二二 行人
さらに二、三本を倒して根芋を取り、僚友にならって、被甲の中身をすてて、そこにも収めると、我々は出発した。
伍長が先導した。私が最初この畠へ上って来た道を逆行して河原へ降り、暫く流れに沿って下ってから、最初の屈折点で、別の丘へ取りついた。
北を目指すべきであった。東西両海岸の米軍の連絡は既に成っていたが、オルモック街道がリモンの北で二つに分れ、一つがパロンポンに向っている地点がある。そこから半島に入ることが出来るであろうという、伍長の判断であった。
二つの丘と二つの川を杣道で越した後、牛車の通れるくらいの幅の道に出た。
「飛行機に気をつけるんだぞ。道はねらって来るからな」と伍長がいった。
米機が道をねらうのはもっともであった。三々五々連れ立った日本兵が、丘の蔭、叢林から不意に現われて、道に加った。そしてやがて一個中隊ほどの蜒々たる行軍隊形になった。
道が草原に露出しているところでは、列は道を外れて林に潜り、先でまた林に入って来る道を捉えた。そういう林中の道は、時々都会の鋪道のように雑沓した。
兵達の状態は、見違えるように、悪くなっていた。服は裂け、靴は破れ、髪と髯が延びて、汚れた蒼い顔の中で、眼ばかり光っていた。その眼は互いに隣人を窺ように見た。
パロンポンへ、パロンポンへ。彼等はそれぞれ飢え、病み、疲れた体を引きずって、一つの望みにつながり、人におくれまいとして、一条の道を歩いて行った。上り坂の両側は休む、或いは倒れた兵の列であった。
軍命令は米軍にも知れているのであろう。林中の道ですら、頭上に低く飛行機の爆音を聞き、機銃掃射があった。兵達は急いで四散し、新しい死者と傷者が道端に増えた。
夜になった。伍長は我々を導いて道をはずれ、谷に降り、弾の尻から火薬を抽き出し、木の枝でこすって火を起した。畠で一週間も生芋を齧り、比島の男女を「燐寸をくれ」と脅かした私は、この簡単な方法に気がつかなかった迂闊に、我ながら驚いた。その夜私は久振りで暖い食物を口にした。
兵の中に、我々のように豊かに食糧を持った者が、殆んどいないのはたしかであった。だから我々は道から離れて食べたのである。
食べ終ると、再び道に出、月光の中を進んだ。木下闇に兵の帯剣と飯盒の触れ合う音が響いた。道がはかどった。
夜が明けると、林に入って眠り、夕方行軍を開始した。夜道の方が爽やかで、被爆の危険がなかったからであるが、月が、細く暗くなるに及んで、昼間の行軍に返った。
路傍に倒れた兵士の数が多くなった。私は死んだ兵士の銃を取る機会をねらっていたが、死者の傍に銃があることは絶えてなかった。最初から持っていないか、或いは素速く取り去られるからであろう。
私の感想を伍長は笑って聞いていたが、或る時、
「そら、取って来てやったぞ」
と、追いついて、私に渡した。
「これ、ほんとに死人の銃でありますか」
伍長は眼をむいた。
「死人のじゃなかったら、どうしたっていうんだ。いやならよせ」
「馬鹿野郎、班長がくれたら黙って貰ってりゃいいんだ」
と傍から上等兵が低声で注意した。彼は自分の分はいつの間にか手に入れていた。
「はい、有難くあります」
倒れた傷兵の傍をすぎる毎に、私は漠然とした胸の悩みを感じた。かつて病院が砲撃された時、笑って仲間を見棄てることが出来たのは、私も前途に死しか予想出来なかったからであったが、パロンポン集合の希望を持った今では、自責を感ぜずにはいられなかったのである。
しかし路傍にますます増えて行く倒兵の数に、私は次第に馴れた。彼等はただ徒らに倒れているだけではなかった。彼等は生きていた。
或る者は木の根の程よきところに宿所を選び、持物を枕元に整頓して、静かに横たわっていた。或る者は胡坐して、ぎらぎら光る眼で通行人を凝視していた。草に伏して、道行く人に絶えず、
「隊の兵隊はいませんか」
と叫んでいる兵士もいた。
或る日私は、病院の前で別れた二人の病兵に会った。今では歩けないのは安田であり、若い永松は元気になっていた。彼は通行の兵士に煙草を薦めていた。
「煙草いらないか。葉っぱ一枚で芋三本だ。二本でもいい」
しかしここは病院とは違って、煙草に替えるほど、食糧に余裕のある者は一人もなかった。
