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世界尽头与冷酷仙境22
日期:2017-02-16 19:35  点击:414
 老人の予言したとおり、煙は毎日のように立ちのぼった。その灰色の煙はりんご林のあたりからのぼって、そのまま上空のどんよりとした厚い雲の中に|呑《の》みこまれていった。それをじっと見ていると、まるでりんご林の中ですべての雲が作りだされているような錯覚に襲われた。煙が上りはじめる時刻は正確に午後の三時で、いつまでつづくかは死んだ獣の数によって変化した。激しい吹雪の翌日や冷えこんだ夜のあとには、山火事を思わせるような太い煙が何時間もつづいた。
 人々がどうして彼らを死から|免《まぬか》れさせるための方策を講じないのか、|僕《ぼく》にはそれがわからなかった。
「なぜどこかに小屋のようなものを造ってやらないのですか?」と僕はチェスのあいまに老人に|訊《たず》ねてみた。「どうして獣たちを雪や風や寒さから守ってやらないのですか? たいしたものじゃなくてもいいんです。屋根とちょっとした囲いがあるだけでずいぶん多くの命が救えますよ」
「それは|無《む》|駄《だ》というものだよ」と老人は盤面から目を離さずに言った。「もしたとえ小屋を造ってやったところで獣たちはそんなところには入らん。彼らは昔から変らず大地の上で眠るものなんだ。たとえそのために命を落とすとしても、彼らは外で眠る。雪や風や寒さを身にまとってな」
 大佐は僧正を王の正面に置いて、強固なブロックを固めた。その両わきにはふたつの|角《つの》が火線を張っていた。彼は僕が攻めこんでくるのを待っているのだ。
「獣たちはまるで進んで苦痛や死を求めているように聞こえますね」と僕は言った。
「ある意味ではたしかにそうかもしれん。しかし彼らにとっちゃそれが自然なんだ。寒さや苦しさがな。彼らにとってはあるいはそれが救済なのかもしれん」
 老人が黙りこんだので僕は|猿《さる》を壁のわきにもぐりこませた。壁の動きを誘うつもりだった。大佐はそれにのりかけたが、はっと思いなおし、かわりに騎士をひとつうしろに下げて防御範囲を針山のように縮めた。
「君もだんだんずるさを身につけてきたようだな」と老人は笑いながら言った。
「あなたにはまだまだかないませんがね」と僕も笑って言った。「しかしあなたの言う救済というのはどういう意味なんですか?」
「死によって彼らは救われておるのかもしれんということさ。獣たちはたしかに死ぬが、春になればまた生きかえるんだ。新しい子供としてな」
「そしてまたその子供たちが成長して、同じように苦しんで死んでいくのですね? どうして彼らはそんなに苦しまなくちゃならないんですか?」
「それが定めだからさ」と老人は言った。「君の番だ。私の僧正を|潰《つぶ》さん限り君に勝ち目はないぞ」
 
 雪が三日のあいだ断続的に降りつづいたあとに、うってかわったような晴天がやってきた。太陽が白く|凍《い》てついた街にひさかたぶりの日差しを注ぎ、そのあいだあたりは雪溶けの水音と|眩《まぶ》しい輝きに|充《み》ちた。樹木の枝から雪のかたまりの落下する音がいたるところに響いていた。僕は光を避けて窓のカーテンを閉ざし、じっと部屋の中にとじこもっていた。すっかり窓をおおった厚いカーテンの背後にいくら身をかくしたところで僕は光から逃れることはできなかった。凍りついた街は精巧にカットされた巨大な宝石のようにあらゆる角度に陽光を反射させ、その奇妙に|直截的《ちょくせつてき》な光を部屋に送りこんで、僕の目を射た。
 僕はそんな午後にはずっとベッドにうつぶせになって|枕《まくら》で目を|覆《おお》い、鳥の声に耳を澄ませた。様々な種類の様々な声の鳥たちが窓辺にやってきては、またべつの窓に去っていった。官舎に住む老人たちが窓辺にパン|屑《くず》をまいておくことを鳥たちはちゃんと知っているのだ。老人たちが官舎の前の日だまりに腰を下ろしておしゃべりをしている声も聞こえた。僕一人だけが暖かい太陽の恵みから遠ざけられていた。
 
