ロープの上りは階段を使って上るのに比べれば格段に楽な作業だった。しっかりとした結びめがきちんと三十センチおきについていたし、ロープ自体もちょうど|手《て》|頃《ごろ》な太さでよく手になじんだ。私は両手でロープを握り、体をいくぶん前後に揺らせてはずみをとりながら、一歩一歩と上にのぼっていった。なんだか空中ブランコ映画のシーンみたいだった。もっとも空中ブランコで使うロープには結びめなんてついていない。結びめのついたロープを使ったりしたら観客に軽く見られてしまうからだ。
私はときどき上を向いてみたが、ライトがまっすぐにこちらに向けられていたので、|眩《まぶ》しすぎて距離感がうまくつかめなかった。たぶん彼女が心配して、私がのぼってくるのをじっと上から見ているのだろうと私は思った。腹の傷は心臓の鼓動にあわせてまだずきずきと鈍く痛んでいた。転倒したときに打った頭もあいかわらず痛かった。ロープを上るのに支障があるというほどのものではないが、それでも痛いことにかわりはない。
頂上に近づくにつれて、彼女の手にしたライトが私の体や私のまわりの風景をだんだん明るく照らしだすようになった。しかしそれはどちらかといえば余計な親切だった。私は|暗《くら》|闇《やみ》の中をのぼるのにもうすっかり慣れてしまっていたので、光で照らされると逆に調子が乱れてしまい、何度か足をすべらせてしまった。光のあたる部分と影になった部分との距離的なバランスがうまくつかめないのだ。光のあたる部分が実際以上にとびだして見え、影になった部分が実際以上にへこんで見えた。それに眩しすぎる。人間の体はどんな環境にもすぐに慣れてしまうのだ。ずっと大昔に地下に潜ったやみくろたちが暗闇にあわせて体の機能性をかえてしまったとしても何の不思議もないような気がした。
ロープの結びめを六十か七十のぼったところで、私はやっと頂上らしきものに到達することができた。私は岩のふちに両手をかけて水泳選手がプールサイドに上るような格好で上によじのぼった。長いロープの上りのせいで腕がすっかり疲れ果てているらしく、体を岩の上にのせるのにかなりの時間がかかった。まるでクロールで一キロか二キロ泳いだあとのような気分だった。彼女はベルトをつかんで私が上によじのぼるのを手伝ってくれた。
「危いところだったわね」と彼女は言った。「あと四、五分遅かったら私たち二人とも死んでいたところよ」
「やれやれ」と私は言って平らな岩の上に身を横たえ、何度か深呼吸をした。「水はどのあたりまで来たのかな?」
彼女はライトを地面に置いて、ロープを少しずつたぐり寄せた。そして結びめを三十個ぶんばかり引きあげたところで、そのロープを私に握らせた。ロープはぐっしょりと|濡《ぬ》れていた。水はかなりの高さまで上昇していたのだ。たしかに彼女が言うように、ロープに|辿《たど》りつくのがあと四、五分遅れていたら危いところだった。
「ところで君のおじいさんはみつかったのかい?」と私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、もちろんよ」と彼女は言った。「奥の祭壇の中にいるわ。でも足をくじいているの。逃げるときにくぼみに足をつっこんでしまったんですって」
「でも足をくじきながらここまで辿りつけたんだね?」
「ええ、そうよ。祖父は体が丈夫なの。私の家系はみんな体が丈夫なのよ」
「らしいね」と私は言った。私もかなり丈夫な方だと思うが、彼らにはとてもかないそうにない。
「行きましょう。祖父が中で待っているわ。あなたにいろいろと話したいことがあるんですって」
「こちらもさ」と私は言った。
私はナップザックをもう一度背負い、彼女のあとについて祭壇のある方に向った。祭壇とはいっても、ただ単に岩壁に丸い横穴があいているだけのことだ。横穴の中は広い部屋のようになっていて、壁のくぼみにガスボンベ式のランプが置かれ、黄色いぼんやりとした光が中を照らしだしていた。|不《ふ》|揃《ぞろ》いな|岩《いわ》|肌《はだ》が奇妙な形をした無数の陰影を作りだしていた。博士はそのランプのわきに毛布にくるまって座っていた。彼の顔半分は暗い影になっていた。光のせいで目がすっかり落ちくぼんでしまったように見えるが、実際は元気そのものと言ってもいいくらいだった。
「やあ、危いところだったらしいじゃないですか」と博士は|嬉《うれ》しそうに私に言った。「水が出ることは私もちゃんと知ってたんだが、もう少し早く見えると思っておったもんであまり気にかけなかったですよ」
「私、街で道に迷っちゃったのよ、おじいさま」と太った孫娘が言った。「それで丸一日近くこの人に会うのが遅れちゃったの」
「まあいい、まあいい。もうどちらでもいいです」と博士は言った。「今となっては時間がかかってもかからんでもどちらでも同じことです」
「いったい何がどう同じことなのですか?」と私は質問してみた。
「まあまあ、そういうややこしい話はあとにまわして、とりあえずそこに座んなさい。最初にその首についた|蛭《ひる》をはがしてしまいましょう。|放《ほ》っとくと跡がついちまうですよ」
私は博士から少し離れたところに腰を下ろした。孫娘が私のとなりに座ってポケットからマッチをとりだし、火をつけて、私の首筋にはりついた巨大な蛭を焼いて落とした。蛭はたっぷりと血を吸って、ワインのコルク|栓《せん》くらいの大きさに膨んでいた。マッチの炎をつけるとじゅっ[#「じゅっ」に丸傍点]という湿った音がした。地面に落ちた蛭はしばらくのあいだそこで身をくねらせていたが、彼女がジョギング・シューズの底でそれを踏み|潰《つぶ》した。皮膚には|火傷《や け ど》のあとのようなひきつった痛みが残った。首を思いきり左に曲げると皮膚が育ちすぎたトマトの皮みたいに簡単に裂けてしまいそうな気がした。こんな生活をつづけていたら一週間もたたないうちに体全体が|怪《け》|我《が》の見本帳みたいになってしまうことだろう。薬局の店頭にはってある水虫の症例写真みたいに、きれいなカラー図版にしてみんなに配るのだ。腹の切り傷、頭のこぶ[#「こぶ」に丸傍点]、蛭に吸われたあとのあざ[#「あざ」に丸傍点]——それから|勃《ぼっ》|起《き》不全というのもいれた方がいいかもしれない。その方が|凄《すご》|味《み》がある。
「何か食べるものを持っておられませんでしょうかな?」と博士が私に言った。「何しろ急いでおったもので、食糧を十分に持ち出す暇がなくて、昨日からチョコレートしか食べておらんのです」
私はナップザックをあけて|缶《かん》|詰《づめ》をいくつかとパンと水筒をとりだし、缶切りと一緒に博士にわたした。博士はまず水筒の水をうまそうに飲み、それからワインの年を調べるみたいに缶詰のひとつひとつを子細に点検した。そして桃の缶詰とコンビーフ缶を開けた。
「あなたがたもひとついかがですかな?」と博士は我々にきいた。いらない、と我々は言った。こんなところでこんなときになかなか食欲がでるものではない。
博士はパンをちぎってそこにコンビーフのかたまりをのせ、いかにもうまそうにもぐもぐと食べた。それから桃をいくつか食べ、缶に口をつけてずるずると|汁《しる》を飲んだ。そのあいだ私はウィスキーのポケット|瓶《びん》を出して、二口か三口飲んだ。ウィスキーのおかげで体のいろんな部分の痛みはいくぶん楽になった。痛みが減少するというわけではないのだが、アルコールが神経を|麻《ま》|痺《ひ》させるせいで、その痛みが私自身とは直接関係のない一種の独立した生命存在であるかのように感じられてくるのだ。
「いや、実に助かったですよ」と博士は私に言った。「いつもはここに非常用の食糧を二、三日困らんくらいのぶんは用意しておくんですが、今回はたまたま油断して補充しとらんかったのですな。我ながら情ないことです。安逸な日々に慣れるとどうしても警戒心が散漫になる。良い教訓ですよ。晴れた日に|傘《かさ》を|貼《は》って雨の日に備えよ。昔の人はなかなかうまいことを言うですな」
