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世界尽头与冷酷仙境35
日期:2017-02-16 19:48  点击:472
 図書館に車を|停《と》めたのは五時二十分だった。時間はまだたっぷりあったので、私は車を降りて雨あがりの街をぶらぶら散歩することにした。カウンター式のコーヒー・ショップに入ってTVのゴルフ中継を見ながらコーヒーを飲み、ゲーム・センターでヴィデオ・ゲームをやって時間をつぶした。川を渡って攻めこんでくる戦車隊を対戦車砲で|殲《せん》|滅《めつ》させるゲームだった。最初のうちは私の方が優勢だったが、ゲームが進むにつれて敵の戦車の数はレミングの大群みたいに増えて、結局は私の陣地を破壊した。陣地が破壊されると画面が核爆発みたいに白熱光でまっ白になった。それから〈GAME OVER—INSERT COIN〉という文字があらわれた。私は指示に従ってスリットに百円玉をもう一枚入れた。すると音楽が鳴り響いて、私の陣地が無傷のまま再現した。それは文字どおり|敗《ま》けるための戦闘だった。私が敗けないことにはゲームはいつまでたっても終らないし、いつまでたっても終らないゲームになんて何の意味もないのだ。ゲーム・センターだって困るし、私だって困る。やがて再び私の陣地は破壊され、画面に白熱光があらわれた。そして〈GAME OVER—INSERT COIN〉の文字が浮かびあがった。
 ゲーム・センターのとなりは金物店で、ショーウィンドウには様々な種類の工具が見映えよくディスプレイされていた。レンチやスパナやドライバーのセットに並んで電動の|釘《くぎ》|打《う》ち機や電動のドライバーの姿も見えた。皮のケースに入ったドイツ製の携帯用工具セットもあった。ケース自体は女性の持つパースくらいの大きさしかないが、中には小型ののこぎりからハンマー、検電器までぎっしりと詰めこまれている。そのとなりには三十本セットの彫刻刀があった。それまで彫刻刀の刃に三十ものバリエーションがあるなどと考えたこともなかったので、その三十種類|一《ひと》|揃《そろ》えの彫刻刀セットは私に少なからぬショックを与えた。三十本の刃はみんなそれぞれに少しずつ違っていたし、中の何本かはどうやって使えばいいのか見当もつかないような形をしていた。ゲーム・センターの騒々しさに比べると金物店の中は氷山の裏側みたいに静かだった。暗い店の奥のカウンターには眼鏡をかけた髪の薄い中年の男が座って、ドライバーで何かを分解していた。
 私はふと思いついて店の中に入り、|爪《つめ》|切《き》りを探した。爪切りは|髭《ひげ》|剃《そ》りセットのとなりに、|昆虫《こんちゅう》標本のような格好できちんと並んでいた。中にひとつどうしても使い方のわからない不思議なかたちをした爪切りがあったので、私はそれを選んでカウンターに持っていった。それはのっぺりとした五センチほどの長さのステンレス・スティールの金属片で、どこをどう押さえれば爪が切れるのか想像もつかなかった。
 私がカウンターに行くと店主はドライバーと分解しかけていた小型の電気|泡《あわ》|立《た》て器を下に置いて、私にその爪切りの使い方を教えてくれた。
「いいですか、よく見ていて下さい。これがいち[#「いち」に丸傍点]です。そしてに[#「に」に丸傍点]、です。次にさん[#「さん」に丸傍点]です。ほら爪切りになったでしょ?」
「なるほど」と私は言った。たしかにそれは立派な爪切りになっていた。彼は爪切りをまたもとの金属片に|戻《もど》して、私にかえした。私は彼のやったとおりにして、それをまた爪切りに戻した。
「良いものです」と彼は秘密を打ちあけるように言った。「ヘンケルの製品、一生ものです。旅行するときに便利なんですよ。|錆《さ》びないし、刃もしっかりしてます。犬の爪を切っても大丈夫です」
