日语学习网
世界尽头与冷酷仙境29
日期:2017-02-16 19:42  点击:352
 私と太った娘は泳ぐときに|濡《ぬ》れないように荷物を小さくまとめて予備のシャツにくるみ、それを頭の上に固定した。見るからに妙な格好だったが、いちいち笑っているほどの暇はなかった。食糧やウィスキーや余分の装備はあとに残してきたので、荷物の|嵩《かさ》はそれほどはない。懐中電灯とセーターと|靴《くつ》と財布とナイフとやみくろよけの装置くらいのものだ。彼女の方の荷物も同じ程度のものだった。
「気をつけてな」と博士は言った。暗い光の中で見ると、博士は最初に見かけたときよりずっと|老《ふ》けてみえた。皮膚にははり[#「はり」に丸傍点]がなく、髪は間違った場所に植えられた植物のようにぱさぱさとして、顔のところどころには茶色いしみが出ていた。こうしてみると、彼もただの疲れた老人のように見えた。天才科学者であろうがなかろうが、人はみな老い、そして死んでいくのだ。
「さよなら」と私は言った。
 我々は|暗《くら》|闇《やみ》の中をロープをつたって水面まで降りた。私が先に降り、降りたところでライトで合図をし、彼女がやってきた。暗闇の中で体を水につけるのは何かしら不気味で気が進まなかったが、もちろん|選《え》り|好《ごの》みをしている余裕はなかった。私はまず片脚を水に入れ、それから肩まで水につかった。水は凍りつくように冷たかったが、水自体にはとくに問題はないようだった。ごく普通の水だ。混じりものもなさそうだし、比重も同じようだった。あたりは井戸の底のようにしんと静まりかえっていた。空気も水も闇も、身じろぎひとつしない。我々の立てる水音だけが、何倍にも拡大されて闇の中に響いていた。それはまるで巨大な水生動物が獲物を|咀《そ》|嚼《しゃく》しているような音だった。私は水に入ってから傷の痛みを博士に治療してもらうことをすっかり忘れていたことに気がついた。
「ここにはまさかあの|爪《つめ》のはえた魚が泳いでいるんじゃないだろうね?」と私は彼女の気配のする方に向って|訊《たず》ねてみた。
「いないわ」と彼女は言った。「たぶんね。あれは伝説のはずよ」
 それでも私は突然巨大な魚が底から上ってきて私の脚を食いちぎるのではないかという思いを頭から追い払うことはできなかった。暗闇というのは様々な恐怖を助長するものなのだ。
「|蛭《ひる》もいない?」
「どうかしら? いないんじゃないかしら?」と彼女は答えた。
 我々は互いの体をロープで結びあわせたまま荷物を濡らさないようにゆっくりとした平泳ぎで〈塔〉をぐるりとまわり、ちょうど裏側のあたりで、博士の照らす懐中電灯の|灯《ひ》をみつけた。灯はかしいだ灯台のようにまっすぐ闇を貫いて水面の一カ所を淡い黄色に染めていた。
「あの方向にずっと進んでいけばいいのよ」と彼女は言った。つまりその水面にあたった光と懐中電灯の光が一列にかさなるようにしていればいいわけだ。
 私が前を泳ぎ、彼女がうしろを泳いだ。私の手が水をかく音と彼女の手が水をかく音とが交互に響いていた。我々はときどき泳ぎをやめてうしろをふり向き、方向を確かめ、進路を調整した。
「荷物を水につけないようにね」と泳ぎながら彼女が私に声をかけた。「装置を濡らしちゃうと使いものにならなくなるわよ」
「大丈夫さ」と私は言った。しかし正直なところ荷物を水につけないためには私はかなりの努力を払わねばならなかった。何もかもが暗黒に包まれているせいで、どこに水面があるのかもわからないのだ。ときどき自分の手が今どこにあるのかもわからなくなってしまうほどだった。私は泳ぎながらオルフェウスが死の国に|辿《たど》りつくために渡らねばならなかった|冥《めい》|土《ど》の川のことを思いだした。世界には数えきれないほどの様々の形の宗教や神話があるが、人人が死について思いつくことはみんな大抵同じなのだ。オルフェウスは舟に乗って闇の川を渡った。私は頭に荷物を結びつけて平泳ぎで渡っている。そういう意味では古代ギリシャ人の方が私よりはずっとスマートだった。傷のことが気になったが、気にしたところでどうなるものでもなかった。幸い緊張しているせいか痛みはそれほど感じなかったし、縫いめが開いてしまったところで、死に至るほどの傷でもないのだ。
「あなたは本当に祖父のことをそんなには怒ってないの?」と娘が訊ねた。暗闇と奇妙な反響のせいで、彼女がいったいどの方向にどれくらい離れているのか、私にはさっぱり見当がつかなかった。
「わからないよ。自分でもわからない」と私は適当な方向に向って叫んだ。自分の声さえも変な方向から聞こえてきた。「君のおじいさんの話を聞いているうちに、もうどうでもいいような気がしてきたんだ」
「どうでもいいって?」
「たいした人生じゃないし、たいした脳じゃない」
「でもあなたはさっき自分の人生に満足してるって言ったわよ」
「言葉のあやだよ」と私は言った。「どんな軍隊にも旗は必要なんだ」
 娘はしばらく私の言った意味を考えこんでいた。そのあいだ我々は黙って泳ぎつづけた。死そのもののような深く重い沈黙が地底の湖面を支配していた。あの魚はどこにいるのだろう? と私は思った。あの不気味な爪のはえた魚はきっとどこかに実在しているに違いないと私は信じはじめていた。魚は水の底にじっと眠っているのだろうか? それともどこかべつの|洞《どう》|窟《くつ》の中を泳ぎまわっているのだろうか? あるいは我々の気配をかぎつけて今こちらに向って進んでいるところなのだろうか? 私は魚の爪が私の足を|捉《とら》えるときの感触を想像して身振いした。近い将来に私が死ぬなり消滅するなりするにせよ、少くともこんな|惨《みじ》めなところで魚に食べられることだけは避けねばならなかった。どうせ死ぬのなら、見なれた太陽の下で死にたい。冷たい水のせいで私の両腕は重く疲れきっていたが、それでも懸命に力をこめて水をかいた。
「でもあなたとても良い人なのね」と娘は言った。娘の声には疲れの|片《へん》|鱗《りん》もうかがえなかった。|風《ふ》|呂《ろ》にでも入っているときのようなのんびりとした声だった。
「そう考えてくれる人は少ない」と私は言った。
「でも私はそう考えるわ」
 私は泳ぎながらうしろを振りかえってみた。博士の照らす懐中電灯の灯はずっと背後に遠ざかってしまっていたが、私の手はまだ目指す岩壁に触れなかった。なんだってこんなに遠いんだろう、と私はうんざりした気分で思った。こんなに遠いなら遠いとひとこと言ってくれればよかったのだ。それならそれなりに私だって覚悟して泳いだのだ。魚はどうしただろう? まだ私の存在に気づかずにいてくれているだろうか?