博士はしばらく一人でふおっふおっ[#「ふおっふおっ」に丸傍点]と笑っていた。
「これで食事も済んだことだし」と私は言った。「そろそろ本題に入りましょう。まず最初から順番に話してくれませんか。いったいあなたは何をしようとしていたのか? 何をしたのか? その結果どうなるのか? 僕は何をすればいいのか? ぜんぶです」
「かなり専門的な話になると思うですが」と博士は疑わしそうに言った。
「専門的なところは|噛《か》み砕いて簡単に済ませて下さい。だいたいのアウトラインと具体的な方策がわかればそれでいいんです」
「ぜんぶ話しちまうと、あんたはたぶん私に対して腹を立てるんじゃないかと思いまして、それがどうも……」
「腹は立てない」と私は言った。今さら腹を立てても何かの役に立つというものではない。
「まず最初に私はあんたに謝まらねばならんでしょうな」と博士は言った。「いかに研究のためとはいえ、あんたをだまして利用し、ひいてはあんたをのっぴきならん状況に追いこんでしまった。これについては私も深く反省をしておるです。口先だけではなく、心から申しわけないと思っておる。しかしですな、私のやっておった研究というのは、これはちょっと比類のないほど重要かつ貴重なものであって、このことだけはどうしても御理解いただきたい。科学者というものは知の鉱脈を前にするとそれ以外の状況が眼中になくなってしまうきらいがあるです。またそれなればこそ科学も間断なき進歩を遂げてきたわけだ。科学というものは極言するならば、その純粋性の|故《ゆえ》に増殖するのであって……えーと、プラトンをお読みになったことはあるですかな?」
「ほとんどありません」と私は言った。「でもとにかく話の要点に移って下さい。科学研究の目的の純粋性についてはよくわかりました」
「どうも失礼、私はただ科学の純粋性というものがときとして多くの人々を傷つけることがあると言いたかっただけです。それはあらゆる純粋な自然現象がある場合に人々を傷つけるのと同じことです。火山の噴火が街を埋め、|洪《こう》|水《ずい》が人々を押し流し、地震が地表の一切を|叩《たた》き潰す——しからばそのような|類《たぐ》いの自然現象が悪かと言えば……」
「おじいさま」と太った孫娘が横から口を出した。「少しお話を急がないと間にあわないんじゃないかしら?」
「そうそう、お前の言うとおり」と博士は言って彼女の手をとり、ぽんぽんと叩いた。「ところで、あー、どこからお話すればよろしいですかな? 私はどうも状況を縦に順番に|把《は》|握《あく》するというのが苦手なたちでして、何をどう話せばいいものやら」
「あなたは私に数字をわたしてシャフリングをやらせましたね? あれにはどういう意味があるんですか?」
「それを説明するには話を三年前までさかのぼらねばならんですな」
「どうぞさかのぼって下さい」と私は言った。
「私はその当時『|組織《システム》』の研究所につとめておりました。正式な研究員というわけではなく、いわば個人的な別働隊のようなものです。私の下に四、五人のスタッフがいて、立派な施設を与えられ、金は使い放題でした。私は金なんぞはどうでもいいですし、人の下で使われるのはまっぴら御免という性格だが、それでも『|組織《システム》』が研究用に与えてくれる豊富な実験材料は|他《ほか》ではちょっと手に入らんものだし、何よりその研究の成果を実践に移せるというのはたまらない魅力でしたな。
その頃『|組織《システム》』はかなり危機的な状況にありました。つまり彼らが情報保護のためにあみだした様々な方式のデータ・スクランブル・システムがことごとくと言っていいほど記号士たちに解読されておったわけです。『|組《シス》|織《テム》』がその方法を複雑化すれば、記号士たちもより複雑な方法でそれを解読する——そういう繰りかえしでした。これはまるで|塀《へい》|建《た》て競争のようなものですな。一方の家が高い塀を建てれば、隣家もそれに負けじともっと高い塀を建てる。そしてそのうちに塀はあまりにも高くなりすぎて、実用性を失っていく。しかしだからといって一方が手を引くわけにはいかん。手を引けば負けだからです。負ければ負けた側の存在価値はなくなってしまう。そこで『|組織《システム》』はまったく別の原理に基づく、単純にして解読不能なデータ・スクランブルの方式を開発することにしたわけです。そこで私がその開発スタッフの長として招かれたんですな。
彼らが私を選んだのはまさに正解でありました。|何《な》|故《ぜ》なら私はその当時——もちろん今だってそうですが——大脳生理学の分野では最も有能にして最も意欲的な科学者であった。研究論文を出したり学術会議で講演したりするような|阿《あ》|呆《ほう》なことはやりませんでしたから学会では終始無視されておりましたが、脳に対する知識の深さで私にかなうものは一人もおりませんでしたな。『|組織《システム》』はそのことを知っておった。だからこそ私を適任者として選んだわけです。彼らが望んでおったのは完全な発想の転換でした。既成の方式の複雑化やソフィスティケーションではなく、根本からのドラスティックな転換でした。そしてそういう作業は大学の研究室で朝から晩まで働いて下らん論文書きに追われたり給料の計算をしておるような学者にはできっこないです。真の独創的な科学者というものは自由人でなくてはならん」
「しかし『|組織《システム》』に入ることによって、その自由人たる立場を捨てたわけですね」と私はたずねてみた。
「そうです、そのとおり」と博士は言った。「あんたのおっしゃるとおりです。そのことについては私も私なりに反省しておるです。後悔はせんが反省はしておるです。しかし弁解するわけじゃないですが、私は私の理論を実践に移せる場が欲しくてたまらなかったのです。そのときの私の頭の中にはきっちりとした理論のようなものは既にできておったのですが、それを実際的にたしかめる手だてがなかった。そこが大脳生理学の研究の困った点でありまして、他の生理学のように動物を使って実験を進めるということができん。何故なら、|猿《さる》の脳には人間の深層心理や記憶に対応することができるほどの複雑なファンクションが備わってはおらんからです」
「それであなたは」と私は言った。「我々を人体実験に使ったわけですね」
「まあまあ、結論を急がんで下さい。まず私の理論を簡単に説明します。暗号に対する一般論があります。つまり『解読できない暗号はない』というやつですな。これはたしかに正しい。何故ならば暗号というものはある種の原則によって成立しておるからです。原則というものはそれがどれだけ複雑かつ|精《せい》|緻《ち》なものであれ、究極的には多くの人間に理解できる精神的共通項のごときものです。だからその原則が理解できれば、暗号も解ける。暗号の中でもっとも信頼性の高いのはブック・トゥー・ブック・システム——つまり暗号を送りあう二人が同じ版の同じ本を持っておってそのページ数と行で単語を決めるシステム——ですが、これだって本がみつかってしまえばおしまいです。だいいちいつもその本を手もとに置いておかなきゃならんです。危険が大きすぎる。
そこで私は考えました。|完《かん》|璧《ぺき》な暗号というものはひとつしかない。それは|誰《だれ》にも理解できないシステムでスクランブルすることです。つまり完璧なブラックボックスをとおして情報をスクランブルし、それを処理したものをまた同じブラックボックスをとおして逆スクランブルするわけですな。そしてそのブラックボックスの中身や原理は本人にさえわからない。使用することはできるが、それがどういうものかはわからない——ということですな。本人にもわからないから、他人が力ずくでその情報を盗むこともできない。どうです、完璧でしょう?」
「つまりそのブラックボックスとは人間の深層心理であるわけですね」
