一五 命
明るさは急速に増しつつあった。林に行き着き振り返ると、空は既に茜から青に移り、遥かに雲に閉された中央山脈の主峰の前に、端山が緑を現わし始めていた。その緑の中に褐色の斑紋を作っているのは、私の出て来た畠であると思われた。私は私のかつての楽園を、昔の女を見るような無関心で眺めた。
林の中で不意に下草が日光に照し出された。露が輝いた。名も知らぬ鳥がけたたましく鳴き、梢に音が起った。
私はこの林が直接教会の後へ続くものと想像していたが、私はまた誤った。林は切れて、大きな野が展けた。両側は岬まで続く丘に限られ、一河が斜めに右から左へ貫いていた。そこにこわれた木橋がかかっていた。
私の眼は素速くその野を検討していた。眼につく家も人もなかったが、橋は既に人家が近い証拠であった。遠く正面に控えた林際の湿地に、二頭の水牛が立っていた。数羽の白鷺が或いはその背にとまり、或いは近くの土に降り敷いていた。背に止った一羽は、その荷手を嘴でつついていた。鷺が水牛の皮膚につく或る種の虫を食べ、水牛が喜んでいるのを、私は知っていた。
この風景の鮮明さは、私に一種の悩ましい感覚を与えた。林際の木の一本一本を、私は歩哨の注意力をもって点検した。そこに早起きの人影がいるかも知れなかった。左方の丘を縁どる雑木林の前に、一本の枯木が白い樹幹を光らせて倒れていた。その狂わしく空へ張り上げた根の一条一条も、私は数えることが出来た。
私は銃を肩からはずし、斜めに構えて、野に歩み入った。この時不意に私の中に生じた緊張は、山中の十字架に関する私の夢想とも、贋の追想に関する形而上学とも、何の関わりもないものであった。私は絶えず眼を凝らして、この明確な風景の何処かに潜む敵を、彼より先に、発見しようとしていた。
遂に橋まで行き着いた。多分山中の渓流の末である河は、湿地の土を運んで濁り、橋桁の下でゆるく渦をまいていた。この時も私は不意に射たれるかも知れなかった。
遥か右手の丘の上から煙が上り出した。中隊を出た日私の見た野火と同じく狼煙に似て、細く長くゆらめいて、高く上った。私は突然気がついた。私が野火を見た翌朝は、丁度病院が組織的砲撃を受けた日であり、その時我々の大多数が逃げた方向の山からも、野火が上っていたことを。私がこの因果的聯関を、この時に捉えたのは奇怪である。
しかし私はこの時恐れてはいなかった。私は単にあの野火は遠いから、その下にいる比島人は、数分の後私の遇うべき村の比島人に比べて、恐るるに足らぬと判断した。私は進んだ。
水牛の背にとまった鷺の一羽はゆるやかに羽を拡げると、低く飛んで地に降りた。地に足を触れる刹那、またひとしきり忙がしく羽を搏ち、二、三歩歩いて、ゆっくり翼を収めた。
風景の底に一つの音が響いていた。それは山でも始終聞いていた断続した爆音で、沖を米軍の内火艇が渡り出したしるしであった。
林に入った。林中の道は湿り、露出した泥岩の傾いた層理に添って、水が流れていた。道傍の木々は私を見守るように並んでいた。道は不意に下り坂となり曲った。そして私は目の前に一つの村全体を見た。