一六 犬
扇状に拡がって、ゆるく海へ傾いた斜面は、三十軒ばかりのニッパ・ハウスによって占められ、一本の道路が真直に降りていた。その正面を限る椰子の木群をすかして海が光った。
通りに人影はなく、依然として空気を震わせている内火艇の爆音を除き、何の音もなかった。
教会は道路から少し退き、左手の家並の上に、細長い白亜の側面を現わしていた。十字架はたしかにその前面の頂に、色褪せた黄色で、陽に照されていた。
私の心の憧れていたこのものの、最初の印象を思い出すと、今でも私の胸はうずく。それはどんな感情の色も持たぬ不毛な冷たさで、そこに光っていた。それはたしかに、この視野を構成する雑然たる物体と、なんの違いもなかった。私は跪く暇がなかった。
私は一本の立木に倚り、目前の風景で動くものを待った。時間が経った。すべては依然として静かであった。
左手の最も近い一軒の家が汚い横側を見せ、屋根が傾き、木の階段に階が欠けていた。棒が揚戸を支えた窓の内部にも、動くものはなかった。
静けさは大体比島の午睡の時間のそれを思わせた。しかし今は比島人でも活溌に動く朝である。(この風景には何か間違ったものがある)と私は感じた。
私はその家に駈け寄り、階の欠けた階段を飛び上って、踏み込んだ。空であった。隅におかれた一つの櫃は蓋が開き、安物の女の下着や、子供のサンダルなぞが散らばっていた。分銅の夥しくついた漁網が、床につくねられ、その上にラッキイ・ストライクの空箱や、チョコレートの包装紙などが載っていた。
情況が示すところは、この家の住人が急いで出て行ったか、掠奪されたかである。しかし明白な米軍の痕跡があるのに、何故比島人は去る必要があったか。私はなおも理解することは出来なかったが、ただこの村は無人らしい、ということだけは感じた。
私は通りに全身を現わした。左右の家の内部に注意しつつ、ゆっくりと人気のない凸凹の道を下りて行った。
沖を通る内火艇の音はやはりあったはずであるが、私はそれを憶えていない。憶えているのは、歩むにつれて、次第に高く耳について来る、一つの音であった。それはシュルシュルシュルという、布を素速く手繰るような音であって、道の前方から、匍い寄るように近づいて来た。
けたたましい犬の声がし、二匹が道の端に現われ、まっしぐらに駈けて来た。そして私の前方数間に立ち止ると、牙をむいて吠えた。
膝から下が保護されている場合、地に匍う動物は無視することが出来る。私は銃口を下げて彼等を脅かしつつ、忙がしくあたりに眼を配った。犬の声によって警告された人間の方が、懼るべきであった。
何も動かなかった。私は眼を犬共に戻した。一匹はテリヤ、一匹は日本犬に似た赤犬である。私は彼等の表情に、飼育動物の優しさがないのに気がついた。彼等は今は低く唸っていた。私の上体を窺っているように思われた。
私は立ったまま銃で覘った。しかし銃は犬の既知の懲戒具に入っていないらしく、犬は少しも怖れる気配がなかった。むしろ犬に攻撃され、発砲を強いられるのを、私の方で懼れた。私は遠くの丘に見た野火を意識した。銃声によってあそこにいる比島人を刺戟してはならぬ。
私は銃を下げて腰に支え、なおも犬の態度に注意しつつ、素速く剣を抜いて、銃口に差した。その時赤犬が跳躍した。真直に私の喉へ向って来た。私の剣は空中で彼の体を受け、彼の肋骨の間に入った。血が飛び、彼の体は私の銃と共に横に降りた。
他の一匹は既に遁走しつつあった。警戒するように高く鳴きながら、道の端れの椰子の根方まで突走り、そこで立ち止って、けたたましく吠え立てた。犬は左右から集って数匹となり、並んで吠えた。私は進んで行った。
犬共は私がその位置に達する前に散り、四方の家の軒にかくれて、なおも吠え続けた。そこはちょっとした広場になっていて、一側を会堂の正面が占めていた。烏が十字架の腕や屋根の勾配に夥しく止っていた。私が村の入口からこの屋根を見た時、たしかこの烏はいなかった。
シュルシュルという音の正体を、私はすぐ突き止めた。広場の会堂とは反対の側に設けられた、一つの水道栓がこわれて、白い水が迸っていた。
この町が無人であることを私は確信した。住民は私の知らない原因によって、米軍の通過後再び逃亡したのである。
私はその水道でまず犬の血のついた剣を洗った。敵を殺すために国家から与えられた兇器を、私が最初に使用したのが、獣を殺すためであったのは、何となく皮肉であった。
剣を拭って鞘に収め、私はゆっくり水を飲んだ。水は山の水を引いたものらしかったが、山の泉の水のように泥の臭いがなく、美味であった。
ひと通り飲んで、背を延ばし海を眺めた時、私の喉の真に欲している水は、別にあるのに気がついた。その海の水であった。山で私は長らく塩を摂っていなかった。
椰子の間を抜けて岸に降りた。粗く脆い砂が足許で凹んだ。私は膝まで海に入り、水筒で海水を汲んで心行くまで飲んだ。十数日ぶりで味う塩の味は、よく知った鹹い味に、かすかな甘味を交えていた。
ビサヤ内海の静かな水が拡がっていた。岸に迫った岬から、蝉の声が湧いて水にこだました。その連続した音は、依然として沖のどこかを渡るらしい、米軍の内火艇の音によって破られた。
村に人のいないように、岸に舟はなかった。渚が白く弧を描いて、右は岬の崖に到り、左はそこに死に絶えた河に切れ込んでいた。一艘の破れた帆船が、舳を河口の水に埋めていた。
風が吹いていた。かつて私が祖国の夏の海岸で吹かれた風と、同じ湿度と匂いを持った風であった。日を照り返す海面を渡って来て、私の体を孤独な一点に包み、頬をかすめ脚間を抜けて、颯々と吹き過ぎて行った。
私はやがてこういう開けた海岸に身を曝す危険に気がつき、急いで椰子の間に戻った。そこに一種の臭気が漂っているのに気がついた。私はその臭いを知っていた。
中隊が南方の部落に宿営していた時、偶・営舎附近にさまよい寄った牛を射ったことがある。骨と臓物は野に棄てられた。頭だけ原形を保ったその巨大な骨は、陽の下で忽ち腐り、日に日に堪え難い臭気を、営舎まで送って来た。我々の胃を生理的に刺戟する、つんとする臭気であった。
私は私の鼻がこの臭いを、既にこの町に歩み入った時から嗅いでいたのを思い出した。それは犬を刺した時も、水道栓から水を飲んだ時も、常に私の鼻にあった。海岸に降りた時だけ憶えがないのは、多分臭気を発する物体が村の中にあるからであろう。どこかに住民の遺棄した豚の残骸でもあるんだろう。
私は再び会堂の前に立った。屋根は依然として夥しい烏によって占められていた。彼等は私の出現によって刺戟されたらしく、ざわめいていた。一羽は前面の壁に沿って、ゆっくり斜めに登って行くところであった。
十字架はこの時も私の裡に予期していたような感動を起さなかった。金泥が処々 剥げて、汚ならしく見えた。前面の壁は雨水によるしみに蔽われ、石段の角は欠けていた。黒い木の扉は夢で見たのと同じく、片方が半ば開いていた。
(私は疲れているんだろう)
私は入口に歩み寄った。しかし私は真直にそこへ行き着くことは出来なかった。