「祖父のことを弁解するわけじゃないんだけれど」と娘は言った。「祖父には悪気はないの。ただ熱中しちゃうとまわりのことが目に入らなくなってしまうだけなの。これだってもともとは善意で始まったことなのよ。あなたが『|組織《システム》』に変な風にいじりまわされる前になんとか自分なりにあなたの秘密を解明してあなたを救うつもりだったの。祖父は祖父なりに『|組織《システム》』に協力して無理な人体実験をしたことを恥じているのよ。あれは間違ったことなんだわ」
 私は黙って泳ぎつづけた。今更間違っていたなんて言われても、どうにもならない。
「だから祖父を許してあげてね」と娘が言った。
「|僕《ぼく》が許しても許さなくても、そんなことは君のおじいさんにとってはきっと関係ないと思うよ」と私は答えた。「でもどうして君のおじいさんは途中でプロジェクトを|放《ほう》りだしたりしたんだろう? それほど責任を感じているんなら『|組織《システム》』の中でこれ以上犠牲が出ないようにもっと研究を進めるべきじゃないのかな? いくら大組織の中で働くのが|嫌《いや》だといっても彼の研究の延長線上で人がばたばたと死んでいるんだからね」
「祖父は『|組織《システム》』そのものを信用できなくなったのよ」と娘は言った。「計算士の『|組織《システム》』と記号士の『|工場《ファクトリー》』は同じ人間の右手と左手だと祖父は言っていたわ」
「どういうこと?」
「つまり『|組織《システム》』も『|工場《ファクトリー》』もやっていることは技術的には|殆《ほと》んど同じなのよ」
「技術的にはね。でも我々は情報を守り、記号士は情報を盗む。目的がまるで違うさ」
「でもね、もし」と娘は言った。「『|組織《システム》』と『|工場《ファクトリー》』が同じ一人の人間の手によって操られていたとしたらどう? つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」
 私は暗闇の中でゆっくりと水をかきながら彼女の言ったことについて考えをめぐらせてみた。信じられない話だが、まったくありえないことではなかった。たしかに私は『|組織《システム》』のために働いてはいたが、それでは『|組織《システム》』の内部がどういう仕組になっているかと|訊《き》かれても私にはまるでわからなかった。それはあまりにも巨大であり秘密主義によって内部の情報が制限されていたからだ。我々は上からの指示を受け、それをひとつひとつこなしていくだけの存在にすぎなかったのだ。上の方がどうなっているかなんて、私のような末端の人間には見当もつかない。
「もし君の言うとおりだとしたら、ひどく|儲《もう》かる商売になるだろうね」と私は言った。「両方を|競《せ》りあわせることによって、値段をいくらでもつりあげていくことができる。力を伯仲させておけば値崩れする心配もない」
「祖父は『|組織《システム》』の中で研究を進めているうちにそのことに気づいたのよ。結局のところ『|組織《システム》』は国家をまきこんだ私企業にすぎないのよ。私企業の目的は営利の追求よ。営利の追求のためにはなんだってやるわ。『|組織《システム》』は情報所有権の保護を表向きの看板にしているけれど、そんなのは口先だけのことよ。祖父はもし自分がこのまま研究をつづけたら事態はもっとひどいことになるだろうと予測したの。脳を好き放題に改造し改変する技術がどんどん進んでいったら、世界の状況や人間存在はむちゃくちゃになってしまうだろうってね。そこには抑制と歯止めがなくちゃいけないのよ。でも『|組織《システム》』にも『|工場《ファクトリー》』にもそれはないわ。だから祖父はプロジェクトを降りたの。あなたや他の計算士の人たちには気の毒だけど、それ以上研究を進めるわけにはいかなかったのよ。そうすれば先に行ってもっと沢山の犠牲者が出たはずよ」
「ひとつ訊きたいんだけれど、君は最初から最後まで事情をぜんぶ知っていたんだろう?」と私は訊いてみた。
「ええ、知っていたわ」と少し迷ってから彼女は告白した。
「どうして最初にそれをすっかり教えてくれなかったんだ? そうすればこんな|馬《ば》|鹿《か》|気《げ》たところにわざわざ来る必要もなかったし、時間だって節約できた」
「あなたに祖父に会って事情を正確に理解してほしかったからよ」と彼女は言った。「それに私が教えても、あなたきっと信用しなかったんじゃないかしら?」
「そうかもしれない」と私は言った。たしかに第三回路だの不死だのと急に言われてもなかなか信じられるものではない。
 それから少し泳いだところで私の手の先が突然固いものにあたった。考えごとをしていたせいで最初はそれがいったい何を意味するのかわからず頭が一瞬混乱したが、やがてそれが岩壁だということに気がついた。我々はなんとか地底の湖水を泳ぎきったのだ。
「着いたよ」と私は言った。
 彼女も私のそばに来て岩壁を確認した。うしろを振り向くと懐中電灯の光は星のように小さく闇の中に輝いていた。我々はその光のラインに従って十メートルばかり右に移動した。
「たぶんこのあたりね」と娘が言った。「水面から五十センチほど上に横穴が開いているはずなんだけど」
「水面の下に入っちゃったんじゃないのかい?」
「そんなことはないわ。この水面はいつもきちんと同じなの。どうしてかはわからないけれど、とにかくそうなのよ。五センチと変らないわ」
 私は荷物をばらばらにしないように注意しながら頭の上に巻きつけたシャツの中から小型の懐中電灯をとりだし、片手を岩壁のくぼみに置いて体のバランスをとりながら、五十センチほど上を照らしてみた。黄色い|眩《まぶ》しい光が岩を照らしだした。目がその光に慣れるまでにずいぶん時間がかかった。
「穴なんてないみたいだな」と私は言った。
「もう少し右に移動してみて」と娘が言った。
 私は頭の上をライトで照らしながら岩壁に沿って移動した。しかし横穴らしいものは見当らなかった。
「本当に右の方でいいのかい?」と私は訊いた。泳ぐのをやめて水の中でじっとしていると水の冷たさが体の|芯《しん》にまでひしひしと|浸《し》みこんでくるような気がした。体じゅうの関節が凍りついてしまったように固くこわばり、うまく口を開けてしゃべることができなくなってしまう。
