発信機の目盛りをにらんでいたが、やがて「行きましょう」と私に言った。充電が完了したのだ。
前と同じように娘が先に立ち、私があとにつづいた。穴に入ると娘はうしろを向いて、入口のわきにあるハンドルをくるくるとまわし、扉を閉めた。扉がしまるにつれて正方形のかたちに|射《さ》し込んでいた光が少しずつ細くなり、一本の縦の線になって、やがては消滅した。前より一層完全な、これまで経験したことのないような濃密な|暗《くら》|闇《やみ》が私の体のまわりを|覆《おお》った。懐中電灯の光もその闇の支配を破ることはできず、ただその中に心もとないささやかな光の穴をあけるだけだった。
「よくわからないんだけど」と私は言った。「どうして君のおじいさんはわざわざやみくろの巣の中心に通じるような脱出路を選んだんだろう?」
「それがいちばん安全だったからよ」と娘は私の体をライトで照らしながら言った。「やみくろの巣の中心には彼らにとっての|神聖地域《サンクチュアリ》が広がっていて、彼らはその中に入ることができないの」
「それは宗教的なもの?」
「ええ、たぶんそうだと思うわ。私自身は見たことがないんだけれど、祖父はそう言ってたわ。信仰と呼ぶにはあまりにもおぞましいものだけれど、それが宗教の一種であることには間違いないだろうって。彼らの神は魚なの。巨大な目のない魚」彼女はそう言うとライトを前方に向けた。「とにかく前に進みましょう。時間もあまりないから」
|洞《どう》|窟《くつ》の天井はかがんで歩かなければならないほどの低さだった。|岩《いわ》|肌《はだ》はおおむねなめらかで|凹《おう》|凸《とつ》は少なかったが、それでもときどき張り出した岩のかどに思い切り頭をぶっつけることがあった。しかし頭をぶっつけてもそれにかまっているような時間の余裕はなかった。私は懐中電灯の光を彼女の背中にしっかりとあて、その姿を見失わないように死にもの狂いで前に進みつづけた。彼女は太っているわりには体の動きが|敏捷《びんしょう》で、足も速く、耐久力もかなり持ちあわせているようだった。私もどちらかといえば丈夫な方だが、中腰で歩いていると下腹の傷がずきずきと痛んだ。まるで氷の|楔《くさび》を腹に打ちこまれているような痛みだった。シャツが汗でぐっしょりと|濡《ぬ》れて、冷たく体にまつわりついていた。しかし彼女を見失って一人で闇の中にとり残されることに比べれば傷の痛みの方がずっとましだ。
進むにつれて、私の体が私に属していないという意識はますます強まっていった。たぶんそれは自分の体を見ることができないせいだろうと私は思った。手のひらを目の前まで持ってきたとしても、それが見えないのだ。
自分の体を見ることができないというのは何かしら奇妙なものだった。ずっとそういう状態にあると、そのうち体というものがひとつの仮説にすぎないのではないかという気になってくるのだ。たしかに頭を天井にぶっつければ痛みを感じるし、腹の傷は休むことなく痛みつづけている。足の裏には地面を感じる。しかしそれはただの痛みや感触にすぎない。それはいわば体という仮説の上に成立している一種の概念にすぎないのだ。だから既に体は消滅していて、概念だけが残って機能しているということだって起り得なくはないのだ。それはちょうど手術で脚を切り落とされた人が、切り落とされたあとでもまだ指先のかゆみを記憶しているのと同じことなのだ。
私は何度か自分の体にライトをあててそれがまだ存在していることをたしかめようとしたが、結局彼女の姿を見失うのが怖くてやめた。体はまだちゃんと存在しているさ、と私は自分に言いきかせてみた。もし私の体が消滅して、そのあとに私の魂とでもいうべきものだけが存続しているのだとしたら、私はもっと楽になっていいはずだった。もし魂が腹の傷や|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》や|痔《じ》|疾《しつ》を永遠に抱えこまなければならないのだとしたら、いったいどこに救済があるというのだ? 魂が肉体から分離したものでないとしたら、いったい魂にどんな存在理由があるというのだ?