 私は二千八百円払ってその爪切りを買った。爪切りは小さな黒い皮のケースに入っていた。私に|釣《つ》り|銭《せん》をわたすと、彼はまた泡立て器の分解をはじめた。たくさんのねじがサイズにあわせてそれぞれの白いきれいな|皿《さら》に区分されていた。皿の上に並んだ黒いねじはみんな幸せそうに見えた。
 
 爪切りを買ってしまうと、私は車に戻り、『ブランデンブルク・コンチェルト』を聴きながら彼女を待った。そしてどうして皿の上のねじがあんなに幸せそうに見えたのだろうと考えてみた。あるいはそれはねじが泡立て器の一部であることをやめてねじとしての独立性をとりもどしたからかもしれない。あるいはそれは白い皿というねじにとっては破格ともいえる立派な場所を与えられたからかもしれない。いずれにせよ何かが幸せそうに見えるというのはなかなか気持の良いものだった。
 私は上着のポケットから爪切りを出してもう一度組みたて、私の爪の端の方を少しだけためしに切ってみてからもとに戻してケースに入れた。切り心地は悪くなかった。金物店というのはどことなく|人《ひと》|気《け》のない水族館に似ている。
 閉館時間の六時が近づくと図書館の玄関からたくさんの人が出てきた。そのほとんどは閲覧室で勉強をしていたらしい高校生だった。彼らの多くは私のと同じようなビニールのスポーツバッグを手にさげていた。じっと見ていると高校生というのはみんなどことなく不自然な存在であるように思えた。みんなどこかが拡大されすぎていて、何かが足りないのだ。もっとも彼らの目から見れば私の存在の方がずっと不自然に映ることだろう。世の中というのはそういうものなのだ。人はそれをジェネレーション・ギャップと呼ぶ。
 高校生にまじって老人たちの姿も見えた。老人たちは日曜日の午後を雑誌閲覧室で雑誌を読んだり四種類の新聞を読んだりして過すのだ。そして象のように知識を|溜《た》めこんで、夕食の待つ我が家へと帰っていくのだ。老人たちの姿には高校生ほどの不自然さは感じられなかった。
 彼らが出ていってしまうとどこかでサイレンの鳴る音が聞こえた。六時だった。そのサイレンの音を聞くと、私は実に久しぶりに空腹感を覚えた。考えてみれば朝からハムエッグ・サンドウィッチを半分と小さなタルトを一個と生ガキしか食べていないし、昨日はといえば|殆《ほと》んど何も食べていないようなものなのだ。空腹感は巨大な穴のようだった。地底で見かけた石を|放《ほう》りこんでも何の音も聞こえないあの暗くて深い穴みたいだ。私は|椅《い》|子《す》の背を倒して車の低い天井を|眺《なが》めながら食べ物のことを考えた。ありとあらゆる種類の食べ物が私の頭に浮かんでは消えていった。白い皿に盛ったねじのことも頭に浮かんだ。ホワイト・ソースをかけてとなりにクレソンをあしらうとねじもなかなか|美《う》|味《ま》そうに見えた。
 リファレンス係の女の子が図書館の玄関から出てきたのは六時十五分だった。
「これあなたの車?」と彼女は言った。
「いや、借りものなんだ」と私は言った。「あまり似合わない?」
「そうね、あまり似合わないわね。こういうのってもっと若い人が乗る車なんじゃないかしら?」
「レンタ・カー会社にこれしか残ってなかったんだ。べつにとくに気に入って借りたわけじゃない。なんだってよかったんだ」
「ふうん」と彼女は言って品定めするように車のまわりをぐるりとまわり、反対側のドアから座席に乗りこんだ。そして車内を細かく検分し、灰皿を開けたりコンパートメントの中をのぞいたりした。
「『ブランデンブルク』ね?」と彼女は言った。
「好きなの?」
「ええ、大好きよ。いつも聴いてるわ。カール・リヒターのものがいちばん良いと思うけど、これはわりに新しい録音ね。えーと、|誰《だれ》かしら?」
「トレヴァー・ピノック」と私は言った。
「ピノックが好きなの?」
「いや、べつに」と私は言った。「目についたから買ったんだ。でも悪くないよ」
「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」
「ない」
