二〇 銃
男が遁れ去った以上、私は村に留ることは出来なかった。雑嚢に塩を詰められるだけ詰めて、私はその家を出た。
月が村に照っていた。犬の声が起り、寄り合い、重なり合って、私が歩むにつれ、家々の不明の裏手から裏手を伝って、移動した。声だけ村を端れても、林の中まで、追って来た。
靄が野を蔽い、幕のように光っていた。動くものはなかった。遠く、固い月空の下に、私の帰って行くべき丘の群が、薄化粧した女のように、白く霞んで、静まり返っていた。
悲しみが私の心を領していた。私が殺した女の屍体の形、見開かれた眼、尖った鼻、快楽に失心したように床に投げ出された腕、などの姿態の詳細が私の頭を離れなかった。
後悔はなかった。戦場では殺人は日常茶飯事にすぎない。私が殺人者となったのは偶然である。私が潜んでいた家へ、彼女が男と共に入って来た、という偶然のため、彼女は死んだのである。
何故私は射ったか。女が叫んだからである。しかしこれも私に引金を引かす動機ではあっても、その原因ではなかった。弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当ったのも、偶然であった。私は殆んどねらわなかった。これは事故であった。しかし事故なら何故私はこんなに悲しいのか。
野を斜めに横切った川の橋へ来た。橋板を軍靴で踏む音が、ごとんごとんと耳に響いた。私はその低い欄に腰を下し、流れる水に見入った。
水は月光を映して、燻銀に光り、橋の下で、小さな渦をいくつも作っていた。渦は流水の気紛れに従って形を変え、消えては現われ、渦巻きながら流れて行き、また引き戻されるように、溯行して来た。
私はその規則あり気な、繰り返す運動を眺め続けた。一人になってから、こういう繰り返しが、いつも私の関心の中心であったのを思い出した。それは自然の中にあるように、人生の中にもあるべきであった。
昨夜からの私の行為は、この循環の中にはなかった。しかし結果は、一人の比島の女を殺すことで終った。あれは事故であったが、しかしもし事故が起ったのが、私がその循環からはずれたためだったとすると、やはり私の責任である。
私は立ち上り、昨日この橋を逆に渡った時のように、銃を斜めに構えた。女を射った時と同じく、床尾を腰に当ててみた。
銃は月光に濡れて黒く光った。それは軍事教練のため学校へ払下げたのを回収した三八銃で、遊底蓋に菊花の紋が、バッテンで消してあった。私は嘔気を感じた。
すべてはこの銃にかかっていたのを、私は突然了解した。いくら女が不要慎で、私が理由なく山を降りたにしても、もしあの時私の手に銃がなかったら、彼女はただ驚いて逃げ去るだけですんだであろう。
銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、私が孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因がある。
私はそのまま銃を水に投げた。ごぼっと音がして、銃は忽ち見えなくなった。孤独な兵士の唯一の武器を棄てるという行為を馬鹿にしたように、呆気なく沈んだ。あとに水は依然として燻銀に光り、同じ小さな渦を繰り返していた。
私を取り巻く野が、不意に姿を変えた。月光の行き遍った美しい夜景が、腰の剣一つを頼りに越えて行かねばならぬ広さと映った。遠方から敵を斃し得る武器を失った私に、空間は拡がった。剣をもって行動し得る半径の無限の堆積として、迫って来るように思われた。
私は後悔したが、諦めていた。一度川底の泥に埋った銃を、再び使用可能の状態に戻す困難は別にしても、拾えばまた棄てるほかはないのを、私は知っていた。
私は歩き出した。月光の行きわたった野と靄の間を、前曲みに、せかせか歩いて行った。林に入った。道に月光が散り敷き、木々のあわいは、不規則な光と影に充たされていた。昨夜のように、山鳩がベエトヴェンの交響曲の主題を二小節鳴いた。
私は孤独であった。恐ろしいほど、孤独であった。この孤独を抱いて、何故私は帰らなければならないのか。
この道は昨夜は二度と帰ることはあるまいと思っていた道であった。その道を逆に通ることは、通らないことより、一層奇怪であった。
山の畠の何本かの芋に限られた私の生は、果して生きるに価するだろうか。しかし死もまた死ぬに値しないとすれば、私はやはり生きねばならぬ。少なくともあの芋のあるところまで、私が歩くのを止めるものはこの世にはない。私には私自身の足取りがよく見えた。
さらにいくつか月に照された原を過ぎ、林をくぐり、流れを渡って、私は次第に私の丘に近づいた。最初の上りにかかるところの林は、よく繁り暗かったが、次の林は疎らで明るかった。昨日の朝のように、木の幹の斑紋がよく見えた。再び黎明の光であった。私は何者かに操られているように思った。