私はそんなことを考えながら、太った娘の着たオリーヴ・グリーンの戦闘ジャケットとその下からのぞくピンク色のぴったりしたスカートと、ピンク色のナイキのジョギング・シューズのあとを追いかけた。彼女のイヤリングが光の中でキラキラと光りながら揺れた。それはまるで、彼女の首のまわりでつがいのホタルが飛びまわっているように見えた。
彼女は私の方をふりかえりもせず、じっと口をつぐんだまま前進をつづけた。まるで私が存在していることなんか念頭から消えてしまったかのようだった。彼女はフラッシュ・ライトで枝道や横穴を素速く点検しながら前に進んだ。わかれ道にくると彼女は立ちどまって胸のポケットから地図をとりだし、ライトで照らして、どちらに進めばいいのかを確認した。そのあいだに私は彼女に追いつくことができた。
「大丈夫? 道はあってるかい?」と私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、大丈夫よ。今のところはね。ちゃんとあってるわ」と彼女はしっかりした声で答えた。
「どうしてあっているってわかるんだ?」
「だってあってるんだもの」と彼女は言って、足もとをライトで照らした。「ほら、地面を見てごらんなさい」
私は腰をかがめてライトで照らされた円形の地面をじっとにらんでみた。岩のくぼみに銀色に光る小さなものがいくつかちらばっているのが見えた。手にとってみると、それは金属製のペーパー・クリップだった。
「ほらね」と娘は言った。「祖父はここを通ったのよ。そして私たちがあとを追ってくると思って、ここにしるしを残しておいたのよ」
「なるほど」と私は言った。
「十五分たったわ。急ぎましょう」と娘は言った。
その先にもいくつかわかれ道があったが、そのたびにペーパー・クリップがまかれていたので、我々は道に迷うことなく進みつづけ、それだけでも貴重な時間を節約することができた。
ときおり深い穴が地面にぽっかりと口を開けていることもあった。穴の位置は地図の上に赤いフェルト・ペンでしるしがつけられていたので、そのあたりに近づくと我々はいくらかスピードを落とし、ライトで地面を確かめながら前進した。穴の直径はだいたい五十センチから七十センチといったところで、とびこえるか|脇《わき》をまわりこむかして簡単に通過することができた。私はためしに近くにあったこぶしほどの大きさの石を中に落としてみたが、どれだけ待っても何の音もしなかった。まるでそのままブラジルだかアルゼンチンだかにつき抜けてしまったようなかんじだった。足を踏みはずしてそんな穴に落ちてしまうことを想像しただけで胃がしめつけられるような気分になった。
道は左右に|蛇《へび》のように曲りくねり、いくつもの枝道にわかれながら、下方へ下方へと向っていた。急な坂こそないが、道は一貫して下りだった。まるで一歩一歩地表の明るい世界が私の背中からはぎとられていくような思いだった。
途中で一度だけ我々は抱きあった。彼女は突然立ちどまり、うしろを振り向き、ライトを消して私の体に両腕をまわした。そして私の|唇《くちびる》を指先でさがし求め、そこに唇をかさねた。私も彼女の体に腕をまわし、そっと抱き寄せた。まっ暗闇の中で抱きあうというのは奇妙なものだった。たしかスタンダールが暗闇の中で抱きあうことについて何かを書いていたはずだ、と私は思った。本のタイトルは忘れてしまった。私はそれを思いだそうとしたが、どうしても思いだせなかった。スタンダールは暗闇の中で女を抱きしめたことがあるのだろうか? もし生きてここを出ることができたなら、そしてまだ世界が終っていなかったとしたら、そのスタンダールの本を探してみようと私は思った。
彼女の首筋からはメロンのオーデコロンの|匂《にお》いはもう消えていた。そのかわりに十七歳の女の子の首筋の匂いがした。首筋の下からは私自身の匂いがした。米軍ジャケットにしみついた私の生活の|臭《にお》いだ。私の作った料理や私のこぼしたコーヒーや私のかいた汗の臭いだ。そういうものがそこにしみついたまま定着してしまったのだ。地底の暗闇の中で十七歳の少女と抱きあっていると、そんな生活はもう二度と|戻《もど》ることのない幻のように感じられた。それがかつて存在したことを思いだすことはできる。しかし私がそこに帰りつく情景を頭に思い浮かべることができないのだ。
私は長い時間じっと抱きあっていた。時間はどんどん過ぎ去っていったが、そんなことはたいした問題ではないように私には感じられた。我々は抱きあうことによって互いの恐怖をわかちあっているのだ。そして今はそれがいちばん重要なことなのだ。
やがて彼女の乳房が私の胸にしっかりと押しつけられて、彼女の唇が開き、柔かな舌があたたかい息とともに私の口の中にもぐりこんできた。彼女の舌先が私の舌のまわりを|舐《な》め、指先が私の髪の中を探った。しかし十秒かそこらでそれは終り、彼女は突然私の体を離れた。私はまるで一人宇宙空間にとり残された宇宙飛行士のように、底のない絶望感に襲われた。
私がライトをつけると、彼女はそこに立っていた。彼女も自分のライトをつけた。
「行きましょう」と彼女は言った。そしてくるりとうしろを向いて、前と同じ調子で歩きはじめた。私の唇にはまだ彼女の唇の感触が残っていた。私の胸はまだ彼女の心臓の鼓動を感じることができた。
「私の、なかなか良かったでしょ?」と娘はふりかえらずに言った。
「なかなかね」と私は言った。
「でも何かが足りないのね?」
「そうだね」と私は言った。「何かが足りない」
「何が足りないのかしら?」
「わからない」と私は言った。
それから五分ばかり|平《へい》|坦《たん》な道を下ったところで、我々は広いがらんとした場所に出た。空気の臭いがかわり、足音の響き方がかわった。手を|叩《たた》くと、まん中がふくらんだようないびつな反響がかえってきた。