「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなか|凄《すご》|味《み》があるわよ」
「今度聴いてみる」と言ったが、そんな暇があるものかどうか私にはわからなかった。時間はあと十八時間しか残ってないし、そのあいだには少し眠る必要もある。いくら人生が残り少ないとはいえまったく眠らないでひと晩起きているわけにもいかない。
「何を食べに行く?」と私は|訊《き》いてみた。
「イタリア料理なんてどうかしら?」
「いいね」
「私の知ってるところがあるから、そこに行きましょう。わりに近くよ。材料がすごく新鮮なの」
「腹が減った」と私は言った。「ねじでも食べられちゃいそうだ」
「私もよ」と彼女は言った。「それ、良いシャツね」
「ありがとう」と私は言った。
 その店は図書館から車で十五分ほどの距離にあった。くねくねと曲った住宅地の中の道を人や自転車をよけながらのろのろと進んでいくと、坂道の途中に突然イタリア料理店が姿を見せた。白い木造の洋風住宅をそのままレストランに転用したようなつくりで、看板も小さく、よく注意してみなければとてもレストランとはわからない。店のまわりは高い|塀《へい》に囲まれた静かな住宅街で、高くそびえたヒマラヤ|杉《すぎ》や松の枝が夕暮の空にその輪郭を暗く描いていた。
「こんなところにレストランがあるなんてとても気がつかないな」と私は車を店の前の駐車場にとめながら言った。
 店はそれほど広くなく、テーブルが三つとカウンターの席が四つあるだけだった。エプロンをつけたウェイターが我々をいちばん奥のテーブルに案内した。テーブルの横の窓の外には梅の木の枝が見えた。
「飲み物はワインでいいかしら?」と彼女が訊いた。
「まかせるよ」と私は言った。私はワインについてはビールほどくわしくないのだ。彼女がワインのことをこまごまとウェイターと協議しているあいだ、窓の外の梅の木を眺めていた。イタリア料理店の庭に梅の木がはえているというのも何かしら不思議な気がしたが、本当はそれほど不思議ではないことなのかもしれない。イタリアにも梅の木はあるのかもしれない。フランスにだってかわうそがいるのだ。ワインが決まると我々はメニューを広げて食事の作戦を立てた。選択にはかなりの時間がかかった。まずオードヴルに|小《こ》|海《え》|老《び》のサラダ|苺《いちご》ソースかけと生ガキ、イタリア風レバームース、イカの墨煮、なすのチーズ揚げ、わかさぎのマリネをとり、パスタに私はタリアテルカサリンカを、彼女はバジリコ・スパゲティーを選んだ。
「ねえ、それとべつにこのマカロニの魚ソースあえというのをとって半分こしない?」と彼女が言った。
「いいね」と私は言った。
「今日は魚は何がいいかしら?」と彼女がウェイターに|訊《たず》ねた。
「本日は新鮮なすずきが入っております」とウェイターは言った。「アーモンドをあしらった蒸し焼きでいかがでしょう?」
「それをいただくわ」と彼女は言った。
「|僕《ぼく》も」と私は言った。「それにほうれん草のサラダとマッシュルーム・リゾット」
「私は温野菜とトマト・リゾット」と彼女は言った。
「リゾットはかなりのヴォリュームがございますが」と心配そうにウェイターが言った。
「大丈夫。僕は昨日の朝からほとんど何も食べてないし、彼女は胃拡張だから」と私は言った。
「ブラックホールみたいなの」と彼女は言った。
「お持ちいたします」とウェイターが言った。
「デザートには|葡《ぶ》|萄《どう》のシャーベットとレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒー」と彼女は言った。
「同じものを」と私は言った。
 ウェイターが時間をかけて注文を注文票に書きこんでから行ってしまうと、彼女はにっこり笑って私の顔を見た。
「べつに私にあわせてたくさん料理を注文したわけじゃないんでしょ?」
「本当に腹が減ってるんだ」と私は言った。「こんなに腹が減ったのは久しぶりだな」
