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光と影08
日期:2017-02-27 17:30  点击:335
     八
 
 当初短命を予想された桂内閣は日露戦争という超党派態勢に救われて、戦前、戦中、戦後と五年余に及ぶ長命内閣となった。さらに歴代陸相としては二流と見なされた寺内は、この五年間を乗り切ったことで大きく見直されることになった。この意味で日露戦争は晩年の寺内に訪れたもう一つの好運であったということができる。
 ともかく寺内はこの間の陸軍大臣としての功績により三十九年、終戦処理が終るとともに陸軍大将となった。更に四十二年には朝鮮総督兼任となり、四十四年総督専任とともに伯爵を授けられ華族に列せられた。
 この間、日露戦争勝利に沸く三十九年の春に、小武には忘れられない小さな事件があった。
 三十八年、三十九年とそれまで満州に出兵していた軍は続々と帰還してきていた。この英雄達を迎えるために東京の街は毎日のように花火があり、旗行列が行なわれた。当然、偕行社も連日出征帰りの将校達で賑わった。
 その日も偕行社の将校集会所は満州帰りの威勢のいい将校達が集まり武勇伝を披露しあっていたが、酒がまわってくるとよく争いが起きた。
「また睨み合ってます、小武さんでなければ収まりそうもありません」
 例によって伊藤が助けを求めに来た。
「どことどこだ」
「第一軍と第四軍の将校達です」
「黒木と野津か」
 第一軍は黒木大将が、第四軍は野津大将が率いていたのである。二人の若い時を小武は知っている。
 小武が行った時、将校達は机を挟んで真二つに分れて睨み合っていた。
「よせ、ここは争う場じゃないぞ」
 対峙していた将校達は突然現われた小武を訝しげに見詰めた。
「いい年齢をして、何という態だ」
「なにいっ」
 その時、最前列にいた上背のある男が一歩前に身を乗り出した。すでにかなり酩酊している。
「貴様、帝国軍人を馬鹿にするのか」
 男には平服の小武が何者か分らなかったのである。
「軍人なら軍人らしくしたらどうだ」
「なにっ、この老いぼれめ」
 云った途端に、男の鉄拳は小武の顎をとらえていた。はずみを食らって小武の痩身は二間先の机に当って倒れた。
「小武さんっ」
 伊藤が駈けよって抱き起した。
「貴様ら、この方を何と心得るか、この方は西南戦争で右腕をなくされた貴様らの大先輩だぞ」
 将校達は慌てて伊藤の陰になっている小武をのぞき込んだ。だが酔った男はこのままで引っ込んでは恰好がつかぬと思ったのか、さらに悪態をついた。
「西南戦争がなんだ、我等は世界一の露軍と戦って来たんだ」
 小武は立上った。顎が燃えるように熱かったが頭は不思議なほどさめていた。
「馬鹿野郎、何であろうと命をかけた戦であることに変りはない。この方は寺内閣下と同期で親しい方だ」
「えっ」
 毒づいた男は手を下ろし顔を引いた。腕組みしたり、ポケットに手を入れていた将校達が一斉に直立不動の姿勢をとった。
「非はもとよりお前達にある。このままでは只で済まんぞ」
「はっ」
 酔った男は真直ぐ小武の顔を見てから頭を下げた。
「申し訳ありません、そうとも知らず、御許し下さい」
 小武は何も云わず集会所を出ると、足早に自室に戻った。椅子に坐ると、顎から頬一面が火照った。何かしらぬが無性に悲しかった。十分して伊藤が戻ってきた。
「連中、全員で改めてお詫びに上りたいと云っています」
 小武は夕闇にぬりつぶされた外を見ていた。坂上の灯台の光りが濠の水に映って揺らいでいた。
「いかが致しましょう」
「いいと云ってくれ」
「でも、彼らは……」
「いいと云ったら、いいのだ」
「分りました」
 伊藤はドアを閉めて出ていった。
「寺内と同期で親友か」
 小武は一人になって呟いた。寺内が士官学校で教えでもしないかぎり彼等に小武の存在は分るわけもなかった。
(長く勤めすぎたのだ)
 彼は自分が、「老いぼれ」と云われたとおり、五十歳の半ばを越したことを改めて知った。

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