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野火35
日期:2017-02-27 17:14  点击:407
 三五 猿
 
 明方から雨になった。永松の造った萱の屋根は、巧みな勾配を持ち、周囲に雨溝も掘ってあったので、雨は中に入っては来なかった。
「雨か」と舌打ちして、永松は起き上った。「さあ、行こう」
「火は大丈夫だろうか」
「心配するな。火の番は安田の商売だ」
 いかにも、安田は工夫していた。燠を飯盒に入れ、火が消えない程度に隙間をあけて、蓋をしていた。ただ炉は使えなかったので、朝食は干肉のままかじった。
「雨が降ったじゃないか」
 と安田は、永松を睨んだ。
「それが、俺のせいかね」
「猿が獲れねえじゃねえか」
「雨だっているかも知れねえさ。どれ、そんなら出掛けるか。田村はここにいろ」
「俺も行く」
「まあ、いい、お前はまだ歩けねえ。もうちっと癒ったら、手伝って貰うさ」
 そして「気をつけろ」と低声に囁くと、雨の中へ出て行った。
 私はまた安田と残された。話がなかった。テントを平らに張っただけの安田の寝床には、雨が降り込み、居心地がよくなかった。
「俺はまだねむい。永松んとこで寝て来るぜ」
 と私がいうと、安田は不意に愛想がよくなった。
「まあ、いいじゃねえか。ここだって寝られるさ。さあ、こっちが雨が当らねえぜ。寝な、寝な——俺もお前が来てくれて心丈夫になった、永松の野郎、この頃生意気になりやがって、いちいち楯つきやがる。あんな野郎じゃなかったんだが。俺がついてなきゃ、あんな奴、今頃野垂れ死してたのさ。猿を獲るんだって、俺が教えてやったんだ」
「そんなに猿がいるのかねえ、俺はまだ一匹も見たこたないが」
「やたらにいるわけじゃないが、どうやら食いつないで行くぐらい、彼奴が取って来る——ただ、こう降っちゃ、猿もねぐらに引込んでるだろう」
 永松が帰って来た。
「今日はやめだ。もう雨季は終る頃だが」
「今日、幾日だろう」
「そいつは俺がちゃんとつけてる」と安田が答えた。「二月の十日だ。月末にゃ、レイテの雨季は明けるはずだ」
 私は驚いた。私が三叉路を越せなかったのは、たしか一月の初めであったから、あれから私はひと月、一人でさまよっていたのである。
 しかし雨はなかなか止まなかった。永松は猟に出ず、肉の割当も一日一片に減った。我々はもう安田のテントへ行かず、火種を持って来て別に火を起し、永松と差向いで、一日膝を抱いて坐っていた。彼の私を見る眼は険しくなった。
「お前を仲間へ入れてやったのは、よっぽどのこったぞ。よく覚えとけ」と彼はいった。肉はもうなくなっていた。 
 遂に或る日が晴れて、永松は出掛けて行った。私は久振りで安田のテントへ行ってみた。
「もし今日も獲れなかったら、俺もどっかへ行って見る。手榴弾で魚が獲れるって池、どこにあるんだい」
「ずっと前の話さ。どっか遠くだよ。——だってお前、手榴弾は落っことしたんだろ」
「実はあったんだ。雑嚢にね」
「えっ」安田の眼が大きくなった。「ふむ。でも、この雨じゃ、濡れちゃったかも知れねえぜ。どれ、見せてみな」
 私は何気なく取り出して、渡した。「ほう。九九式だな。うむ、ちゃんと緊填してあるな。ふむ、こりゃ使えそうだ」
 そういいながら、彼の取った動作は奇妙なものであった。彼は当然のことのように、さっさと自分の雑嚢にしまうと、しっかり紐を結んでしまった。
「おい。返してくれ」
「返してもいいが。誰が持ってても同じだろう。俺が預っといてやるよ。俺はここにじっと坐りっ切りの、物持ちのいい人間だ。お前が持ってて、また濡らしちゃうといけねえ」
 私は不安になった。
「とにかく返してくれ。大丈夫、濡らしゃしねえ。永松におこられる」
「永松が何かいったのか」
「お前に渡しちゃいけねえって」
「あはは、それに何故渡した」
「うっかりしたんだ」
「それがいけねえ。もう駄目だ。後の祭りだよ」
「返せ」
 私が安田の雑嚢へ手を延ばすと彼は剣を抜いた。私は飛びのいた。私もまた剣は持っていたが、この密林の友人と、何故剣を抜いてまで、一個の手榴弾を争う必要があるのか、わからなかった。
「よせ。やるよ。そんなに欲しけりゃ、やるから、そんなもの、早くしまっちまえ」
「そうか。流石インテリは物わかりがいい。よこせば、別に文句はねえ」
 私は出掛けた方がいいかも知れない。それとも……私は自分の手を眺めた。声が聞えた。
「ここに働かざりしわが手あり」
 その時遠く、パーンと音がした。
「やった」と安田が叫んだ。
 私は銃声のした方へ駈けて行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駈けていた。髪を乱した、裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは永松ではなかった。
 銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駈け続けた。
 振返りながらどんどん駈けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。
 これが「猿」であった。私はそれを予期していた。
 かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。そして私は一つの場所に多くの足首を見た。
 足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した、それら物体の累積を、叙述する筆を私は持たない。
 しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたと書けば、誇張になる。人間はどんな異常の状況でも、受け容れることが出来るものである。この際彼とその状況の間には、一種のよそよそしさが挿まって、情念が無益に掻き立てられるのを防ぐ。
 私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。
 ただ私の体が変らなければならなかった。

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