三八 再び野火に
もっともこの手記は元来、医師の薦めによって始められたものである。彼は自由連想診察の延長として、私自身をして過去を書かしめるのを、適当と認めたらしい。そこで私は彼等の所謂職業上の秘密保持の義務に乗じ、私がこれまで誰にも明さなかった経験を語ることにした。彼等はどうせアミタール・インタヴュによって、私の秘密の一部を知っているであろうから、いっそ詳細を語った方が都合がよい。いずれにせよ、どうせ彼等は私のいうことを理解しないであろうが。
医師は私より五歳年少の馬鹿である。食虫類のような長い鼻に、始終水洟をすすり上げている。彼は私が復員後精神分裂病と逆行性健忘症の研究を積み、むしろ進んでここに避難して来たことを知らない。彼の精神病医学の知識は、私の神学の知識ぐらいなものだ。
ただ連続睡眠とか電撃とか、蓋然的療法によって、私の拒食の習慣が除かれたことだけは、それだけ私の毎日の生活から面倒が減ったから感謝している。
私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようである。私は妻は勿論、附添婦の同室も断った。妻に離婚を選択する自由を与えたが、驚くべきことに、彼女はそれを承諾した。しかもわが精神病医と私の病気に対する共通の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのを止めた今も、あの赤松の林で媾曳しているのを、私はここにいてもよく知っているのである。
どうでもよろしい。男がみな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。
医師は私の手記を、記憶の途切れたところまでを読み、媚びるように笑いながらいった。
「大変よく書けています。まるで小説みたいですね」
「僕はありのままを書いたつもりです」
「ははは、そうです。そこです。あなたがありのままと信じているところに、真実を修正する作用が働いているのが特徴でして、これは小説家にも共通した心理なのです」
「想起に整理と合理化が伴うのは止むを得ません」
「なかなかよく意識しておられる。しかしあなたは作っておられますよ」
「回想に想像と似たところがあるのは、通俗解説書にも書いてるじゃありませんか。現在の僕の観念と感情で構成するほか、何が出来ますか?」
「私共に一番興味があるのは、あなたの神の映像ですね。普通私共はこれを罪悪感を補償するために現われるコンプレックス——メシヤ・コンプレックスと呼んでいるんですが、あなたは今でも自分が天使だと信じていられますか」
「いや、どうだかわかりません。そうですね。多分これを書きながら見附けて行ったのでしょう。ふむ、メシヤ・コンプレックスとしては、僕の神の観念は甚だ不完全なものですね」
「まあ、それだけあなたの症状が軽いということですから、御心配はありません。いや、人が発狂時に書くことには、案外深い人生の真実が潜んでいることがある。——ただ衝撃のため、最後の部分を忘れておられるのが残念ですね。私共にいわせれば、或いはそこにあなたの病気の、真の原因が潜んでいるかも知れないのです」
「僕は病気じゃないかも知れませんよ」
「あはは、患者はみなそういいます。そして大抵私達医師に反感を持っています。いかがです」
「…………」
「まあ、そこらに失礼ながら、あなたの病気があるかも知れない。あなたの症状は離人症というんですが、副次的特徴の一つとして、他人を信用しないことです。つまり自分が信用出来ないからなんで」
「じゃ、あなたを信用しろとおっしゃるんですか」
「そう睨まないで……いや、今日はここまでにしておきましょう。まあその忘れた期間のことでも考えていらっしゃい。しかしどうしても思い出せなかったら、無理しなくてもいいですよ」
いかにもあの忘却の期間は、私の中に暗黒の輝線のように残っている。すべて私の想起はここまで来ると、いわば全反射して、決してあの時手に持った銃の、雨滴のぽつぽつ附いた遊底蓋から奥へ入ることは出来ない。或いはそれから米軍の病院の手術台で、再び記憶が始まるまでの十日の間に、現在の私の生活と、あの山中の記憶を結ぶ鍵が潜んでいるかも知れない。
映像の記憶を欠く私は、推理によって、その未知の領域に入ろうと思う。推理もまた想起作用の有力な一環である。
医師が私の精神の状態を自分に納得するような、誇らかな眼で私を見据え、諾いて去った後、私は一人庭へ出ていった。ベンチへ腰を下し、傾いた十月の陽が赤松の影を長く延ばし、影が芝の黄ばんだ緑と重って、紫の斑点を浮き上らせてくるのを見凝めながら、私は医師との会話によって、新しく刺戟された推理の糸を手繰った。
私が比島人に捕えられた地点は、俘虜票にオルモック附近とあるのみで、正確な証言を欠いているが、私の記憶に残る最後の地点は、たしか海岸からはかなり隔った山中で、ゲリラの来そうなところではなかった。してみれば、私が行ったのでなければならぬ。しかし私は何をしに行ったのであろうか。
比島の女を殺した後、私がその罪の原因と考えた兇器を棄てて以来、私が進んで銃を把ったのは、その時が始めてであった。そして人食い人種永松を殺した後、なお私が銃を棄てていなかったところを見ると、私はその忘却の期間、それを持ち続けていたと見做すことが出来る。私は依然として神の怒りを代行しようと思っていたのであろうか。
いや、神は何者でもない。神は我々が信じてやらなければ存在し得ないほど弱い存在である。私がそう錯覚していたかどうかの問題だ。
比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている。秋の穀物の殻を焼く火か、牧草の再生を促すために草を焼く火か、或いは私達日本兵の存在を、遠方の味方に知らせる狼煙か、部隊を離脱してからの孤独なる私にとって、野火はその煙の下にいる比島人と因果関係にある。
では私は再び野火を見ていたかも知れぬ。
耳の底、或いは心の底に、私は太鼓の連打音に似た低音を聞くように思った。その長く続く音は、目の前の地上にますます延びて行く赤松の影と重なる。かつて比島で私の歩く先々について廻った、野火の印象に重なる。
この病院を囲む武蔵野の低い地平に、見えない野火が数限りなく、立ち上っているのを感じる。
私はあの忘却の灰色の期間が、処々、粒を立てたように、野火の映像で占められているのを感じる。それに伴う何の感情も思考もないが、映像だけは真実である。
私は室に帰った。夜、食事をする間も、ベッドに入ってからも、太鼓の連打音は続いていた。そして遂に私はその記憶喪失の全期間を思い出すことが出来た。いや全部ではないが、多分書きながら思い出して行くであろう。