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光と影04
日期:2017-02-27 17:27  点击:341
     四
 
 大阪臨時病院に残った寺内の創は小武が想像したとおり一進一退を続けていた。
 五月の半ばには周囲から肉がもりあがり、創口も拇指の先の大きさまでに縮まりこのまま閉じるかとさえ思われた。だが末頃から創の周辺は再び赤味を帯び周りが柔らかくなってきた。
「軽く切開しましょう」
 佐藤軍医監がメスを消毒してきた。
「やはり開かなければいかんのですか」
「なかに膿が貯まっているのです。もっと大きな通路を開いて出してやらなければ治りませんよ」
 折角閉じかけてきたのを、と寺内は不満だった。だが佐藤がメスを上下に軽く動かしただけで膿は一斉に溢れ出た。出るに出られずもがいていたという感じである。創はまた逆戻りであった。
「悪くなったのですか」
「違います、この創は火山のようなもので底ではまだ菌が蠢いているのです。それが時々爆発するのです。悪くなったわけではありません」
 寺内は自分の腕から出てくる膿にほとほと呆れていた。
 腐骨摘出という実験的手術を、寺内のように単純で人を疑わない性質の男に試みたのは適切であった、と佐藤は思っていた。これが小心で猜疑心の強い男であれば、医師を疑うか絶望して乱暴なことをしでかすかも知れなかった。
 もっとも寺内の方も最近は少しずつ考えが変ってきていた。当初は切断して早く退院できた方が良いと考えていたが、小武の予備役編入を知って、彼は必ずしも切断をするのが得策ではないと思い始めていた。痛みと時々の発熱はつらいが、軍医の云うとおりにもう少し頑張ってみるつもりになっていた。
 
 暇にまかせて小武敬介は毎日のように隅田川べりから浅草、時には上野まで歩きまわっていた。何処といって行くあてもなかったが、家に籠っていたのでは一日が無限に長かった。
「ぶらぶらしていても仕方があるまい」
 見るに見かねて叔父が二、三の勤め口を探してきてくれたがどれも官員の下使いとか、邸の留守番といった仕事ばかりであった。腕はなくとも自分の才能に自信のある小武に堪えられる仕事ではなかった。
(不具者と思って、皆馬鹿にしておる)
 口惜しさで眠られぬままに、彼は夜、秘かに軍刀を抜いた。刀を抜くにも片腕では難しい。両足で鞘《さや》を抱え込み左手で抜く。
(まるで畜生だ)
 小武は自分で自分の姿に腹が立った。だがローソクの光りの中で刀は以前と変らぬ鋭い美しさを見せていた。
(こいつも俺も不遇だ)
 そんな夜、小武はきまって腕が戻った夢を見た。
 
 治療を受ける日でもないのに、小武は陸海軍病院に行って待合室で用もなく坐っていることがあった。外を歩くと五体満足な者ばかりだったが、病院へ来ると満足な者は数えるほどしかいない。脚のない者、両腕のない者、失明した者、寝たきりの者等不具の者で溢れていた。腕一本がないなどというのは軽い方である。どれもが国のための名誉の負傷である。ここでだけはどんな不具者も大きい顔ができた。
(寺内の奴、どうしているか)
 小武は腕に副木をしている者を見る度に寺内のことを思い出した。退院したという話を聞かぬ以上、まだ膿が出続けているに違いなかった。
(あいつも不運な奴だ)
 そのうちに切断の機会を逃し、肩から外すということにでもなるのではないか、小武は寺内の蒼く長い顔を思い出した。
 半刻も腰を据え、白衣の病者を見届けたところで小武は立ち上った。街中を歩いてきた孤独感はもうなかった。
 病院の正門を出て右へ曲った時、人力車が停り一人の男が降りた。男は幌の中から杖とともに右足を先にゆっくりと延ばし、地についたのを見計らってから左足を降ろした。背広を着て山高帽をかぶっているが、小武はすぐそれが陸軍少佐中山武親であることを知った。
「中山少佐殿」
 声をかけた瞬間、小武の袂の中で棒のような右腕が動いた。敬礼しようとしたのである。小武は持上った断端を慌てて降ろし改めて左手で敬礼をし直した。
「小武君だな」
 中山はその場に立ったまま小武の顔から足先までをじっくりと見渡してから云った。
「腕を失ったのだな」
「はい」
 中山武親は教導団を出て、初めて近衛歩兵連隊へ配属された時の中隊長であった。当時、中山は大尉で小武は下士官であった。その後、中山は旅団司令部へ移り、演習中、馬の事故で落馬し右脚を折って退役したのである。
「少佐殿はいかがですか」
「脚はこのとおり曲らぬが、まあ何とか歩ける。今日は半年に一度の定期診察日でな」
 中山は右脚を軽くうかして立っていた。
「お互い妙な所で会うな」
 中山の下にいた頃が一番張り切っていた時であった。若さと意欲がかみ合っていた。
「して今はどうしているのだ」
「別に、ただ……」
「予備役か」
「はい」
 小武の姿を一目見ただけで中山はすべてを察していた。あれだけの優秀な男を、惜しいと思った。
「お前、俺の下で働く気はないか」
「はあ?」
 退役将校の下で何をするのかと小武は訝《いぶか》った。
「今度、我々で偕行社という団体を作ったのだ。そこで働く気はないか」
「かいこうしゃ?」
「それは診察が終ってからよく説明する。ここで待っておれ」
「はい」
 何のことか分らぬままに小武は返事をした。中山には近衛連隊当時の懐しさにくわえ、傷ついた者同士という親しさもあった。
 
 偕行社は明治十年一月三十日、東伏見宮嘉彰親王以下十六名の将校が、陸軍少将曾我祐準邸に集まり、創立の事を議決したのに始まっている。
 この結社の目的は当時、偕行社創立大意として陸軍省が声明した一文に明瞭だが、その趣旨を要約すると、
 帝国陸軍将校の団結を鞏固《きようこ》にし、親睦を醇《あつ》うし、軍人精神を涵養し学術の研鑽を為すと共に、社員の義助、及び軍人軍属の便益を図るにある。
 ということになる。これに類似した海軍将校の親睦団体として水交社があるが、こちらは一年早く明治九年に設立され、芝山内真乗院で発会していたのである。
 この偕行社の語源は詩経の無衣の卒の章の一句、「与子偕| ≪ニ≫行| ≪カン≫」からとったものであるが、当初の創立準備の幹事となったのが、陸軍大佐小沢武雄、中佐滋野清彦、少佐斎藤正言の三人で、彼等が社則の編成、創立の諸準備等を行なった。彼等は退役将校でも傷痍軍人でもなかった。れっきとした現役将校である。
 要するに社員というのは偕行社というクラブを利用する会員のことであり、中山はここで働く職員の責任者、すなわちチーフマネジャーであったわけである。
 第二次大戦の頃の偕行社は軍人勅諭、軍籍簿、兵術書の出版から軍装品の販売、さらにはホテル貸室まで巨大な規模にふくれあがっていたが、当初は陸軍将校の集会所兼勉学所にすぎなかった。
「軍ではないが精神は軍と同じだ」
 中山の云うとおり軍の一種の外郭団体であった。
「是非働かせて下さい」
 小武には願ってもない働き場所であった。そこなら傷ついた帝国軍人として恥ずかしくない仕事場である。その日、彼は帰るとすぐ履歴書を書いた。

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