「間違いないわ。もう少し右よ」
 私は震えながらまた右に移動した。やがて岩壁に沿って|這《は》わせていた左手が奇妙な感触の物体に触れた。|楯《たて》のように丸く盛りあがったもので、全体の大きさはLPレコードほどだった。指先でたどってみると、その表面に何か人工的な細工が施されていることがわかった。私は懐中電灯の光をそれにあてて詳しく調べてみた。
「レリーフね」と彼女は言った。
 私は声を出すことができなくなっていたので黙って|肯《うなず》いた。それはたしかに我々が聖域に入るときに見かけたのと同じ|図《ず》|柄《がら》のレリーフだった。二匹の気味の悪い爪のはえた魚が|尻《しっ》|尾《ぽ》と口をつなぎあわせて世界を包んでいる。丸いレリーフはまるで海に沈みかけた月のように上三分の二を水面の上にだし、残りの三分の一を水の中にもぐらせていた。先刻見かけたのと同じように実に|精《せい》|緻《ち》な彫りものだった。こんな不安定な足場しかない場所にこれほど見事な細工を施すにはずいぶん手間がかかったに違いない。
「そこが出口よ」と彼女は言った。「たぶん入口と出口にはみんなそのレリーフがあるんじゃないかしら。上を見てみて」
 私は懐中電灯の光で岩壁を上にたどってみた。岩が多少前に出ているせいで陰になってはっきりとは見えなかったが、どうやらそこに何かがあるらしいということはわかった。私は懐中電灯を彼女に手渡し、上にのぼってみることにした。
 レリーフの上にはうまい具合に両手をかけることのできるくぼみがあった。私は全身の力をこめてこわばった体をひっぱりあげ、レリーフの上に足をかけた。それから右手をのばして岩のでっぱりの角をつかみ、体を上にあげて岩の上に首を出した。そこにはたしかに横穴の口が開いていた。暗いせいで定かには見えなかったが、|微《かす》かな風の流れが感じられた。ひやりとして縁の下のような|臭《にお》いのする嫌な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の風だったが、とにかくそこにトンネルがあるらしいことはわかった。私は岩のでっぱりに|両肘《りょうひじ》をかけ、足をくぼみに置いて、その上に体をひっぱりあげた。
「穴があったよ」と私は傷の痛みを抑えながら下に向ってどなった。
「助かったわ」と彼女は言った。
 私は懐中電灯を受けとり、彼女の手を握って上にひっぱりあげた。我々は穴の入口に並んで座って、しばらくそこでがたがたと震えていた。シャツもズボンもたっぷりと水を含ませてから冷凍庫に入れて凍らせたみたいに冷たかった。まるで巨大な水割りグラスを泳いで渡ったような気分だった。
 それから我々は頭の上から荷物を下ろしてほどき、シャツを着替えた。私はセーターを彼女に譲った。濡れたシャツと上着は捨てた。下半身は濡れたままだったが、ズボンと下着の予備までは持ってこなかったのでどうしようもない。
 彼女がやみくろよけの装置をチェックしているあいだに、私は懐中電灯の光を何度か点滅させて、〈塔〉の上にいる博士に我々が無事横穴に到着したことを知らせた。|暗《くら》|闇《やみ》の中にぽつんと浮かんだ黄色い小さな光もそれにあわせて二、三度点滅し、そして消えた。その光が消えてしまうと、世界は再びもとの|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇に|戻《もど》った。距離も厚みも深さも測りしることのできない無の世界だ。
「行きましょう」と彼女は言った。私は腕時計のライトをつけて時刻を見た。七時十八分だった。TV局が|一《いっ》|斉《せい》に朝のニュース番組をやっている時刻だ。地上の人々は朝食をとりながら天気予報や頭痛薬のCMや自動車の対米輸出問題の状況の進展についての情報をまだ眠りの覚めきらない頭に押しこまれているはずだった。しかし|誰《だれ》も私がひと晩かけて地底の迷路をさまよい歩いていることは知らない。氷水の中を泳いだり、蛭にたっぷりと血を吸われたり、腹の傷の痛みを抱えて苦しんでいることも知らない。私の現実世界があと二十八時間と四十二分のうちに終ろうとしていることも知らない。TVのニュース番組では誰もそんなことは教えてくれないからだ。
 
 穴はこれまでに我々が通り抜けてきたものよりずっと狭く、ほとんど這うくらいに身をかがめてしか前に進むことができなかった。おまけにまるで内臓のように上下左右に曲りくねっていた。|竪《たて》|穴《あな》のようになったくぼみに下りてまたよじのぼらねばならないこともあった。まるでジェットコースターの線路みたいに複雑なループを描いていることもあった。おかげで前進するのにひどく時間と手間がかかった。おそらくこれはやみくろたちが掘ったのではなく、自然の|浸蝕《しんしょく》作用によって生じたものなのだろう。いくらやみくろでもわざわざこんな|厄《やっ》|介《かい》な通路を作ったりはしないはずだ。
 三十分進んで、やみくろよけの装置をとりかえ、それからまた十分ばかり歩いたところでその曲りくねった細い通路は終り、突然天井の高い開けた場所に出た。古いビルディングの玄関のようにそこはしん[#「しん」に丸傍点]として暗く、かび臭いにおいがした。通路は丁字形に右と左に伸び、ゆるやかな風が右から左に向けて流れているのが感じられた。彼女は大型のライトで右手にのびる道と左手にのびる道とを交互に照らした。通路はまっすぐにそれぞれの先にある闇の中に吸いこまれていた。
「どっちに行けばいいんだろう?」と私は訊いた。
「右よ」と彼女は言った。「方向としてもそうだし、風もこちらから吹いているもの。祖父が言ったようにこのあたりが|千《せん》|駄《だ》ヶ|谷《や》で、そこから右に折れて神宮球場の方に行くんじゃないかしら」
 私は地上の風景を頭に思い浮かべてみた。もし彼女の言うとおりだとしたら、この上あたりに二軒並んだラーメン屋と|河《かわ》|出《で》書房とビクター・スタジオがあるはずだった。私の通っている床屋もその近くにある。私はもう十年もその床屋に通っているのだ。
