三三 肉
足の先まで冷さが走るのを感じ、私は我に返った。傍に永松の顔があった。彼の手は私の首の下にあり、水が私の顔を濡らしていた。彼は笑っていた。
「しっかりしろ。水だ」
私はその水筒を引ったくり、一気に飲み干した。まだ足りなかった。永松はじっと私を見ていたが、雑嚢から黒い煎餅のようなものを出し、黙って私の口に押し込んだ。
その時の記憶は、干いたボール紙の味しか、残していない。しかしそれから幾度も同じものを食べて、私はそれが肉であったのを知っている。干いて固かったが、部隊を出て以来何カ月も口にしたことのない、あの口腔に染みる脂肪の味であった。
いいようのない悲しみが、私の心を貫いた。それでは私のこれまでの抑制も、決意も、みんな幻想にすぎなかったのであろうか。僚友に会い、好意という手続によれば、私は何の反省もなく食べている。しかもそれは私が一番自分に禁じていた、動物の肉である。
肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。私の左右の半身は、飽満して合わさった。
私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。
「猿の肉さ」
「猿?」
「こないだ、あっちの森で射った奴を、干しといたんだ」
私は彼の顔を横眼で窺っていた。さっき林の中に見たと思った、二つの眼と銃口の持主が、彼ではないかという疑いが、頭をかすめたからである。この明るい陽光の中でも、彼の垂れ下った瞼の下に、時々仏像の眼の光が、走るように思った。
「お前、俺を猿と間違えたんじゃないか」
永松は声をあげて笑った。
「まさか。でも、お前随分転がったもんだな。何だって、あんなに転がる気になったんだ。すぐお前とわかってよかった。とにかく起きろ。起きられるか」
「わからない」
彼は私の腋の下に手を廻して、引き立てた。嚥み下した肉が、胃につかえて、体に心棒が入ったような気持がした。立ち上ると、河原が広くなった。
「足が、足が」と私はいった。
「足? 何の足だ」
「足がある。あそこに。足首の切ったのが、転がってるんだ」
私は改めて臭いを意識した。かつて海岸の町で嗅いだ、腐った屍体から発する臭いと、同じ臭いであった。
「くさい。くさい」
「うん、くさいな」
「知らなかったのか」
「知らねえな」
「そこだよ」
「わかってる。どっかの兵隊んだろう。弾にすっ飛ばされたんだろう」
一つの疑いがあった。
「相棒はどうした?」
と私は訊いた。
「安田か。達者だ。お前に会ったら、喜ぶだろう」
とにかく安田の足首ではなかった。永松は腕に力を入れた。
「行こう」
私は歩いた。斑らな萱を縫って、林の方へ進む間も、臭いは遠くならなかった。
「お前、今こっちから来たのか」
「そうさ、この林ん中に俺達の小屋、ってほどでもねえが、とにかく寝るところがあるんだ。テントを張ってある」
林の中をだらだら上りに、草を踏み固めた道が、奥へ向っていた。木の枝が、住民の小屋の附近でよく見るように、焚木の長さに切られ、垂れ下っていた。不意に永松がかがんだ。拾い上げたのは、銃であった。
私は身慄いした。私がこの林に銃口を見たと思い、そこから永松が現われ、ここに銃がある——この連鎖は、私を覘ったのが、永松であることを示している。ただその後で、彼が私に肉と水を与え、私が歩くのを支えているという事実が矛盾している。
しかし私は進んで永松に問い糺す勇気はなかった。そう訊くことが、事件の進行をもとへ戻すことを懼れたからである。
あの猿の肉を食べて以来、すべてなるようにしかならないと、私は感じていた。
「弾はあるのかい」
と私はさり気ない質問を出した。
「ああ、大事に使ってるからね。こいつがなくなると、顎が干上っちまう」
「お前達、ずっとここにいたのか」
「そうさ。安田が動けねえからね。オルモック街道まで行けば、米さんがいるって話だが、それが行けねえんだ」
「行ったって、通れねえぜ」
「手を挙げるのさ。こんなところにいちゃ、いずれ死んじゃうからな。安田も前からそのつもりなんだが、何しろ熱帯潰瘍がひどくて歩けねえのさ」
「お前がいつまでも安田の世話してるのは感心だ」
「ふふ、一人じゃ淋しいからさ。それに彼奴は煙草を持ってるしね」
「まだか」
「まったく持ちのいい野郎さ。猿が獲れた時、持ってってやると、寄越しやがる。そいで自分じゃ、ちっとも吸わねえんだから、ひでえ奴だ」
林はだんだん深く、陽光が梢にあがって、ひんやりした冷気が漂い始めた。鳥が啼いていた。その声に混って「おーい」とも「ほーい」とも聞える呼声が、伝わって来た。
「ほら、安田が呼んでる。俺がいなくちゃ、どうにもならねえくせに、いつまでも威張ってやがるんだ——おーい」と呼び交しながら、我々はだんだん近づいて行った。
叢を分けて、低い崖を背に、小さな空地へ出た。土を掘って造った小さな矩形の炉に、火が燃えていた。芸もなく四方の木から引張ったテントの下に、安田がいつものように、脹れた片足を投げ出して坐っていた。
眼が鳥の眼のように、飛び出していた。髪も髯も、延び放題で、褪色して、外国人のように、褐色に変っていた。彼は私がわからないらしかった。動かない眼でじっと見ていた。
「田村だった」
と永松がいうと、眼がまた大きくなった。そして怒ったように、無言で永松を見た。こっちは横を向き、腰を下した。
「すまねえ」
と私はいった。安田の顔は歪んだ。しかし言葉は意外に優しかった。
「そうか。よかったな。どうしてたんだ」
「そこに、打っ倒れてたら、永松が見つけてくれた」
「ふむ、よかったな。俺はもうすっかり動けなくなった。永松が持って来てくれる餌で、やっと生きている始末さ。どうだ、戦争まだ終らねえだろうか」
永松が吹き出した。
「馬鹿な。田村が知ってるわけがねえじゃねえか。田村だってこちとら同様、そこらをうろうろしてただけさ」
「そうか。ふむ、お前何か食糧持ってるか」
私は首を振った。安田が最初永松に投げた非難の眼付を、私は理解した。いかにも私はここで、厄介な余計者に違いなかった。
「何もねえ。草や山蛭ばかり食べて来たんだ」
過ぎた幾日かの、錯乱の記憶が甦った。神はこの人間のいる林間の空地にも、垂れ下っているであろうか。
私はその巨大な体に触れようとして、手を挙げた。空しく延びた手に爽やかな風が当った。声が降って来た。
「銃もねえんだな」
「ねえ——ああ、そうだ、手榴弾があった」
「手榴弾」と二人が同時に叫んだ。
私はそれまで自分が手榴弾を持っているのを、忘れていたのである。二人の声に驚き、私は急いで腰を探った。
「おや、ない」
しかし同時に、雨が降り出してから、私がそれを雑嚢にしまったのを思い出した。そっと触ってみた。たしかにそれはどっしりと重く、雑嚢の底に横わっていた。しかし私は咄嗟の考えで、二人にそれをいうのを止めた。彼等の声に警告されたからである。
「落したかな」
「もったいねえことしたな。池へぶち込めば、魚ぐれえ獲れたのに」
「お前達もねえのか」
「俺のはもう使った。今じゃ永松の銃だけが頼りさ。それで猿が獲れるから、つまり俺達は生きていられるわけさ」
と安田は、我々に共通の乱杭歯を出して、声もなく笑った。