一三 夢
その夜私は夢を見た。
私は既にその村に歩み入っていた。暗い庇の下に色とりどりの菓子や果実を陳げた店が並び、祭でもあるのであろうか、着飾った比島の男女がにこやかに往来していた。彼等は危険人物たる私に少しも気がつかないように見えた。私はそれは私が銃を持っていないからだ、と判断した。
空地に舞台が設らえられ、一組の比島の男女が踊っていた。西欧人との混血らしい均整のとれた肉体が、もつれ合い、離れ、様々の煽情的なポーズに停止した。私は見物が一人もいないのに、彼等が踊りに熱中しているのを奇妙に思った。
気がつくと舞台の前だけでなく、市場も空になっていた。私は成程みんな教会へ行ったのだなと思った。
会堂はセブの会堂と同じバジリカ風の長方形の建物で、粗末な前面の頂上には、たしかに十字架が金色に輝いていた。しかしそれは山から見たよりは幾分太く、ふやけたように見えた。私は自分の心に予期した感動が起らないのが悲しかった。
半開の扉を押して入ると、群衆が会堂に満ち、跪いて祈っていた。声なき音楽が、彼等のうなだれた頭の上を渡るらしかった。
祭壇で弥撒を行っている西欧人の司祭の服装から、私はこれが葬式であることを知った。私は中央の通路を進んで行った。祭壇の前に一つの寝棺が、黒布に蔽われておかれてあった。ローマ字で死者の名が記されてあった。私自身の名前であった。
鋭い悲しみが私の心を貫いた。ではやはり私は死んでいたのである。それなら、今これを見ている私は誰であろう。多分私の魂であろう。だから誰も気がつかないのであろう。
私は棺の蓋を取り、私自身の死顔に眺め入った。それは鏡や写真で見馴れた顔より、痩せて頬が落ちていた。そして幾分絵で見た西欧の殉教者に似ていた。
私の遺骸は胸の上に手を合わせていた。私は即座に私が合掌して死んでいるのを、発見されたのだと思った。だから私はこうして敵によってさえ、葬られているのである。合掌して死んだため聖者として崇められているのである。
不安の念が私を捕えた。私は果してこれほど崇められるに価するであろうか。私の魂はそれほど敬虔であったろうか。
私は再び私の顔を見た。いや、私は生きていた。唇が紅を塗ったように赤く、閉された瞼は顫えていた。私は目醒めているのである。眼を開けないのは、死を粧っているだけなのである。唇には私のよく知っている、あの冷笑さえ浮んでいる。
「デ・プロフンディス」と突然その唇がいった。
「われ深き淵より汝を呼べり」De profundis clamavi——この言葉が私の口から洩れたことは、事実私がなお深き淵にあり、聖者でない証拠である。既に会衆もそれに気がついたらしい。私は私の背に迫って来る彼等の気配を感じる。喧騒が高まる。鐘が鳴り出した。カラン、カラン、カラン、カラン——叫ぶように中空にあがる姦ましい音であった。音は会衆のどよめきと競って、高まって行く。音に連れて、胸苦しさもつのった……
私は目を覚した。ブンブンという唸るような音が耳にあった。夜空を渡る飛行機の爆音であった。飛行機は翼に赤と青の標識をつけて、軒傍の空を去りつつあった。遅い下弦の月がその行く手に懸っていた。標識燈はその赤味を帯びた光輝と重なろうとしてわずかに及ばず、その下の空間に小さく暗くなって行った。音だけが断続して、いつまでも空に残っていた。
私は了解した。こうしてひとり深き淵に死ぬのはつまらない。殺されるまでも、あの会堂に入って、生涯の最後の時に私を訪れた、一つの疑問を晴らさねばならぬ。
もしこれが一つの啓示であるならば、もし私が聖者であるならば、私は跪くであろう。
日暮から私の寝入ったまでの時間と夢の長さから考えて、夜明にはまだ間があると思われた。すぐ出発すれば、日の出る前に村に入ることが出来るであろう。逡巡が再び私を捉えたが、私は押し切った。或る行為をしたいと欲し、結果の確率が不明の場合、私はいつもやってみることにしていたのである。
私は食べ残しの芋を雑嚢に入れて出発した。鉄兜と被甲は小屋に残したが、銃はやはり棄てる気にはならなかった。