「この近くに行きつけの床屋があるんだ」と私は言った。
「そう?」と彼女は興味なさそうに言った。
 世界が終ってしまう前に床屋に行って髪を切るというのも悪くない考えであるような気がした。どうせ二十四時間かそこらで何かたいしたことができるわけでもないのだ。風呂に入ってさっぱりとした服に着替え、床屋に行くくらいが関の山かもしれない。
「気をつけてね」と彼女が言った。「そろそろやみくろの巣に近いらしいわ。声が聞こえるし、嫌な臭いもするわ。私から離れないようにぴったりくっついていてね」
 私は耳を澄まし、臭いを|嗅《か》いでみたが、それらしい音も臭いも感知できなかった。ひゅるひゅるという奇妙な音波が聴こえたような気もしたが、はっきりとそれを知覚することはできなかった。
「|奴《やつ》らは僕たちが近づいていることを知っているのかな?」
「もちろんよ」と彼女は言った。「ここはやみくろたちの国よ。彼らが知らないことはないわ。それでみんな腹を立てているのよ。私たちが彼らの聖域をとおり抜けて巣に近づいていることに対してね。おそらく私たちをつかまえたらひどい目にあわせることでしょうね。だから私から離れちゃ|駄《だ》|目《め》よ。少しでも離れたら暗闇から腕がのびてきてあなたをどこかにひきずりこんじゃうでしょうからね」
 我々はお互いを結びつけたロープをずっと短かくし、五十センチほどの距離を保てるようにした。
「注意して。こっちの壁が|失《な》くなってるわ」と娘が鋭い声で言って、ライトを左手に向けた。彼女の言うように左側の壁はいつの間にか消え失せ、そのかわりに濃密な闇の空間がその姿を見せていた。光は矢のように一直線に闇を貫き、先の方でより深い闇にすっぽりと|呑《の》みこまれていた。闇はまるで生きて呼吸をし、|蠢《うごめ》いているように感じられた。ゼリーのようにどんよりとした不気味な闇だった。
「聞こえる?」と彼女が訊いた。
「聞こえるよ」と私は言った。
 やみくろの声は今では私の耳にもはっきりと聴きとれるようになっていた。しかし正確に言えば、それは声というよりはむしろ耳鳴りに近かった。闇を切りすすみ、ドリルの刃のように鋭く耳を突く、無数の羽虫のうなりだった。それはあたりの壁に激しく反響し、私の鼓膜を妙な角度にねじ曲げていた。私はそのまま懐中電灯を放りだし、地面にしゃがみこんで両手でしっかりと耳を|塞《ふさ》いでしまいたかった。まるで体じゅうの神経という神経に|憎《ぞう》|悪《お》のやすりをかけられているような気がしたのだ。
 その憎悪は私がそれまでに体験したどのような種類の憎悪とも違っていた。彼らの憎悪は地獄の穴から吹きあがってくる激しい風のように我々を押しつぶし、ばらばらにしようと試みていた。地底の闇をひとつにあつめて凝縮したような暗い思いと、光と目を失った世界で|歪《ゆが》められ|汚《けが》された時の流れが、巨大なかたまりとなって、我々の上にのしかかっているように感じられた。私はそれまで憎悪がこれほどの重みを持つことを知らなかった。
「足を止めないで!」と彼女が私の耳に向けてどなった。彼女の声はからからに乾いていたが、震えてはいなかった。彼女にどなられてはじめて、私は自分の足が止まっていることに気づいた。
 彼女は腰と腰を結びあわせたロープを思いきりひっぱった。「止まっちゃ駄目。止まったらおしまいよ。闇の中にひきずりこまれちゃうわ」
 しかし私の足は動かなかった。彼らの憎しみが、私の足をしっかりと地面に押さえつけているのだ。時間がそのおぞましい太古の記憶に向って逆戻りしているような気がした。私はもうどこにも行けないのだ。
 彼女の手が暗闇の中で思いきり私の|頬《ほお》を打った。一瞬耳が遠くなってしまうほどの激しさだった。
「右よ!」と彼女のどなる声が聞こえた。「右よ! わかる? 右足を出すのよ。右だったら、この|頓《とん》|馬《ま》!」
 私はがくがくと音を立てる右足をようやく前に出すことができた。彼ら[#「彼ら」に丸傍点]の声にかすかな落胆が混じるのが感じられた。
「左!」と彼女がどなり、私は左足を前に進めた。
「そうよ、その調子よ。ゆっくり一歩ずつ足を前に出すのよ。大丈夫?」
 大丈夫、と私は言ったが、それが本当に声になったのかどうかは自分でもわからなかった。私にわかるのは、彼女が言うようにやみくろたちが我々をその濃密な闇の中にひきずりこみとりこもうとしていることだった。彼らは恐怖を我々の耳から体にもぐりこませてまず足をとめさせ、それからゆっくりと手もとにたぐり寄せようとしているのだ。
 一度足が動きはじめると、私は今度は逆に走りだしたいという衝動に駆られた。一刻も早くこのおぞましい場所から脱出したかったのだ。
 しかし彼女は私のそんな気持を察したかのように、手をのばして私の手首をしっかりと握りしめた。
「足もとを照らして」と彼女は言った。「壁に背中をつけて、一歩ずつ横に歩くの。わかった?」
「わかった」と私は言った。
「絶対に光を上にあげちゃ駄目よ」
「どうして?」
「やみくろがそこにいるからよ。すぐそこよ」と彼女は|囁《ささや》くように言った。「やみくろの姿を絶対に見ちゃ駄目。見るともう歩けなくなってしまうから」
 我々は懐中電灯の光で足場をたしかめながら、一歩一歩横に歩いた。ときおり冷たく頬を|撫《な》でる風が死んだ魚のような嫌な臭いをはこんできて、そのたびに私は息が詰まりそうになった。内臓がはみだして虫のわいた巨大な魚の体内にはまりこんでしまったような気分だった。やみくろの声はまだつづいていた。それはまるで音の存在するはずのないところから無理矢理音をしぼりだしているような不快な音だった。私の鼓膜はねじまげられたままの形でこわばり、口の中にすえた臭いのする|唾《だ》|液《えき》が次から次へとたまった。
 それでも私の足は反射的に横に進んでいた。私は右足と左足を交互に運ぶことにだけ神経を集中した。ときどき彼女が私に何か声をかけたが、私の耳は彼女の言っていることをうまく聴きとることはできなかった。生きている限り彼ら[#「彼ら」に丸傍点]のこの声を記憶から消し去ることはできないだろうと私は思った。彼らの声はいつか再び深い闇とともに私に襲いかかってくるだろうと。そしていつか必ず、彼らのぬるぬるとした手が私の足首をしっかりと|捉《とら》えるだろう。