「素敵」と彼女は言った。「私、少食の人って信用しないの。少食の人ってどこかべつのところでその埋めあわせをしてるんじゃないかって気がするんだけど、どうなのかしら?」
「よくわからない」と私は言った。よくわからない。
「よくわからない、というのが口ぐせなのね、きっと」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、というのも口ぐせなのね」
 私は言うことがなくなったので黙って|肯《うなず》いた。
「どうしてなの? あらゆる思想は不確定だから?」
 よくわからない、そうかもしれない、と私が頭の中でつぶやいていると、ウェイターがやってきて宮廷の専属接骨医が皇太子の|脱臼《だっきゅう》をなおすときのような格好でうやうやしくワインの|栓《せん》を抜き、グラスにそそいでくれた。
「『僕のせいじゃない』というのは『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。
「そう、ムルソー」と彼女は繰りかえした。「高校時代に読んだわ。でも今の高校生って『異邦人』なんてぜんぜん読まないのよ。この前図書館で調査したの。あなたはどんな作家が好きなの?」
「ツルゲーネフ」
「ツルゲーネフはそんなたいした作家じゃないわ。時代遅れだし」
「そうかもしれない」と私は言った。「でも好きなんだ。フローベールとトマス・ハーディーも良いけど」
「新しいものは読まないの?」
「サマセット・モームならときどき読むね」
「サマセット・モームを新しい作家だなんていう人今どきあまりいないわよ」と彼女はワインのグラスを傾けながら言った。「ジュークボックスにベニー・グッドマンのレコードが入ってないのと同じよ」
「でも|面《おも》|白《しろ》いよ。『|剃刀《かみそり》の刃』なんて三回も読んだ。あれはたいした小説じゃないけど読ませる。逆よりずっと良い」
「ふうん」と彼女は不思議そうに言った。「それはともかく、そのオレンジ色のシャツよく似合うわよ」
「どうもありがとう」と私は言った。「君のワンピースもとてもいい」
「それはどうも」と彼女は言った。ダークブルーのヴェルヴェットのワンピースで、小さな白いレースの|襟《えり》がついていた。首には細い銀のネックレスが二本。
「あなたの電話があったあとで|家《うち》に帰って着替えてきたの。家が職場のすぐ近くだとすごく便利なのよ」
「なるほど」と私は言った。なるほど。
 オードヴルがいくつかはこばれてきたので、我々はしばらくのあいだ黙ってそれを食べた。気取ったところのないさっぱりとした味つけだった。材料も新鮮だった。カキは海の底からひきあげたばかりみたいによくしまって母なる海の|匂《にお》いがした。
「それで一角獣のことはうまくかたがついたのかしら?」と彼女はカキをフォークで|殻《から》からはがしながら訊いた。
「まあね」と私は言って、口もとについたイカの墨をナプキンで|拭《ぬぐ》った。「いちおうのかたはついた」
「一角獣はどこかにいたの?」
「ここにね」と私は言って指の先で自分の頭をつついた。「一角獣は僕の頭の中に住んでいるんだ。群を作ってさ」
「それは象徴的な意味で?」
「いや、そうじゃない。象徴的な意味はほとんどないと思う。実際に僕の意識の中に住んでいるんだ。ある人がそれをみつけだしてくれたんだ」
「面白そうな話ね。もっと聞きたいわ。話して」
「それほど面白くない」と私は言って、なすの|皿《さら》を彼女の方にまわした。彼女はそのかわりにわかさぎの皿をまわしてくれた。
「でも聞きたいわ、すごく」
「意識の底の方には本人に感知できない|核《コア》のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ。街には川が一本流れていて、まわりは高い|煉《れん》|瓦《が》の壁に囲まれている。街の住人はその外に出ることはできない。出ることができるのは一角獣だけなんだ。一角獣は住人たちの自我やエゴを吸いとり紙みたいに吸いとって街の外にはこびだしちゃうんだ。だから街には自我もなくエゴもない。僕はそんな街に住んでいる——ということさ。僕は実際に自分の目で見たわけじゃないからそれ以上のことはわからないけどね」
