三
「祁答院に限って癌を摘りきっていないことを告げてよい」という異例な許可をかちとった船津であったが、考えてみるとこのことは必ずしも容易なことではなかった。
さし当りまず問題になるのは、人工肛門造成術を、いつ、どういう理由でやるかということであった。人工肛門は直腸や肛門に異常があるとか、手術をして使えない場合に腹の側面に大腸と連結した穴をあけて、そこから排便させる口を造る手術である。従って一般的には本物の方が治って使えるようになれば、再び閉鎖するという例が多い。だが祁答院の場合は同じ人工肛門を造るにしても目的が全く異なる。彼の場合は一時的というのではなく永久に、すなわち死が訪れるまで人工肛門の厄介になるということである。癌が治ることがない以上、それは当然のことであった。人工肛門を造るということは彼の命を半年から一年延ばすだけの意味しかないのである。
このような消極的な手術を、不治と知った祁答院が素直に受け入れる気になるか否か、きわめて疑問であった。
「どうせ助からないのならそんな手術はしたくない。糞を腹の横から出してまで生き延びるなんて御免だ」祁答院ならこんなことも云いかねない。
さらに万一、手術を応諾したにしても、癌で助からないと知って手術を受けたのでは術後の恢復もはかばかしく進まないのではないか、という懸念もあった。精神的不安は患者の体力に大きく影響する。
(人工肛門造成術を終るまでは癌が不治であることは告げないことにしよう)
考えた末、船津はそう決めると、この方針を綾野部長にも告げて了解をとった。
人工肛門造成術はさして大きな手術ではない。病変のある直腸の上の部分で腸を切り離し、その先端を腹の側面の、あらかじめ切り開いておいた皮膚のところまでもってきて固定すれば手術は終る。この手術を祁答院の第一回目の癌摘出術と同時にやらなかったのは、二つ同時では体が弱りすぎるという心配があったからであるが、これだけ単独でやるのであれば、一回目の手術のあとすぐでも心配はない。むしろ早くした方が便通の点からも好都合であった。
「横っ腹に肛門が出来るというのかね」
船津の説明を聞き終ってから祁答院はおもむろに尋ねた。
「その方が直腸の方の恢復もはるかにいいと思います」
「このあたりかね」
祁答院は夜着の上から右の脇腹の下あたりを指で示した。
「もう少し下ですが」
妻のかね子が呆れたように船津を見上げた。
「お便はどうなるのです?」
「それは、勿論、その場所から出ます」
「すると……溜ってくると……」
「溜ってくると自然に出てきます。肛門のように特別の神経や括約筋がありませんので、溜った感じとか、自分でおし出すということはなくなりますが」
「じゃいつも……」
「ええ、その時に応じて」
汚く奇妙な話だが三人にとっては笑いごとではなかった。今後の生活を左右する重大なことである。
「するとそこの出口はなにか……」
「ガーゼをつめ、その上におしめを重ね、さらに晒でも巻いておきます」
「おしめを使うと云うのかね」
祁答院は不機嫌な時の癖で眉の端を小刻みに動かした。普段はおとなしい人だが一旦怒り出すと恐ろしい人だときいた。
「そのまま外も歩けるのですか」
「洩れないようにしておけば大丈夫です」
「脇腹におしめを当て、糞を横につけて歩けというのかね」
|顳※[#「需」+「頁」]《こめかみ》に青い筋が浮いた。怒るのも無理はない。それは誇り高い祁答院には耐えられそうもない姿のようである。
「それで旅行をしている方もいるのです」
「どうしてもそれをしなければいけないのですか」夫の機嫌が険しいと知ったかね子が取りなすように云った。
「折角癌を摘りきったのだから、下から出るようにしてくれるのが当り前じゃないかね」
「それはそうなのですが、その創《きず》が治るまで……一時的にでも」
「どれくらいかね」
「一、二カ月」答えながら船津の手は汗で滲んだ。
(いまはっきり云った方がいいかもしれない。あとになればなるほど嘘が大きくなり、真実を知った時のショックが大きくなる)
もう一人の船津が船津に云いかけた。
「綾野先生も同じ御意見かね」
「そうです」
「どうしよう」祁答院は珍しく弱気な眼差しを妻に向けた。
「どうしようと仰言ったって、それは先生にお任せするより」
そうだ、と船津は思った。俺は医者なのだ、そしてなによりも祁答院正篤の才能を惜しんでいる。あれだけ考えたことだからこの考えに間違いはない。考えたとおりやるのだ。船津は顔をあげてはっきりと云った。
「やらなければいけません」
ベッドの上で祁答院は顔を背け、妻はかすかにうなずいた。
二日後に祁答院の人工肛門造成術はおこなわれた。術者は今度も綾野部長であった。祁答院はすでに観念していたのか、あるいは癌とは直接関係のない手術と思った故か、手術が終ったあともその結果についてはなにも尋ねなかった。
だが船津には重苦しい日が続いた。