「そう、そのとおり。さらに説明させて下さい。こういうことです。人間ひとりひとりはそれぞれの原理に基づいて行動をしておるです。誰一人として同じ人間はおらん。なんというか、要するにアイデンティティーの問題ですな。アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。人それぞれ同じ心というのはひとつとしてない。しかし人間はその自分の思考システムの|殆《ほと》んどを把握してはおらんです。私もそうだし、あんたもしかり。我々がそれらについてきちんと把握している——あるいは把握していると推察される部分は全体の十五分の一から二十分の一というあたりにすぎんのです。これでは氷山の一角とすら呼べん。たとえば簡単な質問をしてみましょう。あんたは剛胆ですかな、それとも|臆病《おくびょう》ですかな?」
「わかりませんね」と私は正直に言った。「あるときには剛胆になれるし、あるときには臆病です。ひとくちじゃ言えません」
「思考システムというのはまさにそういうものなのです。ひとくちでは言えん。その状況や対象によってあんたは剛胆さと臆病さというふたつの極のあいだのどれかのポイントを自然にほとんど瞬間的に選びとっておるのです。そういう細密なプログラムがあんたの中にできておるのですな。しかしそのプログラムの細かい内訳や内容についてはあんたは殆んど何も知らん。知る必要がないからです。それを知らんでも、あんたはあんた自身として機能していくことができる。これはまさにブラックボックスですな。つまり我々の頭の中には人跡未踏の巨大な象の墓場のごときものが埋まっておるわけですな。大宇宙をべつにすればこれは人類最後の|未知の大地《テラ・インコグニタ》と呼ぶべきでしょう。
いや、象の墓場という表現はよくないですな。何故ならそこは死んだ記憶の集積場ではないからです。正確には象工場[#「象工場」に丸傍点]と呼んだ方が近いかもしれん。そこでは無数の記憶や認識の|断片《チ ッ プ》が|選《よ》りわけられ、選りわけられた|断片《チ ッ プ》が複雑に組みあわされて|線《ライン》を作り、その|線《ライン》がまた複雑に組みあわされて|束《バンドル》を作り、そのバンドルがシステムを作りあげておるからです。それはまさに〈工場〉です。それは生産をしておるのです。工場長はもちろんあんただが、残念ながらあんたにはそこを訪問することはできん。アリスの|不思議の国《ワンダーランド》と同じで、そこにもぐりこむためにはとくべつの薬が必要なわけですな。いや、ルイス・キャロルのあの話は本当によくできておるです」
「そしてその象工場から発せられる指令によって我々の行動様式が決定されているというわけですね」
「そのとおりです」と老人は言った。「つまり……」
「ちょっと待って下さい」と私は老人の話を押しとどめた。「質問させて下さい」
「どうぞどうぞ」
「話の筋はわかります。しかしですね、行動の様式を現実的で表層的な行為の決定にまで|敷《ふ》|衍《えん》することはできない。たとえば朝起きてパンと一緒にミルクを飲むかコーヒーを飲むか紅茶を飲むか、これは気分しだいではないのですか?」
「実にまったく」と言って博士は深く|肯《うなず》いた。「もうひとつの問題は人間のその深層心理が常に変化しておることです。たとえて言うならば、毎日改訂版の出ておる百科事典のごときものですな。人間の思考システムを安定させるためにはこのふたつのトラブルをクリアする必要がある」
「トラブル?」と私は言った。「それのどこがトラブルなんですか? 人間のごく当然な行為じゃありませんか?」
「まあまあ」と博士がなだめるように言った。「これを追究していくと、神学上の問題になるです。決定論というか、そういうことですな。人間の行為というものが神によってあらかじめ決定されているか、それとも|隅《すみ》から隅まで自発的なものかということです。近代以降の科学はもちろんその人間の生理的スポンタニアティーに重点を置いて進められてきた。しかしですな、自発性とは何かと|訊《き》かれても、誰にもうまく答えられんです。我々の中にある象工場の秘密を誰も把握してはおらんからです。フロイトやユングが様々な推論を発表したが、あれはあくまでそれについて語ることができるだけの術語を発明したにすぎんです。便利にはなったが、それで人間のスポンタニアティーが確立したかというと、そんなことはない。私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を|賦《ふ》|与《よ》したというにすぎんですな」
そこで博士はまたふおっふおっ[#「ふおっふおっ」に丸傍点]とひとしきり笑った。私と娘は彼が笑いおわるのをじっと待った。
「私はどちらかと申せば、現実的な考え方をする人間です」と博士はつづけた。「古いことばを借りるならば、神のものは神へ、シーザーのものはシーザーへ、ということですな。|形而上学《けいじじょうがく》というものは|所《しょ》|詮《せん》記号的世間話にすぎんです。そんなことにうつつを抜かす前に、限定された場所でなさねばならんことは山とある。たとえばこのブラックボックスの問題です。ブラックボックスはブラックボックスのままで手をつけずに置いておけばよろしい。そしてそのブラックボックス性をそのまま利用すればよろしいのです。ただし——」と言って博士は指を一本立てた。「ただし——さっき申しあげたふたつの問題は解決せねばならんです。ひとつは表層的行為のレベルにおける偶然性であり、もうひとつは新たなる体験の増加に伴うブラックボックスの変化です。これはなかなか簡単に解決する問題ではないですよ。何故かというならば、それらはさっきあんたがおっしゃったように、人間としての当然の行為であるからです。人は生きている限りなんらかの体験をするわけだし、その体験が一分一秒ごとに体内に蓄積していくものです。それをやめろというのは人に向って死ねというのと同じことです。
そこで私はひとつの仮説を立てた。ある瞬間に人間にその時点におけるブラックボックスを固定してしまったらどうかとね。その後にそれが変化するのなら、それは好きに変化すればよろしい。しかしそれとはべつにその時点におけるブラックボックスはきちんと固定され、コールすればそれがそのままの形で呼び出されるわけです。瞬間冷凍に似ておるですな」
「ちょっと待って下さい」と私は言った。「それは一人の人間の中に二種類の違った思考システムを内蔵させることになりますね」
「まさにまさに」と老人は言った。「まさにおっしゃるとおり。あんたは理解が速い。私の見こんだだけのことはある。おっしゃるとおりです。思考システムAは常に保持されておる。それがもう一方のフェイズでは|A《’》、|A《”》、|A《'"》[#※この部分、Aダッシュ、Aダッシュ×2、Aダッシュ×3]……と間断なく変化しておるわけです。これはズボンの右のポケットにとまった時計を入れ、左ポケットに動く時計を入れておるのと同じことでありますな。必要に応じて、いつでも好きな方をとりだせる。これで一方の問題は解決します。
同じ原理でもう一方の問題もかたづけることが可能です。オリジナル思考システムAの表層レベルでの選択性をカット・オフしておけばいいわけです。おわかりになりますかな?」
わからない、と私は言った。
「要するに歯医者がエナメル質を削るのと同じように表層を削ってしまうわけです。そして必然性のある中心的なファクター、つまり意識の核だけを残すのです。そうしておけば誤差というほどの誤差は生じません。そしてその表層を削りとった思考システムを冷凍して井戸の中に|放《ほう》りこむんですな。どぶん、とね。これがシャフリング方式の原型です。私が『|組織《システム》』に入る前にうちたてておった理論はだいたいこういうものです」
「脳手術をするということですね?」