「すごく独創的な話だわ」と彼女は言った。私は彼女に説明してから老人が川のことなんて一言も話さなかったことに気づいた。どうやら私は少しずつその世界に引きよせられつつあるようだった。
「でも僕が意識して作ったわけじゃない」と私は言った。
「たとえ無意識的にであるにせよ、作ったのはあなたでしょ?」
「まあね」と私は言った。
「そのわかさぎ悪くないでしょ?」
「悪くない」
「でもその話、私があなたに読んであげたロシアの一角獣の話と似ていると思わない?」と彼女はナイフでなすを半分に切りながら言った。「ウクライナの一角獣もまわりを絶壁に囲まれたコミュニティーの中で暮していたのよ」
「似てるね」と私は言った。
「何か共通点があるのかもしれないわ」
「そうだ」と私は言って上着のポケットに手をつっこんだ。「君にプレゼントがあるんだ」
「プレゼントって大好き」と彼女は言った。
 私はポケットから爪切りを出して彼女にわたした。彼女はそれをケースから出して不思議そうに|眺《なが》めた。「なあに、これ?」
「貸してごらん」と私は言って、彼女から爪切りを受けとった。「よく見てて。これがいち[#「いち」に丸傍点]で、次がに[#「に」に丸傍点]で、そしてさん[#「さん」に丸傍点]」
「爪切りね?」
「そのとおり。旅行するときに便利なんだ。|戻《もど》すときは逆にやればいい。ほらね」
 私は爪切りをまた小さな金属片に変えて、彼女に返した。彼女は自分で爪切りを組みたて、またもとに戻した。
「面白いわ。どうもありがとう」と彼女は言った。「でもあなたはよく女の子に爪切りなんかをプレゼントするの?」
「いや、爪切りははじめてだな。さっき金物店を眺めてたら何か欲しくなって買っちゃったんだ。彫刻刀セットは大きすぎたから」
「爪切りでいいわ。ありがとう。爪切りってすぐにどっかに行っちゃうから、いつもこれをバッグの内ポケットに入れとくことにするわ」
 彼女は爪切りをケースに入れ、ショルダーバッグの中にしまった。
 オードヴルの皿がさげられ、パスタが運ばれてきた。私の激しい空腹感はまだつづいていた。六皿のオードヴルは私の体の中の虚無の穴にほとんど何の|痕《こん》|跡《せき》も残さなかった。私はかなりの量のあるタリアテルを比較的短かい時間で胃の中に送りこみ、それからマカロニの魚ソースあえを半分食べた。それだけをかたづけてしまうと|暗《くら》|闇《やみ》の中にほのかな|灯《あか》りが見えてきたような気がした。
 パスタが終ってからすずきが運ばれてくるまで、我々はワインのつづきを飲んだ。
「ねえ、ところで」と彼女はワイン・グラスの縁に|唇《くちびる》をつけたまま言った。おかげで彼女の声はグラスの中で響いているような妙にくぐもったかんじになった。「あなたの破壊された部屋のことだけど、あれは何かとくべつな機械を使ったの? それとも何人かがよってたかってやったの?」
「機械は使わない。一人の人間がやった」と私は言った。
「よほど|頑丈《がんじょう》な人みたいね」
「疲れというものを知らないんだ」
「あなたの知ってる人?」
「いや初めて会った人」
「部屋の中でラグビーの試合やったってあんなに無茶苦茶にはならないわよ」
「そうだろうね」と私は言った。
「それはその一角獣の話に関連したことなの?」と彼女が訊いた。
「たぶんしていると思う」
「それはもう解決したの?」
「解決はしていない。少くとも彼らにとっては解決していない」
「あなたにとっては解決したの?」
「しているとも言えるし、していないとも言える」と私は言った。「選択のしようがないから解決しているとも言えるし、自分で選択したわけじゃないから解決したことにはならないとも言える。なにしろ今回の出来事に関しては僕の主体性というものはそもそもの最初から無視されてるんだ。あしかの水球チームに一人だけ人間がまじったみたいなものさ」