 この悪夢のような世界に入りこんでからどれくらいの時間が経過したのか、私にはもうわからなくなってしまっていた。彼女が手にしたやみくろよけの装置はまだ作動中の青いランプをつけていたから、それほどの長い時間は|経《た》っていないはずだったが、私にはそれが二時間にも三時間にも感じられた。
 しかしそのうちに空気の流れがふっと変るのが感じられた。腐臭がやわらぎ、耳にかかった圧力が潮が引くように弱まり、音の響き方も変化した。気がつくとやみくろの声も遠い海鳴り程度のものになっていた。最悪の部分を乗り切ったのだ。彼女がライトを上にあげると、その光は再び岩壁を照らしだした。我々は壁にもたれて深いため息をつき、手の甲で顔にべっとりとついた冷たい汗を|拭《ぬぐ》った。
 彼女も私も長いあいだ口をきかなかった。やみくろたちの遠い声もやがて消え、再び静寂があたりを包んだ。どこかで水滴が地面を打つ小さな音だけが|虚《うつ》ろに響いていた。
「彼らは何をあれほどに憎んでいるんだろう?」と私は彼女に|訊《たず》ねてみた。
「光のある世界とそこに住む者をよ」と彼女は言った。
「記号士たちが奴らと手を組むなんて信じられないな。たとえどんなメリットがあるにせよさ」
 彼女はそれには答えなかった。そしてそのかわりに私の手首をもう一度ぎゅっと握りしめた。
「ねえ、私が今何を考えているかわかる?」
「わからない」と私は言った。
「あなたがこれから行くことになる世界に私もついていくことができたらどんなに素敵だろうって思っているのよ」
「この世界を捨てて?」
「ええ、そうよ」と彼女は言った。「つまらない世界だわ。あなたの意識の中で暮す方がずっと楽しそう」
 私は何も言わずに首を振った。私は私の意識の中なんかで暮したくない。誰の意識の中でも暮したくない。
「とにかく先に進みましょう」と彼女は言った。「いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかないわ。出口になっている下水道を探しあてなくちゃね。今何時|頃《ごろ》かしら?」
 私は腕時計のボタンを押して文字盤のライトをつけた。指はまだかすかに震えていた。震えがとれるまでにはしばらく時間がかかるだろう。
「八時二十分」と私は言った。
「装置をとりかえるわ」と娘は言って新しい機械のスウィッチを入れて作動させ、これまで使っていた方を充電状態に切りかえてから、シャツとスカートのあいだに無造作につっこんだ。これで横穴に入ってからちょうど一時間|経《た》ったことになる。博士の説によればもう少し前に進むと絵画館の並木道の方に向けて左に曲る道があるはずだった。そこまで行けば地下鉄の線路はもう目と鼻の先である。そして少くとも地下鉄は地上の文明の延長線上にある。これで我々はなんとかやみくろたちの国から抜け出すことができるのだ。
 ひとしきり進んだところで道は案の定直角に左に折れていた。どうやら我々は|銀杏《いちょう》並木に出たのだ。季節は秋のはじめだったから、銀杏はまだ青い葉をしっかりとつけているはずだった。私はあたたかい太陽の光と緑の芝生の|匂《にお》いと秋の最初の風を頭の中に思い浮かべてみた。私はそこに何時間も寝転んで空を|眺《なが》めたかった。床屋に行って髪を切り、その足で|外《がい》|苑《えん》に行き芝生に寝転んで空を眺めるのだ。そして思いきり冷たいビールを飲むのだ。世界の終る前に。
「外は晴れているかな?」と私は前を行く娘に訊いてみた。
「さあどうかしら? わからないわ。わかるわけないでしょう?」と娘は言った。
「天気予報は見なかった?」
「そんなの見なかったわ。だって私は一日中あなたの家を探しまわっていたんだもの」
 私は昨夜家を出たとき空に星がでていたかどうか思いだそうとしたが、駄目だった。私が思いだせるのはスカイラインに乗ってデュラン・デュランをカー・ステレオで聴いていた若い男女の姿だけだった。星のことはまるで思いだせない。考えてみればこの何カ月というもの星を見上げたことなんて一度としてないのだ。もし三カ月ばかり前から星が全部空から引き払っていたとしても私は全然それに気づかなかったにちがいない。私が見たり覚えたりしているのは女の手首にはまっていた銀のブレスレットとかゴムの木の|鉢《はち》の中に落ちていたアイス・キャンディーの棒とか、そんなものばかりなのだ。そう思うと、私は自分がとても不十分で不適切な人生を送ってきたような気がした。私はユーゴスラビアの田舎で羊飼いとして生まれ、毎晩北斗七星を眺めながら暮すことだってできたんじゃないかとふと思った。スカイラインもデュラン・デュランも銀のブレスレットもシャフリングもダークブルーのツイードのスーツも、何かしらずっと遠い昔に見た夢であるように思えた。まるで高圧プレス機で車をまるごと一枚の鉄板に押しつぶしてしまうみたいに、様々な種類の記憶が奇妙に|扁《へん》|平《ぺい》になった。記憶は複雑に|絡《から》みあったままクレジット・カードくらいの薄さの一枚の板のようになっていた。正面から見ると少し不自然な感じがするなという程度なのだが、横向きになるとそれは|殆《ほと》んど意味のない細い一本の線にすぎなかった。そこにはたしかに私の|全《すべ》てがつめこまれているのだが、それ自体はただのプラスティックのカードにすぎない。それを解読するために作られた専用の機械のスリットにさしこまない限りは、それはまったく何の意味もなさないのだ。
 たぶん第一回路が薄まりつつあるのだろうと私は想像した。それで私の現実的な記憶がこんな風に扁平で|他《ひ》|人《と》|事《ごと》のように感じられるのだ。私の意識はだんだん今の私自身を離れつつあるのだろう。そしてその私のアイデンティティー・カードは今よりもっともっと薄くなって紙のようになり、やがてぷつりと消滅してしまうのだろう。
