南のたまりにたどりついたとき、雪は息苦しいまでに激しく降りしきっていた。それはまるで空そのものがばらばらに砕けて地表に崩れ落ちているかのように見えた。雪はたまりの上にも降り注ぎ、不気味なほどの深い青味をたたえたその水面に音もなく吸いこまれていった。白一色に染まった大地に、たまりだけが巨大な|瞳《ひとみ》のような穴をぽっかりと丸くあけていた。
|僕《ぼく》と僕の影は雪の中に立ちすくみ、長いあいだ声もなくじっとそんな光景を見つめていた。以前に来たときと同じようにあたりには不気味な水音が響きわたっていたが、雪のせいか音はずっとくぐもっていて、どこか遠くから聞こえてくる地鳴りのように感じられた。僕は空というにはあまりにも低すぎる空を見あげ、激しい雪の向うにぼんやりと黒く浮かんで見える南の壁に目を向けた。壁は僕に対してはもう何も語りかけてはこなかった。それは〈世界の終り〉という名にふさわしい荒涼として冷ややかな光景だった。
じっとしていると、雪は僕の肩と帽子のひさしに際限なく積っていった。このぶんでは我我の残した足あともすっかり消えてしまったことだろう。僕は少し離れて立った影の方に目をやった。影はときどき体の雪を手で払い落としながら、目を細めてたまりの水面を|睨《にら》んでいた。
「これが出口だよ。間違いはない」と影は言った。「これでもうこの街も|俺《おれ》たちを閉じこめておくことはできない。俺たちは鳥のように自由になれる」
そして影はまっすぐに空をあおぎ、目を閉じて、まるで恵みの雨を受けるように顔に雪を受けた。
「良い天気だ。空も晴れてるし、風も暖かい」と言って、影は笑った。まるで重い|枷《かせ》が取払われたように、影の体はその本来の力をとり|戻《もど》しつつあるようだった。彼は軽く足をひきずりながらも一人で僕の方に歩いてきた。
「俺には感じることができるんだよ」と影は言った。「このたまりの向うには外の世界があるっていうことをね。君はどうだ? ここにとびこむことはまだ怖いかい?」
僕は首を振った。
影は地面にかがんで、両方の|靴《くつ》の|紐《ひも》をほどいた。
「ここにつっ立っていると凍りついちまいそうだから、そろそろとびこむとしようじゃないか。靴を脱いで、お互いのベルトとベルトを結びあわせるんだ。外に出てもはぐれちまったら元も子もないものな」
僕は大佐に借りた帽子を脱いで積った雪を払い、それを手に持ったまま|眺《なが》めた。帽子は古い時代の戦闘帽だった。布はところどころですり切れ、色あせて白くなっていた。おそらく大佐は何十年も大事にその帽子をかぶりつづけていたのだろう。僕はもう一度きれいに雪を払ってから、それを頭にかぶった。
「僕はここに残ろうと思うんだ」と僕は言った。
影はまるで目の焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔を見ていた。
「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。「君には悪いけれど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残るというのがどういうことなのかもよくわかっている。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとっての本当の現実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかっている。しかし僕にはここを去るわけにはいかないんだ」
影はポケットに両手をつっこんだまま、ゆっくりと何度か首を振った。
「どうしてだ? 君はこのあいだここから脱出するって約束したじゃないか? だからこそ俺は計画を練り、君は俺を背負ってここまで来てくれたんじゃないか。いったい何が君の心をそれほどがらりと変えてしまったんだ。女かい?」
「それももちろんある」と僕は言った。「でもそれだけじゃない。僕があるひとつのことを発見したからなんだ。だからこそ僕はここに残ることに決めたんだ」
影はため息をついた。そしてもう一度空を仰いだ。
「君は彼女の心をみつけたんだな? そして彼女と二人で森で暮すことに決め、俺を追い払うつもりなんだろう?」
「もう一度言うけれど、それだけじゃないんだ」と僕は言った。「僕はこの街を作りだしたのがいったい何ものかということを発見したんだ。だから僕はここに残る義務があり、責任があるんだ。君はこの街を作りだしたのが何ものなのか知りたくないのか?」
「知りたくないね」と影は言った。「俺は既にそれを知っているからだ。そんなことは前から知っていたんだ。この街を作ったのは君自身[#「君自身」に丸傍点]だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。それくらいのことは俺にもわかるんだよ」
「じゃあ|何《な》|故《ぜ》それをもっと早く教えてくれなかったんだ?」
「君に教えれば君はこんな風にここに残ったじゃないか。俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
影は雪の中に座りこんで、頭を何度か左右に振った。
「しかしそれをみつけてしまったあとでは君はもう俺の言うことをきかないだろう」
「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに|放《ほう》りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」
影は立ちあがって、たまりの静かな水面をじっと見つめた。降りしきる雪の中に身じろぎひとつせずに立った影は、少しずつその奥行を失い、本来の|扁《へん》|平《ぺい》な姿に戻りつつあるような印象を僕に与えた。長いあいだ二人は黙りこんでいた。口から吐きだされる白い息だけが宙に浮かび、そして消えていった。
「止めても|無《む》|駄《だ》なことはよくわかった」と影は言った。「しかし森の中の生活は君が考えているよりずっと大変なものだよ。森は街とは何から何までがちがうんだ。生きのびるための労働は厳しいし、冬は長くつらい。一度森に入れば二度とそこを出ることはできない。永遠に君はその森の中にいなくてはならないんだよ」
「そのこともよく考えたんだ」
「しかし心は変らないんだね?」
「変らない」と僕は言った。「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思いだしていく。思いださなくちゃならないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな|唄《うた》をね」
影は体の前で両手を組んで、それを何度ももみほぐした。影の体に積った雪が彼に不思議な陰影を与えていた。その陰影は彼の体の上でゆっくりと伸びちぢみしているように見えた。彼は両手をこすりあわせながらまるでその音に耳を澄ませるかのように、軽く頭を傾けていた。
「そろそろ俺は行くよ」と影は言った。「しかしこの先二度と会えないというのはなんだか妙なものだな。最後に何て言えばいいのかがわからない。きりの良いことばがどうしても思いつけないんだ」
僕はもう一度帽子を脱いで雪を払い、かぶりなおした。
「幸せになることを祈ってるよ」と影は言った。「君のことは好きだったよ。俺が君の影だということを抜きにしてもね」
「ありがとう」と僕は言った。
たまりがすっぽりと僕の影を|呑《の》みこんでしまったあとも、僕は長いあいだその水面を見つめていた。水面には波紋ひとつ残らなかった。水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。
僕はたまりに背を向けて、雪の中を西の丘に向けて歩きはじめた。西の丘の向う側には街があり、川が流れ、図書館の中では彼女と手風琴が僕を待っているはずだった。
降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の|軋《きし》みだけが残った。