彼女が地図を出して位置を確認しているあいだ、私はライトでまわりをずっと照らしてみた。天井はちょうどドーム型になっており、部屋もそれにあわせたような円形だった。あきらかに人為的に手を加えられたなめらかな円形である。壁はつるつるとしていて、くぼみもでっぱりもない。地面の中心に直径一メートルばかりの底の浅い穴があって、穴の中にはわけのわからないぬるぬるとしたものがたまっていた。きわだった臭いというほどのものはないが、口の中に酸味があふれてくるような|嫌《いや》な感触が空気の中に漂っていた。
「ここが聖域の入口らしいわ」と娘は言った。「これで一応はたすかったようね。やみくろたちはその先には入りこめないもの」
「やみくろが入りこめないのはいいけど、我々が抜けだすことはできるのかな?」
「それは祖父にまかせればいいわ。祖父ならきっとなんとかしてくれるもの。それにふたつの発信機をくみあわせれば、やみくろをずっとよせつけないようにできるでしょ? つまりひとつの発信機を動かしているあいだ、もう一方のを充電させておくの。そうすればもう怖いものはないわ。時間のことを心配する必要もなくなるし」
「なるほど」と私は言った。
「少しは勇気が|湧《わ》いてきた?」
「少しね」と私は言った。
聖域に入る入口の両わきには、精密なレリーフが施されていた。巨大な魚が二匹で互いの口と|尻《しっ》|尾《ぽ》をつなぎあわせて円球を囲んでいる|図《ず》|柄《がら》だった。それは見るからに不可思議な魚だった。頭はまるで爆撃機の前部風防のようにぽっかりとふくれあがり、目はなく、そのかわりに二本の長く太い触角が植物のつるのようにねじまがりながらそこから突き出ていた。口は体に対して不つりあいなほど大きく、まっすぐに|鰓《えら》の近くにまで切れこんでいて、そのすぐ下にはつけね近くで切断された動物の腕のようなずんぐりとした器官がとびだしていた。最初のうちそれは吸盤のような働きをする器官かと思えたが、よく見るとその先には鋭利な三本の|爪《つめ》が認められた。爪のついた魚なんて目にしたのははじめてだった。背びれはいびつな形をして、うろこはとげ[#「とげ」に丸傍点]のように体から浮きあがっている。
「これは伝説上の生きものかな? それとも実際に存在しているものなのだろうか?」と私は娘に訊ねてみた。
「さあ、どうかしら」と娘は言ってかがみこみ、地面からまたペーパー・クリップをいくつか拾いあげた。「いずれにせよ、私たちはどうやら道を間違えずにすんだようね。さ、早く中に入りましょう」
私はライトでもう一度魚のレリーフを照らしてから彼女のあとを追った。やみくろたちがこんな|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇の中であれほど|精《せい》|緻《ち》なレリーフを彫ることができたということは、私にとってちょっとしたショックだった。たとえ彼らが暗闇の中で物を見ることができるということが頭の中でわかっていても、実際に目にしたときの驚きがそれで減じられるわけではないのだ。そして今、この瞬間にも彼らは暗闇の奥から我々の姿をじっと|見《み》|据《す》えているかもしれないのだ。
聖域に入ると道はなだらかな上り坂に転じ、それにつれて天井もどんどん高くなり、やがてはライトを向けても天井を認めることはできないようになってしまった。
「これから山に入るわ」と娘は言った。「登山には慣れてる?」
「昔は週に一度は山にのぼってたよ。暗闇の中でのぼったことはないけれどね」
「たいした山じゃないみたいね」と彼女は地図を胸のポケットにつっこんで言った。「山というほどの山じゃないわ。丘っていってもいいくらいよ。でも彼らにとってはこれが山なんだって、祖父は言ってたわ。地底の|唯《ゆい》|一《いつ》の山。聖なる山なの」
「じゃあ我々は今まさにそれを|汚《けが》そうとしているわけだ」
「いいえ、逆よ。山はそもそもの最初から汚れているの。すべての汚れはここに集約されているのよ。この世界はいわば、|地《ち》|殻《かく》に封じこめられたパンドラの|匣《はこ》なのよ。そして私たちはこれからその中心を通り抜けようとしているわけ」
「まるで地獄みたいだな」
「ええ、そうね。たしかにここは地獄に似ているかもしれない。そしてここの大気は下水や様々な|洞《どう》|窟《くつ》やボーリングの穴をとおして地表にも吹きだしているの。やみくろは地表に上ることはできないけれど、空気は上ることができるの。そして人々の肺の中に入りこむこともね」
「そんな中に入りこんで、|僕《ぼく》らが生きのびることはできるのかな?」
「信じるのよ。さっきも言ったでしょ? 信じていれば怖いことなんて何もないのよ。楽しい思い出や、人を愛したことや、泣いたことや、子供の頃のことや、将来の計画や、好きな音楽や、そんな何でもいいわ。そういうことを考えつづけていれば、怖がることはないのよ」
「ベン・ジョンソンのことを考えていいかな?」と私は訊ねてみた。
「ベン・ジョンソン?」
「ジョン・フォードの古い映画に出てくる乗馬のうまい俳優さ。すごくきれいに馬に乗るんだ」
彼女は|暗《くら》|闇《やみ》の中で楽しそうにくすくす笑った。「あなたって素敵ね。あなたのことすごく好きよ」
「年が違いすぎる」と私は言った。「それに楽器ひとつできない」
「ここを出られたら、あなたに乗馬を教えてあげるわ」
「ありがとう」と私は言った。「ところで君は何について考える?」
「あなたとのキスのこと」と彼女は言った。「そのためにあなたとさっきキスしたのよ。知らなかった?」
「知らなかった」
「祖父がここで何を考えていたか知ってる?」
「知らない」
「祖父は何も考えないのよ。彼は頭をからっぽにすることができるの。天才というのはそういうものなの。頭をからっぽにしていれば、邪悪な空気はそこに入ってくることはできないのよ」
「なるほど」と私は言った。