「脳手術は必要です」と博士は言った。「おそらくもっと研究が進めば、手術の必要性はおいおいなくなってくるでしょう。ある種の催眠術のようなもので外郭操作によってそのような状態を作りだすこともできるようになるでしょう。しかし今の段階ではそこまではできんです。脳に電気的刺激を与えるしかない。つまり脳のサーキットの流れを人為的に変えてしまうわけです。これは何もとくに珍しいことではない。精神性てんかん患者に対して現在も行われておる定位脳手術をいくらか応用したにすぎんです。脳のねじれから生ずる放電をそれによって|相《そう》|殺《さい》するわけですが……専門的なことは省いてもよろしいですかな?」
「省いて下さい」と私は言った。「要点だけでいいです」
「要するに脳波の流れにジャンクションを設置するわけです。分岐点ですな。そのわきに電極と小型電池を埋めこむ。そして特定の信号でかちんかちんとそのジャンクションが切りかわるようにしておく」
「とすると|僕《ぼく》の頭の中にもその電池と電極が埋めこまれていることになりますね?」
「もちろん」
「やれやれ」と私は言った。
「いや、それはあんたが考えるほど怖いことでも特殊なことでもないです。大きさだって|小豆《あ ず き》|粒《つぶ》程度のものだし、それくらいのものを体に入れて歩きまわっておる人は世間にいっぱいおるです。それからもうひとつ申しあげておかねばならんことはオリジナル思考システム、つまりとまった時計の方の回路はブラインド回路であるということですな。その回路に入ると、あんたは自分の思考の流れを一切認識することができんということです。つまりそのあいだあんたは自分が何を考えて何をしておるのか、まるでわからんのです。そうしておかないと、あんたが自分でその思考システムを改変してしまうおそれがあるからです」
「それから、その表層を削りとった意識の純粋な|核《コア》の照射の問題もあるわけでしょう? 手術のあとであなたのスタッフの一人からその話を聞きましたよ。その照射が人間の脳に強烈な影響を与えるかもしれないってね」
「そうです。それもあるですな。しかしそのことについては確定した見解があるわけではありませんでした。その時点ではひとつの推論にすぎんでした。ためしてみたわけではなく、ただそういうこともあるかもしれん、ということですな。
さきほどあんたは人体実験のことをおっしゃっておられたが、正直に申しあげて、我々はいくつかの人体実験をやったです。最初から貴重な人材であるあんたがた計算士を危険な目にあわせるわけにはいかんですからな。『|組織《システム》』が適当な人間を十人ばかりみつけてきて、我々はその人たちに手術を施し、その結果を見ました」
「どんな人たちですか?」
「それは我々には教えんかったですな。とにかく十人の若い健康な男性です。精神的な病歴がなく、IQが120以上というのが条件でした。どんな人たちをどういう風につれてきたのか、それは我々にはわからんです。その結果は、まずまずというところでした。十人のうち七人まではジャンクションがうまく働きました。三人はまるでジャンクションが機能せず、思考システムがどちらか一方になるか、あるいは混合したりしました。しかし七人は大丈夫でしたな」
「混合した人はどうなったんですか?」
「もちろんちゃんともとに|戻《もど》しましたよ。害はないです。残りの七人の訓練をつづけるうちにいくつかの問題点があきらかになりました。ひとつは技術的な問題であり、もうひとつは被験者側の問題でした。まずジャンクション切りかえのコールサインがまぎらわしいという点です。最初我々は任意の五|桁《けた》の数字をそのコールサインにあてたのですが、どういうわけか中に何人か天然|葡《ぶ》|萄《どう》ジュースの|匂《にお》いでジャンクションが切りかわってしまうものがでてきました。昼食に葡萄ジュースを出したときにそれが判明しました」
太った娘がとなりでクスクスと笑ったが、私にとってはそれは笑いごとではなかった。私にしたところでシャフリングの処置を受けたあと、いろんなものの匂いが気になってしかたないことがあるのだ。たとえば彼女のメロンの匂いのするオーデコロンを|嗅《か》ぐと頭の中で音が聞こえるように感じるのもそのひとつだ。何かの匂いを嗅ぐたびに思考システムが入れかわったりしたら、たまったものではない。
「それは数字のあいだに特殊な音波をはさみこむことで解決しました。ある種の|嗅覚《きゅうかく》反応がコールサインによって生じる反応によく似ていたわけです。もうひとつは人によって、ジャンクションが切りかわっても、オリジナル思考システムがうまく作動しないことがあるという事実でした。これはいろいろと調べてみた結果、被験者のそもそもの思考システムに問題があったことがわかりました。被験者の意識の核そのものが質的に不安定で希薄であったわけです。健康でちゃんとした知力もあるのだが、精神的なアイデンティティーが確立しておらんのです。また逆に自らに対する統御が足りないという例もありました。アイデンティティーそのものは十分にあるのだが、それに対する秩序づけがなされていないことには使いものにならんです。要するに誰でも手術さえ受ければシャフリングができるというわけではなく、やはり適性というものがあるのだということが明らかになったわけです。
そんなこんなで残ったのは結局三人でした。その三人はきちんとジャンクションが指定されたコールサインで切りかわり、凍結されたオリジナル思考システムを使って有効かつ安定した機能を果すことができました。そして一カ月彼らを使って実験をかさね、その時点でゴー・サインが出たんですな」
「その次に我々がシャフリングの処置を受けたわけですね?」
「そのとおりです。我々は五百人に近い計算士の中からテストと面接をかさね、しっかりとした精神的独自性を有し、しかも自己の行動と感情を規制できるタイプの健康で精神的病歴のない男性を二十六人選びだしました。これはひどく手間のかかる作業でした。テストや面接だけではわからん部分もありますからな。それから『|組織《システム》』はその二十六人一人ひとりについての詳細な資料を作りあげました。生いたち・学校の成績・家族・性生活・飲酒量……とにかく|全《すべ》ての点についてです。あんたがたは生まれたての赤子のように|綺《き》|麗《れい》に洗いあげられたわけですな。だから私もあんたについてはわがことのようによく知っておるです」
「ひとつわからない点があります」と私は言った。「僕の聞いた話ではその我々の意識の核、つまりブラックボックスが『|組織《システム》』のライブラリーに保管してあるということでした。それはどのようにして可能になるのですか?」
「我々はあんた方の思考システムを徹底的にトレースしました。そしてそのシミュレーションを作りあげて、メイン・バンクとして保存することにした。そうしておかないことにはもしあんた方の身に何かがあったときに身動きがとれんですからな。保険のようなものです」
「そのシミュレーションは完全なのですか?」
「いや、完全とはもちろんいかんですが、表層部分が有効に削除されておるぶんトレースは楽になっておるですから、機能的にはかなり完全に近いものですな。くわしく言うと三種類の平面座標とホログラフによってこのシミュレーションは構成されておるです。従来のコンピューターではもちろんこんなことは不可能だったが、今の新しいコンピューターはそれ自体がかなり象工場的機能を含んでおるからそのような意識の複雑な構造に対応していけるのです。要するにマッピングの固定性の問題ですが、これは話が長くなるのでやめましょう。ごく簡単にわかりやすく説明するとトレースの方法はこういうことです。まずあんたの意識の放電パターンをコンピューターにいくつもインプットします。パターンはその場合場合によって微妙にずれています。ラインの中のチップが組みかえられ、バンドルの中のラインが組みかえられているからです。その組みかえの中には計測上無意味なものもあれば、意味のあるものもあります。コンピューターがそれを判断します。無意味なものは排除され、意味のあるものが基本的パターンとして刻みこまれていく。それを何度も何度も何度も百万回単位で繰りかえす。プラスティック・ペーパーをかさねていくみたいにです。そしてこれ以上ずれが浮かびあがってこないことをたしかめてから、そのパターンをブラックボックスとしてキープするわけです」
