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野火28
日期:2017-02-27 17:10  点击:437
 二八 飢者と狂者
 
 いくら草も山蛭も食べていたとはいえ、そういう食物で、私の体がもっていたのは、塩のためであった。雨の山野を彷徨いながら、私が「生きる」と主張出来たのは、その二合ばかりの塩を、注意深く節しながら、嘗めて来たからである。その塩が遂に尽きた時、事態は重大となった。
 少し前から、私は道傍に見出す屍体の一つの特徴に注意していた。海岸の村で見た屍体のように、臀肉を失っていることである。
 最初私は、類推によって、犬か烏が食ったのだろうと思っていた。しかし或る日、この雨季の山中に蛍がいないように、それらの動物がいないのに気がついた。雨の霽れ間に、相変らずの山鳩が、力無く啼き交すだけであった。蛇も蛙もいなかった。
 誰が屍体の肉を取ったのであろう——私の頭は推理する習慣を失っていた。私がその誰であるかを見抜いたのは、或る日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を食べたいと思ったからである。
 しかしもし私が古典的な「メデューズ号の筏」の話を知っていなかったなら、或いはガダルカナルの飢兵の人肉食いの噂を聞き、また一時同行したニューギニヤの古兵に暗示されなかったら、果してこの時私が飢を癒すべき対象として、人肉を思いついたかどうかは疑問である。先史的人類が食べあった事実は、原始社会の雑婚と共に、学者の確認するところであるが、長い歴史と因習の影の中にある我々は、嫌悪の強迫なくして、母を犯し人肉を食う自分を、想像することは出来ない。
 この時私がそういう社会的偏見を無視し得たのは、極端な例外を知っていたからであったと思われる。そしてこの私の欲望が果して自然であったかどうか、今の私には決定することが出来ない、記憶が欠けているからである。恋人達がその結合の或る瞬間について、記憶を欠くように。
 私の憶えているのは、私が躊躇し、延期したことだけである。その理由は知っている。
 新しい屍体を見出す毎に私はあたりを見廻した。私は再び誰かに見られていると思った。
 比島の女ではあり得なかった。私は彼女を殺しただけで、食べはしなかった。
 生きた人間に会った。彼の肉体がなお力を残していることは、その動作で知られた。立ち止り、調べるように私の体を見廻す彼の眼付を、私は理解した。彼も私を理解したらしい。
「おう」
 と気合に似た叫びが、その口から洩れた。そして摺れ違って行った。
 林の中に天幕を張り、眼を光らして坐っている、四、五人の集団を見た。
「おう」
 と、今度は私の方から、声をかけて通過した。
 私の眼は、人間ならば、動かぬ人間を探していた。新しい、まだ人間の形態を止めている屍体を。
 雨があがって、空の赤が丘の輪郭を描き出していた或る夕方、私はその赤をもっとよく見るため(だったと思う)丘を登って行った。そして孤立した頂上の木に、背を凭せて動かぬ一個の人体を見た。
 彼は眼を閉じていた。その緑の顔に、西の方の丘に隠れようとしている太陽の光線が、あかあかとあたって、頬や顎の窪みに、影をつくっていた。
 彼は生きていた。眼が開いた、真直に太陽を見ているらしかった。
 唇が動き、言葉が洩れた。
「燃える、燃える」と彼はいった。「早い、実に早く沈むなあ。地球が廻ってるんだよ。だから太陽が沈むんだよ」
 彼は私を見た。彼の眼には、私に「おう」と声をかけて摺れちがった兵士と、同じ光があった。
「兄貴、お前何処から来たんだい」と彼はいった。
 私は黙って彼と並んで、腰を下した。太陽は向うの丘に隠れ、頂上に並んだ樹の間から、光線が縞をなして迸った。空に残った雲だけ、まだ金色に光っていた。我々は暫く光る雲に照されていた。
「西方浄土だ。仏は弥陀だ。一は一也。二は二也。合掌」
 彼は手を合せ、髯の延びた顎を、その上辺に凭せた。雨がさらさらと落ちて来た。彼は顔をあげ、
「あは、あは」
 と笑った。開けた口をそのまま仰向けて、雨を受けようとした。喉が鳴った。呑み込む時だけ、声が途絶えた。
「おい、行こうか」と私はいった。
「あは、あは、何も行くことはない。台湾から飛行機が迎えに来るはずだ。オートジャイロで、ほら、ここへ着陸するはずだ」
 齢は四十を越しているらしい。雨と陽で変色していたが、彼の服は将校の服であった。ただ剣も拳銃も持っていなかった。
「あは、あは」と彼はなおも笑っていた。食欲をそそる顎の動きであった。
 暗闇があたりを蔽う頃、彼はやっと黙った。「うう、うう」という鼾によって、彼が眠っているのを、私は知った。
 私は眠らなかった。待っていた。朝の光で、まず私を驚かしたのは、彼の顔と手を蔽っている、夥しい蠅であった。
「ひー」
 と笛を吹くような音と共に、彼は目覚めた。蠅が音に驚いたように飛び立ち、一尺ばかり離れた空間に旋回し、或いは停止して、羽音を高くした後、また降りて来た。
 彼は眼を開け、手で蠅を払い、深く叩頭した。
「天皇陛下様。大日本帝国様。何卒、家へ帰らして下さいませ。飛行機様。迎えに来い。オートジャイロで着いてくれい……暗いぞ」彼は声を低めた。「暗いな。まだ夜は明けないかな」
「もう明けたよ。鳥が啼いてる」
 雨のない朝であった。様々の鳥が、あたりの樹々や、谷底の林の中から、忙がしげな声をあげ、向うの丘との間の、狭い空間を、矢のように飛び交っていた。
「鳥じゃない。あれは蟻だよ。蟻が唸ってるんだよ。馬鹿だな。お前は」
 彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。
「あは、あは」
 彼は眼を閉じた。それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。顔も手も足も、すべて彼の体の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫よって占められた。
 蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく——事実私も死につつあったかも知れない——少しも怖れなかった。
「痛いよ。痛いよ」
 と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。
 雨が落ちて来た。水が体を伝った。蠅は趾をさらわれて滑り落ちた。すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。
「天皇陛下様。大日本帝国様」
 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。
「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
 しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝めていった。
「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」
 彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。

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