彼女が言ったように進むにつれて道はだんだん険しくなり、ついには両手を使ってよじのぼらなくてはならない切りたった|崖《がけ》になった。そのあいだ私はずっとベン・ジョンソンのことを考えていた。馬に乗ったベン・ジョンソンの姿だ。『アパッチ|砦《とりで》』や『黄色いリボン』や『|幌《ほろ》|馬《ば》|車《しゃ》』や『リオ・グランデの砦』に出てくるベン・ジョンソンの乗馬シーンを私はできる限り頭の中に思い浮かべた。荒野には太陽が照りつけ、空には|刷《は》|毛《け》で引いたような純白の雲が浮かんでいた。バッファローが谷間に群れ、女たちは白いエプロンで手を|拭《ぬぐ》いながら戸口にその姿を見せていた。川が流れ、風が光を揺らせ、人々は|唄《うた》を唄った。そしてベン・ジョンソンはそんな風景の中を矢のように駆け抜けていた。カメラはレールの上をどこまでも移動しながら、彼の雄姿をフレームの中に収めつづけていた。
私は岩をつかみ足場をさぐりながら、ベン・ジョンソンと彼の馬のことを考えつづけていた。そのせいかどうかはわからないが、腹の傷の痛みは|嘘《うそ》のように収まってきて、自分が傷を受けているという意識にわずらわされることなく歩けるようになった。そう考えてみると、意識にある特定の信号をインプットすれば肉体の痛みは緩和されるという彼女の説もあながち誇張とは言えないのかもしれない、と私は思った。
登山という観点からすれば、それは決して困難なロック・クライミングではなかった。足場はたしかだし、切りたった絶壁もないし、手をのばせば手ごろな岩のくぼみをみつけることもできた。地上の基準からすれば初心者向け、それも日曜日の朝に小学生が一人でのぼっても危険のない程度の簡単なルートだった。しかしそれが地底の暗黒の中となると、話は変ってくる。まず第一に、言うまでもないことだが、何も見えない。この先に何があるのか、あとどれだけ上ればいいのか、今自分がどのような位置にいるのか、足もとから下がどんな具合になっているのか、自分が正しいルートを進んでいるのかどうか——それがわからないのだ。視力を失うということがこれほどの恐怖をもたらすということを、私は知らなかった。それはある場合には価値基準とか、あるいはそれに付属して存在する自尊心や勇気のようなものまでをも奪いとってしまうのだ。人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを|把《は》|握《あく》するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。私が現在置かれている立場がまさにそれだった。技術的な難易というのはそれほどの問題ではない。問題はどこまで自己をコントロールできるかということなのだ。
我々は暗黒の山を上りつづけた。懐中電灯を手に持って崖をよじのぼることはできなかったので、私はズボンのポケットに懐中電灯をつっこみ、彼女もストラップをたすきのようにかけて、ライトを背中にまわしていた。おかげで我々は何ひとつ目にすることができなかった。彼女の腰の上で揺れるライトが、|空《むな》しく暗黒の宙を照らし出すだけだった。私はその揺れる灯を目標にして黙々と崖を上りつづけた。
私が遅れていないことを確認するために、彼女はときどき私に声をかけた。「大丈夫?」とか「もう少しよ」とか、そういったようなことだ。
「唄を唄わない?」としばらくしてから彼女が言った。
「どんな唄?」と私は|訊《たず》ねた。
「なんでもいいわよ。メロディーがあって歌詞がついてればいいの。何か唄って」
「人前では唄わないんだ」
「唄いなさいよ。いいから」
しかたなく私は『ペチカ』を唄った。
[#ここから2字下げ]
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔々よ
燃えろよペチカ
[#ここで字下げ終わり]
そのあとの歌詞は知らなかったので、私は適当な歌詞を自分で作って唄った。みんなでペチカにあたっていると|誰《だれ》かがドアをノックするのでお父さんが出てみると、そこに傷ついたとなかいが立っていて「おなかが減っているんです。何か食べさせて下さい」というのだ。それで桃の|缶《かん》|詰《づめ》をあけて食べさせてやる、といった内容だった。最後はみんなでペチカの前に座って唄を唄うのだ。
「なかなかうまいじゃない」と彼女がほめてくれた。「拍手できなくて悪いけど、すごく良い唄ね」
「ありがとう」と私は言った。
「もう一曲唄って」と娘が催促した。
それで私は『ホワイト・クリスマス』を唄った。
[#ここから2字下げ]
夢みるはホワイト・クリスマス
白き雪景色
やさしき心と
古い夢が
君にあげる
僕の贈りもの
夢みるはホワイト・クリスマス
今も目を閉じれば
|橇《そり》の鈴の音や
雪の輝きが
僕の胸によみがえる
[#ここで字下げ終わり]
「とてもいいわ」と彼女が言った。「その歌詞はあなたが作ったの?」
「でまかせで唄っただけさ」
「どうして冬や雪の唄ばかり唄うの?」
「さあね。どうしてかな? 暗くて冷たいからだろう。そういう唄しか思いつかないんだ」と私は岩のくぼみからくぼみへと体をひっぱりあげながら言った。「今度は君が唄う番だよ」
「『自転車の唄』でいいかしら?」
「どうぞ」と私は言った。
[#ここから2字下げ]
四月の朝に
私は自転車にのって
知らない道を
森へと向った
買ったばかりの自転車
色はピンク
ハンドルもサドルも
みんなピンク
ブレーキのゴムさえ
やはりピンク
[#ここで字下げ終わり]
「なんだか君自身の唄みたいだな」と私は言った。
「そうよ、もちろん。私自身の唄よ」と彼女は言った。「気に入った?」
「気に入ったね」
「つづき聴きたい?」
「もちろんさ」
[#ここから2字下げ]
四月の朝に
似合うのはピンク
それ以外の色は
まるでだめ
買ったばかりの自転車