 私は彼女の後について機械的に歩を進めながら、スカイラインに乗っていた男女の姿をもう一度思いだしてみた。どうして彼らのことにそれほどこだわるのか自分でもよくわからなかったが、それ以外に思いつけることといっても何もなかった。あの二人は|今《いま》|頃《ごろ》何をしているのだろうか、と私は考えてみた。しかし朝の八時半に彼らが何をしているのか、私にはまったく想像できなかった。まだベッドの中でぐっすりと眠っているかもしれないし、あるいは通勤電車でそれぞれの会社に向っているかもしれない。そのどちらなのかは私にもわからない。現実世界の動き方と私の想像力とがうまくコネクトしないのだ。TVドラマのライターなら適当な筋書きを作りあげてしまうにちがいない。女はフランスに留学中にフランス人の男と結婚したのだがやがて夫が交通事故に遭って植物人間になった。そしてそんな生活に疲れ果てて夫を捨てて東京に|戻《もど》り、ベルギーだかスイスだかの大使館に勤めている。銀のブレスレットは結婚の思い出の品だ。ここで冬のニースの海岸のカットバックが入る。彼女はいつもそのブレスレットを手首につけている。|風《ふ》|呂《ろ》に入るときもセックスをするときもだ。男は安田講堂の生き残りで『灰とダイヤモンド』の主人公みたいにいつもサングラスをかけている。TV局の花形ディレクターで、よく催涙ガスの夢を見てうなされる。妻は五年前に手首を切って自殺した。ここでまたカットバック。とにかくカットバックの多いドラマなのだ。彼は彼女の左手首で揺れるブレスレットを見るたびにぱっくりと割れて血に染まった妻の手首を思いだすので、彼女にそのブレスレットを右の手首にかえてくれないかと頼む。「|嫌《いや》よ」と彼女は言う。「私はいつも左手にしかブレスレットをつけないの」
『カサブランカ』風にピアニストを一人出してきてもいい。アルコール中毒のピアニストだ。ピアノの上にいつもレモンをしぼっただけのストレートのジンのグラスが置いてある。彼は二人の共通の友人で、二人の秘密を知っている。才能のあるジャズ・ピアニストだったのにアルコールで身を持ち崩したのだ。
 そこまで思いついたところでさすがに|馬《ば》|鹿《か》馬鹿しくなって私はそれ以上考えるのをやめた。そんな筋書きは現実とは何の関係もないのだ。しかしそれでは現実とはいったい何かと考えはじめると、私の頭は余計に混乱した。現実は大きなボール紙の箱にぎっしりと詰まった砂のように鈍く重く、そしてとりとめがなかった。私はもう何カ月も星の姿さえ見ていないのだ。
「もう我慢できそうもないな」と私は言った。
「何に対して?」と彼女が|訊《き》いた。
「|暗《くら》|闇《やみ》やかび臭いにおいややみくろや、そんな何もかもに対してさ。|濡《ぬ》れたズボンやら腹の傷やそんなものにも。外の天気さえわからないんだ。今日は何曜日だ?」
「もうすぐよ」と娘は言った。「もうすぐ終るわ」
「頭が混乱してるみたいだ」と私は言った。「外のことがうまく思いだせない。何を考えても変な方向に行ってしまう」
「何を考えていたの?」
「|近《こん》|藤《どう》|正《まさ》|臣《おみ》と中野良子と|山崎努《やまざきつとむ》」
「忘れなさい」と彼女は言った。「何も考えないで。もう少しでここから出してあげるから」
 それで私はもう何も考えないことにした。何も考えないでいるとズボンが脚のまわりに冷たくからまっているのが気になった。そのせいで体が冷えて、腹の傷がまた鈍く痛み始めた。しかしそれほど体が冷えているにもかかわらず、私は不思議に尿意を覚えなかった。この前最後に小便をしたのはいったいいつのことだっただろう? 私は洗いざらいの記憶をかきあつめてひっくりかえしてみたが駄目だった。いつ小便をしたかが思いだせないのだ。
 少くとも地下に降りてからは一度も小便をしていない。その前は? その前は私は車を運転していた。ハンバーガーを食べ、スカイラインに乗った男女を見た。その前は? その前私は眠っていた。太った娘がやってきて私を起した。そのとき小便はしただろうか?たぶんしていない。彼女は荷物を|鞄《かばん》に詰めこむみたいにして私をたたき起し、そのまま連れ出したのだ。小便をする暇もなかった。その前は? その前に何があったのか私にははっきりと思いだせなかった。医者に行ったのだ、たぶん。医者が私の腹を縫いあわせた。しかしどんな医者だ。わからない。とにかく医者だ。白い服を着た医者が私の陰毛のはえ|際《ぎわ》の少し上あたりを縫いあわせたのだ。その前後に私は小便をしただろうか?
 わからない。
 たぶんしていないだろう。もしその前後に小便をしていたとしたら、私は小便をするときの傷の痛み具合をはっきりと覚えているはずだ。それを覚えていないからには、私はきっと小便をしていないのだ。そうすると私はずいぶん長いあいだ小便をしていないことになる。何時間だ?
 時間のことを考えると私の頭は夜明けの鶏小屋のように混乱した。十二時間? 二十八時間? 三十二時間? 私の小便はいったいどこに消えてしまったのだろう? そのあいだ私はビールも飲んだしコーラも飲んだし、ウィスキーも飲んだのだ。そんな私の水分はいったいどこに行ってしまったのだろう?
 いや、私が腹を切られて病院に行ったのは|一昨日《おととい》のことかもしれない。昨日はそれとは違うぜんぜん別の日であったような気もする。しかしそれでは昨日がどんな日であったかということになると、私には皆目見当がつかなかった。昨日というのは|漠《ばく》|然《ぜん》としたひとつの時間のかたまりにすぎなかった。それはまるで水を吸って膨んでしまった巨大な|玉《たま》|葱《ねぎ》のような形をしている。どこに何があるのか、どこを押せば何が出てくるのか、何ひとつとして定かではないのだ。
 いろんな出来事が回転木馬みたいに接近したり離れたりしていた。あの二人組が私の腹を裂いたのはいったいいつのことだったのだろう? それは私が明けがたのスーパーマーケットのコーヒー・スタンドに座っていたより以前だったのだろうかあとだったのだろうか? 私はいつ小便をしたのだろうか? そして私は|何《な》|故《ぜ》小便のことをそんなに気にするのだろうか?