「それで明日からどこか遠くへ行っちゃうのね?」
「まあね」
「きっと複雑な事件にまきこまれているのね?」
「複雑すぎて僕にも何が何だかよくわからない。世界はどんどん複雑になっていく。核とか社会主義の分裂とかコンピューターの進化とか人工授精とかスパイ衛星とか人工臓器とかロボトミーとかね。車の運転席のパネルだって何がどうなってるのかわかりゃしない。僕の場合は簡単に説明すれば情報戦争にまきこまれちまっているんだ。要するにコンピューターが自我を持ちはじめるまでのつなぎさ。まにあわせなんだ」
「コンピューターはいつか自我を持つようになるの?」
「たぶんね」と僕は言った。「そうすればコンピューターが自分でデータをスクランブルして計算するようになる。|誰《だれ》にも盗めない」
 ウェイターがやってきて我々の前にすずきとリゾットを置いた。
「私にはよくわからないわ」と彼女はフィッシュ・ナイフですずきの身を切りながら言った。「図書館というのはとても平和なところだから。本がいっぱいあって、みんながそれを読みに来るだけ。情報はみんなに開かれているし、誰も争ったりしないわ」
「僕も図書館につとめればよかったんだ」と私は言った。ほんとうにそうするべきだったのだ。
 我々はすずきを食べ、リゾットをひと粒残らずたいらげた。私の空腹感の穴はようやく底が見えるまでになってきていた。
「すずきは|美《お》|味《い》しかったわ」と彼女が満足そうに言った。
「バター・ソースの作り方にコツがあるんだ」と私は言った。「エシャロットを細かく切って良いバターに混ぜて、丁寧に焼くんだ。焼くときに手を抜くと良い味がつかない」
「料理を作るのが好きなのね?」
「料理というものは十九世紀からほとんど進化していないんだ。少くとも|美《う》|味《ま》い料理に関してはね。材料の新鮮さ・手間・味覚・美感、そういうものは永久に進化しない」
「ここのレモン・スフレもおいしいわよ」と彼女は言った。「まだ食べられる?」
「もちろん」と私は言った。スフレくらいなら五つだって食べられる。
 私は葡萄のシャーベットを食べ、スフレを食べ、エスプレッソ・コーヒーを飲んだ。たしかに素晴しいスフレだった。デザートというのはこれくらいでなくてはならない。エスプレッソも手のひらにとることができそうなくらいしっかりとして丸味のある味だった。
 我々が何もかもをそれぞれの巨大な穴の中に放りこんだところで、シェフがあいさつにやってきた。非常に満足したと我々は彼に言った。
「これだけ召しあがっていただけると、我々としても作りがいがあるというものです」とその料理人は言った。「イタリアでもこれだけ召しあがれる方はそんなにはいらっしゃいません」
「どうもありがとう」と私は言った。
 シェフが調理場に戻ってしまうと、我々はウェイターを呼んでもう一杯ずつエスプレッソ・コーヒーを注文した。
「私と同じだけの量を食べて平然としていられる人はあなたがはじめてよ」と彼女は言った。
「まだ食べられる」と私は言った。
「私の家に冷凍のピツァとシーヴァス・リーガルが一本あるわ」
「悪くないな」と私は言った。
 
 彼女の家はたしかに図書館のすぐ近くにあった。小さな建売り住宅だったが、それでも一軒家だった。ちゃんとした玄関があり、人間がひとり寝そべることができるくらいの庭もついていた。庭にはほとんど日があたる見込みはなさそうだったが、|隅《すみ》の方にはちゃんとつつじが植えてあった。二階までついている。
「結婚していたときにこの家を買ったの」と彼女は言った。「ローンは夫の生命保険で返したわ。子供を作るつもりで買ったんだけど、一人じゃ広すぎるわね」
「そうだろうな」と私は居間のソファーの上であたりを見まわしながら言った。