|靴《くつ》もピンク
帽子もセーターも
みんなピンク
ズボンも下着も
やはりピンク
[#ここで字下げ終わり]
「ピンクに対する君の気持はよくわかったから、話を先に進めてくれないかな」と私は言った。
「これは必要な部分なのよ」と娘は言った。「ねえ、ピンク色のサングラスってあると思う?」
「エルトン・ジョンがいつかかけていたような気がするな」
「ふうん」と彼女は言った。「まあいいや。つづき唄うわね」
[#ここから2字下げ]
道で私は
おじさんに会った
おじさんの服は
みんなブルー
|髭《ひげ》を|剃《そ》り忘れてるみたい
その髭もブルー
まるで長い夜みたいな
深いブルー
長い長い夜は
いつもブルー
[#ここで字下げ終わり]
「それは僕のことかな?」と私は|訊《き》いてみた。
「いいえ、違うわ。あなたのことじゃない。この唄にあなたは出てこないの」
[#ここから2字下げ]
森に行くのは
よしたがいいよ、あんた
とおじさんは言う
森のきまりは
獣たちのためのもの
それがたとえ
四月の朝であったとしても
水は逆に
流れたりはしないものだ
四月の朝にも
それでも私は
自転車で森へ向う
ピンクの自転車の上で
四月の晴れた朝に
こわいものなんて何もない
色はピンク
自転車から降りなければ
こわくない
赤でもブルーでも茶でもない
まっとうなピンク
[#ここで字下げ終わり]
彼女が『自転車の唄』を唄い終えた少しあとで、我々はどうやら|崖《がけ》をのぼりきったらしく、広々とした台地のようなところに出た。我々はそこで一息ついてから、ライトでまわりを照らしてみた。台地はかなり広いらしく、テーブルのようなつるりとした平面がどこまでもつづいていた。彼女は台地ののぼりぐちのところにしばらくしゃがみこんでいたが、そこでまた半ダースほどのペーパー・クリップを見つけた。
「君のおじいさんはいったいどこまで行ったんだい?」と私は訊いた。
「もうすぐよ。この近く。この台地のことは祖父から何度も話を聞いているからだいたい見当がつくの」
「君のおじいさんはすると以前にも何度もここに来ているわけ?」
「もちろんよ。祖父は地底の地図を作成するために、このあたりは|隅《すみ》から隅までまわったの。ここのことなら何でも知ってるわよ。枝穴の行く先から秘密の抜け道から、何から何までね」
「一人で歩きまわったの?」
「ええ、そうよ。もちろん」と娘は言った。「祖父は一人で行動するのが好きなの。もともとは|人《ひと》|嫌《ぎら》いとか他人を信用しないとかいうんじゃなくて、ただ他の人が祖父についてくることができないからなんだけれど」
「わかるような気はするね」と私は同意した。「ところでこの台地はいったい何なんだろう?」
「この山にはかつてやみくろたちの祖先が住んでいたの。|山《やま》|肌《はだ》に穴を掘って、みんなでその中に住んでいたわけ。今私たちが立っているこの平らな場所は、彼らが宗教的な儀式を行なっていたところなの。彼らにとっての神が宿る場所よ。ここに祭司だかまじない師だかが立って、暗黒の神を呼び、いけにえを|捧《ささ》げたのね」
「神というのはつまり、あの気味のわるい|爪《つめ》のはえた魚のことだね?」
「そうよ。彼らはあの魚がこの暗黒の地をつかさどっていると信じているの。この地の生態系や様々なもののありようや理念や価値体系や、生や死や、そういうものをね。その昔、彼らのいちばん最初の祖先が、あの魚に導かれてこの地にやってきたというのが彼らの伝説」彼女はライトを足もとに向け、地面に掘られた深さ十センチ、幅一メートルほどの|溝《みぞ》のようなものを私に示した。その溝は台地の上りぐちから一直線に|闇《やみ》の奥へと向っていた。「この道をずっと|辿《たど》っていくと、昔の祭壇に行きつくはずよ。そして祖父はたぶんそこに隠れていると思うの。なぜならこの聖域の中でも祭壇はもっとも神聖なもので、たとえ誰であろうとそこに近づくことができないから、そこに隠れている限り絶対に捕まる心配はないの」
我々はその溝のようなまっすぐな道を前に進んだ。道はやがて下り坂になり、それにつれて|両脇《りょうわき》の壁はどんどん高くなっていった。まるで今にも両方の壁がせり寄ってきて我々の体をはさみこみ、ぺしゃんこに|潰《つぶ》してしまうんじゃないかという気がしたが、あたりはあいかわらず井戸の底のようにしんとしていて、物の動く気配はなかった。私と彼女のゴム底靴が地面を踏む音だけが壁と壁のすきまに奇妙なリズムを響かせていた。私は歩きながら、無意識に何度も空を見上げた。人は|暗《くら》|闇《やみ》の中にいると、ごく自然に星や月の光を捜し求めてしまうものなのだ。
しかしもちろん私の頭上には月も星もなかった。暗黒が幾重もの層をなして、私の体にのしかかっているだけだった。風もなく、空気はどんよりとして同じ場所にとどまっていた。私をとりまく何もかもが以前よりずっと重く感じられるようになった。私自身の存在さえ重みを増しているような気がした。吐く息や靴音の響きや手の上げ下げまでもが、|泥《どろ》のように重く地表に引き寄せられているようだった。地底深くにもぐっているというよりは、宇宙のどこかのよくわけのわからない天体におり立ったみたいだ。引力や空気の密度や時間の感覚が、私の記憶しているものとは何から何までまるっきり異っているのだ。
私は左手を上にあげてディジタル時計のライトをつけ、時刻をたしかめた。二時十一分だった。地底におりたのがちょうど真夜中だから、まだ二時間と少し暗闇の中にいたにすぎないのだが、私としてはもう人生の四分の一を暗黒のうちに過してしまったような気分だった。ディジタル時計のささやかな光でさえ、それを長く見ていると目の奥がちくちくと痛んだ。おそらく私の目は少しずつ暗闇に同化しつつあるのだろう。懐中電灯の光も、同じように私の目を|射《さ》した。長いあいだ暗闇の中にいると、暗闇というものが本来あるべき正常な状態であって、光の方が不自然な異物のように感じられてくるものなのだ。
