十
小武の行動に異常なことが目立ち始めたのはこの時からである。
家にじっとしているかと思うと、突然笑い出し部屋中を廻り始める。ぐるぐる廻った果てにきまって着物を脱ぎ捨て、切断された右腕を突き出しては水車のように振り廻す。時には裏木戸から外へ出て通行人に見せびらかす。軍人と見ると腕を振り廻してぶつかっていく。女子供は怖がり、男達はもの珍しげに家の周りに集まった。近所の小女では、もはや抑えがきかなかった。
娘のりつ子が佐藤進と相談したうえ、小武を巣鴨の癈兵院に収容したのは、それから二カ月後の大正五年の三月の半ばであった。病棟は精神病患者を収容する二階北側の鉄柵のついた暗い部屋であった。同室人は八人で、いずれも戦場で脳を撃たれ狂った者ばかりであった。
ここに来ても小武は無気味な笑いをうかべては衣服を脱ぎ短い腕を振り廻した。しかし時に急に静かになり、読書に励むことがあるかと思えば、鉄柵に顔をおしつけて青い空を黙って見ていることもあった。
小武が癈兵院に入った年の六月、寺内正毅は元帥府に列せられ、その年の十月、大隈内閣のあとを受けて内閣総理大臣の重責を担った。
寺内が死んだのはこの三年後の大正八年十一月三日であった。
この時、特旨を以て従一位に叙せられ、大勲位菊花大綬章を授けられた。
十一月五日、勅使として侍従子爵海江田幸吉、皇后宮使として皇后宮主事三室戸敬光の弔問を賜わった。ついで、十一月七日、勅使侍従落合為誠、皇后宮使皇后宮主事男爵三条公輝によって幣帛、供物、花を贈られ、焼香を賜わった。
なおその折、天皇陛下より次のような御沙汰を賜わった。
至誠職ヲ奉シテ力ヲ軍務ニ効《イタ》シ博愛衆ニ臨ミテ化《カ》ヲ新氓《シンボウ》ニ布ク輔弼《ホヒツ》ノ重責ニ膺《アタ》リテ鴻猷《コウユウ》ヲ是レ賛《サン》シ燮理《シヨウリ》ノ大任ヲ負ヒテ庶績《シヨセキ》ニ是レ労セリ凶音《キヨウイン》忽ニ聞《ブン》ス宸悼転切《シントウウタタセツ》ナリ宜ク賻《フ》ヲ齎《モタラ》シテ弔《チヨウ》スヘキ旨
御沙汰候事
寺内の死後、小武敬介はなお二年間生き延びた。この間、小武はほとんど失明に近い状態であった。眼が見えなくなってから、彼は部屋の片隅に坐りこんで、日がな断端を舐め始めた。そのうちに舐めるのが昂じて齧《かじ》ることさえあった。軍医がきびしく叱ったが、その時だけやめて、いなくなるとまたすぐ齧り出した。看護卒はついに堪りかねて、断端を小武の胴に縄で縛りつけた。小武はなお断端を舐めようと、首だけ必死に振り廻した。
小武が気管支炎から肺炎を起し、癈兵院で死亡したのは、二月の初めの寒い朝であった。当直の看守も気付かぬ静かな死で、同室の狂者達だけがぼんやりと死体を見詰めていた。
死に顔は漂白されたように白く、皺も目立たず、かすかに口を開き笑っているように見えた。死後遺体は神田五軒町の娘の嫁ぎ先に引き取られ、そこで通夜のうえ翌日火葬に付された。享年七十であった。