「脳を再現したわけですか?」
「いや、違うです。脳はとても再現できんです。私のやったことはあんたの意識のシステムを現象レベルで固定したにすぎんです。それも定まった時間性の中でです。時間性というものに対して脳が発揮するフレキシビリティーに対しては我々はまったくのお手上げです。しかし私のやったことはそれだけではありません。私はそのブラックボックスを映像化することに成功したのです」
博士はそう言って、私と太った孫娘の顔をかわりばんこに見た。
「意識の核の映像化です。そんなことはこれまでに|誰《だれ》もやったことがない。不可能だったからです。私が可能にした。どうやったと思います?」
「わかりませんね」
「被験者に何かの物体を見せ、その視覚によって生じる脳の電気的反応を分析し、それを数字に置きかえ、それからまたドットに置きかえます。最初はごく単純な図形しか浮かびあがってこないが、何度も補整し、細部をつけ加えていくうちに、それは被験者が見たとおりの映像をコンピューター・スクリーンに描きだす。口で言うほど簡単な作業ではないし、とてつもない手間と時間がかかるですが、簡単に言っちまえばそうなります。そして何度も何度もそれをかさねていくうちに、コンピューターはパターンをのみこんで脳の電気的反応から自動的に映像を映し出すようになってくるわけです。コンピューターというのは実に|可愛《か わ い》いものですな。こちらが一貫した指示を出す限り、必ず一貫した仕事をやるですよ。
次にいよいよそのパターンをのみこんだコンピューターの中に、今度はブラックボックスを入れてみるわけです。すると実に見事に意識の核のありようが映像化されるという次第ですな。しかしもちろんその映像は極めて断片的で|混《こん》|沌《とん》としており、そのままではとても意味をなさない。そこで編集作業が必要になってくる。そう、まさに映画の編集作業ですな。イメージの集積を切ったり|貼《は》ったり、あるものをとりのぞいたり、いろいろと組みあわせたりするわけです。そして筋をとおしたひとつのストーリーに組みかえる」
「ストーリー?」
「それほど不思議なことではないですな」と博士は言った。「優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。そして小説家はストーリーに置きかえます。それと同じ理屈ですよ。もちろん転換をするわけですから、真に正確なトレースではないですが、意識のおおかたのありようを理解するには実に便利です。いくら正確でも混沌としたイメージの|羅《ら》|列《れつ》を|眺《なが》めていたのではなかなか全容をつかみきれませんですからな。それから、べつにそのヴィジュアル版を使って何かをするわけではないから、|隅《すみ》から隅まで正確であらねばならんという必要もないわけです。このヴィジュアル化はあくまで私の個人的な趣味としてやっておったのです」
「趣味?」
「私は以前、もう戦前のことですが、映画の編集助手のようなことをやっておりまして、そんなせいでその手の作業が非常に得意なのです。要するに混沌に秩序を|賦《ふ》|与《よ》するという作業ですな。だから私は他のスタッフを使わずに自分の研究室にとじこもって一人でその作業をつづけました。私が何をやっておったかはみんな知らんはずです。そしてそのヴィジュアル化したデータを私物としてこっそりと家に持って帰りました。私の財産です」
「二十六人ぶん全部の意識を映像化したわけですか?」
「そうですな。一応ぜんぶやりました。そしてそのひとつひとつにタイトルをつけて、そのタイトルは一人ひとりのブラックボックスのタイトルにもなりました。あんたのは『世界の終り』でしたな」
「そうです。『世界の終り』です。どうしてそんなタイトルがつけられたのか常々不思議に思っていたんですがね」
「そのことはあとで話しましょう」と博士は言った。「とにかく私がその二十六個の意識の映像化に成功したことは誰も知らなかった。私も誰にも教えなかった。私はその研究を『|組織《システム》』とは関係のないところで進めたかったわけです。私は『|組織《システム》』から依頼されたプロジェクトを成功させたし、私が必要としていた人体実験も済ませた。それにこれ以上他人の利益のために研究するのもうんざりでした。あとはもう自分の好き勝手にあちらに手をつけこちらにも手を出すという気ままな研究生活に|戻《もど》りたかった。私はどうもひとつの研究に打ちこむというタイプではないのです。様々な研究を並列的にやる方が性にあっておるのです。あちらで骨相学、こちらで音響学、それと同時に脳医学という具合にね。しかし他人に使われる身とあってはなかなかそうはいかんです。それで私は研究が一段落したところで、もう自分に与えられた使命は終ったし、あとは技術的な作業にすぎんから、そろそろ辞めたいと『|組織《システム》』に申しでた。しかし彼らはなかなかそれを許可してくれんかったですな。|何《な》|故《ぜ》なら私はそのプロジェクトについて知りすぎておったからです。今その段階で私が記号士たちのもとに走ったら、シャフリング計画は|水《すい》|泡《ほう》に帰してしまうかもしれんと彼らは考えたわけです。彼らにとっては味方でないものは|即《すなわ》ち敵ということになるのです。三カ月待ってくれ、と彼らは私に頼みました。その研究所の中で自分の好きな研究をつづけてくれ。仕事は何もしなくていい、特別なボーナスも払う、ということでした。三カ月のあいだに厳重な機密保持システムを完成させるから、出ていくのはそのあとにしてくれ、とね。私は生まれつきの自由人ですから、そんな風に自分の体が束縛されるというのは非常に不快だったですが、まあ話としては悪くないです。それで私は三カ月そこで好きなことをしてのんびりと暮すことにしました。
しかし人間のんびりするとロクなことはせんもんです。私は暇にまかせて被験者——つまりあんたがたですな——の脳のジャンクションにもうひとつべつの回路をとりつけることを思いついた。三つめの思考回路です。そしてその回路に私の編集しなおした意識の核を組みこんじまったわけです」
「どうしてまたそんなことをしたんですか?」
「ひとつにはそれが被験者にどういう効果を及ぼすか見てみたかったということがあるですな。他者の手によって秩序づけられ編集しなおされた意識が被験者の中でどのように機能するか、ということを知りたかったわけです。人類の歴史の中でそういう明確な例はひとつもありませんからな。もうひとつは——これはもちろん付随的な動機ですが——『|組《シス》|組《テム》』が私を自分たちの好きなように扱うなら、私もまた自分の好きなように扱ってやろうと思ったわけです。彼らの知らない機能をひとつくらい作っておきたかったのですな」
「それだけの理由で」と私は言った。「あなたは我々の頭の中に電気機関車の線路みたいなややっこしい回路をいくつも組みこんだわけですか?」
「いや、そう言われると私も面目ないです。実に面目ない。しかしあんたにはおわかりにならんでしょうが、科学者の好奇心というものはなかなか抑えきれんものなのです。ナチスに協力した生体学者たちが強制収容所で行なった数々の生体実験を私ももちろん憎んでおるですが、心の底ではどうせやるならどうしてもう少し|手《て》|際《ぎわ》良く効果的にやれなかったのかとも思っておるのです。生体を対象とする科学者の考えておることは心の底ではみんな同じようなものです。それに私のやったことは決して生命を危険にさらすようなことではない。二つあるものを三つにしただけのことです。サーキットの流れをちょっと変化させるだけで、べつに脳の負担が増えるわけではないです。同じアルファベットのカードを使って、べつの単語を作るというだけのことです」