我々は口を閉ざしたまま、その深く狭い溝のような通路を下へ下へと歩きつづけた。道は|平《へい》|坦《たん》な一本道で頭を天井にぶっつける心配もなかったので、私は懐中電灯のスウィッチを切り、彼女のゴム底靴の響きをたよりに前に歩きつづけた。歩きつづけているうちに、自分が目を開けているのか閉じているのかがだんだん不確かになってきた。目を開けているときの暗闇と目を閉じたときの暗闇が、まったく同じなのだ。私はためしに目を開けたり閉じたりしながら歩いてみたが、最後にはどちらがどちらなのか、正確に判断することができなくなってしまった。人間のあるひとつの行為と、それとは逆の立場にある行為とのあいだには、本来ある種の有効的な差異が存在するのであり、その差異がなくなってしまえば、その行為Aと行為Bを隔てる壁も自動的に消滅してしまうのだ。
私が今感じることができるのは、私の耳に響く彼女の靴音だけだった。彼女の靴音は地形とか空気とか暗闇とかのせいで、とてもいびつな響きかたをしていた。私は頭の中でその響きぐあいをなんとか音声化してみようとしたが、それにはどんな音声もうまくあてはまりそうになかった。まるでアフリカか中近東の、私の知らない言語のような響きだった。日本語の音声の範囲内ではどうしてもうまくそれを規定することはできないのだ。フランス語かドイツ語か英語でなら、なんとかその響きに近づけるかもしれない。私はとりあえず英語でためしてみることにした。
まず最初それは、
Even-through-be-shopped-degreed-well
と聞こえたような気がしたが、実際に口にしてみると、それは靴音の響きとはまるで違っていることがわかった。より正確に表現すると、
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
という風になった。
まるでフィンランド語みたいだったが、残念ながら、フィンランド語について私は何ひとつ知らなかった。ことば自体の印象からすると「農夫は道で年老いた悪魔に出会った」といったような感じがするが、それはあくまで印象にすぎない。根拠のようなものは何もない。
私はいろんなことばや文章をその靴音にあてはめながら歩きつづけた。そして頭の中で彼女のピンク色のナイキ・シューズが平坦な路面を交互にふみつけていく様を思い浮かべた。右のかかとが地面に下り、重心がつま先に移行し、それが地面を離れる前に左のかかとが着地する。それが際限なくつづいた。時間の流れ方はどんどん遅くなっていった。まるで時計のねじが切れて、それで針がなかなか前に進まないような感じだった。ピンク色のジョギング・シューズがぼんやりとした私の頭の中でゆっくりと前に行ったりうしろに行ったりした。
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
〔Efgve'n-gthouv-bge……〕
と靴音は響いていた。
フィンランドの田舎道の石の上に年老いた悪魔が腰を下ろしていた。悪魔は一万歳だか二万歳だかで、見るからに疲れきっていて、服も靴もほこりだらけだった。|髭《ひげ》さえもがすりきれていた。「そんなに急いで、お前どこに行くんだ?」と悪魔は農夫に声をかけた。「|鍬《くわ》の刃がかけたんでなおしにいくんだ」と農夫は答えた。「急ぐことないさ」と悪魔は言った。「まだ日はじゅうぶん高いし、そんなにあくせくすることないじゃないか。ちょっとそこに座って、|俺《おれ》の話聞いてくれよ」農夫は用心深く悪魔の顔を見た。悪魔なんかとかかわりあうとロクなことがないということは農夫にもよくわかっていたが、悪魔はひどく見すぼらしくて疲れ果てているように見えた。そこで農夫は、
——何かが私の|頬《ほお》を打った。やわらかくて|扁《へん》|平《ぺい》なものだ。やわらかくて扁平で、それほど大きくなくて、なつかしいものだ。何だっけ? 私が考えをとりまとめているあいだに、それはもう一度私の頬を打った。私は右手をあげてその何かを振り払おうとしたが、うまくいかなかった。再び私の頬が打たれた。私の顔の前で、何かギラギラと光る不快なものが振られていた。私は目を開けた。目を開けるまで、私は自分が目を閉じていたのに気づかなかった。私は目を閉じていたのだ。私の目の前にあるのは彼女の大型のフラッシュ・ライトで、私の頬を打っているのは彼女の手だった。
「よせよ」と私はどなった。「すごくまぶしいし、痛い」
「何を|馬《ば》|鹿《か》言ってんのよ! こんなところで寝ちゃって、どうなると思うの! しっかり立ちなさい!」と娘が言った。
「立つ?」
私は懐中電灯のスウィッチをつけて、まわりを見まわしてみた。自分では気がつかなかったのだけれど、私は地面に腰を下ろして壁にもたれかかっていた。たぶん知らず知らずのうちに眠りこんでいたのだ。地面も壁も水に|濡《ぬ》れたようにぐっしょりと湿っていた。
私はゆっくりと腰をあげ、立ちあがった。
「よくわからないな。いつの間に眠りこんじゃったんだろう? 腰を下ろした覚えもないし、眠ろうとした覚えもないんだ」
「奴ら[#「奴ら」に丸傍点]がそういう風に仕向けているのよ」と娘は言った。「私たちをこのままここで眠りこませようとね」
「奴ら[#「奴ら」に丸傍点]?」
「この山に住むものよ。神だか|悪霊《あくりょう》だかなんだか知らないけれど、とにかくそういう存在。私たちの邪魔をしようとしているのよ」
私は首を振って、頭の中に残っているしこりのようなものをふるい落とした。
「頭がぼんやりとして、目を開けているのか閉じているのかがだんだんわからなくなってきたんだ。それに君の|靴《くつ》が妙な響き方をしたものだから……」
「私の靴?」
私は彼女の靴の響きの中から、どんな具合に年老いた悪魔が登場してきたかを話した。