「あったわ」と彼女が言ってうしろを振り向き、私の|肘《ひじ》のあたりを強くつかんだ。「下水よ。出口よ」
 私は小便のことを頭から追い払い、彼女の懐中電灯が照らし出す壁の一郭を眺めた。そこには人間一人がやっともぐりこめるくらいのダスト・シュートのような四角い横穴が開いていた。
「でもこれは下水じゃないぜ」と私は言った。
「下水はこの奥にあるのよ。これは下水に通じる横穴なの。ほら、どぶの|臭《にお》いがするわ」
 私はその穴の入口に顔をつっこんでくんくんと臭いをかいでみた。たしかになじみのあるどぶの臭いがした。地底の迷路をめぐりめぐってやってきたあとでは、そんなどぶの臭いさえなつかしく親密に感じられた。はっきりとした風が奥から吹いてくることもわかった。やがて地面がぴりぴりと細かく震え、穴の奥から地下鉄の電車が線路の上を通りすぎていく音が聞こえてきた。音は十秒か十五秒つづいてから、水道のコックをゆっくりと閉めるときのようにだんだん小さくなり、消えてしまった。間違いない。これが出口なのだ。
「やっと着いたようね」と彼女は言って私の首筋にキスをした。「どんな気持?」
「そんなこと訊かないでくれ」と私は言った。「なんだかよくわからない」
 彼女が先に横穴に頭からもぐりこんだ。彼女のやわらかそうな|尻《しり》が穴の中に消えてしまってから、私はそのあとを追って中に入った。狭い穴がまっすぐにしばらくつづいた。私の懐中電灯は彼女のお尻とふくらはぎしか照らし出さなかった。彼女のふくらはぎは私に白くてつるりとした中国野菜を連想させた。スカートはぐっしょりと濡れて彼女の|太《ふと》|腿《もも》に身寄りのない子供たちのようにぴったりとまつわりついていた。
「ねえ、そこにちゃんといる?」と彼女がどなった。
「いるよ」と私もどなった。
「|靴《くつ》が落ちてるわ」
「どんな靴?」
「男ものの黒い皮の靴。片方だけ」
 やがて私もそれをみつけた。靴は古いものでかかとがつぶれかけていた。靴先についた|泥《どろ》は白くなって固まっている。
「どうしてこんなところに靴があるんだろう?」
「さあ、どうしてかしら。やみくろにつかまった人の靴がこのあたりで脱げちゃったのかもしれないわね」
「あるいはね」と私は言った。
 私は|他《ほか》にとくに見るべきものがなかったので彼女のスカートの|裾《すそ》を観察しながら前進した。スカートはときどき太腿のずっと上までめくれあがり、泥のついていない白いふわりとした|肌《はだ》が見えた。昔でいえばガードルのとめ金具がついているあたりだ。昔はストッキングのトップとガードルのあいだに肌の露出するすきまができたのだ。パンティー・ストッキングが出現する以前の話である。
 そんなこんなで、彼女の白い肌は私に昔のことを思いださせた。ジミ・ヘンドリックスやクリームやビートルズやオーティス・レディングや、そんな時代の頃のことだ。私は口笛でピーター・アンド・ゴードンの『アイ・ゴー・トゥー・ピーセズ』のはじめの何小節かを吹いてみた。良い|唄《うた》だ。甘くて切ない。デュラン・デュランなんかよりずっと良い。でも私がそう感じるのは私が年をとってしまったせいなのかもしれない。なにしろそれが|流《は》|行《や》ったのはもう二十年も前の話なのだ。二十年前にいったい|誰《だれ》がパンティー・ストッキングの出現を予測できただろう?
「どうして口笛なんか吹いてるの?」と彼女がどなった。
「わからない。吹きたいからさ」と私は答えた。
「なんていう唄?」
 私は題を教えた。
「知らないわ、そんな唄」
「君が生まれる前に流行った唄だからね」
「どんな内容の唄なの?」
「体がバラバラになってなくなってしまうっていう唄さ」
「どうしてそんな唄を口笛で吹くの?」
 私は少し考えてみたが、理由はわからなかった。ふと頭に浮かんだだけのことなのだ。
「わからない」と私は言った。
 私がべつの曲を思いだしているあいだに、我々は下水道に行きあたった。下水道とはいっても、それはただの太いコンクリートのパイプにすぎない。直径は一メートル半ほどでその底を二センチほどの深さで水が流れていた。水のまわりにはぬるぬるとした|苔《こけ》のようなものがはえている。その先の方から何度めかの電車の通過音が聞こえてきた。音はいまではうるさいほどにはっきりとして、|微《かす》かな黄色い光さえ見ることができた。
「どうして下水が地下鉄の線路につながっているんだ?」と私は|訊《たず》ねた。
「これは正確には下水じゃないのよ」と彼女は言った。「このへんの地下の|湧《わき》|水《みず》をあつめて地下鉄の|溝《みぞ》に流しているだけよ。でも結果的に生活排水もしみこんでいるから水が汚ないのよ。今何時?」
「九時五十三分」と私は教えた。
 彼女はスカートの中からやみくろよけの装置をひっぱり出してスウィッチを入れ、これまで使っていたものと交換した。
「さあ、もう少しよ。でもまだ油断はしないでね。地下鉄の構内にだってやみくろの力は及んでいるのよ。さっきの靴は見たでしょ?」
「見たさ」と私は言った。
「ぞっとした?」
「かなりね」
 我々はコンクリートのパイプの中を水の流れに沿って進んだ。靴のゴム底が水をはねる音が舌なめずりのようにあたりに響き、それにかぶさるように電車の音が近づいては去っていった。地下鉄の進行音がこれほど|嬉《うれ》しく感じられたことは生まれてはじめてだった。それはまるで生命そのもののように生き生きとして騒々しく、輝かしい光に|充《み》ちているように感じられた。そこには様々な人々が乗りこみ、新聞やら週刊誌やらを読みながらそれぞれの場所へと向っているのだ。私はカラー刷りの|吊《つ》り広告や、ドアの上の路線図のことを思いだした。路線図では銀座線はいつも黄色いラインで示されている。どうして黄色なのかはわからないが、とにかくそれは黄色と決まっているのだ。だから私は銀座線のことを思うたびに黄色のことを考える。