 日が暮れると僕はベッドから起きあがって冷たい水ではれた目を洗い、黒い眼鏡をかけ、雪の積った丘の斜面を下って図書館にでかけた。しかし眩しい光に目を痛めた日には、僕にはいつものように多くの夢を読むことができなかった。ひとつかふたつの頭骨を処理すると、その古い夢が発する光のせいで僕の眼球はまるで針で刺されたように痛んだ。そして目の奥のぼんやりとした空間が砂でもつめられたように重くなり、それにつれて指先がいつもの微妙な感覚を失っていった。
 そんなときには彼女は|濡《ぬ》れた冷たいタオルで僕の目をもみほぐし、薄いスープかミルクをあたためて飲ませてくれた。スープもミルクも妙にざらざらとして舌ざわりが悪く、味もやわらかみに欠けたが、何度も飲んでいるうちに口が少しずつ慣れ、それなりのうまさを感じることができるようになった。
 僕がそう言うと、彼女は|嬉《うれ》しそうに|微笑《ほ ほ え》んだ。
「それはあなたがだんだんこの街に慣れてきているということなのよ」と彼女は言った。「この街の食べ物は|他《ほか》のところのものとは少し違っているの。私たちはほんの少しの種類の材料でいろんなものを作っているのよ。肉のように見えるものは肉じゃない、卵のように見えるものは卵じゃないし、コーヒーのように見えるものはコーヒーじゃないの。ぜんぶそれに似せて作ってあるだけ。そのスープは体にとても良いのよ。どう、体があたたまって少し頭の中が楽になったでしょ?」
「そうだね」と僕は言った。
 たしかに僕の体はスープのおかげであたたかみをとり|戻《もど》し、頭の重みもさっきよりはずっと楽になっていた。僕はスープの礼を言って目を閉じ、体と頭を休めた。
「あなたは今何かを求めているんじゃないかしら?」と彼女が訊ねた。
「僕が? 君の他に?」
「よくわからないけれど、ふとそういう気がしたの。その何かがあれば、冬のせいで固くなったあなたの心が少しでも開くんじゃないかってね」
「僕に必要なのは太陽の光だよ」と僕は言った。そして黒い眼鏡をとり、布でレンズを|拭《ふ》いてからもとに戻した。「でもそれは無理だ。僕の目は日の光を受けることはできないからね」
「きっともっとささやかなものよ。心をときほぐすためのほんのちょっとしたこと。私がさっき指であなたの目をマッサージしてあげたのと同じように、心をときほぐすための方法がきっと何かあるはずなのよ。思いだせない? あなたの住んでいた世界では心が固くなったときにどんなことをしていたのかしら?」
 僕はわずかに残っている記憶の断片を時間をかけてひとつずつ探ってみたが、彼女が求めているようなことは何ひとつとして思いだせなかった。
「駄目だね。何も思いだせない。僕が持っているはずの記憶の|殆《ほと》んどが失われているんだ」
「どんな小さなことでもいいのよ。思いついたら口に出してみて。二人で一緒に考えてみましょう。私は少しでもあなたの役に立ちたいのよ」
 僕は|肯《うなず》いて、もう一度意識を集中して古い世界の埋もれた記憶を掘りかえしてみようと試みた。しかしその岩盤はあまりにも硬く、いくら力をふりしぼってみても、びくとも動かすことはできなかった。頭が再び痛みはじめた。おそらく影と別れたときに僕という自己は致命的に失われてしまったのだろう。僕の中に残っているのは不確かでとりとめのない心だけなのだ。そしてその心さえもが冬の寒さによって固く閉ざされつつあるのだ。
 彼女は手のひらを僕のこめかみにあてた。
「もういいわ。考えるのはまたにしましょう。そのうちに何かふと思いだすかもしれないしね」
「最後にもうひとつだけ古い夢を読むよ」と僕は言った。
「あなたはずいぶん疲れているようだわ。つづきは明日にした方がいいんじゃないかしら? 無理することはないのよ。古い夢はいくらでも待っていてくれるもの」
「いや、古い夢を読んでいる方が何もしていないよりは楽なんだ。夢読みのあいだは少くとも何かを考えずに済むからね」
 彼女はしばらく僕の顔を見ていたが、やがて肯いてテーブルを立ち、書庫の中に消えた。僕はテーブルに|頬《ほお》|杖《づえ》をついて目を閉じ、|暗《くら》|闇《やみ》の中に身をひたした。冬はどれくらいのあいだつづくのだろうか。長くつらい冬、と老人はいった。そして冬はまだ始まったばかりなのだ。僕の影はその長い冬をもちこたえることができるのだろうか? いや、僕自身この|絡《から》みあった不安定な心を抱えたままこの冬をのりきることができるのだろうか?
