三〇 野の百合
私は降りて行った。雨があがり、緑が陽光に甦った。林を潜り、野を横切って、新しい土地の上を、歩いて行った。
万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。樹々は様々な媚態を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。雨滴を荷った草も、或いは私を迎えるように頭をもたげ、或いは向うむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた。
私は彼等に見られているのがうれしかった。風景は時々、右や左に傾いた。
陽光の中を行く私の体からは絶えず水蒸気が騰り続けた。手から、髪から、軍衣から、火焔のように立って、背後に棚引いた。そして次第に空にまぎれ入り、やがてはあの高い所にある雲まで、昇って行くように思われた。
その空には、様々の色と形の雲が重っていた。それぞれの高度に吹く風に乗り、湧き返り、捲き返って、丘々に限られた眩しい青の上を行きかっていた。
一つの谷があった。私はその谷を前に見たことがあると思った。
日本の鉄道の沿線で見馴れた谷であった。車窓に近く連った丘が切れて、道もない小さな谷が、深く嵌入ている。その谷の眺めは、少年時から、何故か私の気に入って、汽車がそこを通る度に、必ず窓外に眼を放ったものである。
しかしその谷と同じ谷が、何千里離れたこの熱帯にあるはずはなかった。
門のように迫った両側の丘の林相も、ゆるやかに上った谷底を埋める草の種類も、温帯日本の谷とは違うはずであった。しかしその時私にはどうしても同じ谷としか思えなかった。
一体寸分違わぬ風景が、地球上に二つ存在し得るであろうか。私は眼を凝らし、相違点を探したが、見凝めていればいるほど、同一性の感じは強くなった。
そしてその谷も私を見ていた。
私はおもむろに近づいた。帰りつつあるという感じが育って行った。谷の入口を限る、繁った突端の間を過ぎると、私は体がしめつけられるように思った。
陽光が谷に降りそそいでいた。私は林の縁に蔭を選んで坐った。日向の草の葉は一面に干いていたが、根は谷一面に拡がって、音もなく流れる水に、洗われているらしかった。
草の間から一本の花が身をもたげた。直立した花梗の上に、固く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁の畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。
「あたし、食べてもいいわよ」
と突然その花がいった。私は飢えを意識した。その時再び私の右手と左手が別々に動いた。
手だけでなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。飢えているのは、たしかに私の右手を含む右半身であった。
私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。
花は依然として、そこに、陽光の中に光っていた。見凝めればなお、光り輝いて、周辺の草の緑は遠のき、霞んで行くようであった。
空からも花が降って来た。同じ形、同じ大きさの花が、後から後から、空の奥から湧くように夥しく現われて、光りながら落ちて来た。そして末は、その地上の一本の花に収斂された。
「野の百合は如何にして、育つかを思え、労せず紡がざるなり。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」
声はその花の上に漏斗状に立った、花に満たされた空間から来ると思われた。ではこれが神であった。
その空間は拡がって来た。花は燦々として私の上にも、落ちて来た。しかし私はそれが私の体に届かないのを知っていた。
この垂れ下った神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯と大地の間で、私の体は軋んだ。
私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである。
私の身が変らなければならなかった。