「それはまやかしよ」と娘は言った。「催眠術のようなものね。私がもし気づかなかったら、あなたはきっとここで手遅れになるまで眠りこんでいたわね」
「手遅れ?」
「ええ、そうよ。手遅れ」と彼女は言ったが、それがどのような種類の手遅れなのかは教えてくれなかった。「たしかあなたナップザックにロープを入れてたわね?」
「うん、五メートルほどのロープだけどね」
「出して」
私はナップザックを背中からおろし、その中に手をつっこんで|缶《かん》|詰《づめ》やウィスキーの|瓶《びん》や水筒のあいだからナイロンのロープをひっぱりだして娘にわたした。娘は私のベルトにロープの端を結びつけ、もう片方の端を自分の腰に巻きつけた。そしてロープをたぐり寄せて、お互いの体をひっぱってみた。
「これで大丈夫」と娘は言った。「こうしておけばはぐれっこないわ」
「両方が眠りこまなければね」と私は言った。「君もあまり眠っていないんだろう?」
「問題はつけこまれないことよ。もしあなたが睡眠不足だということで自分に同情しはじめたら、悪い力はそこからつけこんでくるのよ。わかる?」
「わかるよ」
「わかったら行きましょう。ぐずぐずしてる時間はないわよ」
我々は互いの体をナイロンのロープでつなぎあわせたまま前進した。私はなるべく彼女の靴音に注意を向けないように努力した。そして懐中電灯の光を娘の背中にあて、オリーヴ・グリーンの米軍ジャケットを見つめながら歩いた。私がそのジャケットを買ったのはたしか一九七一年のことだった。まだヴェトナムで戦争がつづいていて、あの不吉な顔をしたリチャード・ニクソンが大統領をやっていた|頃《ころ》のことだ。その当時は|誰《だれ》も彼もが髪を長くのばして、汚ない靴をはき、サイケデリックなロックを聴き、背中にピース・マークをつけた米軍払い下げの戦闘ジャケットを着て、ピーター・フォンダのような気分になっていた。|恐竜《きょうりゅう》が出てきそうなほど大昔の話だ。
私はその当時に起ったことをいくつか思いだしてみようとしたが、ひとつも思いだせなかった。それで仕方なくピーター・フォンダがバイクを走らせている場面を頭の中に思い浮かべてみた。それからその場面にステッペンウルフの『ボーン・トゥー・ビー・ワイルド』をかさねてみた。しかし『ボーン・トゥー・ビー・ワイルド』はいつのまにかマービン・ゲイの『悲しいうわさ』に変ってしまっていた。たぶんイントロダクションが似ているせいだ。
「何を考えてるの?」と前の方から太った娘が声をかけた。
「べつに何も」と私は言った。
「|唄《うた》でも唄う?」
「唄はもういいよ」
「じゃあ、何か考えなさい」
「話をしよう」
「どんな話?」
「雨ふりの話はどう?」
「それでいいわ」
「君はどんな雨ふりを覚えてる?」
「父と母と兄弟が死んだ日の夕方雨が降ったわ」
「もっと明るい話をしよう」と私は言った。
「いいのよ。私は話したいんだから」と娘は言った。「それに、あなたの|他《ほか》にそんな話をできる相手もいないしね。……もしあなたが聞きたくないんなら、もちろんやめるけれど」
「話したいのなら話せばいいさ」と私は言った。
「降っているのかいないのか、よくわからないような雨だったわ。朝からずっとそんな天気がつづいていたの。空がぼんやりとしたグレーに|覆《おお》われたままぴくりとも動かないの。私は病院のベッドに寝たまま、ずっとそんな空を見あげていたわ。十一月のはじめで、窓の外にはくすの木がはえていた。大きなくすの木。葉はもう半分くらい落ちていて、その枝のあいだから空が見えるの。木を|眺《なが》めるの好き?」
「さあどうかな」と私は言った。「べつに嫌いなわけじゃないけど、あまり注意深く眺めたことはないね」
正直に言って、私にはしい[#「しい」に丸傍点]の木とくす[#「くす」に丸傍点]の木の違いもわからないのだ。
「私は木を眺めるの大好きよ。昔からずっと好きだったし、今でもそう。暇があると木の下に座って、幹にさわったり枝を見あげたりしながら、何時間もぼんやりしているの。そのとき私が入院していた病院の庭にあったのも、ずいぶん立派なくすの木だったわ。私はベッドに横になって、なんにもしないで一日じゅうそのくすの木の枝と空を見てたの。最後にはその枝の一本一本をぜんぶ覚えちゃったくらい。ほら、ちょうど鉄道マニアが路線の名前とか駅なんかをぜんぶ覚えちゃうみたいにね。
それから、そのくすの木にはよく鳥がやってきたわ。いろんな種類の鳥。|雀《すずめ》とか、もずとか、むくどりとかね。あとは名前をしらないきれいな色の鳥。ときどきは|鳩《はと》もやってきたわ。そんな鳥がやってきて、しばらく枝の上で休んで、またどこかに飛び立っていくの。鳥たちは雨ふりに対してとても敏感なの。知ってた?」
「知らない」と私は言った。
「雨が降っていたり、雨が降りそうだったりすると、鳥たちはぜったい木の枝には姿を見せないの。でも雨が降りやむとすぐにやってきて、大きな声で鳴くのね。まるで雨があがったことをみんなで祝福しあうみたいに。どうしてだかはわからないわ。雨があがると虫が地面に出てくるせいかもしれない。それとも単に鳥たちは雨あがりが好きなだけかもしれない。でもそれで、私は天気の具合を知ることができたの。鳥の姿が見えなければ雨だし、鳥がやってきて鳴けば雨はあがったのよ」
「長く入院していたの?」
「ええ、一カ月かそこら。私は昔、心臓の弁に問題があって、それを手術でなおさなくちゃならなかったの。とてもむずかしい手術だっていうことで、家族のみんなは私のことを半ばあきらめていたくらいなの。でも不思議ね。結局私だけが生き残って健康そのもので、他の人はみんな死んじゃったわ」
そのまま彼女は黙って歩きつづけた。私も彼女の心臓やくすの木や鳥のことを考えながら歩いた。