 彼女は頭骨をテーブルの上に置き、いつものように湿った布でほこりを拭きとってから、乾いた布で|磨《みが》いた。僕は頬杖をついたまま彼女の指の動きをじっと|眺《なが》めていた。
「私が何かあなたにしてあげられることはあるかしら?」と彼女はふと顔を上げて言った。
「君はとてもよくしてくれているよ」と僕は言った。
 彼女は頭骨を拭いていた手を休めて|椅《い》|子《す》に座り、正面から僕の顔を見た。「私が言っているのはそういうことじゃないの。もっととくべつなこと。たとえばあなたのベッドに入るとか、そんなことね」
 僕は首を振った。「いや、君と寝たいわけじゃないんだ。そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
「どうして? あなたは私を求めているんでしょう?」
「求めているさ。でも少くとも今は君と寝るわけにはいかないんだ。それは求めるとか求めないというのとはまたべつの問題なんだ」
 彼女は少し考えこんでいたが、やがて再びゆっくりと頭骨を磨きはじめた。僕はそのあいだ首を上にあげて、高い天井とそこに|吊《つる》された黄色い電灯を見ていた。たとえどれだけ僕の心がこわばりつこうと、たとえどれだけ冬が僕をしめつけようと、今ここで彼女と寝るわけにはいかないのだ。そんなことをすれば僕の心は今よりずっと混乱してしまうし、僕の喪失感はもっと深まっていくことだろう。おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろうという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。
 彼女が磨き終えた頭骨を僕の前に置いたが、僕はそれには手を触れずに、テーブルの上にある彼女の手の指を見た。僕はその指から何かの意味を読みとろうとしてみたが、それは不可能だった。それはただの細い十本の指にすぎなかった。
「君のお母さんの話が聞きたいな」と僕は言った。
「お母さんのどんな話?」
「なんでもいいよ」
「そうね——」と彼女はテーブルの上の頭骨に手を触れながら言った。「私はお母さんに対して他の人たちに対してとはべつの気持を持っていたような気がするわ。もちろんずっと昔のことだからうまく思いだせないんだけど、なんだかそんな気がするわ。その気持は父や妹たちに対してとは違っていたんじゃないかってね。どうしてだかはわからないけれど」
「心とはそういうものなんだ。決して均等なものじゃない。川の流れと同じことさ。その地形によって流れのかたちを変える」
 彼女は微笑んだ。「そんなのって不公平みたいだけれど」
「そういうものなんだ」と僕は言った。「それに君は今でもお母さんのことが好きなんじゃないの?」
「私にはわからないわ」
 彼女は頭骨をテーブルの上でいろんな角度に変えて、それをじっと見ていた。
「質問が|漠《ばく》|然《ぜん》としすぎているのかな?」
「ええ、そうね。たぶんそうだと思うわ」
「じゃあもっとべつの話をしよう」と僕は言った。「君のお母さんはどんなものが好きだったか覚えてるかい?」
「ええ、よく覚えてるわ。太陽、散歩、夏の水遊び、それから獣の相手をするのも好きだったわ。私たちは暖かい日にはずいぶん散歩したものよ。街の人は普通散歩なんてしないものなの。あなたも散歩は好きよね」
「好きだよ」と僕は言った。「太陽も好きだし、水遊びも好きだよ。他には何か思いだせないかな?」
「そうね、母はよく家の中で独りごとを言っていたわ。それが好きなことと言えるのかどうかはしらないけれど、とにかくいつも独りごとを言っていたわ」
「どんなことについて?」