「しかし実際には|僕《ぼく》以外のすべてのシャフリング処置を受けた人間が死んだ。これはどうしてですか?」
「それは私にもわからんです」と博士は言った。「たしかにあんたのおっしゃるように二十六人のシャフリング処置を受けた計算士のうちの二十五人までが死んだです。みんな判で押したように同じ死に方です。ベッドに入って眠り、朝になったら死んでおるのです」
「じゃあ僕にしても」と私は言った。「明日そういう風に死んでしまうかもしれないわけですね?」
「ところが話はそう簡単でもないです」と毛布の中でもじもじと体を動かしながら博士は言った。「というのは、その二十五人の死亡時期は約半年間に集中しておるのです。つまり処置後一年二カ月から一年八カ月のあいだです。その二十五人は残らずその期間に死んでおるです。ところがあんただけは三年と三カ月過ぎた今も、何の障害もなくシャフリングをつづけておる。となると、あんただけが他人にはない特別な資質を持っておると考えざるを得んのです」
「特別[#「特別」に丸傍点]というのは、どういう意味で特別なのですか?」
「まあ待って下さい。ところであんたはシャフリング処置後、何かしら奇妙な症状に襲われませんでしたかな? たとえば幻聴、幻覚、失神、などといったような?」
「ありませんね」と私は言った。「幻覚もないし、幻聴もありません。ただある種の匂いにはひどく敏感になったような気がします。だいたいは果物の匂いのようなものであることが多いですが」
「それは全員に共通したことですな。特定の果物の匂いがジャンクションに影響を及ぼすのです。どうしてかはわからんが、そうなっておるです。しかしその結果として幻覚・幻聴・失神がもたらされるということはないわけですな?」
「ありませんね」と私は答えた。
「ふうむ」と博士はしばらく考えこんだ。「|他《ほか》には?」
「これはさっきはじめて気がついたことですが、隠されていた記憶が戻ってくるような気がすることがあります。これまでは断片のようなものだったのであまり気にもとめなかったのですが、さっきのははっきりとしていて長くつづきました。原因はわかっています。水音で誘発されたんです。でも幻覚じゃありません。きちんとした記憶です。それはたしかです」
「いや、違うです」と博士はきっぱりと言った。「あんたには記憶のように感じられるかもしれんですが、それはあんた自身が作りあげた人為的なブリッジです。要するにあんた自身のアイデンティティーと私が編集してインプットした意識のあいだには当然のごとく誤差があってですな、あんたはつまり自らの存在を正当化するべくその誤差のあいだにブリッジをかけようとしておるわけです」
「よくわからないな。今までそんなことは一度も起らなかった。それがどうして今になって急に出てきたんですか?」
「私がジャンクションを切りかえて第三の回路を解放してしまったからです」と博士は言った。「しかしまあ、話を順序に沿って進めましょう。そうせんことには話しづらいし、あんたにもわかりづらいでしょう」
私はウィスキーの|瓶《びん》をとり出してまたひとくち飲んだ。どうやら想像していた以上のひどい話になってきそうだった。
「最初の八人がたてつづけに死んだとき『|組《シス》|織《テム》』から私に呼びだしがかかりました。死因を究明してくれというわけです。私としちゃ正直言ってもうあそことは|関《かかわ》りあいになりたくはなかったが、私の開発した技術でもあるし、人の生き死にの問題でもあるので、見捨てておくわけにもいかんです。とにかく様子を見に行くことにしました。彼らは私に八人が死んだ経緯と脳解剖の結果を説明してくれました。さっきも申しあげたとおり、八人はみんな同じ死に方をして、みんな死因は不明でした。体にも脳にも何ひとつ損傷はなく、みんな静かに眠るがごとく息を引きとっておりました。まるで安楽死のようにです。顔にも|苦《く》|悶《もん》のあとひとつなかったですな」
「死因はわからなかったのですか?」
「わからんかったです。しかしもちろん推論なり仮説なりを立てることはできます。なにしろ八人ものシャフリング処置を受けた計算士がたてつづけに死んでおるですから、これは偶然では片づけられんです。なんとか方策を講じねばならんです。これは何はともあれ科学者の義務ですからな。私の推論はこういうものでした。つまり脳にセットしたジャンクションの機能がゆるむか焼けるか消滅するかして思考システムが混濁し、そのエネルギーの力に脳機能が耐えられなくなったのではないか? それともジャンクションに問題がないとすれば、意識の核をたとえ短時間にもせよ解放すること自体に根本的な問題があるのではないか? それは人間の脳にとって耐えがたいことなのではないか?」博士はそう言って首のところまで毛布をひっぱりあげたまま、しばらく間を置いた。「これが私の推論です。確証はないが、しかし前後の状況をいろいろと考えてみるとそのふたつのいずれか、あるいは両方かもしれんが、それらが原因であると推測するのがいちばん妥当なように私には思えるですな」
「脳解剖をしてもそれはわからないのですか?」
「脳というのはトースターとも違うし、|洗《せん》|濯《たく》|機《き》とも違うです。コードやらスウィッチやらが目に見えるわけではないです。目には見えん放電の流れを変えるだけのことですから、死んでからそのジャンクションをとりだして検証するというわけにはいかんのです。生きている脳に異常があればそれはわかるが、死んだ脳では何もわからんです。もちろん損傷や|腫《しゅ》|瘍《よう》があればわかりますが、それもありません。まったくきれいなものです。
それで我々は生きている被験者十人ばかりを研究室によこしてもらい、再チェックをしてみました。脳波をとり思考システムの切りかえをして、ジャンクションがうまく働いているかどうか調べてみました。くわしい面接もして、体に異常があったり幻聴や幻覚がおこったりしないかとも|訊《き》いてみました。しかし問題といえるほどのものは何もありませんでした。みんな健康で、シャフリング作業も順調に進められていました。それで我々は死んだ人々はおそらく先天的に何か脳に欠陥があったかして、シャフリングには向かなかったのだろうと考えました。それがどのような欠陥かはわからんが、それはおいおいに研究を進めて解きあかし、第二世代にシャフリング処置を施す前に解決をすれば良いわけです。
しかし結局それは間違っておった。何故なら次の一カ月に更に五人が死に、そのうちの三人は我々が徹底的に再チェックした被験者だったからです。再チェックして何も問題はないと判断された人々がその直後にあっさりと死んでしまったわけです。これは我々にとっては大きなショックでありました。原因のわからないままに二十六人の被験者のうちの半数が既に死んでしまったのです。こうなると適不適というよりはもっと根本的な問題になるですよ。つまりふたつの思考システムを切りかえて使用するということが脳にとってはもともと不可能であったということになりますな。それで私は『|組織《システム》』にプロジェクトの凍結を提案した。生き残った人々の脳からジャンクションをとりのぞいて、シャフリング作業を中止するわけです。そうしないと全員死亡ということにもなりかねませんからな。しかし『|組織《システム》』はそれは不可能だと言った。私の提案は拒否されたわけです」
「どうして?」
「シャフリング・システムは極めて有効に働いているし、今ここでそのシステムを全部ゼロに戻すことは現実的に不可能ということでした。そうすると『|組織《システム》』の機能が|麻《ま》|痺《ひ》してしまうのです。それに全員が死ぬと決まったわけではないし、もし生き残った人間がいたら、それを有効なサンプルとした次の研究を進めればよかろう、と彼らは言いました。そこで私は降りたです」
「そして僕一人が生き残った」
「というわけですな」