 彼女は冷凍庫からピツァを出してオーヴンに入れ、それからシーヴァス・リーガルとグラスと氷を居間のテーブルにはこんでくれた。私はステレオ・セットのスウィッチを入れ、カセット・デッキのプレイ・ボタンを押した。私が適当に選んだテープにはジャッキー・マクリーンとかマイルズ・デイヴィスとかウィントン・ケリーとか、その手の音楽が入っていた。私はピツァが焼けるまで、『バッグズ・クルーヴ』とか『飾りのついた四輪馬車』とかを聴きながら一人でウィスキーを飲んだ。彼女は自分のためにワインを開けた。
「古いジャズは好き?」と彼女が|訊《き》いた。
「高校の|頃《ころ》はジャズ喫茶でこんなのばかり聴いてたな」と私は言った。
「新しいものは聴かないの?」
「ポリス、デュラン・デュラン、なんでも聴く。みんなが聴かせてくれるんだ」
「でも自分からはあまり聴かないのね?」
「必要がないから」と私は言った。
「彼は——死んだ主人のことだけど——いつも古い音楽ばかり聴いてたわ」
「|僕《ぼく》に似てる」
「そうね、たしかに少し似てるわ。バスの中で殴り殺されたの、鉄の|花《か》|瓶《びん》で」
「どうして?」
「バスの中でヘアー・スプレイを使っている若い男に注意したら、相手が鉄の花瓶で殴りかかってきたの」
「どうして若い男が鉄の花瓶なんか持っていたんだろう?」
「わからないわ」と彼女は言った。「見当もつかないわ」
 私にも見当がつかなかった。
「それにしてもバスの中で殴り殺されるなんてひどい死に方だと思わない?」
「たしかにそうだね。気の毒だ」と私は同意した。
 ピツァが焼きあがり、我々はそれを半分ずつ食べ、ソファーに並んで酒を飲んだ。
「一角獣の頭骨を見たい?」と私は訊いてみた。
「ええ、見たいわ」と彼女は言った。「本当に持ってるの?」
「レプリカだけどね。本物じゃない」
「でも見てみたいわ」
 私は外に|停《と》めた車のところまで行き、後部座席からスポーツバッグをとって戻ってきた。十月のはじめのおだやかで気持の良い夜だった。空を|覆《おお》っていた雲はところどころで切れて、そのあいだから満月に近い月が見えた。明日はどうやら良い天気になりそうだった。私は居間のソファーに戻り、バッグのジッパーを開け、バスタオルにくるんだ頭骨を出して彼女にわたした。彼女はワイン・グラスをテーブルに置き、注意深くその頭骨を点検した。
「よくできてるわ」
「頭骨の専門家が作ってくれたんだ」と私はウィスキーを飲みながら言った。
「まるで本物みたい」
 私はカセット・テープを停め、バッグの中から例の|火《ひ》|箸《ばし》をとりだして頭骨を|叩《たた》いてみた。前と同じくうん[#「くうん」に丸傍点]という乾いた音がした。
「それはなあに?」
「頭骨にはそれぞれの独自の音があるんだ」と私は言った。「頭骨の専門家はその音から様様な記憶をよみがえらせることができる」
「素敵な話ね」と彼女は言った。そして自分でもその火箸を使って頭骨を叩いてみた。「レプリカじゃないみたい」
「かなり偏執的な人間が作ったからね」
「私の夫の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》は砕けちゃったの。だからきっと正しい音は出ないわね」
「どうかな、よくわからない」と私は言った。
 彼女は頭骨をテーブルの上に置き、グラスをとってワインを飲んだ。我々はソファーの上で肩を寄せあったままグラスを傾け、頭骨を眺めた。肉をそぎおとされた獣の頭骨は我々に向って笑いかけているようにも見えたし、思いきり空気を吸いこもうとしているところのようにも見えた。
「何か音楽をかけて」と彼女が言った。
 私はテープの山の中からまた適当なものをひっぱりだしてデッキに入れてボタンを押し、ソファーに戻った。
「ここでいい? それとも二階のベッドに行く?」と彼女が訊いた。
「ここがいい」と私は言った。
