五 紫
日は暮れて来た。空は夕焼して赤い色が天頂を越え、東の方中央山脈の群峰を雑色に染めていた。地上は草のあわいまでも紫の影に満ち、陽の熱の名残と、土と、水蒸気とから生れる、甘ずっぱい匂いがあたりに漂っていた。遥か川向うの丘の上には、芋虫が立ち上ったような巻雲が夥しく並んで、これも真紅に染っていた。
見渡す野には野火はいつか衰え、薄い煙が湯気のように、一面に騰っているだけになった。風はいつか落ちていた。
十間ばかり離れた病院の小屋では食事の時間になったとみえ、飯盒を下げた衛生兵が忙がしく出入りし出した。四十歳ぐらいの徴用らしい軍医が、小屋の前に立って、暫く夕焼した空を眺めていたが、やがて「あーあ」と深く溜息して、小屋に入ってしまった。戸口で彼はちらと我々の方を振り向いた。
小屋では物音がしていたが、我々の林の中は静かであった。
「どれ、俺達も飯にするか」
といって安田は立ち上り、マラリアの兵士の傍へ寄った。
「おい、芋まだあったら出しな、一緒にふかしてやるぜ」
病兵は薄眼をあけたが、首を振って向うへ寝返った。食いたくないというのか、持っていないというのか、明瞭ではない。
安田は木の枝の杖をつき、林の奥へ入って行った。そこに彼の竈があると見える。その後姿は「病人のほかは知らねえぞ」とはっきりいっていた。
芋一本の若い兵士は憎々しげにあとを見送っていた。「ちぇっ。ちゃっかりしてやがら、この忙しい中にふかしたりしやがって、あの野郎。どこで仕入れやがったか、しこたま煙草の葉を腹へ巻いてやがる。さっきも医務室へ行って、芋と取り替えて来やがった。さっさと隊へ帰ればいいのに、結構ここで商売してやがるんだ」
「大きなお世話だ。羨しいか」と安田と同じ中隊の若い兵士がいった。
「へん、やにおやじの肩を持ちやがって、お前芋半分でも彼奴から貰うのか」
相手は黙った。
病兵はめいめいの食糧を出して食べ始めた。大抵は生芋であるが、中には飯粒のついた皺くちゃな紙片を出して拡げる者もある。握飯を包んであったものらしい。恐らく何処かで拾ったものであろうが、とにかくそれが彼の一食分の予定らしかった。
病院の給与は一日握飯一個であるから、我々の自発的な食事の量もほぼそれに準じる。
私は雑嚢を開けて比島人から奪った玉蜀黍を食べ、芋一本しかないという兵士に一握りを与えた。彼の眉が上った。
「すまねえ。明日の朝返すからな」
といいわけしながら、彼はその粒を一つ一つつまんで、口へ抛り込んだ。
先刻彼と争った若い兵士が眼を輝かして傍へ寄って来た。
「お前はおやじから貰え」
とこっちは押しのけるようにいった。相手は未練がましく、私の言葉を待つ風で、そこらをぶらぶらしていたが、私は既に私の気前を出し尽していた。
「うっ」と呻きを発して、遂にその若い兵士は立ち去った。その時私は眼を挙げて彼の顔を見たが、その顔は激しい努力を表わしていた。私はこの時彼が食糧を全然持っていないこと、私が気前を示す順序を誤ったことに気がついたが、もう遅かった。私も比島人から奪った玉蜀黍でなかったら、人に与えはしなかったであろう。
「有難う。この恩は一生忘れねえぜ」
「長い一生でもないだろう」
「違えねえ。でも今夜は是非医務室へ忍び込んで、暫く命を延ばすつもりだ」
「よせよ、見つかるぞ」
(結局患者が困るじゃねえか)と私は附け加えたかったが、その言葉がこの時、いかにも弱いと私は感じた。
ふと見るとマラリア患者がいつか立ち上り、木につかまって、ふらふらと前後に揺れていた。彼の眼は我々の頭を越して、青く霞み出した野に放たれていた。その視線の方向を顧みたが、別に注意を惹くものはなかった。
「どうした」と芋一本の兵士が声を掛けた。「ここらあたりの景色でも気に入ったのか」
兵士は声のする方を見ようとするらしく、顔を動かしたが、眼は正確には我々の方を向かなかった。袴下の腿のあたりにしみが現われ、下の方へ拡がっていった。小便失禁であった。
我々は傍へ寄った。かかえる体は熱かった。
「困ったな。袴下の替えようもねえ」
「しようがねえさ……おい、小便ならいえよ。後から持っててやるからな」
「うん」
と微かな返事がしたが、我々のいうことがわかったかどうか、疑問であった。
「駄目だな。長いことはあるめえ」
と彼を草に臥かせて、再びそれぞれの席に帰りながら、一人がいった。
「お前達、みんな脱走兵だぞ」
と思い掛けなく大きな声で病人がいった。彼は我々の中で、唯一人の現役の兵士であった。
私はあまり暗くならない内に水を汲もうと立ち上った。水は一町ばかり離れた山際に湧いている。俺のも頼むという声が掛って、到頭私は数本の水筒を持たされてしまった。この未来のない人間共にも、なるべく他人の労力を使うという経済は残っていた。
林の奥で安田が、飯盒を火にかけて番をしていた。火が彼の顔を明るく照し出すほど、いつかあたりは暗くなっていた。俯向いた彼の顔には、無数の皺が切り疵のように走っていた。