私は頭のうしろを岩壁につけ、ぼんやりと天井を眺めながら手のひらで|頬《ほお》にのびた|髭《ひげ》をこすってみた。この前にいつ髭を|剃《そ》ったのかうまく思いだせなかった。たぶんひどい顔をしていることだろう。
「じゃあどうして僕は死ななかったんですか?」
「これもあくまで仮説です」と博士は言った。「仮説に仮説をつみかさねておるわけですな。しかし私の勘では、これはそれほどは的を外れてはおらんだろうと思うです。こういうことです。つまりあんたはもともと複数の思考システムを使いわけておったのです。もちろん無意識にですな。無意識に、自分でもわからんうちに、自己のアイデンティティーをふたとおり使いわけておったんです。先刻の私の|比《ひ》|喩《ゆ》を使うならズボンの右ポケットの時計と左ポケットの時計をです。もともとの自前のジャンクションができておって、それであんたは精神的な|免《めん》|疫《えき》が既にできとったということになります。これが私の立てた仮説です」
「根拠のようなものはあるんですか?」
「あるです。私は先ほど、二、三カ月以前のことですが、二十六人ぶんのヴィジュアル化したブラックボックス=思考システムを全部見なおしてみました。そしてあることに気づいたのです。それはあんたのぶんがいちばんよくまとまっておるし、|破《は》|綻《たん》もないし、筋もとおっておるということでした。ひとことで言えば|完《かん》|璧《ぺき》なのです。そのまま小説や映画にしても十分通用するほどのものです。しかしその他の二十五人のぶんはそうではないのです。みんな混乱し、混濁し、まとまりがなく、どれだけ手を入れて編集しても筋もとおらんし、おさまりも悪い。夢をただつなぎあわせたという程度のものです。あんたのものとはぜんぜん違う。これはもうプロの画家の絵と幼児の絵を比べるほどに違うのです。
どうしてそんなことになるのかと私はいろいろと考えてみたが、結論はひとつしかなかったです。つまりあんたは自分の手でそれをまとめあげたのです。だからそのぶん極めてはっきりとしたストラクチュアがイメージの集積の中に存在しておるのです。また比喩を使うと、あんたは自分の意識の底にある象工場[#「象工場」に丸傍点]に下りていって自分の手で象を作っておったわけです。それも自分も知らんうちにですな」
「信じられないな」と私は言った。「どうしてそんなことが起り得るんですか?」
「いろんな要因があるです」と博士は言った。「幼児体験・家庭環境・エゴの過剰な客体化・罪悪感……とくにあんたには極端に自己の|殻《から》を守ろうとする性向がある。違いますかな?」
「そうかもしれない」と私は言った。「それで一体どうなるんですか? もし僕がそうだとしたら?」
「どうにもならんですよ。何もなければあんたはこのまま長生きするでしょうな」と博士は言った。「しかし現実的には何もないというわけにはいかんでしょう。あんたは好むと好まざるとにかかわらずこの|馬《ば》|鹿《か》|気《げ》た情報戦争の|趨《すう》|勢《せい》を決する|鍵《かぎ》のような立場におるのです。『|組織《システム》』は遠からずあんたをモデルとした第二次のプロジェクトを開始するでしょうな。あんたは徹底的に解析され、いろいろといじくりまわされることになる。具体的にどうなるかは私にもわからんですよ。しかしいずれにせよいろいろと不快な目にあうことは間違いない。私はたいして世間を知らんが、それくらいのことはわかる。私としてはなんとかあんたを助けてあげたかったのだが」
「やれやれ」と私は言った。「あなたはもうそのプロジェクトには参加しないのですか?」
「私は何度も言っておるように他人のために研究を切り売りすることは性にあわんのです。それにこの先何にん人が死ぬかわからんようなものに加担したくはない。私もいろいろと反省させられるところがあったです。そんな何やかやが面倒になってこんな地底に研究室を作り人を避けるようになったんですな。『|組織《システム》』だけならともかく記号士たちまでやってきて私を利用しようとするものですからな。私はどうもああいう大組織は好かんです。なにしろ自分たちの都合しか考えんですからな」
「じゃああなたはどうして僕に対して妙な細工をしたんですか? |嘘《うそ》をついて僕を呼び寄せてわざわざ計算をさせたりして」
「私は『|組織《システム》』や記号士たちがあんたをつかまえて変にいじくりまわさんうちに、私の仮説をためしてみたかったんです。それが解明できれば、あんただってそれほど無茶苦茶な目にあわされずに済みますからな。私があんたにわたした計算データの中には第三の思考システムに切りかわるためのコールサインが隠されておったです。つまりあんたは第二の思考システムに切りかえたあとで、もうひとつポイントを切りかえ、第三の思考システムで計算を行なったことになりますな」
「第三の思考システムというのはあなたがヴィジュアライズして編集しなおしたシステムのことですね?」
「まさにそのとおりです」と博士は|肯《うなず》いた。
「しかしどうしてそれがあなたの仮説を証明することになるのです?」
「誤差の問題です」と博士は言った。「あんたは自分の意識の核を無意識のうちにきちんと|把《は》|握《あく》しておった。だから第二の思考システムを使用する段階においてはまったく問題がなかった。しかし第三の回路は、これは私が編集しなおしたものであって、当然そのふたつのあいだには誤差が生じておるです。そしてその誤差はあんたに対して何かしらの反応をもたらすはずなのです。私としてはその誤差に対する反応を計測してみたかったというわけです。その計測結果から、あんたが意識の底に封じこめておるもの[#「もの」に丸傍点]の強さや性格やその成因をもう少し具体的に推測できるはずだったのです」
「はずだった?」
「そうです。はずだったのです。しかし今ではすべてが|無《む》|駄《だ》に終りました。記号士たちがやみくろと組んでやってきて、私の研究室を破壊しつくしていきおったです。すべての資料も持ち去られた。私は|奴《やつ》らが引きあげてから一度研究室に戻ってたしかめてみたです。重要なものは何ひとつ残っておらんかったです。あれではとても誤差計測などできんです。奴らはヴィジュアル化したブラックボックスまで持っていきおったですよ」
「そのことと世界が終ることとがどう関係しているのですか?」と私は質問してみた。
「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」
「わかりませんね」と私は言った。
「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかく、そうなのです。あんたの意識の中では世界は終っておる。逆に言えばあんたの意識は世界の終りの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在しておるはずのものがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです」
「獣?」
「一角獣です」と博士は言った。「その街には一角獣がおるのです」
「その一角獣とあなたが僕にくれた頭骨とは何か関係があるのですか?」
「あれは私の作ったレプリカです。よくできておるでしょう。あんたのヴィジュアル・イメージをもとに作ったんだが、なかなか苦労したですよ。べつにとくに意味があるわけではなく、骨相学に興味があるのでちょいと作ってみただけです。あんたにプレゼントしますよ」
「ちょっと待って下さい」と私は言った。「|僕《ぼく》の意識の底にそういう世界があるということは一応わかりました。そしてあなたはそれをより明確な形に編集しなおして、僕の頭の中に第三の回路としてインプットした。次にコールサインを送りこんでその回路に僕の意識を送りこみ、シャフリングをさせた。そこまでは間違いありませんね?」
「間違いないです」
