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野火37
日期:2017-02-27 17:15  点击:422
 三七 狂人日記
 
 私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中庭の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病舎をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者共を見下している。
 あれから六年経った。銃の遊底蓋を拭ったままで、私の記憶は切れ、次はオルモックの米軍の野戦病院から始まっている。私は後頭部に打撲傷を持っていた。頭蓋骨折の整復手術の痛さから、私は我に返り、次第に識別と記憶を取り戻して行ったのである。
 私はどうして傷を受け、どういう経路で病院に運ばれたかを知らなかった。米軍の衛生兵の教えるところによれば、私は山中でゲリラに捕えられたので、傷は多分その時受けたのだろうという。軍医は私の記憶喪失が、脳震盪による逆行性健忘の、平凡な場合だと説明した。
 頭髪が脱落していたほか、体に外見的異状はなかったが、心臓に機能的障害があり、タクロバンの俘虜専用の病院へ移された後も、私は二カ月以上便所へ通うことが出来なかった。私が隊から追われる原因であった肺浸潤も進行していた。私は結核患者のみ集めた病棟に隔離され、一般俘虜収容所へ移ることなく、昭和二十一年三月病院船で復員したのである。
 俘虜病院に収容された当初、私は与えられる食膳に対し、一種の儀式を行うことで、同室者の注意を惹いたそうである。人々は私を狂人と見做した。しかし私は、今でもそうだが、自分のせずにいられぬことをするのを、恥じないことにしている。何か私以外の力に動かされるのだから、止むを得ないのである。
 私はいかに自分の肉体を養う要請に出ずるとはいえ、すべて有機質から成り立っている食物を食べることを、その有機質の以前の所有者であった生物達に、まず詫びるのである。私としては、むしろ少しも自責なくこれを行っている、人間共が不思議でならない。人間同士の愛と寛大、つまりヒューマニズムについて、あれほど大言放語している彼等がである。
 或る日私が突然その儀式をやめたのは、してもしなくても同じことだと、思ったからである。私は私の心を人に隠すのに、興味を覚えるようになった。
 部隊を離れてからの経験について、私は誰にも語らなかった。比島の女を殺したことは、戦争犯罪者に加えられる惧れがあり、たとえ人肉常食者にせよ、僚友を殺したことを、俘虜の仲間がどう思うかわからなかったからである。
 私は求めて生を得たのではなかったが、一旦平穏な病院生活に入ってしまえば、強いてその中断を求める根拠はなかった。人は要するに死ぬ理由がないから、生きているにすぎないだろう。そして生きる以上、人間共の無稽なルールに従わなければならないことも、私は前から知っていた。祖国には妻がいた。
 妻は無論喜んで私を迎えた。彼女のうれしそうな顔を見ると、私自身もうれしいような気がした。しかし何かが私と彼女との間に挿まったようであった。それは多分比島の山中の奇怪な経験と、一応いっていいであろう。人は殺したとはいえ、肉は食わなかったのだから、何でもないはずであり、私の一方的な記憶が、妻との生活の間に「挿まる」なぞ、比喩としてまずい比喩であるが、どうもほかに考えようもない。
 私としては始終独りになりたい、という止み難い欲望が続いていたにすぎない。空襲中東京の家で彼女が火に囲まれて危く助かった話を聞き、「そりゃよかったね」と答えながら、ふとその時彼女が死んでしまえばよかったと思い、私は自分の心に驚いた。しかし私にはすべて自分が思い、感じたことを抑えたり、否定したりする気はない。
 だから五年後、私が再び食膳を前に叩頭する儀式を恢復し、さらにあらゆる食物を拒否するようになった時も、私としては別におかしいとも、止めねばならぬとも思う根拠はないわけである。再び私の左手が右手を握るようになったのも、神であろうか、何か私とは別なものに、動かされているのであるから、止むを得ない。私は外から動かされるのでもなければ、繰り返しはいやである。
 五月の或る日この精神病院へ連れて来られて、比島の丘の緑に似た、柔かい楢や椚の緑が、建物を埋めているのを見た時、ああ、この世で自分が来るべきところはここであった、早くここに気がつけばよかったと思った。遂に私が入院ときまり、私が重い扉の内側に、妻はその外側に立った時、妻が私に注いだ涙を含んだ眼に、私が彼女の心に殺したものの重さを感じたが、しかし心を殺すぐらい何であろう。私は幾つかの体を殺して来た者である。
 しかも妻の心が彼女の全部ではないのも私は知っている。人間がすべて分裂した存在であることを、狂人の私は身をもって知っている。分裂したものの間に、親子であろうと夫婦であろうと、愛なぞあるはずがないではないか。
 要するに私の欲するままにさせておいて貰いたいのである。私の欲することを止めさせるには、あの比島の山中の将校のように、私の欲する前に、私に薦めねばならない。私の欲望は到って少ないのであるから、一度欲してしまってからでは間に合わない。そして誰も私に私の欲しないことをさせることは出来ないのである。
 私が復員後取り繕ろわねばならぬ生活が、どうしてこう私の欲しないことばかりさせたがるのか、不思議でならない。
 この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。
 しかし慌てるのは止そう。新聞紙上に現われるのはすべて徴候にすぎない。徴候は一つなら印象も一過的で、やがては忘れられるはずである。徴候が我々の中に沈澱させるものは、それが継続して、或いは周期的に現われるためにほかならない。丁度私が戦場で野火を怖れたのが、私がそれを見た順序、その数にかかっていたように。
 これ等の徴候が一群の心理学者の制作に係るならば、私はそれらの専門家を憎む。しかし革命家達はこの組織を壊滅さすのに、実に愚劣な方策しか案出出来ないのであって、しかも互いに一致せず、つまらぬ方針の争いを繰り返している。
 誰も私にもう一度戦場で死ぬのを強制することは出来ないと同様、方針の部分品として、街頭に倒れることを強制することも出来ない。誰も私にいやなことをさせることは出来ないのである。
 私はこれがみんな無意味なたわ言にすぎないのを知っている。不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であった。その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子を、私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。
 しかし人間は偶然を容認することは出来ないらしい。偶然の系列、つまり永遠に堪えるほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んで自ら慰めている。ほかに考えようがないからだ。
 しかし多分これもたわ言であろう。事実は私が今この精神病院で、天体の運行を見守りながら、一日一日睡眠によって中断された生活を送っているというにすぎない。医師によって課せられた整頓掃除の日課も、それを果す間は偶然を忘れていられるという意味で悪くない。看護人が多く旧日本軍の衛生兵であるのは甚だ皮肉であるが、彼等が時々患者を殴る様子に、彼等の前身を偲ぶのも私には快い。前線の私の生活と、現在の生活との間に、一種の繋りを感じさせるからである。
 もし私の現在の偶然を必然と変える術ありとすれば、それはあの権力のために偶然を強制された生活と、現在の生活とを繋げることであろう。だから私はこの手記を書いているのである。

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