「覚えていないわ。でもそれは普通の意味での独りごとじゃないの。私にはどうもうまく説明できないんだけれど、それはたぶん母にとってはとくべつなことだったみたいね」
「とくべつ?」
「ええ、何かとても奇妙なアクセントで、言葉をのばしたり縮めたりするの。まるで風が吹いているような具合に高くなったり低くなったりして……」
 僕は彼女の手の中の頭骨を見ながら、ぼんやりとした記憶の中をもう一度まさぐってみた。今回は何かが僕の心を打った。
「|唄《うた》だ」と僕は言った。
「あなたにもそれを話すことができるの?」
「唄は話すんじゃない。唄うんだ」
「唄ってみて」と彼女は言った。
 僕は一度深呼吸をして、何かを唄ってみようとしたが、僕には一曲として唄を思いつくことができなかった。僕の体の中からは|全《すべ》ての唄が失われていた。僕は目を閉じてため息をついた。
「駄目だ。唄を思いつけない」と僕は言った。
「どうすれば思いだせるかしら?」
「レコードとプレイヤーがあればいい。いやそれはたぶん無理だろうな。楽器でもいいよ。楽器があれば音を出しているうちに何かひとつくらい唄を思いつけるかもしれない」
「楽器というのはどんな形をしたものなの?」
「楽器には何百という種類があって、ひとくちには説明できないんだ。種類によって使い方やでてくる音が変ってくる。四人がかりでやっと持ちあがるものから手のひらに載るものまで、大きさも形もみんな違う」
 そう言ってしまってから、僕は記憶の糸が自分の中でほんの少しずつではあるけれどほぐれつつあることに気がついた。あるいはものごとは良い方向に向って進みつつあるのかもしれない。
「ひょっとしてこの建物の奥の方にある資料室にそういうものがあるかもしれないわ。資料室とはいっても、今はただ古い時代のがらくたが詰めこんであるだけで、私もちらりとしか見たことはないの。どう、捜してみる?」
「見てみよう」と僕は言った。「どうせ今日はもうこれ以上夢読みをできそうにないしね」
 我々は頭骨のずらりと並んだ広い書庫を抜け、べつの廊下に出て、図書館の入口と同じ体裁のくもりガラスの入ったドアを開けた。|真鍮《しんちゅう》のノブにはうっすらとほこりが付着していたが、|鍵《かぎ》はかかっていなかった。彼女が電灯のスウィッチをひねると、黄色く粉っぽい光がその細長い部屋を照らし、床に積みあげられた様々な物体の影を白い壁の上に映しだした。
 床にあるもののおおかたはスーツケースか|鞄《かばん》だった。中にはケースに入ったタイプライターやテニス・ラケットのようなものもあったが、それは例外的な存在で、部屋のスペースの大半は大小様々の鞄によって占められていた。おおよそ百はあるだろう。そしてその鞄はどれも宿命的とでもいえそうなほどの量のほこりに覆われていた。それらの鞄がどのような経緯を経てここに|辿《たど》りついたのかはわからなかったが、ひとつひとつ開けてまわるには大変な手間がかかりそうだった。
 僕は床にかがんでためしにタイプライター・ケースのふたを開けてみた。白いほこりがまるで|雪崩《な だ れ》の雪煙のように宙に舞った。タイプライターはレジスターのように大きくてキイが丸い、古い型のものだった。長く使いこまれたらしく、ところどころ黒い塗料がはげていた。
「これは何だか知っている?」
「知らないわ」と彼女は|僕《ぼく》のわきに立って腕ぐみしながら言った。「見たことのないものね。それが楽器?」
「いや、タイプライターだ。字を印刷するものさ。とても古いもんだな」