「馬鹿野郎。今頃誰が煙草なんぞ買うものか。参謀でも探して売れ。後からすぐ師団参謀が来らあ」とわが伍長が嘲った。
「ほんとですか」
「ほんとか、嘘か。来てみるまでわかるもんか。間抜け」
永松は私を覚えていた。
「やあ、田村、まだ生きていたのか」
「ふん、お前達こそ、どうした」
私は同行者に眼で後から行くと合図して、立ち止った。
「どうも、こうもねえ。すっかりやられちゃったよ」
「何をやられたんだ」
「何をって、——あんなひでえ奴はねえ」
「誰がひでえんだ」
「あの安田のおっさんと一緒に歩くことにきめたなあいいが、何のかんのって我儘ばかりいやがって。体のいい小使よ。お蔭様で、今じゃ、こうやって煙草売りさ。あの野郎てんで動かねえんだ」
彼の顎でしゃくる方には、四、五間離れた叢に天幕を張って胡坐し、笑って手招きしている安田の姿が見えた。
相変らず、右足を前方へ延ばしたまま、木に凭れていた。
「ああ、田村か。何だか肥ったようだな。糧秣豊富らしいじゃねえか」
「何だかわからねえが、ぼつぼつやってるんだ」
「俺も永松のおかげで、ここまで来たが、どうもこれから先は自信がねえ」
「自信なんかある奴はないだろう。でもその足じゃ大変だな」
「永松が肩をかしてくれるんで、ぼつぼつ行けるんだ」
「肩を?」
この敗軍の中で、他人に肩をかす男がいるとは意外であった。永松は苦笑していた。
「肩をかしてやんなきゃ、飯が食えねえんだから、仕様がねえ。糧秣はねえし、おっさんの煙草だけが、頼りだからな」
「そうだ。この煙草のなくならねえうちに、パロンポンへ着かなきゃならねえ」
「こうなると、煙草もあんまり売れねえだろうが」
「そんなことあるものか」と安田は傲慢に答えた。「人間どうなっても、煙草なしじゃ、生きて行けねえ。情況が悪くなればなるほど、煙草をほしがるから妙だ。現にこうやって細々ながら、商売があるものな」
「そうでもねえぜ、おっさん」
「おめえの売り方が悪いからだ。兵隊は最後の一本の芋は、煙草と取り替えるもんだ」
この間にも道に兵士の列は絶えなかった。将校らしい一団が通りかかるのを見ると、永松は駈け出し、敬礼して、煙草の葉を差し出した。将校は諾いて受け取った。傍についていた下士官が永松を殴った。
「馬鹿野郎。こんな時に煙草なんぞ交換してる奴があるか。さっさと集合地へ急ぐんだ。いいか」
と下士官は怒鳴った。そして一団は遠ざかって行った。
頬を撫でながら帰って来た永松を、こんどは安田が怒鳴りつけた。
「品物を受け取る前に、渡す奴があるか。いつまでお前はそう頓馬なんだ」
「殴って持ってかれたのは、これが初めてだ」
「これからもあるこった。気をつけろ。馬鹿」
その他口汚い罵倒の言葉が続いた。私は立ち去る時だと思った。
歩き出す私を、安田はまだ忿懣の残った眼で睨んでいたが、永松は未練がましく随いて来た。
「まったくやり切れねえよ」と彼はこぼした。
「いい加減でほっぽり出したらいいじゃねえか。ああまでいわれながら、彼奴の世話をする義理もねえだろう」
「義理はねえが、彼奴と別れて、どうも俺には一人でやって行けそうにもねえ。彼奴の煙草がなくっちゃ、早い話明日食うものがねえもの」
「そんなに煙草が大切かな。お前だってそこに少しは持ってるんだろう。逃げちまえ」
「そうは行かねえ。彼奴がちゃんと握って放さねえんだ。商売があるたんびに、一枚ずつ渡してくれる」
私は吹き出した。しかし気の弱い永松が、一度安田につかまった以上、なかなか逃れられない理由も呑み込めた。
「まあこんなとこで煙草売りで手間取るより、早くパロンポンへ行った方が勝ちだぜ」
「ほんとをいうとな」と永松は声を低めた。「安田はパロンポンへ行く気はねえんだ。どこでもいい、米さんに会い次第、手を挙げるつもりなんだ。ただ、米さんは飛行機や迫撃砲で来るばっかりで、なかなかお目に掛れねえ」
私は永松の蒼い長い顔を見凝めた。
「おめえも降服するつもりなのか」
「そんな時になってみねえとわからねえが、まあ、何でも安田のする通りに、するつもりだ」と下を向いて彼は答えた。
私はとにかく「さよなら」といって彼等を見棄てた。足を早めて先に行った伍長達を追ったが、なかなか追いつくことは出来なかった。