一四 降路
その時私のいた丘の高さは約三百米、海岸までの距離は約八粁と思われた。十字架の見える斜面から発した道は、やがて雑木の林に入った。木の根で自然に作られた階段が、木の間を洩れる鈍い月光に、切れ切れに照されていた。月光に欺かれた山鳩が時々力無く啼いた。
林が尽き、草原が月に照されて傾き、道は草の影を孕んで黒かった。道はまた木下闇に入った。
干いた土が露出した崖際を縫い、沢を越え、木立を廻って、道はどんどん降りて行った。降りるに従い、歓喜に似た感情が、胸の中でふくれて来るのを私は感じた。
二粁ばかり降りると、広い草の斜面があり、次いで平らな林があって、道は広くなった。月光が木々を斑にしている奥から、水のせせらぎが高まって来た。それは壁越しに聞く人の呟きのように、ひそやかで、しめやかで、親しげであった。
行く手に大きな明るみが近づき、赤土の勾配を降りると、一河のほとりに出た。幅の広い水がきらめいて石を渡っていた。流れの方向は前に私の下った渓流と同じであり、先で合流しているものと思われた。
河底の石は沢庵石ほどの大きさがあり、苔をつけて靴の下によく滑った。対岸はまた平らな林が岸まで迫ってきた。
私は木の根に腰を下し、水筒から水を飲んだ。遂に「平地」に降りたという観念、この漠然たる安堵には、私の場合一種の恐怖が混っていた。もし獣が人里に入った時恐怖を感ずるとすれば、それは私のこの時の感情に近かったであろう。
道は人二人通るくらいの幅で真直に林を貫いていた。木々が両側に並木のように梢を光らして並んでいた。私は幾日もこれほど広い道を見たことがなかった。私を怖れさせたのは、この道の持つ人間的な感じであった。
しかし私は行かねばならなかった。歩くにつれて両側の木々はますます明るく、樹皮の斑紋を鮮やかにして行った。私は怖れから物を明瞭にみる感覚のメカニスムを奇妙に思ったが、私は間違っていた。
林が切れ広い野に出た。月は巨大な赤い歪形となって、遥かな林の頂にかかっていた。その弱い光は野に充満した乳色の光と違っていた。ここにあるのは、もう黎明の光であった。私が林中の樹皮に見た光が、既にそれだったのである。
その時私のいた地点は、丘から続いた林の端であり、最初の計算では、私の道程の半分に当るはずであった。目的の村まで八粁二時間行程として、私がここまで費した時間は一時間であったろう。これも予定通りであった。ただ私は出発の時刻について、思い違いをしていたのである。
私は眠りから醒めたところであった。私はあたりに月光があるのを見て、夜だと思い、目的地に夜明前に着けると判断したが、実はその時が既に夜明だったのである。
靄が野を蔽い、正面の林がかすんで見えた。林は私が佇立しているうちにも明るさを増した。靄も形を明らかにし、島のようにいくつかの群に分れて来た。右手に厚く延びて動かない一団は、その下の河を示すものらしかった。
視野に家も燈火もなかったが、とにかくこれは人里であり、しかも明るくなりかけていた。そして私は熱帯の朝が、幕をあげるように、するすると明け放れるのを知っていた。
私は初めて悪夢の覚醒時の異常な感覚から、こういう重大な行為を決定してしまったことを後悔した。しかしすべてはもう遅かった。この林の縁で次の夜まで待つことは、私を出発させた動機の性質上、不可能であった。
私の眼は我にもあらず林の梢にあの十字架を探したが、既に平地に降りた私の位置からは、それは見えなかった。
私は歩き出した。段々飛びに明るくなって行く野に、私のほかに動くものはなかった。草を踏む靴は露に濡れ、靴音だけが響いた。
私は自分の跫音に追われるように、歩いて行った。私はふと前にも、私がこんな風に歩いていたことがあったと感じた。いつどこであったかは不明であるが、過去の不定な一瞬において、私はやはりこうして歩いていた。異境の不安な黎明を歩くという情況は、確かに私にとって初めての経験のはずであるが、今私の感じている感情は未知ではない。
私は出来るだけ過去に類似の情況を探してみたが、無駄であった。それは記憶の外側の、紙一重のところまで来ていながら、不明の原因によって、中に入り得ないようであった。
事実を思い出すかわりに、私はこういう想起の困難もまた初めての経験ではないこと、近代の心理学で「贋の追想」と呼ばれている、平凡の場合にすぎないのを思い出した。既知感だけあって、決して想起出来ないのをその特徴としているが、それは事実既知のものではないからである。ベルグソンによれば、これは絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自働的に意識より先に出るために起る現象である。
この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた。例えばこの「贋の追想」の説明は、前進する生命の仮定に立っているが、私は果して常に前進しているだろうか。時として繰り返し後退しはしないだろうか。絶えず増大して進む生命という仮定は、いかにも近代人の自尊心に媚びる観念であるが、私はすべて自分に媚びるものを警戒することにしている。事実私の現実の生活において必要なのは、私が前進している自覚ではなく、抵抗物を見きわめ、乗り越える手段を見つけることである。私自身については、巨人的生命の無限の発展などというものを信じるくらいなら、或る超自然的な存在、例えば神による支配を信じる方が合理的だと思っている。
歩きながら、私は自分の感覚を反芻していた。既知の感じに誤りがあるのはたしかとしても、記憶の先行のような機械的な作用からではなく、私の感覚の内部に原因を探したいと思った。
私は半月前中隊を離れた時、林の中を一人で歩きながら感じた、奇妙な感覚を思い出した。その時私は自分が歩いている場所を再び通らないであろう、ということに注意したのである。
もしその時私が考えたように、そういう当然なことに私が注意したのは、私が死を予感していたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行うことを無限に繰り返し得る可能性に根ざしているという仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。
「贋の追想」が疲労その他何等かの虚脱の時に現われるのは、生命が前進を止めたからではなく、ただその日常の関心を失ったため、却って生命に内在する繰り返しの願望が、その機会に露呈するからではあるまいか。
私は自分の即興の形而上学を、さして根拠あるものとは思わなかったが、とにかくこの発見は私に満足を与えた。それは私が今生きていることを肯定するという意味で、私に一種の誇りを感じさせたのである。
私を取り巻く野の明るさを、私はそれほど怖れなかった。人々も過去の私も、繰り返して生きていた。しかし死に向って行く今の私は、繰り返してはいない。この確信は私を一種の冒険的勇気に駆った。