 僕はタイプライター・ケースのふたを閉めてもとに戻し、今度はとなりにあった|籐《とう》のバスケットを開けてみた。バスケットの中にはピクニックのセットが入っていた。ナイフとフォーク、|皿《さら》とカップ、そして変色して黄ばんでしまった白いナプキンが一セット、きちんと整理されて詰められていた。これも古い時代のものだ。アルミニウムの皿やペーパー・カップが登場してからは|誰《だれ》もこんなものは持ち歩かない。
 豚皮の大きな旅行鞄の中には主に衣類が入っていた。スーツ、シャツ、ネクタイ、|靴《くつ》|下《した》、下着——おおかたのものは虫に|喰《く》い荒らされて見る影もない。服のあいだに洗面用具入れとウィスキーを入れるための平たい水筒があった。歯ブラシも|髭《ひげ》|剃《そ》りブラシも硬くこわばりつき、水筒のふたを開けても何の|臭《にお》いもしなかった。それ以外には何もない。本もノートも手帳もない。
 僕がいくつか開けてみたスーツケースや旅行鞄の中身はだいたいこれと同じようなものだった。衣類と最少限の雑貨——それはひどく急いで気まぐれに詰めこまれた旅仕度のようだった。それぞれには旅行をする人間が普通身につけているはずの何かが欠けていて、それが見るものにどことなく不自然な印象を与えるのだ。誰もが衣類と洗面用具しか持たずに旅行にでかけるわけではない。要するに、鞄の中にはその所有者の|人《ひと》|柄《がら》や生活を感じさせるようなものがひとつとして見当らないのだ。
 洋服もどちらかといえばありきたりのものばかりだった。とりたてて高級なものもなく、とくにみすぼらしいものもない。それぞれに時代や季節や男女、年齢による種類やスタイルの差こそあれ、そこにはとくに印象に残るものは見受けられなかった。臭いまでがほとんど同じだ。大抵は虫に喰われている。そしてどの服にもネームはついていなかった。まるで誰かの手でひとつひとつの荷物からそれぞれの名前や個人性が丹念にはぎとられてしまったようだった。あとに残っているのは、それぞれの時代が必然的に産出する名前のないおり[#「おり」に丸傍点]のようなものにすぎなかった。
 僕は五つか六つスーツケースや鞄を開けてみたが、あとはあきらめてやめた。ほこりがあまりにもひどすぎたし、そんな鞄のどれかに楽器が入っているとはどうしても思えなかったからだ。もし楽器がこの街のどこかにあるとしても、それはここではなくまったく違った場所であるような気がした。
「ここは出よう」と僕は言った。「ほこりがひどくて目が痛くなってくる」
「楽器がみつからなくてがっかりした?」
「そうだね。でもまたどこかべつのところを探してみるさ」と僕は言った。
 
 彼女と別れて西の丘を一人で上っていると、うしろから強い季節風がまるで僕を追いこすように吹きあげ、林の中で空を裂くような鋭い音を上げた。振りかえると半分近くまで欠けた月が、時計塔の上にぽつんと浮かび、そのまわりを厚い雲のかたまりが流れていた。月明りで見る川の水面はまるでタールでも流したように黒々としていた。
 僕はふと資料室のトランクの中でみつけたあたたかそうなマフラーのことを思いだした。虫の喰ったあとがいくつか大きな穴になって残っていたが、何重かに巻けば十分寒さはしのげそうだった。門番に|訊《き》けばいろんなことがわかるだろうと僕は思った。あの荷物の所有者が誰で、その中のものを僕が使っていいかどうかということがだ。マフラーなしで風の中に立つと、耳がナイフで切り裂かれるように痛むのだ。明日の朝門番に会いにいくことにしよう。僕の影がどうしているかも知る必要がある。
 僕は再び街に背を向け、官舎に向けて凍りついた坂道を上った。
 

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