「そしてシャフリングが終った時点でその第三回路は自動的に閉鎖され、僕の意識はそもそもの第一回路に戻った」
「それが違うです」と博士は言って、首のうしろをぽりぽりと|掻《か》いた。「そういけば事は簡単ですが、そうはいかんのです。第三回路には自動閉鎖機能がないのです」
「じゃあ僕の第三回路は開きっぱなしになっているのですか?」
「まあそういうことですな」
「でも、僕は今こうして第一回路に従って思考し、行動していますよ」
「それは第二回路に|栓《せん》をしてあるからです。図にするとこういう仕組になっておるです」と博士は言って、ポケットからメモとボールペンをとり出して図を書き、それを私に手わたした。
「ということですな。これがあんたの通常の状態です。ジャンクションAはインプット1に、ジャンクションBはインプット2に接続されておる。ところが今はこうです」博士は別の紙にまた図を描いた。
「わかりますか? ジャンクションBは第三回路につながったまま、ジャンクションAを自動切りかえで第一回路に接続しておるわけです。であるから、あんたは第一回路で思考し、行動することが可能であるわけですな。しかしこれはあくまでかりそめのものです。早急にジャンクションBを回路2に切りかえねばならん。|何《な》|故《ぜ》かといえば第三回路は正確にはあんた自身のものではないからです。|放《ほう》っておけばその誤差のエネルギーが生じてジャンクションBを焼き切り、恒久的に第三回路につながったままになり、その放電でジャンクションAをポイント㈪にひきよせ、ついではそのジャンクションをも焼ききってしまうからです。私はそうなる前にその誤差エネルギーを計測し、ちゃんともとに戻すはずだったです」
「はずだった?」と私は訊いた。
「私の手ではそれができんようになったのです。さっきも申しあげたように、私の研究室は馬鹿どもの手で破壊され、大事な資料はすべて持ち去られてしまったです。だから申しわけないとは思うが、私にはなんともしてあげられんのです」
「そうするとですね」と私は言った。「私はこのままでいくと第三回路の中に恒久的にはまりこんでしまい、もうもとには戻れないというわけですか?」
「そうなりますな。世界の終りの中で暮すことになりますな。気の毒だとは思うですが」
「気の毒?」と私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として言った。「気の毒で済む問題じゃないでしょう。あなたは気の毒って言っていればいいかもしれないけれど、いったい僕はどうなるんですか? もとはといえばあなたが始めたんじゃないですか。冗談じゃないですよ。こんなひどい話は聞いたことがない」
「しかし私も記号士とやみくろが結託するなどとは夢にも思わんかったですよ。|奴《やつ》らは私が何かを始めたことを知って、シャフリングの秘密を手に入れようとして襲ってきたのです。そしておそらく今では『|組織《システム》』もそのことを知っておるでしょう。我々二人は『|組織《システム》』にとっては両刃の剣なんです。わかりますかな? 連中は私とあんたが組んで、『|組織《システム》』とは別のところで何かを始めたと考えておるでしょう。そしてそれを記号士たちが|狙《ねら》っておることもつかんでおる。記号士たちはそれをわざと『|組織《システム》』に知れるように仕向けたのです。そうすれば『|組織《システム》』は機密を守るために我々を|抹《まっ》|殺《さつ》しようと計る。どちらにしても我々は『|組織《システム》』を裏切ったわけだし、たとえシャフリング方式が|一《いち》|頓《とん》|挫《ざ》するにせよ、彼らはそれでも我々を切ろうとするでしょうな。我々二人は第一次シャフリング計画の|要《かなめ》だし、我々が一緒に記号士たちの手に落ちれば大変なことになってしまうからです。一方記号士たちにしてみればそれが狙いだ。我々が『|組《シス》|織《テム》』に抹殺されてしまえばシャフリング計画は完全に終息するし、それを逃れて彼らのもとに我々が走れば、それはそれでいうことはない。いずれにしても彼らの失うものは何もないのです」
「やれやれ」と私は言った。私のアパートにやってきて部屋を荒し、私の腹を切ったのはやはり記号士たちなのだ。彼らは『|組織《システム》』の注意をこちらに向けさせるためにあのどたばた芝居を仕組んだのだ。とすれば私は完全に彼らの|罠《わな》の中にはまりこんでしまったことになる。
「そうすると僕はもうお手あげということになりますね。記号士たちからも『|組織《システム》』からも追われ、このままじっとしていれば僕という今の存在は消滅してしまう」
「いや、あんたの存在は終らんです。ただ別の世界に入りこんでしまうだけです」
「同じようなものですよ」と私は言った。「いいですか、僕という人間が虫めがねで見なきゃよくわからないような存在であることは自分でも承知しています。昔からそうでした。学校の卒業写真を見ても自分の顔をみつけるのにすごく時間がかかるくらいなんです。家族もいませんから、今僕が消滅したって|誰《だれ》も困りません。友だちもいないから、僕がいなくなっても誰も悲しまないでしょう。それはよくわかります。でも、変な話かもしれないけど、僕はこの世界にそれなりに満足してもいたんです。どうしてかはわからない。あるいは僕と僕自身がふたつに分裂してかけあい万歳みたいなことをやりながら楽しく生きてきたのかもしれない。それはわかりません。でもとにかく僕はこの世界にいた方が落ちつくんです。僕は世の中に存在する数多くのものを|嫌《きら》い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても[#「とても」に丸傍点]気に入っているんです。向うが僕のことを気に入っているかどうかには関係なくです。僕はそういう風にして生きているんです。どこにも行きたくない。不死もいりません。年をとっていくのはつらいこともあるけれど、僕だけが年とっていくわけじゃない。みんな同じように年をとっていくんです。一角獣も|塀《へい》もほしくない」
「塀じゃなくて壁です」と博士が訂正した。
「なんだっていいです。塀でも壁でも、そんなものはいらないんです」と私は言った。「少し怒っていいですか? あまりないことなんですが、だんだん怒りたくなってきた」
「まあこの際だ、仕方ないでしょう」と老人は耳たぶを|掻《か》きながら言った。
「だいたいこのことの責任は百パーセントあなたにあります。僕には何の責任もない。あなたが始めて、あなたが|拡《ひろ》げて、あなたが僕を巻きこんだんだ。人の頭に勝手な回路を組みこみ、|偽《にせ》の依頼書を作って僕にシャフリングをさせ、『|組織《システム》』を裏切らせ、記号士に追いまわさせ、わけのわからない地底につれこみ、そして今僕の世界を終らせようとしている。こんなひどい話は聞いたことがない。そう思いませんか? とにかくもとに|戻《もど》して下さい」
「ふうむ」と老人はうなった。
「この人の言うとおりよ、おじいさま」と太った娘が口をはさんだ。「おじいさまはときどき自分のことに夢中になりすぎてしまって、それで人に迷惑をかけちゃうことになるのよ。あの足ひれの実験のときだってそうだったでしょ? なんとかしてあげなくっちゃ」
「私は良かれと思ってやったんだが、いかんせん状況が悪い方へ悪い方へと流れてしまったです」と老人はすまなそうに言った。「そして私の手ではどうにもできんところに来ちまったです。私にもどうにもできんし、あんたにもどうにもできん。車輪はどんどん回転を速めており、誰にもそれを|停《と》めることはできんのです」
「やれやれ」と私は言った。
「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
「僕の失ったもの?」
「そうです」と博士は言った。「あんたが失ったもののすべてをです。それはそこにあるのです」