二三 雨
それから雨になった。生物の体温を持った、厚ぼったい風が一日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちて来た。レイテ島は雨季に入ったのである。
草の間を火山礫が平らかに埋めた道は、うっすら水がたまって、靴で快く蹴立てられたが、赤土の登路はよく滑って、飢えそして大抵は脚気にかかっていた、兵士達の膝を疲れさせた。雨はシャワーのように機械的に連続して降り、ぴたりと止み、また不意に、栓をひねったように落ちて来た。そうして幾日も幾日も降った。
兵達は肌まで濡れた。雑嚢も濡れて重さを増し、固くしまった釣紐が、襦袢に粘着して、食い込むような重さを肩に加えて来た。背負った鉄帽の細紐が痛かった。遺棄された鉄帽が増えた。
私は伍長達に追いつこうとして足を速めたが、私の脚では、すぐ前を行く兵を、追い抜くことも出来なかった。二日そうして無駄の努力を続けた後、私は彼等から塩で買った友情を、回収することを諦めた。
兵士が倒れていた。彼等の体の下部は、草を流れる水に浸されていた。水に顔を伏せて動かないのは、息絶えたのであろう。
「俺達も今にこんなになるのかなあ」
と通行者が呟くと、
「何をっ」
と、その屍体が水に濡れた顔をあげた。
かつて私が海岸の村で見たように、脹れ始めているのは、完全に死んだ者であった。蛆が水に流れ出し、屍体から二、三尺離れた草の根にかたまって、もがいていた。
屍体はピンと張った着衣のほか、何も持っていなかった。靴もはぎ取られたとみえ、裸わな足が、白鳳の天女の足のようにむくんで、水にさらされていた。
雨に濡れた草の、青酸っぱい臭いに混って、私のよく知っている、あのつんと鼻をつく臭気が、緑の間に漂っていた。
時たま雨があがって、眩しい陽光が木々のあわいから差し込む時、兵達は林中に坐って裸となり、衣服を干した。彼等の体は痩せ垢によごれていたが、その褐色、拡げた軍服の黄、褌の白が、湯気をあげる下草の上に点在するのは、珍らしく花やいだ光景であった。
雨のため頭上に飛ぶ米機が減ったかわりに、敗兵の列は自働小銃を持つゲリラによって、側面から脅かされた。道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿っていたが、そういうゲリラの攻撃によって、我々はさらに山奥の杣道へ追い込まれた。
川もいくつか越えねばならなかった。水嵩を増した濁った流れが、飢え疲れた兵士の足をさらって、呆気なく川下に運んで行った。
オルモックの町の灯を左後にした頃から、山脈は低くなり丘と谷が錯綜して来た。磯波のようにまくれ返った頂上を並べた低い丘が、海岸方面に連り、道はその裏側を廻った。丘と脊梁山脈の前山との間は、出水の後の泥のような、平らな原が埋めていた。
丘と原は雨に煙っていた。雲がさがって、丘の頂の木を包み、突然吹く風に、低く遠く吹き散らかされた。その度に野を蔽う雨の条に、縞が移動した。
濡れた兵士の歩みは遅く、間隔は長くなった。濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道端に脱ぎ棄てられた。しかし「履けない」という判断は人によって異るとみえ、それ等脱ぎ棄てた靴を拾って穿き、次に棄てられた靴を見出すと穿き替え、そうして穿き継いで行く者もあった。
私が原駐地以来穿いていた靴は、山中の畠を出た時既に、底に割れ目が入っていたが、或る日完全に前後が分離した。私は裸足になった。