 スピーカーからはパット・ブーンの『アイル・ビー・ホーム』が流れていた。時間が間違った方向に流れているような気がしたが、もうそれもどうでもいいことだった。時間なんて勝手に好きな方向に流れていけばいいのだ。彼女は庭に面した窓のレースのカーテンを閉め、部屋の電気を消した。そして月の光の中で服を脱いだ。彼女はネックレスをとり、ブレスレットの形をした腕時計をとり、ヴェルヴェットのワンピースを脱いだ。私も腕時計を外してソファーの背もたれの向うに放り投げた。それから上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、グラスの底に残ったウィスキーを飲み干した。
 彼女がパンティー・ストッキングをくるくると丸めるように脱いでいるところで曲はレイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』にかわった。私は目を閉じて両脚をテーブルの上に載せ、オン・ザ・ロックのグラスの中で氷をまわすみたいに、頭の中で時間をまわしてみた。何もかもがずっと昔に一度起ったことみたいだった。脱ぐ服とバックグラウンド・ミュージックと|科白《せ り ふ》が少しずつ変化しているだけだ。でもそんな違いになんてたいした意味はない。ぐるぐるとまわっていつも同じところにたどりつくのだ。それはまるでメリー・ゴー・ラウンドの馬に乗ってデッド・ヒートをやっているようなものなのだ。誰も抜かないし、誰にも抜かれないし、同じところにしかたどりつかない。
「何もかも昔に起ったことみたいだ」と私は目を閉じたまま言った。
「もちろんよ」と彼女は言った。そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。
「どうしてわかる?」
「知ってるからよ」と彼女は言った。そして私の裸の胸に唇をつけた。彼女の長い髪が私の腹の上にかかっていた。「みんな昔に一度起ったことなのよ。ただぐるぐるとまわっているだけ。そうでしょ?」
 私は目を閉じたまま彼女の唇と髪の感触に体をまかせた。私はすずきのことを考え、爪切りのことを考え、|洗《せん》|濯《たく》|屋《や》の店先の縁台にいたかたつむりのことを考えた。世界は数多くの|示《し》|唆《さ》に|充《み》ちているのだ。
 私は目を開けて彼女をそっと抱き寄せ、ブラジャーのホックを外すために手を背中にまわした。ホックはなかった。
「前よ」と彼女は言った。
 世界はたしかに進化しているのだ。
 
 我々は三回性交したあとでシャワーを浴び、ソファーの上で一緒に毛布にくるまってビング・クロスビーのレコードを聴いた。とても良い気分だった。私の|勃《ぼっ》|起《き》はガザのピラミッドのように|完《かん》|璧《ぺき》だったし、彼女の髪はヘアー・リンスの素敵な|匂《にお》いがしたし、ソファーもクッションこそ固いがなかなか悪くないソファーだった。しっかりとした作りの時代もので、古い時代の太陽の匂いがする。こういうソファーがごくあたりまえに供給された立派な時代がかつて存在したのだ。
「良いソファーだ」と私は言った。
「古くてみすぼらしいから買いかえようかと思っていたんだけど」
「このままの方がいい」
「じゃあそうするわ」と彼女は言った。
 私はビング・クロスビーの|唄《うた》にあわせて『ダニー・ボーイ』を唄った。
「その唄が好きなの?」
「好きだよ」と私は言った。「小学校のときハーモニカ・コンクールでこの曲を吹いて優勝して鉛筆を一ダースもらったんだ。昔はすごくハーモニカが|上《う》|手《ま》くてね」
 彼女は笑った。「人生というのはなんだか不思議ね」
「不思議だ」と私は言った。
 彼女がもう一度『ダニー・ボーイ』をかけてくれたので、私ももう一度それにあわせて唄った。二度めにそれを唄うと、私はわけもなく|哀《かな》しい気持になった。
「行ってしまっても手紙をくれる?」と彼女は訊いた。
「書くよ」と私は答えた。「もしそこから手紙を出すことができるならね」
 彼女と私は瓶の底に残った最後のワインを半分ずつわけて飲んだ。
「今何時だろう?」と私は訊いた。
「夜中よ」と彼女は答えた。
 

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