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野火29
日期:2017-02-27 17:11  点击:363
 二九 手
 
 私はその将校の屍体をうつ伏せにし、顎に水筒の紐を掛けて、草の上を引き摺った。頂上から少し下って、二間四方ぐらいの窪地が陥ちているところまで運んだ。その草と灌木に蔽われた蔭で、私は誰にも見られていないと思うことが出来た。
 しかし私は昨日この瀕死の狂人を見出した時、すぐ抱いた計画を、なかなか実行に移すことが出来なかった。私の犠牲者が息絶える前に呟いた「食べてもいいよ」という言葉が私に憑いていた。飢えた胃に恩寵的なこの許可が、却って禁圧として働いたのは奇妙である。
 私は屍体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部を眺めた。その緑色の皮膚の下には、痩せながらも、軍人らしくよく発達した、筋肉が隠されているらしかった。私は海岸の村で見た十字架上のイエスの、懸垂によって緊張した腕を思い出した。
 私がその腕から手を放すと、蠅が盛り上った。皮膚の映像の消失は、私を安堵させた。そして私はその屍体の傍を離れることは出来なかった。
 雨が来ると、山蛭が水に乗って来て、蠅と場所を争った。虫はみるみる肥って、屍体の閉じた眼の上辺から、睫毛のように、垂れ下った。
 私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽すのを、無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。
 この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。
 私は既に一人の無辜の人を殺し、そのため人間の世界に帰る望みを自分に禁じていた。私が自分の手で、一つの生命の歴史を断った以上、他者が生きるのを見ることは、堪えられないと思ったからである。
 今私の前にある屍体の死は、明らかに私のせいではない。狂人の心臓が熱のため、自然にその機能を止めたにすぎない。そして彼の意識がすぎ去ってしまえば、これは既に人間ではない。それは我々が普段何等良心の呵責なく、採り殺している植物や動物と、変りもないはずである。
 この物体は「食べてもいいよ」といった魂とは、別のものである。
 私はまず屍体を蔽った蛭を除けることから始めた。上膊部の緑色の皮膚(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。
 私は誰も見てはいないことを、もう一度確めた。
 その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、私の左手は自然に動いて、私の匙を持つ方の手、つまり右手の手首を、上から握るのである。
 私が行ってはならないところへ行こうと思う。私の左手は、幼時から第一歩を踏み出す習慣になっている足、つまり右足の足首を握る。
 そしてその不安定な姿勢は、私がその間違った意志を持つのを止めたと、納得するまで続くのである。
 今では私はこの習慣に馴れ、別に不思議とも思わないが、この時は驚いた。右の手首を上から握った、その生きた左手が、自分のものでないように思われた。
 私が生れてから三十年以上、日々の仕事を受け持って来た右手は、皮膚も厚く関節も太いが、甘やかされ、怠けた左手は、長くしなやかで、美しい。左手は私の肉体の中で、私の最も自負している部分である。
 そうして暫く、力をこめたため突起した掌骨を見凝めているうちに、私が今真に食べたいと思っているのは、死人の肉であるか、それともその左手の肉であるかを疑った。
 この変な姿勢を、私はまた誰かに見られていると思った。その眼が去るまで、この姿勢をこわしてはならないと思った。
「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむる勿れ」
 声が聞えたのに、私は別に驚かなかった。見ている者がある以上、声ぐらい聞えても、不思議はない。
 声は私が殺した女の、獣の声ではなかった。村の会堂で私を呼んだ、あの上ずった巨大な声であった。
「起てよ、いざ起て……」と声は歌った。
 私は起ち上った。これが私が他者により、動かされ出した初めである。
 私は起ち上り、屍体から離れた。離れる一歩一歩につれて、右手を握った左手の指は、一本一本離れて行った。中指、薬指、小指と離れて、人差指は親指と共に離れた。

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