 出口に着くのにそれほどの時間はかからなかった。出口には|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》がはまっていたが、それはちょうど人が一人出入りできる程度に破壊されていた。コンクリートが深くえぐりとられ、鉄の棒がすっぽりと抜きとられていた。明らかにやみくろたちの仕業だが、今回に限っては私は彼らに感謝しないわけにはいかなかった。もし鉄格子がはまったままだったとしたら我々は外界を目の前にしながら身動きできなくなるところだったのだ。
 丸い出口の外に信号灯と器具の収納庫のような四角い木の箱のようなものが見えた。線路と線路を隔てるコンクリートの黒ずんだ支柱が|杭《くい》のように等間隔に並んでいた。支柱についたランプが構内をぼんやりと照らしだしていたが、その光は私の目には必要以上に|眩《まぶ》しく感じられた。長いあいだ光のない地底にもぐっていたせいで目がすっかり暗闇に同化してしまったのだ。
「少しここで待って、目を光に慣れさせましょう」と彼女は言った。「十分か十五分でこれくらいの光に慣れるわ。それに慣れたら少しまた先に進むのよ。そしてまたそこでもっと強い光に目を慣らすの。でないと目が見えなくなっちゃうの。それまでは電車が通っても絶対に見ちゃ駄目よ。わかった?」
「わかった」と私は言った。
 彼女は私の腕をとって、コンクリートの乾いた部分に私を座らせ、そのとなりに並んで腰を下ろした。そして体を支えるように私の右腕の肘の少し上あたりを両手で握った。
 電車の音が近づいてきたので、我々は下を向いてしっかりと目を閉じた。|瞼《まぶた》の外側で黄色いギラギラとした光がしばらく点滅し、やがて耳が痛くなるような|轟《ごう》|音《おん》とともに消えていった。眩しさのせいで、目から大粒の涙がいくつもこぼれた。私はシャツの|袖《そで》で|頬《ほお》に落ちた涙を|拭《ぬぐ》った。
「大丈夫よ、すぐに慣れるわ」と彼女は言った。彼女の目からも涙がこぼれて頬に筋をつくっていた。「あと三本か四本電車をやりすごせばいいのよ。そうすれば目も慣れるから駅のすぐそばまで行けるし、そこまでいけばいくらやみくろでももう襲ってはこれないわ。私たち地上に出られるのよ」
「前にもこれと同じことをした覚えがある」と私は言った。
「地下鉄の構内を歩いたの?」
「まさか、そうじゃないよ。光さ。眩しい光で涙をこぼしたことさ」
「そんなの誰にでもあるでしょ」
「いや違う。それとは違うんだ。特殊な目で、特殊な光なんだ。そしてとても寒い。僕の目は今と同じようにずっと長いあいだ薄闇に慣れていて光を見ることができないんだ。とても特殊な目なんだ」
「もっと他に思いだせる?」
「それだけだよ。それしか思いだせない」
「きっと記憶が逆流しているのよ」と彼女は言った。
 彼女は私にもたれかかっていたので、私は腕に彼女の乳房のふくらみを感じつづけていた。濡れたズボンをはいているせいで、体は冷えきっていたが、その乳房のあたる部分だけが暖かかった。
「これから地上に出るけれど、あなたには何か予定があるの? どこに行くとか、何をしたいとか、誰かに会いたいとか、そういうの」彼女はそう言って、腕時計をのぞいた。「あと二十五時間と五十分」
「家に戻って|風《ふ》|呂《ろ》に入る。服を着替える。それから床屋に行くかもしれない」と私は言った。
「それでもまだ時間があまるわ」
「あとのことはそのあとで考えるさ」と私は言った。
「私も一緒にあなたのお|家《うち》に行っていいかしら?」と彼女が|訊《き》いた。「私もお風呂に入って着替えたいわ」
「かまわないよ」と私は言った。
 二台めの電車が青山一丁目の方向からやってきたので、我々はまた顔を下に向けて目を閉じた。光はあいかわらず眩しかったが、前ほどは涙が出なくなっていた。
「床屋に行くほど髪はのびてないわ」と娘が私の頭に光をあてて言った。「それにきっと長い方が似合うわよ」
「長いのには飽きたんだ」
「でもいずれにせよ床屋に行くほどのびてはいないわ。この前いつ床屋に行ったの?」
「わからない」と私は言った。床屋にこの前いつ行ったかなんて、私にはとても思いだせない。私には昨日いつ小便をしたかさえロクに思いだせないのだ。何週間も前のことなんてまるで古代史みたいなものだ。
「あなたのところに私に合うサイズの服はあるかしら?」
「どうかな、たぶんないね」
「まあいいわ、なんとかするわ」と彼女は言った。「あなたベッド使う?」
「ベッド?」
「つまり女の子を呼んでセックスするかっていうこと」
「いや、そんなこと考えなかったな」と私は言った。「たぶんしないと思う」
「じゃあ、そこで眠っていい? 祖父のところに|戻《もど》る前にひと眠りしたいの」
「べつに構わないけれど、|僕《ぼく》の部屋には記号士やら『|組織《システム》』の人間やらが押しかけてくるかもしれないぜ。なにしろ僕は最近突然人気がでてきたみたいだし、ドアには|鍵《かぎ》もかからないからね」
「そんなの気にしないわよ」と彼女は言った。
 たぶん本当に気にしないのだろう、と私は思った。人それぞれ気にすることの対象が異っているのだ。
 渋谷の方向から三台めの電車がやってきて、我々のすぐ前を通り過ぎていった。私は目を閉じて頭の中でゆっくりと数を数えた。十四まで数えたところで、電車の最後尾が通過していった。目はもう|殆《ほと》んど痛まなくなっていた。これでやっと地上に出るための第一段階をのりこえることができたのだ。これでもうやみくろにつかまって井戸に吊されることもなく、巨大な魚に食いちらされることもないのだ。
「さあ」と言って彼女は私の腕から手を離して立ちあがった。「そろそろでかけましょう」
 私は|肯《うなず》いて立ちあがり、彼女のあとについて地下鉄の線路に下りた。そして青山一丁目の方向に向けて歩きはじめた。
 

分享到:

顶部
11/25 02:52