これで祁答院はもう手術はしない。二度目の手術で今後、特別のことがないかぎりほぼ一年間の余命が保証されたことは確かである。だがこのことは逆に一年後にはほぼ確実に死ぬということでもあった。
二度目の手術が終った時点で癌を摘りきっていないことを云うつもりであった。だが船津は容易なことに云い出せない。
「優れた芸術家にだけは死期を報せるべきだ」皆の前で自信あり気に云ったはずが、いざその段になると妙に空まわりした一人よがりの考えにも思えた。それは傍から見ている傍観者の自分勝手な意見ではないのか、第三者がいいからと云って当の本人に良いということにはならない。あくまで本人の気持を尊重すべきである。となると俺の考えは正しかったのだろうか。頭で考えすぎたことではないのか、悲壮な美しさに酔いすぎてはいないか、人間性を無視した考え方ではないのか、お前がその立場に立たされたらどうする。いや俺は芸術家ではないから話が違う。だがそれほど芸術家と一般の人との間で感情に違いがあるものだろうか。
船津は迷った。さまざまな考えが湧き起り消えていく。どれもこうと断じがたい。だが一度そう決しただけに、最後には芸術家は、「命より作品だ」という考えにたどりつく。その時は悲しみ苦しんでも最後には結局感謝する。
(やってみるのだ)
七日後、皮膚の抜糸をしたあと船津は心を決めて云い出した。不安をおし隠すため彼はあえて祁答院の顔を正面から見据えながら云った。
「実は御二人に謝らねばならないことがあるのです」
「謝る……」
祁答院は妻の手で腹の晒を巻かれながら云った。
「そうです」
「何でしょうか」
妻も手を止めた。
「これまで僕は嘘をついていました」
「先生が?」
「ええ、大きな何ともお詫びの仕様もないような嘘です」
「………」夫婦は顔を見合わせた。祁答院の鳶色の眼が不安そうに動いた。それを見てひるみかけた心を船津は自ら励ました。
(いま云うのだ)
船津は一つ唾をのみ込んだ。
「第一回目の手術結果ですが、あれは失敗でした」
すでに矢は放たれたのだ。止っていてはいけない。あとは進むだけだ。
「癌は全部摘りきってはいません、直腸から後腹膜、そして腰椎までとすでに癌は摘りきれぬ範囲にまで拡がっていました。手遅れでした」
「………」二人は狐にでもつままれたように瞬きひとつしない。船津の云うことがまだ実感として迫っていないのであろう。
「したがって治る見込みはありません」
普段でも白い祁答院の顔が一枚ずつ紙を剥ぐように蒼ざめていく。蒼の中にまた蒼がある。底知れぬ蒼味へ落ちていく。妻のかね子の眼は正確に船津に向けられている。そのくせ死んだように虚ろである。表情に思考が伴っていない顔である。
「人工肛門の手術をしたのも完全に治すためではありませんでした。ただこれからの余命を延ばすためです」
突然、かね子の嗚咽《おえつ》が洩れた。右手を額に当て小刻みに肩を震わせる。船津の云ったことが体中に拡まるにつれて嗚咽が高くなる。
「いつか正直に申しあげようと思っていました。正直に申し上げて……」
「そんな、そんなことをいまさら仰言っても……」
一度叫ぶとあとは同じだった。妻は両手で顔をおおうと堰を切ったように一気に泣き出した。
「こんなことは云うべきではないかもしれません、普通は云いません」
ふと見ると床の中で祁答院は目を閉じている。見事に蒼ざめた顔が枕に埋っている。妻の露《あらわ》な泣き声が祁答院から感情を打ち出す機会を奪ったのかも知れない。
「しかしいろいろ考えた末、祁答院先生にだけはそのことを正直にお話した方がいいだろうという結論に達しました」
聞こえているのか、なお祁答院は眉一つ動かさない。
「なぜならば先生は芸術家だからです。偉大な芸術家ですからお命より作品を望まれるだろうと。はっきりお教えして残った年月を最後のお仕事に悔いなく使っていただこうと考えたのです」
妻の泣き声が一層激しくなった。その声が船津に残忍な気持を誘った。
「こうはっきり申し上げた方が喜んでいただけるかと思っていました、あと……」
そこで船津は小さく息をついた。眼前の人へ死期を宣告するというのに船津には苦しみも恐れもなかった。奇妙なことだが心のどこかで彼はかすかな快感さえ感じていた。
「一年です」
瞬間、妻の泣き声が止んだ。祁答院がぽっかりと眼を開いた。長い長い眠りから覚めたような眼であった。
「一年間は私達が責任もって看病させていただきます。その期間を先生の最後のお仕事の総仕上げに使っていただきたいのです」
「一年……」と妻が呟いた。
「先生は芸術家ですから、よかれと思って正直に申し上げました。私達の尊敬する芸術家として頑張って下さい」
その時、祁答院の細く締った唇がかすかに動いた。
「やめて下さい」
「………」
「おひきとり下さい」
低いが凜《りん》とした妻の声であった。船津は侵しがたい威圧を感じて、そのまま一言も云わず部屋を出た。