「みんなが死んだその日は、鳥たちにとってもひどく忙しい一日だったの。なにしろ降っているのかいないのかわからないような雨が降ったりやんだりしつづけていたわけだから、鳥たちもそれにあわせて出たりひっこんだりを繰りかえしていたの。とても寒い、冬のさきぶれのような一日で、病室には暖房が入っていたから、窓ガラスはすぐに曇ってしまって、私は何度もそれを|拭《ふ》かなくちゃならなかったわ。ベッドから起きあがって、タオルで窓を拭いて、また|戻《もど》ってくるの。ほんとうはベッドを離れちゃいけなかったんだけど、私は木や鳥や空や雨を見ていたかったの。長く病院に入っていると、そういうものが命そのもののように見えてくるのね。病院に入院したことある?」
「ない」と私は言った。私はだいたいにおいて春の|熊《くま》のように健康なのだ。
「羽が赤くて頭の黒い鳥がいたわ。いつもつがいで行動しているの。それに比べるとむくどりはまるで銀行員みたいに地味な格好をしているの。でもみんな、雨がやむと同じように木の枝にやってきて鳴いたわ。
そのとき私はこう思ったの。世界って、なんて不思議なものだろうってね。世界には何百億、何千億っていう数のくすの木がはえていて——もちろんくすの木である必要はないんだけど——そこに日が照ったり雨が降ったりして、それにつれて何百億、何千億という数のいろんな鳥がそこにとまったりそこから飛び立ったりしているのね。そういう光景を想像していると、私はなんだかとても悲しいような気持になったわ」
「どうして?」
「たぶん世界が数えきれないほどの木と数えきれないほどの鳥と数えきれないほどの雨ふりに|充《み》ちているからよ。それなのに私にはたった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ理解することができないような気がしたの。永遠にね。たった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ理解できないまま、年をとって死んでいくんじゃないかってね。そう思うと、私はどうしようもなく|淋《さび》しくなって、一人で泣いたの。泣きながら、誰かにしっかりと抱きしめてほしいと思ったの。でも抱きしめてくれる人なんて誰もいなかった。それで私はひとりぼっちで、ベッドの上でずっと泣いていたの。
そのうちに日が暮れて、あたりが暗くなり、鳥たちの姿も見えなくなってしまったわ。だから私には雨が降っているのかどうか、たしかめることもできなくなってしまったの。その夕方に私の家族はみんな死んでしまったわ。私がそれを知らされたのはずっとあとのことだったけれどね」
「知らされたときは|辛《つら》かったろうね」
「よく覚えてないわ。そのときは何も感じなかったんじゃないかっていう気がするの。覚えているのは、私がその秋の雨ふりの夕暮に誰にも抱きしめてもらえなかったということだけ。それはまるで——私にとっての世界の終りのようなものだったのよ。暗くてつらくてさびしくてたまらなく誰かに抱きしめてほしいときに、まわりに誰も自分を抱きしめてくれる人がいないというのがどういうことなのか、あなたにはわかる?」
「わかると思う」と私は言った。
「あなたは愛する人をなくしたことがある?」
「何度かね」
「それで今はひとりぼっちなのね?」
「そうでもないさ」とベルトに結んだナイロンのロープを指でしごきながら私は言った。「この世界では誰もひとりぼっちになることなんてできない。みんなどこかで少しずつつながってるんだ。雨も降るし、鳥も鳴く。腹も切られるし、|暗《くら》|闇《やみ》の中で女の子とキスすることもある」
「でも愛というものがなければ、世界は存在しないのと同じよ」と太った娘は言った。「愛がなければ、そんな世界は窓の外をとおりすぎていく風と同じよ。手を触れることもできなければ、|匂《にお》いをかぐこともできないのよ。どれだけ沢山の女の子をお金で買っても、どれだけ沢山のゆきずりの女の子と寝ても、そんなのは本当のことじゃないわ。誰もしっかりとあなたの体を抱きしめてはくれないわ」
「そんなにしょっちゅう女の子を買ったり、ゆきずりで寝てるわけじゃないさ」と私は抗議した。
「同じことよ」と彼女は言った。
まあそうかもしれない、と私は思った。誰かが私の体をしっかりと抱きしめてくれるわけではないのだ。私も誰かの体をしっかりと抱きしめるわけではない。そんな風に私は年をとりつづけているのだ。海底の岩にはりついたなまこ[#「なまこ」に丸傍点]のように、私はひとりぼっちで年をとりつづけるのだ。
私はぼんやりと考えごとをしながら歩いていたせいで、前を行く彼女が立ち止まったのに気がつかず、そのやわらかい背中にぶつかってしまった。
「失礼」と私は言った。
「しっ!」と彼女は言って、私の腕をつかんだ。「何か音が聞こえるわ。耳を澄ませて!」
我々はじっとそこに立ったまま、暗闇の奥からやってくる響きに耳を澄ませた。その音は我々の|辿《たど》る道のずっと前方から聞こえてきた。小さな、注意しなければ気がつかないような音だ。かすかな地鳴りのようでもあり、何かどっしりとした重い金属がこすりあわされる音のようでもある。しかしそれが何であれ、音は途切れることなくつづき、時間がたつにつれてほんの少しずつその音量はあがってくるようだった。大きな虫がじわじわと背中をはいあがってくるような、不気味で冷ややかな感触のする音だった。人の耳の可聴範囲にやっと触れるほどの低い音の響きだ。
まわりの空気さえもが、その音の波にあわせて揺れはじめたようだった。どんよりとした重い風が、水に流される|泥《どろ》のように我々の体のまわりを前から後へとゆっくり移動していった。空気は水をふくんだようにじっとりとして冷たかった。そして何かが起りつつあるという予感のようなものがあたりに充ちていた。
「地震でも起るのかな」と私は言った。
「地震なんかじゃないわ」と太った娘が言った。「地震よりずっとひどいものよ」